
令和6年7月6日土曜日、蒸し暑い中今年も名古屋市美術館協力会の総会が開催されました。今年は参加者が例年に比べ多く、24名が参加して総会が行われました。
総会では、コロナウイルス感染症の拡大により中止されていた美術館ツアーや作家を囲む会などが再開されていき、少しずつコロナ以前の活動内容に戻ってきていることが報告されました。会員のみなさまが、安心して、より満足できる活動を増やしていきたいと思っています。
2024年
7月12日

令和6年7月6日土曜日、蒸し暑い中今年も名古屋市美術館協力会の総会が開催されました。今年は参加者が例年に比べ多く、24名が参加して総会が行われました。
総会では、コロナウイルス感染症の拡大により中止されていた美術館ツアーや作家を囲む会などが再開されていき、少しずつコロナ以前の活動内容に戻ってきていることが報告されました。会員のみなさまが、安心して、より満足できる活動を増やしていきたいと思っています。
2024年
7月9日
2024.07.07 投稿
先日、名古屋市美術館(以下「名古屋市美」)の常設展示室で開催中の「名品コレクション展Ⅱ」(以下「本展」)を見てきました。本展で目を引いたのは「生誕100年記念 芥川(間所)沙織プロジェクトについて」というパネルに書かれた内容です。
その内容を要約すると、芥川(間所)沙織(1924-66)は愛知県出身の画家で、前衛美術の分野で活躍。名古屋市美では、全長6mを超える代表作《古事記より》(1957)や晩年の油彩《朱とモーヴA》(1963)など計6点を所蔵。一昨年、ご遺族の代表者から「生誕100年に当たる2024年を芥川(間所)沙織の作品を多くの方に見ていただきたい一年にしたいと考えている」との相談を受け、名古屋市美も協力することになった。愛知県では、豊橋市美術博物館(会期:6.8~7.21)刈谷市美術館(会期:6.8~7.21)も予定している、というものでした。
◆芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイトの概要
「芥川(間所)紗織 生誕100年」の活動については、下記URLで特設サイトが開設されています。芥川(間所)紗織の経歴、活動に参加している美術館と展覧会・出品作品が掲載されていますので、ご一読ください。
URL: 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)
◆コレクション解析学 芥川(間所)紗織《古事記より》
常設展示室の入口には「コレクション解析学」(名古屋市美のコレクションから1点を選び、学芸員が紹介する講座)についての掲示がありました。掲示の内容は、講座の日時は2024.08.31(土)14:00~、演題は「生みの苦しみ、怒り、悲しみ」、講師は清家三智学芸員、というものです。
◆現代の美術 生誕100年記念 芥川(間所)沙織と150年代
「現代の美術」の解説パネルを読んで、1950年代に活躍した作家の活動について、よく分かりました。その内容は、下記「解説リーフレット」URLで検索できます。芥川(間所)沙織の作品は、下記「作品展示詳細」URLでご覧ください。芥川(間所)沙織の作品を除くと、小山田二郎の油彩と荒川修作の最初期オブジェが目を引きました。
〇解説リーフレット
URL:Microsoft Word – ¶9 H_8-UM iêüÕìÃÈ_2024 ³ìa.docx (city.nagoya.jp)
〇作品展示詳細:名古屋市美術館
URL: 展示作品詳細−名古屋市美術館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)
◆県内美術館で展示の芥川(間所)沙織作品
豊橋市美術博物館と刈谷市美術館で展示の芥川(間所)沙織作品は、以下のとおりです。いずれの美術館の展覧会もコレクション展ですから観覧は無料です。興味を持ったら、各館に足をお運びください。
〇作品展示詳細:豊橋市美術博物館
URL: 展示作品詳細−豊橋市美術博物館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)
〇作品展示詳細:刈谷市美術館
URL: 展示作品詳細−刈谷市美術館 | 芥川(間所)紗織 生誕100年 特設サイト (saori-100th-anniversary.com)
Ron.
