読書ノート「最後の浮世絵師 月岡芳年」神谷浩(監修) 株式会社青幻舎 2021.04.26発行

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「神谷浩(監修)」という文字に引かれ、近所の図書館で借りてきました。神谷浩さんは2019年3月24日に開催した協力会主催の名古屋市博物館「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」ミニツアーで、展覧会の解説をしてくださいました。当時は名古屋市博物館副館長でしたが、現在は徳川美術館副館長です。

◆本書の成り立ち

「はじめに」と「凡例」によると、本書は〈名古屋テレビ株式会社所蔵の浮世絵コレクションから作品を選定〉したもので〈2021年から開催される「月岡芳年展」の図録を兼ねている〉とのことです。

また、芳年の作品については〈もとの蒐集家の好みを反映してか「英名二十八衆句」などの「血みどろ絵」こそ含まれないものの、重要作品がほぼ網羅されており、芳年コレクションとして質、量ともに手応えのあるものとなっています〉と書かれています。

◆本書の構成など

本書は、「第1章 芳年の壮」武者絵、「第2章 芳年の想」歴史画、「第3章 芳年の壮」横三枚続と竪二枚継の大作、「第4章 芳年の妖と艶」美人画、「第5章 報道」新聞の錦絵、「第6章 月百姿」という構成になっています。「英名二十八衆句」などの「血みどろ絵」はありませんが、妊婦が逆さに吊るされた竪二枚継の「奥州安達がはらひとつ家の図」や、里見八犬伝の一場面を描いた「芳流閣両雄動」などの重要作品が網羅されています。重要作品かどうかは不明ですが、面白いと思ったのは「鎌倉殿の13人」に登場する北条時政が江ノ島に参籠した時に弁才天が姿を現した場面を描いた武者絵「芳年武者无類 遠江守北條時政 明治十六年(1883)」と名古屋の娘を描いた美人画「風俗三十二相 にくらしそう 安政年間名古屋嬢の風俗 明治二十一年(1888)」です。「名古屋嬢の風俗」の説明には「どこが名古屋風なのかは不明だが、着物や髪型は京阪風である」と書かれています。

◆「商業美術家の逆襲」との接点

山下裕二著「商業美術家の逆襲 もうひとつの日本美術史」は、月岡芳年について〈維新後は歴史画を多く手がけていますが、その作品には渡辺省亭の師・菊池容斎が著した『前賢故実』の影響が色濃く見てとれます〉と書いています。第6章「月百姿」の中の「垣間見の月 かほよ 明治十九年(1886)」は、菊池容斎『前賢故実』巻第10「塩谷高貞妻」明治一年(1868)を元にしたことが分かる作品で「かほよ」の容姿がよく似ていますね。作品解説には〈優雅な美女が着替えをしているのを、生垣の隙間から男が好色な目でのぞいている。「かほよ」とは塩谷判官高貞の妻、顔世で、のぞき込むのは顔世に横恋慕した高師直である〉と書かれています。渡辺省亭も塩谷判官の妻を描いた作品を何点も描いていますが、容斎と省亭が描く顔世は右向きで他の登場人物は侍女のみ。一方、芳年が描く顔世は左向きで、草むらに潜む高師直も描いている点が違います。(「渡辺省亭 ―欧米を魅了した花鳥画―」株式会社小学館 2021.3.30発行 参照)

◆名古屋テレビ株式会社所蔵の浮世絵コレクションとは?

「名古屋テレビ 浮世絵美術館 URL=https://www.nagoyatv.com/ukiyoe/museum 」というサイトには〈もとは朝日新聞社の常務矢島八洲夫氏が長い年月を費やして収集されたものですが、矢島氏がそのコレクションを「こどもの国」協会の基金づくりのために手放すことになり、関係団体に声をかけた結果、当時の名古屋放送代表取締役故川手泰二の判断で名古屋テレビのみが名乗りをあげ、一括購入をして現在に至るものです〉と書かれています。「名古屋テレビ 浮世絵美術館」には作家別の「バーチャルミュージアム」もあり、葛飾北斎、歌川国貞・国芳、歌川広重(その一)、歌川広重(その二)、月岡芳年という5つのコーナーを見ることができます。なお、月岡芳年のコーナーは、美人画ばかり20点を掲載しています。

◆2021年から開催される「月岡芳年展」とは?

ネットで調べると、2021.4.24~5.23の会期で、金沢21世紀美術館市民ギャラリーAを会場に「最後の浮世絵師 月岡芳年」展が開催されていました。途中の巡回先は不明ですが2022.4.8~6.5の会期で、八王子市美術館に巡回する予定です。

 なお、協力会ミニツアーで鑑賞した「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」は2022.2.26~4.10の会期で、京都文化博物館に巡回中。豊橋市美術博物館(会期は2021.10.9~11.23)を最後に巡回が終了した「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」は、島根県立石見美術館(会期は2016.12.23~2017.2.13)から巡回が始まっています。TV愛知「新美の巨人たち」でも月岡芳年「大日本名将鑑」を取り上げていました(2022.02.12 22:00~22:30放送)。「今、月岡芳年が注目されている」ということですね。

Ron.

