「没後100年 富岡鉄斎」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2024.11.17 開催 

2月17日(土)に名古屋市美術館協力会主催のミニツアーが開催され、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。美術館で開催中の展覧会は「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」(以下、「本展」)で、ミニツアーの参加者は7名。前半は美術館の豆田誠路学芸員(以下「豆田さん」)のギャラリートークで、後半は自由観覧となりました。以下は、そのレポート、(注)は私の補足です。

◆「没後100年 富岡鉄斎 最後の文人画家」のギャラリートーク(午後1時~1時40分)

集合場所は美術館1階ロビー。定刻の午後1時、参加者は豆田さんの案内で2階ロビーに移動し、豆田さんのギャラリートークが始まりました。

〇2階ロビーでの解説

豆田さんによれば、富岡鉄斎(以下「鉄斎」)は1924年(大正13)12月31日、数え89歳で逝去。2024年12月31日で没後100年になる、とのことでした。生家は京都の洛中の商家で、石門心学(注:江戸時代の思想家・石田梅岩が町人に説いた倫理・道徳)を重んじていた。鉄斎は石田心学を基本に、儒学、漢詩文、国学などを学び、特定の師はいないが文人(注:教養ある知識人)のたしなみとして絵を描いた。儒者であって専門の画家ではないが、文人画家として認められていた、と解説されました。

〇2階展示室1

・序章 鉄斎の芸術 画と書

 豆田さんによれば、本展の「序章」は入場者に鉄斎の芸術の全貌をつかんでもらう章。最初の展示は、正宗得三郎の油彩画《富岡鉄斎像》(1925)でした。鉄斎逝去の翌日に鉄斎邸に駆け付け、約一か月後の2月3日、この肖像画を家族に贈った、との解説でした。次の《扶桑神境図》(1924)は89歳の時の作品。豆田さんは「90歳の落款があるので、数え90歳を目前にした時期に制作した作品。日本の理想郷を描いている。画面下部の岩で出来た門のような所が理想郷の入口」との解説がありました。

(注)《扶桑神境図》の画賛前半「九十行栄啓期 太平多樂幸男児」という文は、鉄斎の絶筆とされる作品でも書かれ、「私は栄啓期と同じ90歳まで長生きし、太平の世に楽しみの多い幸福な男子」という意味で、栄啓期は中国・周代の隠者。孔子と出会い長寿の喜びなどを説いた伝説上の人物です。鉄斎は年末までいくつかの作品の制作に取り組み、大みそかに医者と談笑し、うどんを医者にすすめ、自らも食して眠り、そのまま帰らぬ人になったとのことです。(出典:2024年3月3日付の日本経済新聞)

《大田垣蓮月肖像》(1877)は、鉄斎42歳の作品です。豆田さんによれば、大田垣蓮月は夫と子どもに先立たれ、二人目の夫と死別後33歳で剃髪して蓮月と号した。和歌と書に優れ、自作の和歌を彫った茶碗を売って生計を立てていた。鉄斎の父・維叙は蓮月の知り合いで、蓮月から相談を受け、鉄斎20歳、蓮月65歳の頃、鉄斎が蓮身の回りの世話をすることになった、とのことです。序章には、この作品の外、蓮月が茶碗を作り、鉄斎が茶碗筒を作った《秋草図選煎茶碗/茶碗筒》も展示されています。ツアー参加者から「小振りの茶碗ですね」という声が上がると、豆田さんは「煎茶碗は小振りなんですよ」と答えていました。(注)大田垣蓮月については、蓮月と鉄斎 というURLが参考になります。なお、煎茶道は、中国の文人茶の影響を受けており、知識人や芸術家が自然の中でお茶を楽しみ、書画をたしなみながら談笑する場として発展。その発展には、隠元禅師、売茶翁(ばいさおう)や石川丈山などが重要な役割を果たしたそうです。(出典:URL:煎茶道とは?茶道の違いや歴史について解説 | みんなの日本茶サロン