2024年
7月2日
2025.06.24 投稿
伏見ミリオン座で上映中の映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」(以下「映画」)を見てきました。映画は、戦後ドイツを代表する芸術家であり、ドイツの暗黒の歴史を主題とする作品で知られたアンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer)の生涯と現在の状況を追った、ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)監督のドキュメンタリーです。名古屋市美術館の常設展にアンゼルム・キーファー《シベリアの王女》(1988)が展示されていますが、最近まで作家に対して興味は湧きませんでした。しかし、「2025年3月下旬から6月下旬まで、世界遺産・二条城でアンゼルム・キーファーの個展が開催される」というニュース(注1)を目にしたり、東京で開催中の個展の展覧会評(注2)を読んで、キーファーに対する興味が湧き、伏見ミリオン座まで足を運ぶことにしました。
なお、以下の内容はネタバレを含みますので、ご注意ください。
注1:アンゼルム・キーファーの大規模個展、二条城で開催へ|美術手帖 (bijutsutecho.com)
注2:ガラス箱の中の小宇宙と性。アンゼルム・キーファー「Opus Magnum」展(ファーガス・マカフリー 東京)レビュー(評:香川檀)|Tokyo Art Beat
◆映画の内容
① 導入部
最初に登場するのは、顔のない女性像です。近代的な純白のドレスを固めて立体的にした作品で、映画では「古代の女性」と説明していました。やがて女性像は2体に増えます。ひとつは天球儀の顔を、ひとつは白い塔の模型の顔を持っていました。その後、温室のような建物の中に無数の女性像が登場します。ネットを検索すると、この女性像はアンゼルム・キーファー大規模個展のレポート(注3)に登場していました。
注3:アンゼルム・キーファーの大規模個展「Fallen Angels」がフィレンツェのストロッツィ宮で開催中。出展作品と見どころを現地レポート!|Tokyo Art Beat
② キーファーの巨大なアトリエ(フランス・バルジャック)と現在のキーファーの姿
映画は、巨大な工場のようなアトリエの中を自転車で移動するキーファーや巨大な作品を運ぶキーファーの姿に切り替わります。
③ 自伝的な再現映像
写っているのは《悪い子たちの部屋》を描いている子ども。映画の予告記事(注4)によれば、子役は監督ヴィム・ヴェンダースの孫甥(兄弟姉妹の孫)アントン・ヴェダース(Anton Wenders)とのことです。
注4:ヴィム・ヴェンダースが映すドキュメンタリー映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』 – ファッションプレス (fashion-press.net)
④ P.CとM.H
P.Cは両親をホロコーストで亡くし、自身も収容所から奇跡的に助け出された詩人パウル・ツェラン(Paul Celan)を指し、M.Hはドイツの著名な哲学者マルティン・ハイデガー(Maltin Heidegger)を指します。映画では、ハイデガーの脳が毒キノコによる癌に侵されて崩れ去る動画が流れます。1967年7月25日、パウル・ツェランは哲学者に会いに行きますが「哲学者は過去に口を閉ざした」とナレーションが入りました。
⑤ 現在のキーファーの制作風景
映画には藁を燃やすキーファーが登場。ぼろ布と藁にアルコールをかけ、バーナーで燃やしてから水をかけるという姿や、巨大な油絵の具を塗る姿もあります。
⑥ 青年期のキーファーの再現映像
再現映像に登場するのはキーファーの息子、ダニエル・キーファー(Daniel Kiefer)です。パノラマカメラ(違っているかもしれませんが、画面サイズが6cm×12cmのLinhof Technorama 612PCⅡと思われます)で枯れた向日葵を撮影するキーファーが写ります。キーファーはアトリエに戻り、巨大なキャンバスに向日葵の写真を投影して、作品を制作。
⑦ ヨーゼフ・ボイスの特別クラスを受講する青年・キーファー
キーファーはヨーゼフ・ボイスに手紙を出し、フォルクスワーゲンに荷物を積み込んでデュッセルドルフに向かいます。当時の動画が流れ、キーファーがヨーゼフ・ボイスの特別クラスに招かれたことが分かりました。
⑧ 「ネオ・ファシスト」と非難されるキーファー
青年期のキーファーは、ナチスが崇拝した人物の肖像画をビエンナーレに出品。この作品によって、キーファーが「ネオ・ファシスト」として非難される騒動が発生。キーファーは、自分が描いたヘルダーリンについて「彼の祖国はギリシア。ナチスはヘルダーリンを悪用しただけ。私は、反ファシスト」と反論します。
⑨ ナチス式の敬礼をした自分の姿を撮影