「ゴッホ展」 会員向け解説会(A日程)

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor
解説会に際し、会長さんからあいさつ

名古屋市美術館で開幕した「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「本展」)の名古屋市美術館協力会・会員向け解説会(A日程)に参加しました。参加者は往復ハガキで申し込んだ50人。解説会の定員は90人で、申し込んだ全員が当選しています。2階講堂で深谷克典・名古屋市美術館参与(以下「深谷さん」)の解説を聴き、その後は自由観覧・自由解散となりました。

なお、本展では特別に、会員向け解説会を2回開催。次回(B日程)は、森本陽学芸員の解説。3月13日(日)16:30~18:30開催の予定です。こちらも、申し込んだ全員が当選しています。

◆2階講堂・深谷さんの解説(16:30~17:15)の概要   なお、(注)は、私の補足です。

・美術館に来る時の注意点

 本展の休館日は3月7日(月)・28日(月)の2回だけです。会期は2月23日から4月10日までの約一月半。会期がとても短いので、混雑を緩和するため、休館日を2回にとどめました。「月曜日は全部休み」と思っている方が多いので、ゆったり鑑賞するなら「3月7日・28日以外の月曜日」がお薦めです。

 本展は日時指定の予約制です。入場時刻は、最初が9時30分、次が10時30分と、1時間おきです。入場時刻が9時30分だと、9時30分から10時20分までが入場時間帯ですが、多くの人が9時30分よりも前から並ぶため、開館時刻には100人から150人の行列が出来て、入場に20分から30分かかります。10時ごろには行列がなくなるので「並ばずに見たい」という方は10時ごろにお出でください。他の時間帯でも11時ちょうど、12時ちょうど等「毎正時」だと「並ばずに見る」ことができると思います。

・ヘレーネ・クレラー=ミュラーとフィンセント・ファン・ゴッホの関係

 本展には「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」というサブタイトルがついています。このサブタイトル、実は私が考えたものです。ヘレーネは、本展の出展作品のコレクターですが、ゴッホと直接の面識はありませんでした。彼女はドイツ人で、結婚してオランダに移ってから、人生に物足りなさを感じた時に出会ったのがゴッホの作品でした。本展に関係のある、もう一人の人物がH.P.ブレマーです。彼は、絵描き・美術評論家・コレクションのアドバイザーなど多くの肩書を持っています。早くからゴッホの真価を認め、ヘレーネに「是非コレクションすると良い」と勧めた人物です。

・クレラー=ミュラー美術館について

 ゴッホが亡くなったのは1890年。ヘレーネはゴッホの死後、1908年から20年間にわたって、270点のゴッホ作品を収集しました。本展には、その一部が出展されます。

 オランダの黄金時代は17世紀です。国が繫栄し、美術ではレンブラントやフェルメール等が活躍しました。しかし、その後は低迷が続きます。そして、19世紀になって登場したのが、ゴッホです。

 ヘレーネのコレクションを所蔵するクレラー=ミュラー美術館は、1938年に開館しました。ヘレーネは初代館長を務め、開館の翌年、1939年に亡くなりました。

 クレラー=ミュラー美術館は、広大な国立公園の中にあります。公園の中には何もありません。私は45年前の学生時代、アムステルダムからバスに乗り美術館に行ったことがあります。バス停から2時間余り歩き続けてようやく着きましたが、道中、周りはずっと森ばかりでした。

・出展作品の搬送と展示

 本展は、昨年9月から12月まで東京都美術館で開催されました。いつもなら、出展作品の搬送には作品を所蔵している美術館からクーリエが付き添って来ます。しかし、今回はコロナ禍による外国人の入国制限でクーリエが来日できないため、本展の関係者がオランダに出向いて作品を受け取って来ました。昨年9月のことで、私も同行しました。

 美術館のあるオッテルロー近くのホテルに宿泊し、クレラー=ミュラー美術館に行きました。国立公園の入口から、無料の貸自転車で美術館まで、5㎞の道を走ったのですが、止まろうと思ったら自転車のハンドルにブレーキ・レバーが見当たりません。焦りましたね。試行錯誤の末、自転車のペダルを後ろに戻したら、ようやく止まりました。ペダルを戻すと止まる仕組み(フット・ブレーキ)の自転車でした。

 出展作品は、ご覧のとおり「TURTLE」というロゴと亀のイラストが描かれた緑色の箱に、一点ずつ入れて搬送します。ロゴとイラストは「亀のように固い甲羅で守っています」という意味のようです。乗客の場合と違い、荷物は飛行機の出発の4時間から5時間前には空港に届けなければならないため、朝早く、暗いうちに美術館を出発しました。

 ご覧いただいているのは、名古屋市美術館での展示風景です。いつもならクレラー=ミュラー美術館のクーリエが日本のスタッフの横にいて、様々な指示を出します。しかし、今回、クーリエは来日していないため、パソコンでオランダと繋ぎ、画像を転送してクーリエの指示を仰ぎました。この日の展示作業は16時(オランダ時間:8時)から21時(オランダ時間:13時)まで行いました。

・ゴッホと彼の家族

 ご覧いただいているのは、ゴッホの弟テオです。ゴッホには2人の弟と3人の妹がいました。男の兄弟、ゴッホと弟2人はいずれも30代で死亡。男たちはみんな「若死に」でした。一方、妹3人は長生きです。

・クレラー=ミュラー美術館が所蔵するゴッホ作品など

 クレラー=ミュラー美術館が所蔵するゴッホ作品は油絵90点、素描180点。ヘレーネは1908年から1929年までの20年間、現在の日本円に換算して総額6億円を費やし、作品を収集しました。現在と違って、当時、ゴッホ作品の値段はそれほど高くありませんでした。