 序章の見どころは6曲1双の屏風《高士隠栖図・松雪僊境図》(1870)、鉄斎35歳の作品です。豆田さんによれば、この作品も理想郷を描いたもの。序章に展示の《携琴訪友図》(鉄斎30歳代の作品)と同様、若い頃の鉄斎は蓮月の影響を受けており、賛文は細い文字で書かれているとのことです。屏風左隻の《松雪僊境図》には「大酔してこの絵を描いた」という内容の賛が書かれており、文字が途中から大きくなっている、とのことでした。

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究

 《鯉魚図》(1914)について豆田さんが「急流を登った鯉は龍になるという伝説がある」と解説したところ、ツアー参加者から「この鯉には龍になる雰囲気が見られない」という声が上がり、豆田さんは「急流を登る前の鯉を描いているのです」と返していました。確かに、のんびりとした表情の鯉です。

 《通天紅葉図》(1882)について、豆田さんは東福寺・通天橋の紅葉を描いたもので、禅僧の売茶翁(ばいさおう)が河原で煎茶を振る舞っている様子も描いています、と解説がありました。

(注)第一章にも同じ内容の《高遊外売茶図》(70歳代)を展示。売茶翁は煎茶道具を担って歩き、人々に煎茶を供した禅僧で、伊藤若冲・池大雅とも交友があり、2021年1月2日にNHK総合で放送されたドラマ(2024.11.02再放送)『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』にも登場していました。

〇2階展示室2

・第二章 鉄斎の旅 探勝と研究(つづき)

 《蝦夷人熊祭図》(70歳代)について、豆田さんは「鉄斎は北海道に渡っているが、海岸線に沿って移動しているので、熊祭は見ていないと思われる。多くの文献を読み、人からの話も合わせて、この作品を描いた、と解説。《嫦娥奔月図》(1923)については、夫が得た不老不死の薬を妻が盗み飲んで、月に逃げて仙女の嫦娥になったという話を描いた作品、と解説。《不尽山頂上図》(1920)について豆田さんは、画面左の「表口頂上之印」は鉄斎が登頂して受けた朱印ではなく、京都虎屋が登頂した時の記念。鉄斎自身は1875年、40歳の時に登頂しており、その時の記憶を元に富士山頂の様子を書いた、と解説されました。

〇2階多目的室

・終章 鉄斎の到達点 老熟と清新

 2階での解説の最後は、三幅対の《西王母図》《瀛州仙境図》《福禄寿図》(いずれも1923)。豆田さんは、この三幅対は碧南市の大浜地区で味醂製造業を営む石川八郎右衛門家の25代・石川三碧の80歳、夫人70歳に達したことを祝って描かれたもの。右の仙女・西王母は三千年に一度実をつけるという桃を持ち、印章の文字は「子孫千万」、中央は神山、左の老人は寿老人で、右手に長寿のシンボル桃を持ち、左には寿命を記した巻物付けた杖。画面右の蝙蝠は「福」と、画面左の鹿は「禄」と同音。寿老人の「寿」とあわせて「福禄寿」。三幅対いずれも、縁起の良いものを描いている、と解説されました。

〇1階 展示室3

・第一章 鉄斎の日常 多癖と交友(つづき)

 1階・展示室3は、第一章のつづきの展示。《西王母図》に押印された「子孫千万」の印章も展示されていました。「桑名鉄城刻/富岡鉄斎造/四代清水六兵衛焼」と書いてあります。陶磁器の印でした。

〇1階 ロビー 「富岡鉄斎と碧南」パネル

 ギャラリートークの最後は1階ギャラリーのパネル「富岡鉄斎と碧南」です。富岡鉄斎は1889年8月に石川三碧邸に逗留し、1895年にも滞在している、との解説がありました。パネルには、富岡鉄斎が逗留した石川三碧邸(九重味醂)の写真なども掲載されていました。

◆自由観覧とその後

ギャラリートークを聴いた後は、自由観覧。四代清水六兵衛と関係する展示は印以外にも3点ありました。清水六兵衛窯HPの「歴代 清水六兵衛(URL: 歴代 清水六兵衛 | 六兵衛窯 (rokubeygama.com))を見ると、「とくに富岡鉄斎とは深い交遊があり、そこから多くの共作も生まれた」と書かれていました。

 自由観覧後は、九重味淋直営レストラン and カフェ K庵で、期間限定・本展とのコラボスイーツ「みりん黒ごまぷりん」を注文。本展観覧券を提示して、50円割引の600円で味醂の甘さを味わいました。おいしかったですよ。

Ron.

