2024.06.23 PM1:00~2:30
6月23日(日)に、三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」(以下「本展」)の協力会ミニツアーが開催され、参加者は10名でした。
当日の天気予報は「雨」。津駅から三重県美までは10分以上坂道を歩かなければならないので「雨に降られたら、いやだな」と恐れていましたが、何とか傘のお世話にならずに済みました。有難いことです。
ミニツアーの集合時刻は午後1時、集合場所は三重県美地下1階・講堂前でした。前回、三重県美で開催したミニツアーは2019年10月6日の「シャルル=フランソワ・ドービニー展」で、12名が参加しました。今回のミニツアーは、コロナ禍を挟んで5年ぶりの開催です。
当日は、講堂で速水豊・三重県立美術館館長(以下「館長」)のレクチャーを聴いた後、一旦、自由観覧。午後2時から館長のギャラリートークが始まったので、ミニツアー参加者は他の来館者に混じってギャラリートークを聴いてから、自由解散となりました。以下は、ミニツアーの概要です。
◆館長のレクチャーの概要(地下1階講堂)PM1:00~1:35
1 2024年は「シュルレアリスム宣言」100年
「シュルレアリスム」は1920年代にフランスで始まる。最初は文学運動。1924年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表。2024年は「シュルレアリスム宣言」100年に当たる、との解説でした。
2 本展のねらい
館長は「本展のねらいは、戦前の日本のシュルレアリスム運動を見てもらうこと」と解説。戦前のシュルレアリスム運動の全貌にフォーカスした展覧会は、1990(平成2)年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」。本展は34年ぶりのシュルレアリスム展になる、とのことでした。
3 序章 シュルレアリスムの導入
館長からは、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を1928年に発表した後、日本では1930年に滝口修造が『超現実主義と絵画』を翻訳し、いち早く取り入れている、との解説がありました。
4 第1章 先駆者たち
館長は、古賀春江《鳥籠》(1929)について「不可思議で驚きを生み出すイメージを描いている」と紹介。具体的には、画面左の鳥籠のなかのヌード、右下の白鳥、右上の機械。「不思議なイメージではあるが、組み合わせの解釈に正解はない。見る者が想像力を働かせて解釈すればよい」との解説がありました。
深沢一郎《他人の恋》(1930)について、館長は「深沢一郎は、1924~31年にフランスに滞在。1931年に開催された独立美術協会の第1回展に37点の絵画を出品。シュルレアリスムを本格で気に導入した画家で、シュルレアリスムに関する文章を発表し、シュルレアリスムを広めたリーダー、と紹介。
なお、二科展に出品した東郷青児、阿部金剛の作品については、「本人は、シュルレアリスムとは思っていない」とのことでした。
5 第2章 衝撃から展開へ
館長は、三岸好太郎《海と射光》(1934)について「亡くなる少し前に描いた、シュルレアリスムの傑作。貝殻と裸婦、海岸を組み合わせた、作家の代表作」と解説。飯田操朗(みさお)《婦人の愛》(1935)については「第5回出品され、独立賞を受賞」との解説でした。
6 第3章 拡張するシュルレアリスム
館長は、1930年代半ばから1937年頃について「集団で盛り上がっていった時代」と解説。滝口修造、山中散生、大下正男が写った写真を投影し「1937年に開催された海外超現実主義作品展・東京展の写真」と紹介。「実物の展示は少なかったが、複製や写真が200点以上並んだ展覧会で、東京・大阪・京都・名古屋・福井を巡回した」との補足がありました。
