展覧会見てある記「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」碧南市藤井達吉現代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.06.20 投稿

中日新聞6月4日・6日の県内版に碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」(以下「本展」)の出品作品紹介記事が掲載されました。4日の紹介記事は岸田劉生「童女図(麗子立像)」(1923)について「岸田のいう『グロテスクな美』が見る者に強い印象をあたえます」と書き、6日の紹介記事は大澤鉦一郎「少女海水浴」(1932)について「緻密に計算された画面構成が、画の面白みを引き立てます」書いていました。

この記事に促され、直ぐに美術館へ行きましたが、会期中に展示替えがあって、後期展示(6.18~7.7)の作品も多数あると分かりました。そこで、後期展示の開始を待って、再度、美術館に足を運びました。以下は、前期展示・後期展示を合わせての報告・感想です。

◆1階ロビーには

美術館に入った時、1階ロビーに開設された ”PHOTO STOP” が目に留まりました。壁に、大きく引き延ばした木村荘八《私のラバさん》(1934)が貼られ、その前に看板が立っています。ここで記念写真を撮影したら、スポットライトを浴びて、ステージに立っているような気分になるでしょうね。ただ、当日は平日の午前中。来館者は高齢の夫婦が中心なので、記念撮影に興じている人は居ませんでした。

◆2階の展示

本展の入口は2階です。踊り場と2階ロビーには本展チラシの表と)同じデザインのパネルが掲げられています。踊り場のパネルの絵は岡鹿之助《窓》(1949)、2階ロビーのパネルの絵は中川一政《向日葵》(1982)でした。

〇第Ⅰ章 始動:第3の洋画団体誕生(展示室1)

第Ⅰ章の解説には、春陽会は帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として1922年(大正11)に誕生。会員は小杉放菴、森田恒友、梅原龍三郎始め7名、客員は岸田劉生、木村荘八、中川一政始め8名で、1923年4月に第1回展が開催された、と書かれていました。

展示室に入ると、春陽会設立趣意書と春陽会発足の記念写真、絵葉書が展示され、最初の作品は小杉放菴《双馬図》(1925)。淡い色彩の作品で、日本画のような趣があります。その反対側の壁に展示されているのは萬鐵五郎《高麗山の見える砂丘》(1923頃)、カラフルな作品です。萬鐵五郎の作品は第Ⅱ章にも5点展示しています。このほか、面白いと感じたのは、竹ざるに入った鰯3匹を描いた、小林徳三郎《鰯》(1925頃)。竹ざるが光を放っているのです。岸田劉生の作品は《童女図(麗子立像)》始め8点。豊田市美術館所蔵の《鯰坊主》(1922)や椿を描いた作品などの油彩だけでなく、絹本着色の《白狗図》(1923)も見ることができました。梅原龍三郎はヌード2点の外に風景画もありました(前期《榛名湖》(1924)、後期《カンヌ》(1921))。

第Ⅰ章の最後に、一宮市三岸節子記念美術館所蔵の三岸節子《自画像》(1925)に出会いました。隣は三岸好太郎《少女》(1924)という組み合わせです。

〇第Ⅱ章 展開:それぞれの日本、それぞれの道(展示室1~2)

第Ⅱ章の解説には、岸田劉生が春陽会を去ったこと、三岸好太郎らの若手が研鑽を積んだこと、萬鉄五郎が亡くなったことなどが書かれていました。

第Ⅱ章も、最初の展示は小杉放菴の作品2点。うち、《羅摩物語》(1928)の服装はインド風。調べると「ラーマーヤナ」の一場面のようです。萬鉄五郎の作品は、墨絵の《わかれ道》(1922頃)の外、《荒れ模様》(1923)とヌード3点。うち、《羅布かづく人》(1925)の顔は、どういう訳か「のっぺらぼう」でした。萬鉄五郎のヌードは、いずれも「美しく描こう」とは思っていないところが注目すべき点です。第Ⅱ章前半では外に、ピエロを描いた三岸好太郎《少年道化》(1929)に目が留まりました。

第Ⅱ章後半の作品は、展示室2に展示されています。ロビーの記念撮影コーナーで見た《私のラバさん》は展示室2に展示。同じ作者の《パンの会》(1924)にはレストランでの宴会風景を描いたと思われ、芸者2人の前で三味線を弾く男の姿が目を引きます。中日新聞が紹介した《少女海水浴》は1m×1.5m程の大画面でした。3点とも面白い作品です。

〇第Ⅲ章 独創:不穏のなかで(展示室2)

