2024.11.17 開催
2月17日(土)に名古屋市美術館協力会主催のミニツアーが開催され、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。美術館で開催中の展覧会は「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」(以下、「本展」)で、ミニツアーの参加者は7名。前半は美術館の豆田誠路学芸員(以下「豆田さん」)のギャラリートークで、後半は自由観覧となりました。以下は、そのレポート、(注)は私の補足です。
◆「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」のギャラリートーク(午後1時~1時40分)
集合場所は美術館1階ロビー。定刻の午後1時、参加者は豆田さんの案内で2階ロビーに移動し、豆田さんのギャラリートークが始まりました。
〇2階ロビーでの解説
豆田さんによれば、富岡鉄斎(以下「鉄斎」)は1924年(大正13)12月31日、数え89歳で逝去。2024年12月31日で没後100年になる、とのことでした。生家は京都の洛中の商家で、石門心学(注:江戸時代の思想家・石田梅岩が町人に説いた倫理・道徳)を重んじていた。鉄斎は石田心学を基本に、儒学、漢詩文、国学などを学び、特定の師はいないが文人(注:教養ある知識人)のたしなみとして絵を描いた。儒者であって専門の画家ではないが、文人画家として認められていた、と解説されました。
〇2階展示室1
・序章 鉄斎の芸術 画と書
豆田さんによれば、本展の「序章」は入場者に鉄斎の芸術の全貌をつかんでもらう章。最初の展示は、正宗得三郎の油彩画《富岡鉄斎像》(1925)でした。鉄斎逝去の翌日に鉄斎邸に駆け付け、約一か月後の2月3日、この肖像画を家族に贈った、との解説でした。次の《扶桑神境図》(1924)は89歳の時の作品。豆田さんは「90歳の落款があるので、数え90歳を目前にした時期に制作した作品。日本の理想郷を描いている。画面下部の岩で出来た門のような所が理想郷の入口」との解説がありました。
(注)《扶桑神境図》の画賛前半「九十行栄啓期 太平多樂幸男児」という文は、鉄斎の絶筆とされる作品でも書かれ、「私は栄啓期と同じ90歳まで長生きし、太平の世に楽しみの多い幸福な男子」という意味で、栄啓期は中国・周代の隠者。孔子と出会い長寿の喜びなどを説いた伝説上の人物です。鉄斎は年末までいくつかの作品の制作に取り組み、大みそかに医者と談笑し、うどんを医者にすすめ、自らも食して眠り、そのまま帰らぬ人になったとのことです。(出典:2024年3月3日付の日本経済新聞)
《大田垣蓮月肖像》(1877)は、鉄斎42歳の作品です。豆田さんによれば、大田垣蓮月は夫と子どもに先立たれ、二人目の夫と死別後33歳で剃髪して蓮月と号した。和歌と書に優れ、自作の和歌を彫った茶碗を売って生計を立てていた。鉄斎の父・維叙は蓮月の知り合いで、蓮月から相談を受け、鉄斎20歳、蓮月65歳の頃、鉄斎が蓮身の回りの世話をすることになった、とのことです。序章には、この作品の外、蓮月が茶碗を作り、鉄斎が茶碗筒を作った《秋草図選煎茶碗/茶碗筒》も展示されています。ツアー参加者から「小振りの茶碗ですね」という声が上がると、豆田さんは「煎茶碗は小振りなんですよ」と答えていました。(注)大田垣蓮月については、蓮月と鉄斎 というURLが参考になります。なお、煎茶道は、中国の文人茶の影響を受けており、知識人や芸術家が自然の中でお茶を楽しみ、書画をたしなみながら談笑する場として発展。その発展には、隠元禅師、売茶翁(ばいさおう)や石川丈山などが重要な役割を果たしたそうです。(出典:URL:煎茶道とは?茶道の違いや歴史について解説 | みんなの日本茶サロン)
序章の見どころは6曲1双の屏風《高士隠栖図・松雪僊境図》(1870)、鉄斎35歳の作品です。豆田さんによれば、この作品も理想郷を描いたもの。序章に展示の《携琴訪友図》(鉄斎30歳代の作品)と同様、若い頃の鉄斎は蓮月の影響を受けており、賛文は細い文字で書かれているとのことです。屏風左隻の《松雪僊境図》には「大酔してこの絵を描いた」という内容の賛が書かれており、文字が途中から大きくなっている、とのことでした。