名古屋市美術館協力会  秋のツアー2024(岐阜) 

カテゴリ:アートツアー 投稿者:editor

 2024.11.09開催 



119日に名古屋市美術館協力会秋のツアー(以下「ツアー」)が開催されました。目的地は岐阜県現代陶磁美術館(岐阜県多治見市:以下「陶磁美術館」)とせきがはら人間村生活美術館(岐阜県関ケ原町:以下「生活美術館」)です。目的地はいずれも岐阜県で近いため、集合時刻は午前815分でした。予定時刻に同行も含めた参加者23名が名古屋駅太閤口広場に集合したので、予定時刻2分前の828分にバスは発車しました。



ツアーの添乗員はJR東海ツアーズの服部さん、ツアー同行は山田諭さん(以下「山田さん」)です。山田さんの同行は2016年「秋のツアー箱根」以来。8年ぶりです。当時は名古屋市美術館学芸課長。翌年、京都市美術館に異動。京都市美術館を退職後、現在は県内にお住まいなので同行を引き受けて下さいました。



往路:渋滞したものの、到着時刻はほぼ予定通り



 往路は名古屋都市高速道路、東名高速道路、中央自動車道を通過し、多治見ICから陶磁美術館に向かうという経路。早く着きすぎるため内津峠PA20分休憩したのですが、何と多治見IC2km前から渋滞。「陶磁美術館の開館時刻(午前10時)に間に合わないのでは」と、大いに焦りましたが、なんとか10時ギリギリに入館できました。運転手さんの話では「イオンモール土岐に向かう車が多いのが渋滞の主因」とのことです。



岐阜県現代陶芸美術館「生誕130年 荒川豊蔵展」10001100



陶芸美術館のバス停から陶芸美術館までは、シデコブシの群生地を跨ぐ橋とトンネルを歩きました。山田さんは「陶芸美術館は、アプローチが素晴らしい」と話していましたが、山田さんが言われたとおり、異郷に向かっている感じのアプローチです。トンネルを抜けると、眼前には美濃の山並みが広がっていました。



陶磁美術館は、地上3階・地下1階の複合施設セラミックパークMINO(以下「セラミックパーク」)の2階。セラミックパーク3階のエントランスホールからエスカレーターで降りると、陶磁美術館の岡田学芸員(以下「岡田さん」がお出迎え。「生誕130年 荒川豊蔵展」(以下「本展」)のギャラリートークが始まりました。岡田さんによれば、荒川豊蔵は抹茶茶碗のスーパースター、安土桃山期が黄金時代で、明治以降には廃れてしまった志野・瀬戸黒を復興した作陶家とのこと。本展では美濃焼の展示に加え、荒川豊蔵の絵(絵描きを目指しており、絵が上手だった)と人間的な全体像を紹介、との解説でした。



〇Ⅰ.プロローグ 人間国宝 荒川豊蔵



最初の部屋は、荒川豊蔵の代表作を展示しています。岡田さんは、白い円筒状の《志野山の絵水指》や真っ黒で指跡の付いた《瀬戸黒茶垸(ちゃわん)》などの代表作を紹介し、荒川豊蔵は志野と瀬戸黒で人間国宝(注:正式には「重要無形文化財技術保持者」)に指定された、と解説。また、灰色の地に白い鶴が描かれた《志野鶴絵茶垸》については「鉄釉を掛けてから、鶴の絵を掻き落とした鼠志野」と話されました。



なお、解説はありませんでしたが、茶釜型でピンク色の《志野山の絵水指》は可愛いやきものでした。



〇Ⅱ.東山窯と星岡窯 やきものに優美なのがあるのを知る



通路には、初期作品の展示がありました。岡田さんは「荒川豊蔵は絵が得意だったので、宮永東山窯(みやながとうざん)と北大路魯山人の下で磁器の絵付けもした」と解説。京都・深草の宮永東山窯や北大路魯山人が鎌倉に築いた星岡窯(ほしがおかがま)で焼成した磁器を見ることが出来ました。