 ゴッホ作品を一番多く所蔵しているのはゴッホ美術館で、油絵200点、素描500点を所蔵しています。クレラー=ミュラー美術館の所蔵数は二番目。他には、オルセー美術館が油絵24点、版画15点を、メトロポリタン美術館が油絵19点、水彩・素描5点、版画4点を所蔵しています。

・本展の出展作品

 本展の出展作品は、ゴッホの素描20点、ゴッホの油絵32点(うち、4点がゴッホ美術館所蔵)、ゴッホ以外の油絵20点です。

 ご覧いただいているのは、走る機関車を描いた、ハブリエル《それは遠くからやってくる》(1887)で、ヘレーネが1907年に初めて収集した作品です。次の《森のはずれ》(1883)と《枯れた4本のひまわり》(1887)は、ヘレーネが1908年に初めて収集したゴッホの作品です。なお、《枯れた4本のヒマワリ》は本展に出展していません。

 オランダ時代の作品は《織機と職工》(1884)、《女の顔》(1884)、《じゃがいもを食べる人》(1885)。《じゃがいもを食べる人》は油絵と版画を描いていますが、本展に出展しているのは版画です。

 ゴッホは、画家としては10年間ぐらいしか活動していません。初期は基本に従って、下絵を描いてから油絵を仕上げていますが、後になるほど描くスピードが速くなり、2~3日で1点を仕上げています。パリ・アルル時代からは、下絵なしでキャンバスに向って描いています。

 パリ時代の作品は《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》(1886)と《レストランの内部》(1887)。《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》にはオランダ時代の名残がありますが、《レストランの内部》になると作風が大きく変わります。ゴッホは1886年に開かれた第8回印象派展でスーラの作品(注:たぶん、《グランド・ジャネット島の日曜日の午後》)を見て衝撃を受け、この作品を点描で描きました。

 これは脱線ですが、ゴッホが弟のテオ宛てに「パリのルーブル美術館に迎えに来い」と書いて送った手紙が残っています。「本当に、投函した手紙が翌日に届いていたのか?」と疑問を抱いていたのですが、調べると、当時、オランダで出した手紙は、翌日パリに配達されていました。以前、藤田嗣治展でフジタがユキに送った手紙を調査したところ、フジタは一日2、3通の手紙を書き、翌日にはユキに届いていました。

 《糸杉に囲まれた果樹園》は1888年4月に描いた作品です。その2か月後に描いたのが《種まく人》(1888)ですが、ゴッホはミレーを尊敬し、《種まく人》を元にした作品を何点も制作しています。

・《黄色い家》と「耳切り事件」

 《黄色い家》は1888年9月に描いた作品です。この家は2階が寝室で、1階は食堂とアトリエです。ゴッホは、この家を画家たちの共同生活の場にすることを夢見て、画家仲間を誘ったのですが誰も来ませんでした。ゴッホの弟・テオから頼まれ、テオの顔を立てるため、「黄色い家」にやってきたのがゴーギャン。同年10月下旬のことです。しかし、共同生活は2か月で破綻。12月23日に有名な「耳切り事件」が起き、ゴーギャンはパリに帰ります。

 「耳切り事件」は「ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手に持って追いかけて来た。ゴーギャンが振り向いてゴッホを睨むと、ゴッホは引き返した」という話ですが、これは事件から10年ほど後にゴーギャンが自伝に書いたことを元にしています。しかし、これが少しあやしいのです。事件の数カ月後、ゴーギャンはフェルミ―ル・ベルナールに事件について語っています。フェルミ―ル・ベルナールは別の作家に手紙を書いていますが「ゴッホが剃刀を持って、ゴーギャンを追いかけた」ということは書いてありません。(注:ゴッホが自分の耳を切ったことは確かですが、「彼がゴーギャンを追いかけた」という部分は「盛った話」かもしれない、ということですね)

・本展の出展作品(つづき)

 《善きサマリア人》(1890)は、ドラクロア《善きサマリア人》(1849-50)の版画を模写したものです。《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890年5月)は、1996年に名古屋市美術館で開催した「ゴッホ展」でも出展されました。ゴッホが亡くなる2か月前、サン・レミで描いた作品です。

 ゴッホは、アルルで多くの「ヒマワリ」を描いています。そして、サン・レミでは「糸杉」をたくさん描いています。ヒマワリは、生命・信仰の象徴ですが、糸杉は見るからに禍々しく、死の象徴とされています。十字架も糸杉を素材にして作られています。ゴッホの中に「死に向っていく意識があった」と言われています。

「生と死」を表すとき、太陽と月を同じ画面に描くことがあります。《夜のプロヴァンスの田舎道》には金星と月が描かれているとされますが、私は、画面の左側に描かれているのは「金星」ではなく、「太陽」ではないかと思っています。この作品は実際に見た風景ではなく、想像力を使って描いた作品です。

 糸杉はベックリン《死の島》(1880)に描かれ、ダ・ヴィンチ《受胎告知》(1472-5)にも描かれています。《死の島》の糸杉は「死の象徴」ですが、《受胎告知》の糸杉は「生命の誕生を告げる樹木」です。つまり、糸杉は「生のイメージ」と「死のイメージ」の二つの象徴です。私はゴッホが「生と死の間を揺れ動いていたのではないか」と思います。ゴッホは1889年から1890年までの間、繰り返し糸杉を描きました。