・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究
《鯉魚図》(1914)について豆田さんが「急流を登った鯉は龍になるという伝説がある」と解説したところ、ツアー参加者から「この鯉には龍になる雰囲気が見られない」という声が上がり、豆田さんは「急流を登る前の鯉を描いているのです」と返していました。確かに、のんびりとした表情の鯉です。
《通天紅葉図》(1882)について、豆田さんは東福寺・通天橋の紅葉を描いたもので、禅僧の売茶翁(ばいさおう)が河原で煎茶を振る舞っている様子も描いています、と解説がありました。
(注)第一章にも同じ内容の《高遊外売茶図》(70歳代)を展示。売茶翁は煎茶道具を担って歩き、人々に煎茶を供した禅僧で、伊藤若冲・池大雅とも交友があり、2021年1月2日にNHK総合で放送されたドラマ(2024.11.02再放送)『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』にも登場していました。
〇2階展示室2
・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究(つづき)
《蝦夷人熊祭図》(70歳代)について、豆田さんは「鉄斎は北海道に渡っているが、海岸線に沿って移動しているので、熊祭は見ていないと思われる。多くの文献を読み、人からの話も合わせて、この作品を描いた、と解説。《嫦娥奔月図》(1923)については、夫が得た不老不死の薬を妻が盗み飲んで、月に逃げて仙女の嫦娥になったという話を描いた作品、と解説。《不尽山頂上図》(1920)について豆田さんは、画面左の「表口頂上之印」は鉄斎が登頂して受けた朱印ではなく、京都虎屋が登頂した時の記念。鉄斎自身は1875年、40歳の時に登頂しており、その時の記憶を元に富士山頂の様子を書いた、と解説されました。
〇2階多目的室
・終章 鉄斎の到達点 老熟と清新
2階での解説の最後は、三幅対の《西王母図》《瀛州仙境図》《福禄寿図》(いずれも1923)。豆田さんは、この三幅対は碧南市の大浜地区で味醂製造業を営む石川八郎右衛門家の25代・石川三碧の80歳、夫人70歳に達したことを祝って描かれたもの。右の仙女・西王母は三千年に一度実をつけるという桃を持ち、印章の文字は「子孫千万」、中央は神山、左の老人は寿老人で、右手に長寿のシンボル桃を持ち、左には寿命を記した巻物付けた杖。画面右の蝙蝠は「福」と、画面左の鹿は「禄」と同音。寿老人の「寿」とあわせて「福禄寿」。三幅対いずれも、縁起の良いものを描いている、と解説されました。
〇1階 展示室3
・第一章 鉄斎の日常 多癖と交友(つづき)
1階・展示室3は、第一章のつづきの展示。《西王母図》に押印された「子孫千万」の印章も展示されていました。「桑名鉄城刻/富岡鉄斎造/四代清水六兵衛焼」と書いてあります。陶磁器の印でした。
〇1階 ロビー 「富岡鉄斎と碧南」パネル
ギャラリートークの最後は1階ギャラリーのパネル「富岡鉄斎と碧南」です。富岡鉄斎は1889年8月に石川三碧邸に逗留し、1895年にも滞在している、との解説がありました。パネルには、富岡鉄斎が逗留した石川三碧邸(九重味醂)の写真なども掲載されていました。
◆自由観覧とその後
ギャラリートークを聴いた後は、自由観覧。四代清水六兵衛と関係する展示は印以外にも3点ありました。清水六兵衛窯HPの「歴代 清水六兵衛(URL: 歴代 清水六兵衛 | 六兵衛窯 (rokubeygama.com))を見ると、「とくに富岡鉄斎とは深い交遊があり、そこから多くの共作も生まれた」と書かれていました。
自由観覧後は、九重味淋直営レストラン and カフェ K庵で、期間限定・本展とのコラボスイーツ「みりん黒ごまぷりん」を注文。本展観覧券を提示して、50円割引の600円で味醂の甘さを味わいました。おいしかったですよ。
Ron.
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