2023.09.08 投稿
瀬戸市美術館(以下「瀬戸市美」)で開催中の「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」(以下「本展」)と瀬戸蔵ミュージアムで開催中の「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」を見てきましたので、展覧会の概要や感想などを投稿します。
◆瀬戸市美術館「瀬戸染付開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に-」
本展のチラシに「磁祖加藤民吉没後200年プレ事業」と書いてあるので、来年度に大規模な展覧会が開催されると思われます(加藤民吉没後200年に当たるのは2024年)。
瀬戸市美の1階ホールのTVモニターでは、加藤民吉の修業を紹介する動画を上映。画面には民吉が修業した肥前の国佐々皿山(さざさらやま、現在の長崎県佐々町)の風景や窯場跡などが映っていました。
・展示室1
本展の題名「瀬戸染付開発の嫡流」の「染付」とは白地に青一色で絵を描いた磁器のことです。1階の展示室1・展示室2で展示していました。展示室1では、主に江戸時代の作品(ただし、2点は明治時代)を展示。入口近くの加藤民吉《染付祥瑞捻文向付》(江戸時代後期)は、青色が鮮やかな作品でした。加藤民吉(二代)《染付桐鳳凰唐草文香炉》〈岡崎市指定文化財)天保6年(1835)は素地が白く、青が引き立つ作品です。製造技術が向上したということでしょうね。加藤忠治《染付山水図植木鉢》〈重要有形民俗文化財〉(江戸時代後期)も素地が白くて、青色が冴える作品でした。加藤源吉《染付松竹梅図神酒徳利》〈重要有形民俗文化財〉万延元年(1860)は、松竹梅の図柄がきれいです。(展示室1は、撮影禁止です)
・展示室2
明治時代の作品が並んでいます。川本桝吉(初代)《染付草花図花瓶(一対)》(明治時代前期)は、草花の図柄が細部まで描かれ、とてもきれいでした。明治時代の作品には伊万里焼のような金彩を施した、川本桝吉(初代)《上絵金彩上野図花瓶》(明治時代前期)もありました。
(参考)愛知の地場産業 瀬戸染付焼について
瀬戸染付焼については、うまく説明できませんので、下記のURLをご覧ください。動画もあります。
◆瀬戸蔵ミュージアムの展示
・磁祖「民吉物語」(2階)
2階で「民吉物語」というマンガを展示していました。諸説ある資料を基にして、わかりやすく民吉の一生をまとめていたので、そのあらすじをご紹介します。
なお、要約により、以下の章立ては「民吉物語」とは違っていますので、ご注意ください。
① 江戸時代後期の瀬戸
昔から陶器のまちとして栄えてきた瀬戸だったが、九州の有田で磁器の生産がはじまると、愛媛県(砥部焼)、京都(清水焼)、石川県(九谷焼)にも磁器が広がり、瀬戸焼の需要は以前ほどではなくなっていた。
② 民吉生誕、生まれる
そんな中、瀬戸の窯元・大松窯の吉左衛門の家に、安永元年(1772)、民吉が次男として誕生。
③ 吉左衛門・民吉の父子は、熱田へ
瀬戸では長男だけが窯を継ぐ決まりだったため長男が窯を継ぐと、享和元年(1801)、吉左衛門は民吉の家族とともに、瀬戸を出て名古屋の熱田に行き、新田開発に取り組んだ。
④ 南京焼(磁器)との出会い
新田開発の様子を見回っていた尾張藩熱田奉行の津金文左衛門は、なれない手つきで農作業をする民吉家族に気づいた。民吉一家が瀬戸出身で陶器づくりをしていたと知った文左衛門は、南京焼(磁器のこと)について書かれた中国の本を持っていたことから、民吉たちにつくり方を研究させることにした。
⑤ 南京焼は完成したが
民吉は、南京焼を研究していた文左衛門のもとで、父の吉左衛門と試作を重ね、ついに南京焼が完成。しかし、民吉たちの南京焼は有田焼に及ぶ品質ではなかった。
⑥ 瀬戸の未来を託されて
磁器の技法を学ぶため民吉は、瀬戸村の庄屋・加藤唐左衛門や文左衛門の息子・庄七らの支援を受けて、本場・九州へ行くことになった。菱野村(今の瀬戸市新田町)出身で、子どものころ瀬戸の窯元で働いていたこともある天中和尚が、肥後の国・天草(今の熊本県天草市)の東向寺にいることがわかり、民吉は文化元年(1804)2月22日、九州へ出発した。
⑦ 九州に到着した民吉は、天草で修業
天草の天中和尚を訪ねた民吉は、3月27日、和尚の紹介により、天草の磁器・高浜焼の窯元上田源作のもとで働くことになった。民吉は、瀬戸村の出身だと正直に身分を明かし、修業させてもらった。
⑧ 民吉は、肥前・佐々皿山の福本仁左衛門の窯で修業
働くうち、「肥前の有田焼を学びたい」と強く思うようになった民吉は、修業先をあちこち探し、有田焼の地に近い、肥前の国・佐々皿山(今の長崎県佐々町)の福本仁左衛門の窯に行き着き、文化元年(1804)12月28日から修業が始まった。