・ゴッホ以外の出展作品

 本展にはルノワール《カフェにて》(1877)、モンドリアン《グリッドのあるコンポジション5》(1919)など、良い作品がいっぱい出展されています。ヘレーネは、ゴッホ以外の作家についても質の高いコレクションを作り上げていました。

◆自由観覧(17:15~18:30)の概要

・オランダ時代の作品など(1階)

 最初の部屋に展示されているのは《ヘレーネ・クレラー=ミュラーの肖像》と《H.P.ブレマーの肖像》。出展された作品に関係の深い二人に敬意を表するために展示しているのでしょう。

 次の部屋に入り左に曲がると、オランダ時代の暗い色調の油絵が並んでいます。油絵の次は、ゴッホ時代の素描。深谷さんは「ヘレーネが収集したゴッホ作品は、油絵90点、素描180点」と解説していましたが、出展された素描を見て「ヘレーネがゴッホの素描を高く評価していた」と感じました。深谷さんも「ゴッホの素描はうまい」と話しています。ゴッホが素描に力を注いていたことが分かりました。

 作品を鑑賞していると、参加者から「油絵の額縁と素描の額縁、作品の種類別に同じデザインの額縁を使っている」という声が上がりました。深谷さんは「おっしゃる通りです」と回答。「クレラー=ミュラー美術館開館時の写真を見ると、当時からこの額縁を使っている」という説明が続きました。

・ゴッホ以外の作品(1階)

 点描の作品が5点並んでいました。見覚えのある作品があったので家に帰って調べると、少なくともスーラ《ポール=アンベッサンの日曜日》(1888)、シニャック《ポルトリューの灯台、作品183》(1888)、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド《黄昏》(1889)は、2014年に愛知県美術館で開催された「点描の画家たち」(以下「点描の画家たち」)に出展されていました。そういえば「点描の画家たち」もクレラー=ミュラー美術館の所蔵品からの出展でしたね。

 ゴッホ以外の作品の最後は、《グリッドのあるコンポジション5》とバート・ファン・デル・レック《種まく人》(1921)です。2021年に豊田市美術館で開催された「モンドリアン展」(以下「モンドリアン展」)の最後の部屋に出展されていた作品の数々を思い出しました。当時最先端だった抽象画も収集していたことに、ヘレーネの「目の付け所の良さ」を感じます。なお、「点描の画家たち」でも最後の章にはモンドリアンの作品を出展していました。

・クレラー=ミュラー夫妻が購入したファン・ゴッホ作品(1階)

 1階の最後は、壁一面を使った「クレラー=ミュラー夫妻が購入したファン・ゴッホ作品」の一覧表です。購入年、作品名だけでなく、現在の円に換算した金額も示されているので「開運!なんでも鑑定団」を見ているような気がしました。興味深かったのは、本展の目玉《夜のプロヴァンスの田舎町》の購入価格が10,000ギルダー(925万円余)で、17,500ギルダー(1619万円余)で購入した《善きサマリア人》よりも安かったということです。それから、1928年には131点の素描を「まとめ買い」していました。クレラー=ミュラー美術館が所蔵しているゴッホの素描は180点ですから「素描の約七割はこの年に購入したもの」ということになります。

・ゴッホ美術館の所蔵品(2階)

 2階に移動して、最初に目に入るのはゴッホ美術館の所蔵品4点です。なかでも《黄色い家》は、別格扱いでした。

・パリ時代の作品(2階)

 最初に展示されている《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》は、「モンドリアン展」で見たハーグ派の作風で描いた初期モンドリアンの作品を思わせる暗い色調の絵でした。この作品以外は、印象派の影響を受けた色鮮やかな絵ばかりなので、パリでゴッホの作風に大きな変化が起きたことがよく分かります。

・アルル時代の作品(2階)

 《夕暮れの刈り込まれた柳》(1888)は、1階に展示されていた素描《刈り込んだ柳のある道》(1881)と同じような樹形の柳を描いた作品です。「モンドリアン展」でも、同じような樹形の柳を描いた作品が数点あったことを思い出しました。《種をまく人》は「日暮れ時に種を蒔いている」ことが良くわかる作品です。ただ、まだ明るく、しかも鴉が何羽も周りにいるので「種を蒔いても、鴉が次から次へと食べてしまうのではないか」と要らぬ心配をしてしまいました。

・サン=レミとオーヴェル=シュル=オワーズ(2階)

 《夕暮れの松の木》(1889)は、何故か日本的な感じのする作品でした。ただ、そのように感じる理由については、良く分かりません。本展の目玉《夜のプロヴァンスの道》は、最後に一点だけの特別席に鎮座。沢山の人が作品を取り囲んで見ることができるよう、絵の周りに広い空間を確保していました。

・「点描の画家たち」で見たゴッホ作品

 2階にも、見覚えのある作品がありました。家に帰って調べると、少なくとも《レストランの内部》、《種まく人》、《麦束のある月の出の風景》(1889)は「点描の画家たち」に出展されていました。なかでも《種まく人》は、ポスターかチラシに使われていた記憶があります。

解説くださった深谷参与、マスク姿でありがとうございました!