第Ⅲ章の解説には、石井鶴三、木村荘八、中川一政が挿絵で活躍した、と書かれています。

展示は、倉田三郎《春陽会構図》(1937)から始まります。描かれた人物の名前を記した図も付いているので、しばらくの間、描かれた人物と名前との照合作業に追われました。第Ⅰ章、第Ⅱ章でも登場した小杉放菴は日本画の《松下人》(1935)を展示。「挿絵」では資料として書籍(「人生劇場」、「宮本武蔵挿絵集」、木村荘八が口絵を描いた「明治一代女」「墨東奇譚」)と「墨東奇譚」の予告記事を展示しています。中川一政による尾崎士郎著「人生劇場」の挿絵は4点。小説「人生劇場」については、三州吉良(現:西尾市吉良町)出身で早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いたという以上は知らない、ということを再認識しました。石井鶴三による吉川英治著「宮本武蔵」の挿絵も4点。ここでは、佐々木小次郎、沢庵和尚、お通といった登場人物が分かるだけで、どの場面を描いたのかは不明のままでした。木村荘八による永井荷風著「墨東綺譚」の挿絵は9点。前期・後期で総入れ替えです。うち、前期の《挿絵9》(1937)だけは、玉の井の部屋にいる主人公とお雪を描いたと分かりましたが、残念ながら、他の挿絵が描いた場面については見当がつきませんでした。

長谷川潔の版画と藤田藤四郎の版画にも目を引かれました。

〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その1:中川一政と岡鹿之助=多目的室)

第Ⅳ章の展示は主に戦後の作品です。多目的室では、中川一政と岡鹿之助の作品を展示。本展チラシの表(おもて)に使われた作品は、いずれも多目的室に展示されています。二人の作家の作品だけで一室を占領していますが、作風が対照的なので楽しく鑑賞できました。

◆1階の展示

〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その2:建築家アントニン・レーモンドと若手の作家=展示室3)

 1階・展示室3の入口には、春陽会展示会場で展示設営するアントニン・レーモンドの写真と彼の作品《題不詳[コンポジション]》(1959)が展示されていました。その内訳は、具象的な作品と抽象的な作品が半々。具象的な作品では、北岡文雄《雪の犀川》(1977:後期展示)の白と青の対比が美しく、水谷清《絵を描く女》(1953)に描かれた女性画家のインパクトが強烈でした。関頼武《失楽園》(制昨年不詳)はピカソの絵のように見えました。また、藤井令太郎《アッカドの椅子(Ⅱ)》(1957)は、首なしの彫刻と椅子が向かい合った構図で、デ・キリコの「形而上絵画」の影響を受けているように感じました。

◆補足:アントニン・レーモンドについて

・フランク・ロイド・ライトとの関係

アントニン・レーモンドは、植松三千里の小説「帝国ホテル建築物語」(PHP文庫)にも登場しています。彼は1919年末に、フランス人のデザイナー・ノエミ夫人とともに来日し、帝国ホテルの建設に携わっているフランク・ロイド・ライトの助手になります。レーモンドの仕事は、ライトが描く無数のスケッチをもとに図面を引くことでした。レーモンドが引いた図面の中から、ロイドが気に入ったものを選ぶのですが、1922年にレーモンドは独立します(Wikipediaでも1922年独立ですが、本展の解説は「来日の翌年(=1920年)独立」と書いています)。小説の中でレーモンドは「今のままでは、僕はクリエイティブなことが何もできないし、やり直しが果てしなく続いて、もう疲れました」と言い、作者は「レーモンドは命じられたことに自分の独自性を加えなければ、気が済まない。そこがライトの気に障るのだ」と付け加えています。

一方、フランク・ロイド・ライトは帝国ホテルの完成を見ることなく、1922年に帰国。再び日本の地を踏むことはありませんでした。

・南山大学との関係

アントニン・レーモンドは第二次世界大戦後に再度来日し、南山大学の総合計画(1964)と同大学の神言神学院(1966)も手がけています。(出典は、下記のとおり)

 アントニン・レーモンド – Wikipedia

 建築家 アントニン・レーモンド|南山大学 (nanzan-u.ac.jp)

 【南山大学】アントニン・レーモンド特設サイト (nanzan-u.ac.jp)

◆追加情報

碧南市藤井達吉現代美術館HP(本展チラシ、作品リスト、主な作品の図版を掲載)のURLは次のとおり。

春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ/碧南市 (hekinan.lg.jp)

Ron.

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