〇Ⅲ.荒川豊蔵の陶芸



次の部屋には荒川豊蔵が描いた大画面の《古志野発見端緒の図》《古志野陶片発見の図・月照陶片歓触の図》が展示されています。岡田さんは、その絵の前で「志野・瀬戸黒は、桃山期の作品は残っているものの、明治には作られていない。尾張の港から積み出されたので「瀬戸で制作」と思われていたが、昭和9年(1934)に大事件が起きる。荒川豊蔵が美濃・大萱(おおがや:現在の可児市大萱)で志野の陶片を発見し、志野は美濃で焼かれていたことが判明した。荒川豊蔵は志野の復活に取り組むが、手がかりは陶片だけなので、志野が焼成できるようになるまで数年を要した。荒川豊蔵の作品は、伝統の復活に作家の個性、創意も加えた芸術的なスタイル持っている。また、地元からは荒川豊蔵の後を追って多くの陶芸家が育った(補足:陶芸美術館は「人間国宝 加藤孝造 追悼展」(11/302025/03/16)「卒寿記念 人間国宝 鈴木蔵の志野展」(2025/03/2906/10)を開催予定)」と解説。



岡田さんは荒川豊蔵の作品を「オリジナル+クリエイティブ」と評しましたが、焼成中に裂けた《黄瀬戸破竹花入》は、まさに意表を突く作品です。「裂けた花入れでは水が漏れるのに、どうやって花を生けたのでしょうか」と山田さんに尋ねたら「竹筒を使う」との答え。竹籠を使って花を生ける時と同じ方法でした。



岡田さんに「織部が見当たりませんね」と尋ねたら、「織部は簡単だからやらない」との答え。「志野は水が漏れやすい、瀬戸黒は焼成中に窯から取り出して水で急冷させて黒色にする。ゆっくり冷やすと黒くならず茶色になってしまう。急冷するので割れることが多い。釉薬に異変がなくても中にヒビが入っていて、使用中に割れることもある。萩焼も焼きがあまくて水漏れしやすいが、水が滲みて器の表情が変わるのを『かせ』と呼んで珍重する。志野は薪を使う窯でないと焼成できないが、薪を使う窯以外で志野を焼成したのが鈴木蔵(おさむ)。彼は天才だよ」と、話が続きました。



〇Ⅳ.暮らしとともに 水月窯と大萱窯



岡田さんによれば、荒川豊蔵は戦後、一般向けのやきものを焼成するため、多治見市虎渓山町に連房式の新たな窯・水月窯(すいげつがま)を築く。可児市の大萱窯は薪を使う大窯で量産はできない。水月窯は量産が可能で、一般向けの磁器も焼成できた。一時休止したが孫弟子の水野繁樹さんが継いでいる、とのことでした。



水月窯の製品では、《染付扇面詩文山水画向付》や《梅花文汲出》が目を引きました(補足:汲出(くみだし)は和菓子を食べるときや来客時に茶托とセットで使う半球形の煎茶用茶器。湯呑は円筒形のものを指します)。



水月窯については次のURLをご覧ください。URL Home |
suigetugama
URL
suigetutoyozopamp.pdf (tajimi.lg.jp)



〇Ⅵ.交友 芸術家との共作、五窯歴遊



萩焼、信楽焼、丹波焼、肩津焼、備前焼の窯元を訪ねて焼成した作品を展示しています。岡田さんは「Ⅲ章の展示ですが、荒川豊蔵は萩焼の第10代三輪休雪(隠居後は、休和)備前焼の金重陶陽、陶芸家・実業家の川喜多半泥子の4人で“乾比根(からひね)会”を結成して交友を深めた。萩焼・備前焼とは焼成方法や作風が違うものの、“古典の復興“という共通点があったため、交友を深めた」と、解説がありました。