1968年から1969年にかけて、キーファーは世界各地の有名なスポットを背景にナチス式敬礼をしている自身の姿を写真に収め、物議を醸します。キーファーは「過去を思い出すためにナチス式敬礼の写真を撮影した。ナチス式敬礼をしていた時代を忘れないために写真を撮影しただけだ」と反論します。
⑩ 1992年、キーファーは南仏・バルジャックにアトリエを移す
バルジャックのアトリエの広大な敷地と、巨大な工場のようなアトリエを始めとする、多くの建物が映し出されます。以下、様々な映像が出てくるので、波乗りを楽しむように見ていました。なかでも目を引いたのはベッドが並んだ「革命の女たち」(注5)と、錆びた飛行機、錆びた潜水艦が写る場面でした。
注5:革命の女たち / アンゼルム・キーファー (セゾン現代美術館) | リセットする / To Reset (placestoreset.com)
⑪ ヴェネツィアの宮殿を歩くキーファー
映画が終わる少し前に、ヴェネツィアの宮殿の回廊を歩くキーファーと縄梯子から降りて来る少年のキーファーが登場します。どうやら、2022年にヴェネツィアのドゥカーレ宮殿で開催した個展の会場で撮影した画像のようです。天井は宮殿のままですが壁面はキーファーの巨大な作品で覆われていました。2025年に二条城で開催される展覧会がどんな内容になるのかな、と思いを巡らしながら、この場面を見ていました。
⑫ 映画の終結部
映画の終結部で印象に残ったのは、第二次世界大戦後の瓦礫(がれき)の中で遊ぶ子どもたち、枯れた向日葵を天秤の代わりに持って綱渡りをするキーファー、10歳のキーファーと現在のキーファーが並んで森の中を歩く姿、導入部に登場した女性像、金属の翼を持った彫像でした。なお、「金属翼を持った彫像」など、ブログで紹介した内容の一部は、映画の公式HP(注6)で閲覧できます。
注6:映画『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』公式HP (unpfilm.com)
Ron.
2024年
7月2日
2024.06.27 投稿
◆記事との出会い
6月26日にスマホを見ていたら、「ヴィム・ヴェンダース監督インタビュー」という記事が出てきました。伏見リオン座で上映中の映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」関連の記事で、公開日は6月20日でした。なお、記事のURLは、次のとおりです。
URL: ヴィム・ヴェンダース監督インタビュー。アンゼルム・キーファーに迫るドキュメンタリー映画『アンゼルム』に込められた女性観や制作意図を聞く|Tokyo Art Beat
◆アンゼルム・キーファーのアトリエ、敷地は何と35ha
「映画は見たし、ブログも書いたし」と思いながら記事を読んでいたら、次の文章に引き付けられました。それは、ヴィム・ヴェンダース監督が語った「映画製作の転機」です。
転機は2019年。キーファーから電話を受けたヴェンダースは、キーファーが居を構えていたフランスのバルジャック村へと向かった。そこには35haに及ぶ広大な土地にキーファーのアトリエがあり、「その風景とともにある彼の作品群を見て、いまなら映画が作れると思いました」(ヴェンダース)
35haといえば、熱田神宮(19ha)の1.8倍、名城公園(80ha)の半分弱(44%)。映画では敷地の広さに圧倒されましたが、35haなら納得です。
◆映画に出て来る女性像に関するやりとりも
記事では、Tokyo Art Beat のインタビューアー・福島夏子氏と監督が次のようなやりとりをしています。
Q:本作はバルジャック村に佇(たたず)む、キーファー作の女性を模(かたど)った立体作品《古代の女性》を映したシーンから始まります。女性の身体とその不在を扱った本作から、この映画を始めた理由はなんでしょうか? これ以降も、同じく女性をモチーフにした作品《革命の女たち》への言及もあります。(略)
A:アンゼルムの作品のなかに、女性という存在が強くあるからです。南仏のバルジャックにいると、森の中や彼が屋外に作り上げたギャラリーなど、至る所にその存在を感じます。(略)彼女たちはこの映画のなかでつねに存在しているし、最後にはもう一度登場することからもわかる通り、私にとって彼女たちは仲間であり、ある種の協働者です。私は彼女たちに声を与えていたのだと思っています。(略)作中で彼女たちが発する言葉がはっきりと聞こえることはほとんどないですが(略)彼女たちのささやきがこの映画に女性の美しい存在を加えていると感じています。
映画では顔のない女性像=《古代の女性》がとても印象的でしたが、福島夏子氏も同じ思いだったと分かりました。彼女は《革命の女たち》にも目を引かれたようですね。
記事は「2025年春には京都・二条城での新作個展が予定されている」とも書いています。2025年春の展覧会が楽しみですね。
Ron.