米倉壽仁(ひさひと)《ヨーロッパの危機》(1936)については「時代の社会的背景を示した作品。画面中央はヨーロッパの地図。地図の周りに馬。地図の裂け目からは色々なものが飛び出ている。スペイン内乱、ナチス政権誕生など、当時の世界の状況を意識」と解説。北脇昇《独活(うど)》(1937)については「作家は、京都で制作。作品は、ダリのダブル・イメージ(一つの物で、二つのイメージを表現)を取り入れている。二本の独活は、植物として描くだけでなく、二人の人物をイメージさせる」と解説。大塚耕二《トリリート》(1937)については「当時、まだ学生。この時期のシュルレアリスム運動を支えたのは画学生。帝国美術学校(武蔵野美術学校の前身)の「表現」というグループ。メンバーは、大塚耕二、浅原清隆など6名で、浅原清隆《多感な地上》(1939)は本展のポスターに使用。《多感な地上》では、ハイヒールから犬が出て来るし、女性のリボンは鳩に変身する。なお、清原は出征してミャンマーで行方不明になった。メンバーの半数は戦死。」との解説がありました。
7 第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで
館長は「日本が軍事体制に突入すると、シュルレアリスムは軍国主義に反するものとして、弾圧された」と解説。靉光(あいみつ)《眼のある風景》(1939)については「近代美術史の中でも重要な作品」と解説。北脇昇《周易解理論図(泰否)》(1941)については、「『図式』絵画と呼ばれ、周易の八卦図や色彩学などの概念に基づいて描いた作品」と解説。また、「福沢一郎と滝口修造は、シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われて拘束された」との解説でした。
8 第5章 写真のシュルレアリスム
館長は山本悍《題不明(《伽藍の鳥籠》のヴァリエーション》(1940)と坂田稔《危機》(1938)を紹介。
9 第6章 戦後のシュルレアリスム
館長は、岡本太郎《憂愁》(1947)について「岡本太郎は1930年代のパリで、シュルレアリスムの活動に参加した唯一の日本人」と解説。山下菊二《新ニッポン物語》(1954)について「戦前、福田一郎の下で学び、シュルレアリスム的手法を引き継いだ作家。ただし、この作品はルポルタージュ絵画と呼ばれ、シュルレアリスムとは呼ばれない」と解説しています。
10 本展出品の作品・資料について
最後に館長から「本展出品の作品は110点ほど、資料は80点ほど。作品だけでなく、資料も見て欲しい」との話があり、レクチャーが終わりました。
◆館長のギャラリートークの概要(1階 第1室・第4室)PM2:00~2:25
館長のレクチャーが終わり、ミニツアー参加者が本展を鑑賞していると、「間もなく、午後2時から館長によるギャラリートークを始めます。参加を希望される方は、1階展示室入口にお集まりください」という放送が入りました。急いで集合場所に向かうと、50人近くの人数が集まっています。三重県美の係員の誘導で展示室内に移動すると、館長が登場。午後2時からギャラリートークが始まりました。
ギャラリートークは、① 展覧会全体の説明と② 第4室の作品の解説の2部構成でした。
① 展覧会全体の説明
館長の解説によれば、アンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して、シュルレアリスムが始まった。シュルレアリスムが始まるとヨーロッパ全体に広まり、その後、全世界に広まる。20世紀では一番広い影響を与えた活動。シュルレアリスムは文学活動として始まったが、美術その他にも広がった。シュルレアリスムは、理性の及ばない無意識の領域に着目した。日本では、1920年代後半からシュルレアリスムの活動が始まる。本展は主に戦前期と戦後の、主に絵画作品を時代順に展示。展示ケース内には文学作品も並べている、とのことでした。
第1室から第2室にかけての展示については、「第1章 先駆者たち」「第2章 衝撃から展開へ」「第3章 拡張するシュルレアリスム」。第3章では、シュルレアリスムが集団的な運動へ変化し、学生たちの活動が活発になる、との解説がありました。また、第3室の内容については「第4章 シュルレアリスムの全盛期から弾圧まで」。日中戦争が始まり、前衛的な表現は弾圧され、消滅していく。多くの画家が、戦争で死亡した、との解説があり、第4室の内容については「第5章 写真のシュルレアリスム」と「第6章 戦後のシュルレアリスム」とのことでした。
② 第4室の作品の解説