〇自由鑑賞1035-1100



 ギャラリートークの時間が30分近くになったため、Ⅵ章で岡田さんの解説は終了。参加者各人の自由鑑賞となりました。岡田さんが「Ⅲ章の展示」と話していたのでⅢ章に戻ると、《半泥子宛書簡(千歳山訪問の礼状》《師匠友誼図》を展示。《師匠友誼図》の解説には「三重県津市千歳山の川喜多半泥子宅で作陶連盟乾比根会を結成」と書かれていました。その後、陶芸美術館のギャラリーⅡで開催中の「美濃のラーメンどんぶり展
The Art of RAMEN Bowl」(内容は、下記URLのとおり)を見ていたら、1050分を過ぎたので駐車場のバス停まで駆け足で戻り、何とかバス発車の11時に間に合いました。「美濃のラーメンどんぶり展」のURLは、以下の通り。



URL: 岐阜県現代陶芸美術館 | 美濃のラーメンどんぶり展 The Art of
RAMEN Bowl



食事会場までの車内では11001200



 出発後、国道19号に入ると、反対車線は依然として渋滞。イオンモール土岐の集客力には驚きました。



 多治見ICから中央自動車道に入ると、山田さんのトークが始まりました。山田さんは、今夏に陶芸美術館で開催された「リサ・ラーソン展」を見たとのこと。陶芸美術館の岡田さんについては同年齢で、岡田さんが岐阜県立美術館の学芸員だった時「荒川修作研究会」を立ち上げ、月1回ペースで意見を交わした仲だったとのことです。「展覧会の名前は違うけれど、同じ“荒川”つながりで、旧交を温めることが出来た」と喜んでいました。



 ツアー参加者から「陶磁美術館では、もう少し自由鑑賞の時間が欲しかった」との声もありましたが、食事会場の予約時刻や移動時間を考慮すると、陶磁美術館の滞在時間は10001100がギリギリだったようです。



昼食:関ケ原ウォーランド・Sekigahara 花伊吹12001320



 「昼食会場までの所要時間は80分ほど」の予定でしたが、バスの運行が極めて順調だったため、予定時刻より20分早い1200に到着。「近江牛・飛騨牛食べ比べ」のすき焼きを楽しみました。すき焼きを食べ始めた時は、協力会しか居ませんでしたが、食べ始めると次々に団体客が入り、たちまち満席になりました。ツアーを企画したMさんの話では「食事会場の選択肢が、他に無い」とのことでした。



 予定より20分も早く昼食が始まりましたが、次の見学先・生活美術館の受け入れ態勢が整うのが1330なので、ツアー参加者は1320までSekigahara 花伊吹の売店での買い物などを楽しんで過ごしました。



◆生活美術館13301600



昼食会場から向かったのは生活美術館ではなく「関ケ原製作所」の駐車場です。バスが停車すると、生活美術館のスタッフが出迎えて下さいました。「関ケ原製作所って、何の会社?」という疑問や「何故、関ケ原製作所の駐車場に生活美術館のスタッフが?」という疑問を抱えたまま、徒歩で生活美術館に向かいました。



〇せきがはら人間村財団理事長のレクチャーと紹介ビデオ13401410



関ケ原製作所を出て国道365号を北に向い、関ケ原製作所の敷地北東の生活道路を西に進み、向かって左(道路の南)にある民家の切れ目を左に曲がると人間塾の建物が見え、その周囲がニイヅマガーデンでした。



ツアー参加者が案内されたのは、人間塾の2階。講義室のような部屋です。生活美術館の側はせきがはら人間村財団(以下「財団」)の福本武彦理事長(以下「理事長」)と「せきがはらゼネラルサービス」の山口さん、松原さんの3名が出席されました。理事長のレクチャーと紹介ビデオの内容によれば、生活美術館の母体は関ケ原製作所。関ケ原製作所の創業者は「矢橋(やばし)大理石株式会社」の創業者一族である矢橋五郎(やばしごろう)で、1946年に「関ケ原産業株式会社」の名称で日本国有鉄道向けの軌道用機器生産を開始したのが始まりで、現在は、油圧機器、商船機器、鉄道機器など7つの事業部門があるとのことです。