2024年
6月25日
2024.06.23 PM1:00~2:30

6月23日(日)に、三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」(以下「本展」)の協力会ミニツアーが開催され、参加者は10名でした。
当日の天気予報は「雨」。津駅から三重県美までは10分以上坂道を歩かなければならないので「雨に降られたら、いやだな」と恐れていましたが、何とか傘のお世話にならずに済みました。有難いことです。
ミニツアーの集合時刻は午後1時、集合場所は三重県美地下1階・講堂前でした。前回、三重県美で開催したミニツアーは2019年10月6日の「シャルル=フランソワ・ドービニー展」で、12名が参加しました。今回のミニツアーは、コロナ禍を挟んで5年ぶりの開催です。
当日は、講堂で速水豊・三重県立美術館館長(以下「館長」)のレクチャーを聴いた後、一旦、自由観覧。午後2時から館長のギャラリートークが始まったので、ミニツアー参加者は他の来館者に混じってギャラリートークを聴いてから、自由解散となりました。以下は、ミニツアーの概要です。
◆館長のレクチャーの概要(地下1階講堂)PM1:00~1:35
1 2024年は「シュルレアリスム宣言」100年
「シュルレアリスム」は1920年代にフランスで始まる。最初は文学運動。1924年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表。2024年は「シュルレアリスム宣言」100年に当たる、との解説でした。
2 本展のねらい
館長は「本展のねらいは、戦前の日本のシュルレアリスム運動を見てもらうこと」と解説。戦前のシュルレアリスム運動の全貌にフォーカスした展覧会は、1990(平成2)年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」。本展は34年ぶりのシュルレアリスム展になる、とのことでした。
3 序章 シュルレアリスムの導入
館長からは、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を1928年に発表した後、日本では1930年に滝口修造が『超現実主義と絵画』を翻訳し、いち早く取り入れている、との解説がありました。
4 第1章 先駆者たち
館長は、古賀春江《鳥籠》(1929)について「不可思議で驚きを生み出すイメージを描いている」と紹介。具体的には、画面左の鳥籠のなかのヌード、右下の白鳥、右上の機械。「不思議なイメージではあるが、組み合わせの解釈に正解はない。見る者が想像力を働かせて解釈すればよい」との解説がありました。
深沢一郎《他人の恋》(1930)について、館長は「深沢一郎は、1924~31年にフランスに滞在。1931年に開催された独立美術協会の第1回展に37点の絵画を出品。シュルレアリスムを本格で気に導入した画家で、シュルレアリスムに関する文章を発表し、シュルレアリスムを広めたリーダー、と紹介。
なお、二科展に出品した東郷青児、阿部金剛の作品については、「本人は、シュルレアリスムとは思っていない」とのことでした。
5 第2章 衝撃から展開へ
館長は、三岸好太郎《海と射光》(1934)について「亡くなる少し前に描いた、シュルレアリスムの傑作。貝殻と裸婦、海岸を組み合わせた、作家の代表作」と解説。飯田操朗(みさお)《婦人の愛》(1935)については「第5回出品され、独立賞を受賞」との解説でした。
6 第3章 拡張するシュルレアリスム
館長は、1930年代半ばから1937年頃について「集団で盛り上がっていった時代」と解説。滝口修造、山中散生、大下正男が写った写真を投影し「1937年に開催された海外超現実主義作品展・東京展の写真」と紹介。「実物の展示は少なかったが、複製や写真が200点以上並んだ展覧会で、東京・大阪・京都・名古屋・福井を巡回した」との補足がありました。