◆最後に

 本展を鑑賞するため、午後2時30分に並んだことがあります。その時の待ち時間は5分ほどでした。ただ、展示室に入ると「すし詰め」とは言いませんが、①最前列に並んで、人の流れに逆らわず、ゆったりと作品を鑑賞するか、②並んでいる人の後ろに立って、人と人の隙間から覗くようにして作品を鑑賞し、自分のペースで移動するか、二者択一の判断を迫られるほどの「混み具合」でした。その時は、時間の余裕がなかったので止む無く、②を選択しましたが、じっくりと鑑賞できなかったのは、少し残念でした。

 これに対し、今回の自由鑑賞は「50人の貸し切り」ですから、じっくりと、しかも自分のペースで鑑賞しました。「贅沢な時間」を満喫することができたので、大満足です。

 解説会が始まる前、スクリーンに動画が映されていたので、家に帰り〈「ゴッホ展」展覧会公式サイト〉にアクセスして「スペシャル」を選択すると、〈「ゴッホ展がよく分かる!」こどもも大人も楽しめるジュニアガイド〉という動画を見ることができました。確かに「こどもも大人も楽しめる」ガイドです。

◆蛇足ながら

協力会の活動が再開したのは、2021.02.07に開催の「写真の都」物語-名古屋写真運動史の「会員向け解説会」でした。ようやく、一年が経過。これからも協力会の活動が続くことを願ってやみません。

Ron

マンガ家・つげ義春さんが日本芸術院の新会員に

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2月23日付けの新聞に、日本芸術院が22日に芸術活動で優れた功績があったとしてマンガ家・つげ義春さんを新会員に選出したという記事が載っていました。概要は、以下のとおりです。

◆新会員選出の経緯

各紙の報道をまとめると、これまで芸術院の新会員は会員のみの推薦と投票で選出していましたが、幅広く人選できるように、今回から文化庁が選んだ有識者が候補の推薦と絞り込みに加わり、投票は会員のみで実施という方式に見直し。対象となる芸術分野も硬直化していたことから、対象分野に「写真・映像」「デザイン」「マンガ」「映画」を追加したとのことです。

その結果、新たに対象となった「写真・映像」「デザイン」「映画」では新会員候補が決まりませんでしたが、「マンガ」では、ちばてつやさんとつげ義春さんが選出されました。

なお、「朝日新聞デジタル」によると〈今回の選考では2人が辞退したが、芸術院は辞退者が特定される可能性があるとして分野は公表していない〉そうです。

◆新会員の業績

中日新聞・日本経済新聞ともに、ちばてつやさんの業績を〈「あしたのジョー」は戦後漫画の金字塔の一つ。後進の育成にも努める。14年文化功労者〉。つげ義春さんの業績を〈文学的な表現で高い評価を得る。20年アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞〉と書いています。

さらに、「コミックナタリー」の記事は〈つげの推薦理由では、「その生き方がトータルに注目される唯一無二の存在となっている。今日もなお文庫や全集の形で作品が読まれ続け、海外からも高い評価を得ている、まさに「芸術」としてのマンガ表現において日本を代表する作家である」と述べられた〉と書き、芸術院が発表した推薦理由の全文も掲載していました。

◆「商業美術家の逆襲」では、つげ義春さんを「至高の芸術家」と評する

つげ義春さんといえば、山下裕二さんがNHK出版新書「商業美術家の逆襲」で〈将来的には、マンガの原画が国の重要文化財や国宝に指定される日が来るでしょう。その筆頭候補は、何と言っても「ねじ式」です。文化財候補マンガの中でも、この作品は「絵」として最も素晴らしい。私にとって、つげ義春は至高の芸術家であり、その作品は最高の「ファインアート」です〉と書いています。山下裕二さんだけでなく、日本芸術院もつげ義春さんの功績を認めたということですね。

◆最後に

新聞記事を読んだ後、ネット検索で「芸術新潮」2020年4月号につげ義春さんの記事があると分かり、本棚を探すと「つげ義春、フランスへ行く」という12ページにわたる特集を掲載していました。特集は、アングレーム国際漫画祭特別栄誉賞の授賞式への同行記、長男・正助さんへの取材記事、つげ義春さん・正助さんへのインタビューで構成。アングレーム国際漫画祭は、1982年に手塚治虫も参加した歴史あるイベントで、2000年代に入ってフランスでも本格的に日本のマンガの翻訳出版が始まると、水木しげる、大友克洋、高橋留美子などが受賞しているとのことでした。アングレーム美術館では「つげ義春展」が開催され、英語版・フランス語版のつげ義春全集が出版されていることも、初めて知りました。2年前「芸術新潮」を買ったにもかかわらず、12ページにもわたる特集をスルーしたことに、我ながら呆れてしまいました。一体、何をみていたのでしょうか。

Ron.