財団設立のきっかけは、3度の危機。1978年の石油ショック、1988年の円高不況、1996年のバブル崩壊です。二代目の社長矢橋昭三郎は「不況は仕方ないが、せめて明るく愉しい生活を送ろう」と、1988年にフランスの彫刻家ピエール・セーカリーに彫刻の制作を依頼。以来、2000年に平和の杜、2005年に人間塾、2018年に未来食堂、2021年にCafé Mirai 等、施設を充実させてきた、とのことです。



〇せきがはら人間村の散策14151600



・蔵ミュージアム



山口さんの先導でニイズマガーデンを抜けて「蔵ミュージアム」に向かいました。「蔵ミュージアム」は中で左右に分かれており、入口を入ると渡り廊下に近持イオリの彫刻《水の家》、向かって右の部屋は全体が若林奮のインスタレーション《胡桃の葉Ⅱ》。渡り廊下に戻り、次の部屋に入ると、若林奮の彫刻に加えて、スペインの彫刻家エドゥアルド・チリーダの彫刻と李禹煥の絵画。奥の部屋の床には大理石を彫った古郡弘の《Banco 盤古》。壁に取り付けられた250kgの重さの古郡弘《Ermafroid 両性具有》は向かって左が女性、右が男性とのこと。庭に出ると新妻実の彫刻《地平線》。素材はインド産御影石で「触ってもよい」とのことでした。



・生活美術館本館エリア



次に向かったのは「生活美術館本館エリア」。最初に目に入ったのは、庭に置かれた若林奮のブロンズ作品《自分の方へ向かう犬I》でした。生活美術館本館では「Homage to MINORU NIIZUMA」を開催中で、新妻実の彫刻の外、高松次郎、関根伸夫、若林奮、李禹煥の作品を展示でした。解説はありませんでしたが、何れも抽象美術なので、ツアー参加者は各人の感性に従って、作品を楽しんでいました。



 生活美術館本館を出ると、前面に観音開きのガラス製扉がある立方体の建物があります。名称は「地蔵堂」で、中には若林奮の彫刻《近い縁Ⅰ》が置かれています。丁度、矢橋昭三郎氏がツアー参加者の様子を見に来られたので、矢橋昭三郎氏を交えて「地蔵堂」の前で記念写真を撮影。最後、生活美術館本館エリアを出るところで見たピエール・セーカリー《Dragon family》は苔むし、草も生えています。設置以来の歳月を感じました。



・創業者邸



「生活美術館本館エリア」から少し歩き、細い道を横断するとcafe mirai と「創業者邸」があります。芝生の上にあったのは李禹煥《関係項-応答》。自然石と分厚い鉄板が向かい合っている作品で「石と鉄が対話しているので設置した」とのことです。石材会社と鉄鋼会社を興した創業者=八橋五郎の姿と作品が重なりますね。



・古戦場を歩き、平和の杜へ



創業者邸から南に道があります。向かって左は「せきがはら人間村」の敷地ですが、右は「島津義弘陣跡」と神明神社の杜があります。しばらく歩くと、世界平和を祈るモニュメント、ピエール・セーカリー《関ケ原》が現れました。鎧武者の頭部を思わせる彫刻が10個。通常は下から4個、3個、2個、1個の順で4段に積み上げるのでしょうが、4段目に彫刻は無く、1段目が5個となっています。ツアー参加者のHさんが「4段に積み上げると一番上の1個が全体を支配する姿になる。1番上の1個が無いのは、10個が協調して平和を守る形になるから、と聞いたことがあります」と話すと、山口さんから「その通りです」と、お誉めの言葉がありました。



 南に向かう道を更に進むと左右をススキに覆われ、まさに「一本道」になります。右側のススキの向こうには「関ケ原古戦場開戦地」と書かれた幟(のぼり)。赤い井筒(「井」の字)を染め抜いた井伊家の幟も見えました。