米倉壽仁(ひさひと)《ヨーロッパの危機》(1936)については「時代の社会的背景を示した作品。画面中央はヨーロッパの地図。地図の周りに馬。地図の裂け目からは色々なものが飛び出ている。スペイン内乱、ナチス政権誕生など、当時の世界の状況を意識」と解説。北脇昇《独活(うど)》(1937)については「作家は、京都で制作。作品は、ダリのダブル・イメージ(一つの物で、二つのイメージを表現)を取り入れている。二本の独活は、植物として描くだけでなく、二人の人物をイメージさせる」と解説。大塚耕二《トリリート》(1937)については「当時、まだ学生。この時期のシュルレアリスム運動を支えたのは画学生。帝国美術学校(武蔵野美術学校の前身)の「表現」というグループ。メンバーは、大塚耕二、浅原清隆など6名で、浅原清隆《多感な地上》(1939)は本展のポスターに使用。《多感な地上》では、ハイヒールから犬が出て来るし、女性のリボンは鳩に変身する。なお、清原は出征してミャンマーで行方不明になった。メンバーの半数は戦死。」との解説がありました。
7 第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで
館長は「日本が軍事体制に突入すると、シュルレアリスムは軍国主義に反するものとして、弾圧された」と解説。靉光(あいみつ)《眼のある風景》(1939)については「近代美術史の中でも重要な作品」と解説。北脇昇《周易解理論図(泰否)》(1941)については、「『図式』絵画と呼ばれ、周易の八卦図や色彩学などの概念に基づいて描いた作品」と解説。また、「福沢一郎と滝口修造は、シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われて拘束された」との解説でした。
8 第5章 写真のシュルレアリスム
館長は山本悍《題不明(《伽藍の鳥籠》のヴァリエーション》(1940)と坂田稔《危機》(1938)を紹介。
9 第6章 戦後のシュルレアリスム
館長は、岡本太郎《憂愁》(1947)について「岡本太郎は1930年代のパリで、シュルレアリスムの活動に参加した唯一の日本人」と解説。山下菊二《新ニッポン物語》(1954)について「戦前、福田一郎の下で学び、シュルレアリスム的手法を引き継いだ作家。ただし、この作品はルポルタージュ絵画と呼ばれ、シュルレアリスムとは呼ばれない」と解説しています。
10 本展出品の作品・資料について
最後に館長から「本展出品の作品は110点ほど、資料は80点ほど。作品だけでなく、資料も見て欲しい」との話があり、レクチャーが終わりました。
◆館長のギャラリートークの概要(1階 第1室・第4室)PM2:00~2:25
館長のレクチャーが終わり、ミニツアー参加者が本展を鑑賞していると、「間もなく、午後2時から館長によるギャラリートークを始めます。参加を希望される方は、1階展示室入口にお集まりください」という放送が入りました。急いで集合場所に向かうと、50人近くの人数が集まっています。三重県美の係員の誘導で展示室内に移動すると、館長が登場。午後2時からギャラリートークが始まりました。
ギャラリートークは、① 展覧会全体の説明と② 第4室の作品の解説の2部構成でした。
① 展覧会全体の説明
館長の解説によれば、アンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して、シュルレアリスムが始まった。シュルレアリスムが始まるとヨーロッパ全体に広まり、その後、全世界に広まる。20世紀では一番広い影響を与えた活動。シュルレアリスムは文学活動として始まったが、美術その他にも広がった。シュルレアリスムは、理性の及ばない無意識の領域に着目した。日本では、1920年代後半からシュルレアリスムの活動が始まる。本展は主に戦前期と戦後の、主に絵画作品を時代順に展示。展示ケース内には文学作品も並べている、とのことでした。
第1室から第2室にかけての展示については、「第1章 先駆者たち」「第2章 衝撃から展開へ」「第3章 拡張するシュルレアリスム」。第3章では、シュルレアリスムが集団的な運動へ変化し、学生たちの活動が活発になる、との解説がありました。また、第3室の内容については「第4章 シュルレアリスムの全盛期から弾圧まで」。日中戦争が始まり、前衛的な表現は弾圧され、消滅していく。多くの画家が、戦争で死亡した、との解説があり、第4室の内容については「第5章 写真のシュルレアリスム」と「第6章 戦後のシュルレアリスム」とのことでした。
② 第4室の作品の解説