日本経済新聞・書評の紹介 「商業美術家の逆襲」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

本年2月19日(土)付・日本経済新聞の「読書」欄に、山下裕二著「商業美術家の逆襲」の書評が載っていました。表題を入れて12字×17行の短い記事なので、取り上げた作家はグラフィックデザイナーの田中一光のみです。

私が田中一光のポスターに出会ったのは、2014.05.11(日)の協力会「春のツアー」が最初です。大阪市の国立国際美術館で開催の「アンドレアス・グルツキー展」鑑賞後に見た「コレクション展」の一角に展示されていました。そこに展示されていたのは美術館所蔵のポスター。時間が無いので急いで通り過ぎたのですが、一つのポスターの前で足が止まってしまいました。ポスターの左上に書かれているのは「Nihon Buyo」。他の文字も全て英数字でした。「不思議なポスターだな」と思いましたが、残り時間がわずかだったため、「田中一光」という作家名を確かめただけ。急いで、ツアーのバスに戻りました。

次の出会いは、2017.09.23(土)の協力会「秋のツアー」。移転新築後の富山県美術館「コレクション展」でした。「デザイン・コレクション ― ポスターと20世紀の椅子」のコーナーで、田中一光「Nihon Buyo」1981との再会を果たしたのです。二つの美術館で収蔵しているということから、「重要な作家」だということは分かりましたが、そこで途切れてしまいました。

三度目の出会いが、日本経済新聞の書評が取り上げた「商業美術家の逆襲」です。これまでの出会いでは、ポスター以外には作家名・作品名・制作年という限られた情報しか得られませんでしたが、今回は作家の経歴・位置付けなど様々な情報に接することができました。

日本経済新聞の記事を読んだ後、国立国際美術館のホームページにアクセスし、同館が田中一光の作品を多数所蔵し、2016.04.05~06.19には「田中一光ポスター展」を開催していることを知りました。また、「田中一光ポスター展」のホームページでは「Nihon Buyo」のほか、「商業美術家の逆襲」に掲載の「JAPAN」、尾形光琳《紅白梅図屏風》を思わせる作品など、全7点のポスターを見ることができます。更に知りたい方は、「所蔵作品検索」で独立行政法人国立美術館の4美術館の所蔵作品が検索できますので、お試しください。

蛇足ながら、以下に日本経済新聞の記事を引用しました。

Ron.

◆ 2022.02.19 日本経済新聞 書評(新書・文庫)『商業美術家の逆襲』 山下裕二 著 

著者はグラフィックデザイナーの田中一光を「20世紀の琳派」とみる。ポスター「JAPAN」は俵屋宗達が「平家納経」に描いたとされる鹿の絵を引用してデザインした。この引用と変換こそが琳派の精神だという。著者は日本美術を継承し、新たな表現を切り開いてきたのはこうした商業作家だと指摘。浮世絵から漫画まで、商業作品を糸口に明治以降の美術史を捉え直す。(NHK出版新書・1210円)

読書ノート 渡辺省亭に関する2冊の本

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

昨年6月13日開催の協力会ミニツアーで、岡崎市美術博物館の「渡辺省亭 ―欧米を魅了した花鳥画―」展を鑑賞しました。当日は、入場者が館の想定を超えたため、一時、入場制限。入場後、展示されていた作品を見て、館の想定を超える入場者があったことに、「なるほど」と深く納得した覚えがあります。最近、その渡辺省亭に関する書籍を2冊、近所の書店で発見しましたので、ご紹介します。

◆「商業美術家の逆襲 もうひとつの日本美術史」 山下裕二 著 NHK出版新書666  2021.12.10発行

刺激的なタイトルに惹かれて手に取ると「渡辺省亭」の文字が目に飛び込み、迷わず買いました。著者は本書の目的を〈日本美術のメインストリームから外れたことで、美術史上、正当な評価を受けてこなかった商業美術家たちを「再評価」するだけでなく、むしろ彼らを本流として明治以降の美術史を再考してみたい〉と書いており、パートⅠ「商業美術の到達点」、パートⅡ「浮世絵から新版画まで」、パートⅢ「戦後の商業美術家へ」の三部構成となっています。

〇パートⅠ 商業美術の到達点

・取り上げている商業美術家

パートⅠで取り上げている商業美術家は、渡辺省亭(1851-1918)、鏑木清方(1878-1972)及び小村雪岱(1887-1940)の三人です。渡辺省亭と小村雪岱は、著者が監修・企画協力をした展覧会で取り上げた画家。ともに存命中は高く評価され、画壇も一目置く存在でありながら、没後、その盛名が忘れられていました。鏑木清方は日本画の巨匠。「忘れられた画家」ではありませんが、画業の出発点は「商業美術」の口絵・挿絵であり、省亭・雪岱の二人と関係の深い作家でもあります。

・渡辺省亭・鏑木清方・小村雪岱に共通するもの

著者は、省亭、清方、雪岱の三者に共通する点を〈江戸の風流を愛し、酒井抱一、柴田是真に連なる「江戸の美意識」の継承者であること。権威に与することも関心もなく、淡々と描き続けたこと。そして、その類まれな画力とセンスを、商業美術的なものに惜しみなく注いだ〉と書いています。この言葉どおり、彼らは小説の挿絵・口絵という「商業美術」で好評を博しています。

・渡辺省亭を敬愛する鏑木清方

清方は、自伝的随筆『こしかたの記』に〈省亭は、年方に直結して、間接的には私にまで及んでいる〉と書いています。著者は〈清方の師・水野年方(1866-1908)は、月に二度ほど省亭のもとに通って花鳥画の手ほどきを受けていた時期があり〉、清方自身も〈省亭を敬愛し、粋で気品のある花鳥画に深く心を寄せていた〉と書き、晩年の清方が省亭の掛軸を床の間に掛けていたという、キャバレー王・福富太郎の証言を載せています。

・渡辺省亭と鏑木清方を結ぶキーマン・柴田是真

著者は、省亭と清方を結ぶキーマンとして、漆工家で画家の柴田是真(1807-1891)を挙げています。省亭は小さい頃から是真の木版画を手本に絵を描き、先ず是真に弟子入りを志願。是真の勧めと仲介で歴史画の大家・菊池容斎(1788-1878)に弟子入りしています。一方、清方の家は是真一門と深い付き合いがあり、床の間を飾る掛軸の多くは是真の作。清方も、9歳で是真の次男・真哉に絵の手ほどきを受けています。