⑨ 民吉は福本仁左衛門の信頼を得て、磁器製法をマスター
民吉の情熱やまじめな人柄と働きぶり、その腕前に、当主の仁左衛門は大いに感心し、佐々皿山の窯を継がせたいと考えた。ある日、仁左衛門は民吉に窯を任せて、2カ月間伊勢参りの旅に出かけた。留守を任された民吉は、磁器製法を職人たちからより詳しく教わり、2カ月ですべての技術をマスターした。
民吉はそれから約1年間懸命に働き、文化4年(1807)1月7日、仁左衛門の娘婿になることもなく、惜しまれながら福本家を去った。
⑩ 有田で上絵付を学ぼうとしたが、失敗
民吉の心残りは錦手(上絵付のこと。磁器に模様を描いてもう一度800度位で焼き付ける方法)の技法を学んでいないことだった。民吉は「天草出身」と身分を偽り、有田で上絵付の技法を教えてもらおうとしたが、失敗。上絵付は学べなかったが、代わりに透かし彫りと丸窯のつくり方を身につけた。
⑪ 民吉は、天草で上絵付を身につける
瀬戸へ帰る決心をした民吉は、最初に世話になった天草の上田源作のもとへあいさつに行った。上絵付の技法を知りたくて、天草の名を利用したことを正直に話し、謝る民吉。その姿に心打たれた源作は、上絵付の技法を教えてくれた。民吉はついに目的をとげ、文化4年(1807)5月13日、瀬戸へ行きたいという天草のやきもの職人一人を連れて天草を出発した。
⑫ 瀬戸に帰還し、磁器製法を広める
文化4年(1807)6月18日、民吉は3年4カ月の修行の旅を終えて瀬戸に戻った。
その後、民吉は猿投山から長石を掘り出し、瀬戸で豊富にとれる蛙目粘土(がいろめねんど)と調合することで、磁器にふさわしい土をつくりだすことに成功。磁器を焼くのに必要な丸窯を、瀬戸の各所につくり、仲間たちを指導して磁器製法を広めた。
⑬ よみがえる「陶磁器のまち」瀬戸
民吉を始め、たくさんの人びとの努力が実り、瀬戸はかつての栄光を取り戻した。尾張藩は、この瀬戸焼を藩の統制品とするために「御蔵会所(おくらかいしょ、今の瀬戸蔵がある場所にあった)」をつくり、御用焼物として専売にした。藩が流通させたことで、江戸・大坂・京都を中心に各地で売れた陶磁器は、九州の有田焼をこえて「三国一」とたたえられた。
九州からもどって17年、民吉は文政7年(1824)に逝去した。享年53歳であった。 (完)
・有田の名工・副島勇七の悲劇
「民吉物語」の【技術スパイは重罪だった!?】には〈民吉が九州に行く少し前、副島勇七という磁器職人が有田を脱出して瀬戸へ逃げてきた。しかし、藩から派遣された役人に捕まって連れ戻され、殺されて首をさらされるという悲惨な死に方をした。〉という記述があります。これは有田焼の技法流出防止のために起きた悲劇ですが、副島勇七が捕まった場所については、次のとおり、説が分かれています。
①「尾張(愛知県)の瀬戸で捕まった」という説は、次の資料に書かれており、
・有田町歴史民俗資料館報 No.22 (2014年)
②「伊予(愛媛県)の砥部で捕まった」という説は、次の資料に書かれています。
・広報いまり No.425 1989年7月 https://www.city.imari.saga.jp/secure/9269/No.425(H1-7).pdf
・砥部焼の発展 https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/45/view/5775
いずれが正しいのか、それとも上記以外の場所で捕まったのか、私には分かりませんでした。
・「白雲陶器② 瀬戸ノベルティへの展開」(2階)
解説によれば、「白雲陶器は戦前、瀬戸にあった商工省陶磁器試験所が開発。低い温度で焼成できて、軽く白い素材。戦後、ノベルティに広く使われた」とのことでした。
戦前に製作の人形の形をした容器を始め、2020年に岡崎市美術博物館で開催された「マイセン動物園展」で見たような、《果物かごを持つ婦人》(1965年頃)や《シャムネコ》(1970年代)、人形の顔のような花瓶《ヘッドヴェイス》(1963年)など、様々なノベルティが展示されており、楽しく鑑賞できました。
3階の「瀬戸焼の歩み」でも、瀬戸ノベルティを見ることができます。
なお、「白雲陶器」につきましては、下記のURLをご覧ください。
・中部センター バーチャルミュージアム https://unit.aist.go.jp/chubu/vm/sub2/sub2_02.html
◆最後に
家に帰って使っている食器を見たら、飯茶碗、小皿、小鉢、そば猪口など、その多くが「染付」でした。
また、瀬戸市美では、10/7~11/26の会期で「瀬戸ノベルティの至高 -Made in MARUYAMA-」という展覧会を開催するようですね。
Ron.
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