第1室でのギャラリートークが終了し、参加者は第4室に移動。第4室で館長が解説したのは第4章の作品のうち、矢崎博信《時雨と猿》(1940)でした。館長によれば《時雨と猿》は、矢崎の描いた最後の大作とのこと。本人は、乗り組んだ輸送艦が魚雷を受けて戦死した。しかし、戦地に赴く前に郷里に戻り作品を置いてきたので、遺族の元に、かなりの作品が残っていた。矢崎は俳句とシュルレアリスムの関係を論じた文章を残しており、この作品は松尾芭蕉「猿蓑」の発句、「初時雨猿も小蓑をほしげ也」を元にしている、と解説されました。
北脇昇《周易解理図(泰否)》(1941)については、図式で思想を表す「『図式』絵画」と説明。周易の八卦の記号と色環の組み合わせで思考を表現した作品は、近年、注目されている。このような表現をした作家は、1940年代には一人だけだった、との解説でした。
「第6章 戦後のシュルレアリスム」については「戦前から活躍している作家に限って展示」と解説。岡本太郎《憂愁》(1947)については、1930年代に欧州のシュルレアリスム展覧会に出品した唯一の日本人。第二次世界大戦の開始で帰国。召集されて中国戦線で戦った。戦前の作品は空襲で全焼。作品は、白旗と頭部を描いているが、これは悲しみの表現、との解説がありました。
山下菊二《新ニッポン物語》(1954)については、福沢一郎の研究所に通った戦前からのシュルレアリスト。戦後にルポルタージュ絵画を制作。ルポルタージュ絵画はシュルレアリスムではないが、シュルレアリスム的表現の作品。画面右下に描かれた、口紅を塗りハイヒールを履いた犬の前に ”Yellow Stool” という言葉が書かれている。これは「日本人娼婦」の隠語、犬の頭と尻尾をつかんでいるケダモノは米兵を象徴、との解説があり、高山良作《矛盾の橋》(1954)については、イサム・ノグチが欄干を設計した橋、原爆ドーム、丹下健三が設計した平和記念館を描いている、広島の戦後の状況を描いた作品。高山は円谷プロで怪獣の造形を手掛けた、との解説がありました。
最後に館長は、寺山修司、つげ義春について、シュルレアリスム的なものが引き継がれている、と解説。以上で、ギャラリートークは終了しました。
◆ギャラリートーク終了後の感想など
ギャラリートーク終了後は、《新ニッポン物語》と《矛盾の橋》に話題が集中。《新ニッポン物語》では「どぎつい描写」について、《矛盾の橋》では「館長の解説が無かったら何を描いた作品か分からなかった」ということを中心に、各人の感想が交わされました。
なお、広島市の公式ホームページ(注)を見ると、高山良作が描いたのはイサム・ノグチが設計した2つの橋の欄干のうち「平和大橋」の欄干のようです。欄干は橋詰で上に反り、ラッパのように大きく広がっています。《矛盾の橋》では、欄干がラッパのように広がった部分の上に円盤が置かれ、その上にドーム状の構造物が載っています。高山良作が描いたドーム状の構造物ついては、何を意味しているのか、今でも不明です。
注:平和大橋・西平和大橋の欄干について – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)
◆2階・常設展に展示された「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品
2階・常設展でも「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品を展示しており、「撮影画像のSNS投稿OK」の作品もありました。そのうち、三岸好太郎《二人の道化》(1931)を見て、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」に出品の同《少年道化》(1929)を思い出しました。
◆最後に
本展が「1990年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」以来、34年ぶりに開催されたシュルレアリスム展と聞いて、ミニツアーに参加した意義があったと思いました。名古屋市美術館の所蔵作品も展示されています。
なお、本展のプレスリリースのURLは下記のとおりです。
URL: 001127362.pdf (mie.lg.jp)
Ron.