柴田是真も、生前は国内外で高い評価を受けていたにもかかわらず、没後、忘れられた作家です。著者は、省亭、是真と同様に河鍋暁斎(1831-1889)も〈作品のクオリティーや海外での評価の高さと、日本での認知度に大きなギャップがある〉としています。また、その原因は〈絵画と工芸の両分野でずば抜け、また、盛期が江戸と明治にまたがっていたため、その足跡や作品世界の全貌がきちんと理解されてこなかったからだろうと思います〉と書いています。

・渡辺省亭が描いた挿絵が引き起こした大騒動

省亭については、山田美妙(1868-1910)の小説「蝴蝶」に描いた挿絵について、次のようなエピソードを紹介しています。省亭は、小説中の描写に沿って鎧武者と向き合う美女の裸体画を描き、それが評判となって、小説を掲載した雑誌『國民之友』は二万部の増刷。しかし、蝴蝶人気に便乗して数多(あまた)の裸婦画が出現し、『國民之友』は一年足らずで発禁処分となってしまったとのこと。大騒動だったようです。

・鏑木清方と小村雪岱の関係

清方と雪岱については、ともに泉鏡花(1873-1939)の小説に挿絵を描いている、と紹介されています。清方は、泉鏡花の単行本『三枚続』に口絵を描いたことから、二人のコンビで次々と作品を世に出します。雪岱が商業美術の世界に飛び込んだのも、泉鏡花の『日本橋』の装幀がきっかけです。以後、鏡花の本の装幀はもっぱら雪岱が担当することになります。しかし、著者によれば、清方と雪岱は良きライバルであり、先輩・後輩として、とてもいい関係を築いていた、とのことです。

〇パートⅡ 浮世絵から新版画まで

パートⅡでは、世界が熱狂した日本の商業美術、浮世絵版画について、岩佐又兵衛(1578-1650)の「洛中洛外図屏風(舟木本)」から伊東深水(1898-1972)、川瀬巴水(1883-1957)、吉田博(1876-1950)、橋口五葉(1881-1921)の新版画まで、幅広く取り上げています。

なかでも、著者が注目しているのは歌川国芳一門。師風を強く受け継いだのが月岡芳年(1839-1892)で、芳年から「年」の字をもらった弟子が水野年方。年方から「方」の字を受け継いだ鏑木清方の門下に、新版画の伊東深水と川瀬巴水がいます。一門の外で、洋画家から新版画に転じたのが吉田博と橋口五葉です。

〇パートⅢ 戦後の商業美術へ

パートⅢでは、広告ポスターのデザインやイラストレーション、雑誌の表紙、マンガの作家を取り上げています。西部流通グループ(のちのセゾングループ)のクリエイティブ・ディレクターを務めた田中一光(1930-2002)や『週刊少年マガジン』の表紙を芸術にした横尾忠則(1936- )、『ねじ式』を描いたマンガ家・つげ義春(1937- )、小村雪岱からの影響を感じさせるマンガ家・林静一(1945- )などを紹介しています。特に、子供向け学習雑誌の表紙を四半世紀にわたって描き続けた玉井力三(1908-1982)については〈学習誌の表紙を飾った昭和の子どもたちの笑顔には、その湧き出すような力強さまで描出されていて、時代を映す風俗画としても貴重です。その原画などを紹介する回顧展を、現在準備中(2022年秋開催予定)ですが、女性誌の表紙に展開された美人画についても、かつて橋口五葉が三越呉服店のポスターに描いた女性像を嚆矢とする経脈を継ぐものとして、今後研究が進むことを期待しています〉と綴っています。なお、この本のカバーは、小村雪岱「おせん 雨」と玉井力三「『小学三年生』表紙」の図版を使っています。

〇ひとこと

渡辺省亭について知るために買った本ですが、小村雪岱の画業についても知ることができたのはラッキーでした。2019年12月21日から翌年2月16日まで岐阜県現代陶芸美術館で開催された「小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンへ」展は、チラシがきれいで「行きたい」と思っていたのですが、気が付いたら会期は終了。協力会の会員から「とてもよかったですよ」という評判を聞き、「見ておけばよかった」と後悔したものです。今回、この本に掲載された雪岱の作品を見たことで、少し気分が晴れました。

商業美術家でたどる「明治以降の美術史」は新鮮で、とても面白いものでした。お勧めです。

◆別冊太陽296 「渡辺省亭 花鳥画の絢爛」 山下裕二 古田亮 監修 平凡社 2022.2.25発行

大型の書籍で図版が大きく、発色もきれいなので「商業美術家の逆襲」と併せて読むと良いと思います。

巻頭に「渡辺省亭の再評価元年がやってきた!」という山下裕二氏と東京藝術大学大学美術館館長・古田亮氏との対談が掲載されています。このほか、鏑木清方が書いた渡辺省亭の追悼文(『中央美術』五月号 大正七年五月一日発行)、2021年の展覧会の会期中にその存在が明らかになった絶筆《春の野邊》(岡崎市美術博物館から公開)、「省亭の画技を支えた書」という記事なども掲載され、見ごたえ十分です。

Ron.