・散策のゴールへ



 一本道を左に曲がると「未来食堂」が見えてきます。せきがはら人間村の敷地に戻り、北へ向かうとピエール・セーカリーの彫刻《ムッシュライオン & マダムライオン》がお出迎え。芝生広場の向こうには、インド・ネパール・日本の彫刻家が制作した《アジアの苑》。そして、散策のゴールは李禹煥《関係項-アーチ・関ケ原》。自家用車で来ると《関係項-アーチ・関ケ原》が入口になるようです。なので、芝生広場に向かって、《関係項-アーチ・関ケ原》を背に、記念写真を撮影しました。山田さんからは《関係項-アーチ・関ケ原》について「鉄のテンションを石が受け止めている形。石と鉄は押し合っている」との解説がありました。



なお、せきがはら人間村関係のURLは次のとおりです。URL: 人間村について|せきがはら人間村



名古屋駅までの車内では16001710



 予定では1530の出発でしたが、ツール参加者が熱心に鑑賞するので山口さんのテンションも上がり、予定時刻を30分オーバー。でも、楽しく過ごせたのでOK。山田さんもトークで「スタッフが楽しんで案内しているのが素晴らしかった。」と絶賛していました。山田さんは、年明け後に見るべき展覧会として、豊橋市美術博物館の「生誕100
中村正義展」(2.223.30)を挙げていました。協力会のミニツアーで行けると良いですね。



 帰路は、関ケ原ICから名神高速道、小牧ICで名古屋都市高速道路に入り、黒川出口から一般道という経路。行楽帰りの車両の影響で速度が少し落ちましたが、名古屋駅太閤通口着は1710。発車時の30分遅れを20分縮めました。



最後に



天候に恵まれ、事故もなく、バスの車内では山田さんのトークを8年ぶりに聴くことが出来ました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバーさま、参加された皆さま、ありがとうございました。



Ron.



映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(2024年制作 日本映画)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.10.28 投稿

伏見ミリオン座で上映中の映画「Viva Niki タロット・ガーデンへの道」(原題:Viva Niki The Spirit of Niki de Saint Phalle、以下「映画」)を見てきました。映画は、カラフルで大きな女性像=ナナで有名なニキ・ド・サンファル(1930-2002、以下「ニキ」)が20年以上かけてイタリア・トスカーナの森に作った、巨大な彫刻庭園タロット・ガーデン(Tarot Garden)を主題に、ニキの画業を紹介するドキュメント映画です。

監督・撮影・脚本は写真家の松本路子(みちこ)、ナレーションは小泉今日子。映画の公式ホームページは次の通りです。 Viva Niki タロット・ガーデンへの道 公式ホームページ

◆映画の内容

① 導入部

最初に上空から撮影した森が登場し、続いてアントニ・ガウディの「グエル公園」を思わせる柱や彫刻(というよりも構造物)のある庭=タロット・ガーデンが出現します。

② ニキと監督の出会い

 監督がニキと出会ったのは1981年。1枚の肖像写真を撮影する予定でしたが、監督はニキの家でタロット・ガーデンの構想を聞き、以来、ニキの写真を撮影し続けることになります。

③ 3人のナナ

続いて紹介されるのは、1974年にドイツ・ハノーファー(Hannover)に設置された《3人のナナ》。ポリエステル製の彫刻で「カロリーナ」「シャルロッテ」「ゾフィー」の3体です。「1974年当時は、設置反対の声が渦巻き、設置賛成の声と激しく衝突していた」と紹介され、続いて、ハノーファー市民にすっかり受け入れられている現在の様子が映し出されました。

④ ニキが「ナナ」を生み出すまで

 ニキは富豪の家に生まれますが、彼女の誕生間もなく世界恐慌で家は没落。ニキは20代で精神疾患を発症し、アートセラピーとして絵を描き始めます。そして、1961~62年にニキが発表した作品は「ナナ」ではなく「射撃絵画」。石膏のレリーフを銃で撃ち、その衝撃で石膏の中に埋め込まれた絵具がレリーフを様々な色に装飾するという作品です。1963-64年には《薔薇色の出産》など女性の苦悩を表現した作品を発表。1960年代になって、友人の妊婦姿にインスピレーションを受けた「ナナ」シリーズの制作が始まった、と紹介されます。