三岸好太郎《二人の道化》(1931)
2024年
6月25日
2024.06.20 投稿
中日新聞6月4日・6日の県内版に碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」(以下「本展」)の出品作品紹介記事が掲載されました。4日の紹介記事は岸田劉生「童女図(麗子立像)」(1923)について「岸田のいう『グロテスクな美』が見る者に強い印象をあたえます」と書き、6日の紹介記事は大澤鉦一郎「少女海水浴」(1932)について「緻密に計算された画面構成が、画の面白みを引き立てます」書いていました。
この記事に促され、直ぐに美術館へ行きましたが、会期中に展示替えがあって、後期展示(6.18~7.7)の作品も多数あると分かりました。そこで、後期展示の開始を待って、再度、美術館に足を運びました。以下は、前期展示・後期展示を合わせての報告・感想です。
◆1階ロビーには
美術館に入った時、1階ロビーに開設された ”PHOTO STOP” が目に留まりました。壁に、大きく引き延ばした木村荘八《私のラバさん》(1934)が貼られ、その前に看板が立っています。ここで記念写真を撮影したら、スポットライトを浴びて、ステージに立っているような気分になるでしょうね。ただ、当日は平日の午前中。来館者は高齢の夫婦が中心なので、記念撮影に興じている人は居ませんでした。

◆2階の展示
本展の入口は2階です。踊り場と2階ロビーには本展チラシの表と)同じデザインのパネルが掲げられています。踊り場のパネルの絵は岡鹿之助《窓》(1949)、2階ロビーのパネルの絵は中川一政《向日葵》(1982)でした。
〇第Ⅰ章 始動:第3の洋画団体誕生(展示室1)
第Ⅰ章の解説には、春陽会は帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として1922年(大正11)に誕生。会員は小杉放菴、森田恒友、梅原龍三郎始め7名、客員は岸田劉生、木村荘八、中川一政始め8名で、1923年4月に第1回展が開催された、と書かれていました。
展示室に入ると、春陽会設立趣意書と春陽会発足の記念写真、絵葉書が展示され、最初の作品は小杉放菴《双馬図》(1925)。淡い色彩の作品で、日本画のような趣があります。その反対側の壁に展示されているのは萬鐵五郎《高麗山の見える砂丘》(1923頃)、カラフルな作品です。萬鐵五郎の作品は第Ⅱ章にも5点展示しています。このほか、面白いと感じたのは、竹ざるに入った鰯3匹を描いた、小林徳三郎《鰯》(1925頃)。竹ざるが光を放っているのです。岸田劉生の作品は《童女図(麗子立像)》始め8点。豊田市美術館所蔵の《鯰坊主》(1922)や椿を描いた作品などの油彩だけでなく、絹本着色の《白狗図》(1923)も見ることができました。梅原龍三郎はヌード2点の外に風景画もありました(前期《榛名湖》(1924)、後期《カンヌ》(1921))。
第Ⅰ章の最後に、一宮市三岸節子記念美術館所蔵の三岸節子《自画像》(1925)に出会いました。隣は三岸好太郎《少女》(1924)という組み合わせです。
〇第Ⅱ章 展開:それぞれの日本、それぞれの道(展示室1~2)
第Ⅱ章の解説には、岸田劉生が春陽会を去ったこと、三岸好太郎らの若手が研鑽を積んだこと、萬鉄五郎が亡くなったことなどが書かれていました。
第Ⅱ章も、最初の展示は小杉放菴の作品2点。うち、《羅摩物語》(1928)の服装はインド風。調べると「ラーマーヤナ」の一場面のようです。萬鉄五郎の作品は、墨絵の《わかれ道》(1922頃)の外、《荒れ模様》(1923)とヌード3点。うち、《羅布かづく人》(1925)の顔は、どういう訳か「のっぺらぼう」でした。萬鉄五郎のヌードは、いずれも「美しく描こう」とは思っていないところが注目すべき点です。第Ⅱ章前半では外に、ピエロを描いた三岸好太郎《少年道化》(1929)に目が留まりました。
第Ⅱ章後半の作品は、展示室2に展示されています。ロビーの記念撮影コーナーで見た《私のラバさん》は展示室2に展示。同じ作者の《パンの会》(1924)にはレストランでの宴会風景を描いたと思われ、芸者2人の前で三味線を弾く男の姿が目を引きます。中日新聞が紹介した《少女海水浴》は1m×1.5m程の大画面でした。3点とも面白い作品です。
〇第Ⅲ章 独創:不穏のなかで(展示室2)
第Ⅲ章の解説には、石井鶴三、木村荘八、中川一政が挿絵で活躍した、と書かれています。