協力会「秋のツアー箱根2016」で見学した北条氏ゆかりの地

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

令和4年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。主人公の北条義時を始め、時政、宗時、政子、実衣など北条氏の面々が登場しますが、なんと名古屋市美術館協力会は、今年の大河ドラマで話題になると思われる北条氏ゆかりの地(現在の伊豆の国市)を「秋のツアー箱根2016」で訪れていました。9月25日(日)のことです。

◆伊豆の国市で見た場所は

当日は箱根の岡田美術館見学後、源頼朝が配流された「蛭ケ小島(ひるがこじま)跡」の横をバスで通り過ぎ、世界文化遺産「韮山の反射炉」の隣にある「蔵屋鳴沢」で昼食。反射炉を見ながらの網焼きバーベキューでした。とてもボリュームがあり、皆、大満足。300円の入場料を払って反射炉見学をした人もいました。

ツアーの最後は、反射炉の目と鼻の先にある、北条政子の父・北条時政が建立した寺院の願成就院(がんじょうじゅいん)。阿弥陀如来坐像を始め、平成25年に国宝指定された運慶作の五体の仏像を安置。我々が本堂に入るのとほぼ同時に住職が登場して「この阿弥陀如来は体格が良くて男らしい仏様で、両掌を前に向ける説教印を結んでいるのが特徴。地震で螺髪、鼻、目が損傷し、玉眼ではなくなった。体内から五輪塔型の木札が見つかり、運慶作であることが確認された。現在の本堂は、50年ほど前に再建された」との解説がありました。(注:願成就院については、呉座勇一「頼朝と義時」(講談社現代新書)p.188に〈文治五(1189)年、北条時政は本拠地である伊豆国北条に願成就院を建立し、奥州征伐の成功を祈願している(『吾妻鏡』)。〉という記述があります)

見学後のバスでは、会員の藤井さんから阿弥陀如来像について「座像は瞑想など修業中や説教中のお姿。一方、立像は人々を救済しようと立ち上がったお姿。両足を揃えたお姿だけでなく、歩き出したように片足が前に出た立像もある」という内容のお話があり、参加者一同が聞き入っていました。

◆その後、調べた事柄

・運慶のこと(Wikipedia による。(注)は、私の補足です)

平重衡による「南都焼討」(1180)で東大寺・興福寺が焼失。東大寺・興福寺の再興に伴う仏像制作は、京仏師と奈良仏師が分担しましたが、主要な仏像は京仏師の分担でした。運慶は奈良仏師のひとりとして興福寺の仏像制作に取り組んでいましたが、その後、鎌倉幕府関係の仕事を引き受け、1186年には願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王像及び二童子像及び毘沙門天像を作り始めました。奈良に戻ってからは、東大寺・興福寺の仏像を制作。有名な東大寺・金剛力士像は1203年に完成。晩年は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の仕事を手掛けています。(注:南都焼討といえば、最近、澤田瞳子の「龍華記」を読みました。「龍華記」は南都焼討を巡る小説で、京仏師に反発して伊豆に旅立つ運慶も登場します)

・北条時政のこと(本郷和人「北条氏の時代」文春新書 による。(注)は、私の補足です)

p.17 平安時代後期、北条氏は伊豆国に暮らしていました。伊豆半島の西側、三島から少し南に下ったところに幕末に作られた反射炉が世界遺産になった韮山(にらやま)があります。この韮山の西側に北条と呼ばれる地域がありましたが、ここが北条氏発祥の地になります。(注:現在の地図にも、「中條」「南條」という地名が残っています)現在でも北条政子(1157~1225)の産湯に使ったとされる井戸や時政の墓などのゆかりの史跡があり、北条氏発祥の地であることがよくわかります。(注:北条時政の墓は願成就院の境内に、北条政子産湯之井戸は願成就院の北にあります)

p.22 頼朝が流されたのは、時政の本拠地の近くにある蛭ケ小島と呼ばれる場所です。多くの人が海に浮かぶ「島」をイメージすると思いますが、山間の盆地にある平地です。正確な場所は特定していないのですが、川の中洲であったとも考えられています。頼朝は、この地で十四歳からの二十年を過ごします。

p.81 (略)(注:1205年の)閏七月、時政が主導する、さらに大きな陰謀が「発覚」しました。牧の方と計って、将軍・源実朝をその座から引きずりおろし、平賀朝雅を将軍にしようとしたというものです(牧氏の乱)(略)義時は軍勢を率いて一気に館を囲みます。そして、勢いのまま実朝を連れ出し、自分の保護下に置きました。「玉」を取られた時政はこれでおしまいです。時政は、その日のうちに出家させられ、鎌倉から本拠地の北条に追われました。(略)十年後の1215(健保3)年に復帰することなく78歳の天寿を全うして時政は亡くなりました。ちなみに愛妻の牧の方はいつの間にか京に戻っています。藤原定家の『明月記』には、非常に贅沢をしている人物として描かれていますので、それなりに楽しい後半生だったのでしょう。(略)

◆最後に

当時、願成就院や北条時政が大河ドラマで注目されるようになるとは思ってもみませんでした。今は、穴場的なスポットを、ゆったり見学できたことが「秋のツアー箱根2016」の良い思い出となっています。また、坂東彌十郎「北条時政」・宮沢りえ「牧の方」が、どのような「策略家ぶり」を演じるか、今から楽しみです。

Ron.

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