第1室でのギャラリートークが終了し、参加者は第4室に移動。第4室で館長が解説したのは第4章の作品のうち、矢崎博信《時雨と猿》(1940)でした。館長によれば《時雨と猿》は、矢崎の描いた最後の大作とのこと。本人は、乗り組んだ輸送艦が魚雷を受けて戦死した。しかし、戦地に赴く前に郷里に戻り作品を置いてきたので、遺族の元に、かなりの作品が残っていた。矢崎は俳句とシュルレアリスムの関係を論じた文章を残しており、この作品は松尾芭蕉「猿蓑」の発句、「初時雨猿も小蓑をほしげ也」を元にしている、と解説されました。
北脇昇《周易解理図(泰否)》(1941)については、図式で思想を表す「『図式』絵画」と説明。周易の八卦の記号と色環の組み合わせで思考を表現した作品は、近年、注目されている。このような表現をした作家は、1940年代には一人だけだった、との解説でした。
「第6章 戦後のシュルレアリスム」については「戦前から活躍している作家に限って展示」と解説。岡本太郎《憂愁》(1947)については、1930年代に欧州のシュルレアリスム展覧会に出品した唯一の日本人。第二次世界大戦の開始で帰国。召集されて中国戦線で戦った。戦前の作品は空襲で全焼。作品は、白旗と頭部を描いているが、これは悲しみの表現、との解説がありました。
山下菊二《新ニッポン物語》(1954)については、福沢一郎の研究所に通った戦前からのシュルレアリスト。戦後にルポルタージュ絵画を制作。ルポルタージュ絵画はシュルレアリスムではないが、シュルレアリスム的表現の作品。画面右下に描かれた、口紅を塗りハイヒールを履いた犬の前に ”Yellow Stool” という言葉が書かれている。これは「日本人娼婦」の隠語、犬の頭と尻尾をつかんでいるケダモノは米兵を象徴、との解説があり、高山良作《矛盾の橋》(1954)については、イサム・ノグチが欄干を設計した橋、原爆ドーム、丹下健三が設計した平和記念館を描いている、広島の戦後の状況を描いた作品。高山は円谷プロで怪獣の造形を手掛けた、との解説がありました。
最後に館長は、寺山修司、つげ義春について、シュルレアリスム的なものが引き継がれている、と解説。以上で、ギャラリートークは終了しました。
◆ギャラリートーク終了後の感想など
ギャラリートーク終了後は、《新ニッポン物語》と《矛盾の橋》に話題が集中。《新ニッポン物語》では「どぎつい描写」について、《矛盾の橋》では「館長の解説が無かったら何を描いた作品か分からなかった」ということを中心に、各人の感想が交わされました。
なお、広島市の公式ホームページ(注)を見ると、高山良作が描いたのはイサム・ノグチが設計した2つの橋の欄干のうち「平和大橋」の欄干のようです。欄干は橋詰で上に反り、ラッパのように大きく広がっています。《矛盾の橋》では、欄干がラッパのように広がった部分の上に円盤が置かれ、その上にドーム状の構造物が載っています。高山良作が描いたドーム状の構造物ついては、何を意味しているのか、今でも不明です。
注:平和大橋・西平和大橋の欄干について – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)
◆2階・常設展に展示された「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品
2階・常設展でも「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品を展示しており、「撮影画像のSNS投稿OK」の作品もありました。そのうち、三岸好太郎《二人の道化》(1931)を見て、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」に出品の同《少年道化》(1929)を思い出しました。
◆最後に
本展が「1990年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」以来、34年ぶりに開催されたシュルレアリスム展と聞いて、ミニツアーに参加した意義があったと思いました。名古屋市美術館の所蔵作品も展示されています。
なお、本展のプレスリリースのURLは下記のとおりです。
URL: 001127362.pdf (mie.lg.jp)
Ron.
三岸好太郎《二人の道化》(1931)
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