展示は、倉田三郎《春陽会構図》(1937)から始まります。描かれた人物の名前を記した図も付いているので、しばらくの間、描かれた人物と名前との照合作業に追われました。第Ⅰ章、第Ⅱ章でも登場した小杉放菴は日本画の《松下人》(1935)を展示。「挿絵」では資料として書籍(「人生劇場」、「宮本武蔵挿絵集」、木村荘八が口絵を描いた「明治一代女」「墨東奇譚」)と「墨東奇譚」の予告記事を展示しています。中川一政による尾崎士郎著「人生劇場」の挿絵は4点。小説「人生劇場」については、三州吉良(現:西尾市吉良町)出身で早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いたという以上は知らない、ということを再認識しました。石井鶴三による吉川英治著「宮本武蔵」の挿絵も4点。ここでは、佐々木小次郎、沢庵和尚、お通といった登場人物が分かるだけで、どの場面を描いたのかは不明のままでした。木村荘八による永井荷風著「墨東綺譚」の挿絵は9点。前期・後期で総入れ替えです。うち、前期の《挿絵9》(1937)だけは、玉の井の部屋にいる主人公とお雪を描いたと分かりましたが、残念ながら、他の挿絵が描いた場面については見当がつきませんでした。
長谷川潔の版画と藤田藤四郎の版画にも目を引かれました。
〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その1:中川一政と岡鹿之助=多目的室)
第Ⅳ章の展示は主に戦後の作品です。多目的室では、中川一政と岡鹿之助の作品を展示。本展チラシの表(おもて)に使われた作品は、いずれも多目的室に展示されています。二人の作家の作品だけで一室を占領していますが、作風が対照的なので楽しく鑑賞できました。
◆1階の展示
〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その2:建築家アントニン・レーモンドと若手の作家=展示室3)
1階・展示室3の入口には、春陽会展示会場で展示設営するアントニン・レーモンドの写真と彼の作品《題不詳[コンポジション]》(1959)が展示されていました。その内訳は、具象的な作品と抽象的な作品が半々。具象的な作品では、北岡文雄《雪の犀川》(1977:後期展示)の白と青の対比が美しく、水谷清《絵を描く女》(1953)に描かれた女性画家のインパクトが強烈でした。関頼武《失楽園》(制昨年不詳)はピカソの絵のように見えました。また、藤井令太郎《アッカドの椅子(Ⅱ)》(1957)は、首なしの彫刻と椅子が向かい合った構図で、デ・キリコの「形而上絵画」の影響を受けているように感じました。
◆補足:アントニン・レーモンドについて
・フランク・ロイド・ライトとの関係
アントニン・レーモンドは、植松三千里の小説「帝国ホテル建築物語」(PHP文庫)にも登場しています。彼は1919年末に、フランス人のデザイナー・ノエミ夫人とともに来日し、帝国ホテルの建設に携わっているフランク・ロイド・ライトの助手になります。レーモンドの仕事は、ライトが描く無数のスケッチをもとに図面を引くことでした。レーモンドが引いた図面の中から、ロイドが気に入ったものを選ぶのですが、1922年にレーモンドは独立します(Wikipediaでも1922年独立ですが、本展の解説は「来日の翌年(=1920年)独立」と書いています)。小説の中でレーモンドは「今のままでは、僕はクリエイティブなことが何もできないし、やり直しが果てしなく続いて、もう疲れました」と言い、作者は「レーモンドは命じられたことに自分の独自性を加えなければ、気が済まない。そこがライトの気に障るのだ」と付け加えています。
一方、フランク・ロイド・ライトは帝国ホテルの完成を見ることなく、1922年に帰国。再び日本の地を踏むことはありませんでした。
・南山大学との関係
アントニン・レーモンドは第二次世界大戦後に再度来日し、南山大学の総合計画(1964)と同大学の神言神学院(1966)も手がけています。(出典は、下記のとおり)
建築家 アントニン・レーモンド|南山大学 (nanzan-u.ac.jp)
【南山大学】アントニン・レーモンド特設サイト (nanzan-u.ac.jp)
◆追加情報
碧南市藤井達吉現代美術館HP(本展チラシ、作品リスト、主な作品の図版を掲載)のURLは次のとおり。
春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ/碧南市 (hekinan.lg.jp)
Ron.