⑤ 巨大化した「ナナ」は構造物に

 1966年には、ストックホルム近代美術館から依頼された企画で、《ホン》という高さ6m、長さ26mの体内を巡るインスタレーションを発表。続いて、ベルギーの富豪からの依頼で高さ6.4m、長さ33.4mのプレイハウス《ドラゴン》を制作。《ドラゴン》の2階には寝室があり、そこから滑り台で外に出ることが出来ます。監督は「《ドラゴン》の寝室で宿泊した」と語っています。

1983年には、フランス・パリのポンピドゥー・センター隣のストラヴィンスキー広場の池に、公私のパートナーである彫刻家のジャン・ティンゲリーと共同で16個の彫刻噴水《ストラヴィンスキーの泉》を制作。監督は、野外での写真撮影を嫌うニキに頼み込んで《ストラヴィンスキーの泉》を背景にしたニキを撮影します。

⑥ 日本で見ることができる「ナナ」

 日本でも多数の「ナナ」が展示されています。映画が紹介したのは香川県のベネッセアートサイト直島の《ベンチ》《猫》《ラクダ》等とベネッセホールディングス東京本部の《恋する大鳥》《蛇の樹》の外、箱根・彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》などでした。

⑦ 上野千鶴子がニキの作品を分析

 映画には上野千鶴子が登場し、「射撃絵画」や《薔薇色の出産》などを見て、ニキは神経症を患っていると分析。その原因については、ニキが自分の著書に12歳の時に父親から性的虐待を受けたことが原因と書いていることを紹介。70歳近くになって、ようやくカミングアウトしたことについて、衝撃の重さ・苦しみについて語っています。

⑧ 「タロット・ガーデン」の制作

 ニキはアントニ・ガウディのグエル公園を見て、自分でも同じような公園を実現したいと思っていました。イタリアのトスカーナの森に土地を見つけ、1978年からタロット・カードの22枚の札を彫刻作品にした公園の整備に着手し、20年の歳月をかけて1998年から一般公開していることが紹介されます。

 再び、冒頭のシーンが現れ、グエル公園のように見えたのはタロット・ガーデンのNo.4 The Emperor だったと分かります。斜めの柱があり、構造物の表面はカラフルな陶板や鏡、色ガラスで覆われています。この外、No.1 The Magician、No.10 The Wheel of Fortune、No.3 The Empressを始めとする主な作品を紹介。なかでも、The Empress(女帝)は乳房の内部が住居になっており、ニキが7年間アトリエ兼住居として使用。監督は1985年5月に建築現場を訪問しました。

現在、タロット・ガーデンの公開は4月から10月の午後の5時間限り。世界中から、年間10万人が来場しています。閉館期間は、古くなった陶板を外して貼り付け直す等、彫刻の補修をしていますので、管理スタッフの休む間は無いとのことです。

⑨ アメリカ・サンディエゴへの移住・晩年の作品

ニキはポリエステルで作品を制作していたため、長年にわたって呼吸器疾患に悩まされていました。1993年に、温暖な気候のアメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴに移住して療養。移住した頃は毎日酸素ボンベのお世話になっていましたが、症状が落ち着いた晩年には、カリフォルニア州エスコンディードで、彫刻庭園《カリフィア女王の魔法の輪(Queen Califia’s Magical Circle)》やドイツ・ハノーファーのヘレンハウゼン王宮庭園のグロッテ(洞窟)の修復・再設計等に取り組み、2002年にサンディエゴで永眠しました。

◆最後に

ニキ・ド・サンフィルの作品は、協力会のツアーで見学した彫刻の森美術館の《ミス・ブラック・パワー》を見ただけで、作家のニキについては全く知識がありませんでした。

この映画では、ニキがファッションモデルだったことや、正規の芸術教育を受けたことが無く、統合失調症のアートセラピーで絵を描き始めたこと、アントニ・ガウディのグエル公園を見て《タロット・ガーデン》の制作を思い立ち、20年という歳月をかけて一般公開を行ったことなど、ニキの生涯と作品について広く知ることが出来ました。

映画に登場する作品はカラフルで見ごたえのあるものばかりです。早めにご覧になることをお勧めします。

Ron.

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