読書ノート 『民藝 MINGEI』 関連書籍の抜き書き

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

1 はじめに

 名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)から「お知らせ」が届きました。『民藝MINGEI― 美は暮らしのなかにある』(以下、本展)を10月5日(土)~12月22日(日)の会期で開催。10月12日(土)には、17:00から協力会向けギャラリートーク(井口智子学芸課長)を開催するほか、14:00~15:00に井口智子学芸課長の一般向け解説会が、15:30~16:30には深谷克典参与によるヨーロッパ最新美術展覧会の報告会があります。

 本展の公式サイト(URL: 『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))によれば、「暮らしのなかで用いられてきた美しい民藝の品々約150点を展示」するとのこと。楽しみですね。

なお、公式サイトは、柳宗悦(やなぎ むねよし)と民藝運動について、次のように記しています。

〈柳宗悦(1889-1961)は、東京府麻布区生まれ。1910年(明治43)、雑誌『白樺』の創刊に参加。(略)1913年(大正2)に東京帝国大学哲学科を卒業。朝鮮陶磁、木喰仏の調査研究、収集を進めるなか、無名の職人が作る民衆の日用雑器の美に関心を抱いた。1925年(大正14)には、その価値を人々に紹介しようと「民藝」という新語を作り、濱田庄司や河井寛次郎ら共鳴する仲間たちと民藝運動を創始した〉

つまり本展は「無名の職人が作る民衆の日用雑器の美」の展覧会です。とはいえ、作品リストには「無名の職人」の作品だけでなく「著名な陶芸家」の作品もあります。そこで、柳宗悦・民藝運動と本展に出品の「著名な陶芸家」との関係について、関連書籍の「抜き書き」を作りました 。その内容は、以下のとおりです。

2 バーナード・リーチ(1887~1979)と富本憲吉(1886-1967)の出会い

 l909年(明治42)にエッチングの教師として来日したバーナード・リーチ(Bernard Howell Leach)は、アート雑誌のデザインなどを通し柳宗悦をはじめとする白樺派の人たちと交流。また、1911年(明治44)英国留学を終えた富本憲吉は9月に上京し、バーナード・リーチと交友。リーチと富本の二人は若い画家が集まっていたパーティーで、余興の楽焼(注:素人が趣味で作る低火度の陶器)を行い、リーチは楽焼に感激。1912年(明治45)リーチは6代目尾形乾山である浦野繁吉に陶芸を教わるようになった(出典B p.39)。通訳としてリーチに同行した富本はリーチに触発されて轆轤(ろくろ)を廻すようになり、陶芸家への転向を決意する(出典C p.123)。

3 バーナード・リーチと河井寛次郎(1890~1966)の出会い

 1912年(明治45)2月、東京高等工業学校窯業科に在学中の河井寛次郎は、『白樺』主催の「ロダン展」でバーナード・リーチの楽焼を見て衝撃を受けた。後日、河井は楽焼きの壺を受け取りに向かった上野桜木町でリーチとはじめて出会った(出典C p.163)。

4 柳宗悦、朝鮮の白磁に魅了される(最初の転機)

1914年(大正3)陶磁器研究家の浅川伯教(のりたか)は、オーギュスト・ロダンの彫刻を見るため、千葉県・我孫子の柳宗悦宅を訪れる。その時、柳は浅川から贈られた李朝秋草文面付壺(URL: 大阪歴史博物館:特別展:没後50年・日本民藝館開館75周年 柳 宗悦展-暮らしへの眼差し- (osakamushis.jp))に魅了される。柳は1916年(大正5)以降、何度も朝鮮を訪れて工芸品の蒐集を行う(出典A、出典E)。

5 バーナード・リーチが再来日、安孫子に住む

1916年(大正5) 柳宗悦は、1915年に北京へ移住したリーチに再来日を勧め、自宅の一部を窯と仕事場のために提供。(出典A)。リーチは我孫子で、伝統的な日本の陶芸に中国、韓国そして英国伝統のスリップウェア(Slipware:スポイトや筆を使い、slip=泥漿(でいしょう:泥状の化粧土)で陶器を装飾する技法)を加味した、独特な作風を作り出すことに成功した(出典B p.40)。

6 一万種の釉薬

1916年(大正5)濱田庄司は京都市立陶磁器試験場に就職。濱田は、1914年(大正3)に就職していた河井寛次郎と東山馬町に下宿を借り、河井と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事。釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約1万種の釉業の調合を試みた(出典C p.165 p.201)。

7 バーナード・リーチと濱田庄司(1894~1978)の出会い

1918年(大正7)12月、濱田庄司は神田の流逸荘でリーチの第2回個展を見て、会場でバーナード・リーチと初対面し、作品について話し合った(出典C p.202)。1919年(大正8)濱田は、我孫子のリーチ窯を訪ねた。同年5月、我孫子のリーチ陶房は火事に見舞われ、図案や技法の記録、数年間の手記、重要な文献、そして製陶用の道具などが失われた。リーチは黒田清輝の好意で麻布の邸内に築かれた東門窯を借りて作陶し、その冬には濱田も泊まり込みで手伝った(出典C p.203)。

8 濱田庄司と益子の出会い

東京高等工業学校窯業科在学中、陶芸家の板谷波山から学んでいた濱田庄司は、波山宅の棚にあった山水絵の土瓶に興味を持ち、波山から「これは栃木の益子焼だ」と聞いた。この話を覚えていた濱田は、1920年(大正9)に益子を訪ねた(出典C p.201)。

9 濱田庄司、バーナード・リーチに誘われて英国へ向かう

1920年(大正9)濱田庄司はリーチの誘いで、イギリス南西端のセントアイヴス(St. Ives)に窯を築くため、リーチと一緒に船で英国へ向かった(出典C p.203)。同年、リーチと濱田は工房の場所探しや粘土や釉(うわぐすり)の調達に奔走し、西洋で初めての日本式登り窯を作った。この登り窯は、近所のダイナマイト工場の中古レンガを使い、各房の人口のアーチの支えには大きな樽の「たが」(樽を締めている鉄の輪)を利用した(出典B p.41)。1921年(大正10)二人は、ようやく初窯を焚いた。英国の土器に使われたガレナ釉(鉛釉)を1000度の見当で焼いて成功した。鉄絵など楽釉の軟陶のものを焼いたが、2~3割は失敗した。1923年(大正12)セントアイヴスで3年が経った春、濱田はロンドンの画廊で初めての個展を開催し、成功を収めた(出典C p.204)。その後、リーチも同じ場所で個展を開催した(出典C p.205)。

10 マイケル・カーデューがバーナード・リーチに弟子入り

1923年(大正12)一人の若者がバーナード・リーチの住むカウント・ハウス (Count House) のドアをノックした。濱田庄司が工房から連れてきたという。彼はマイケル・カーデュー(Michael Ambrose Cardew)と名乗り、ぜひ弟子にしてほしいと懇願した(出典B p.47)。

11 河井寛次郎、スランプに陥る

1917年(大正6)京都市立陶磁器試験場を退職した河井寛次郎は、五条坂の五代 清水六兵衛(きよみず ろくべえ)の顧間となり、2年間、各種の釉薬を作る仕事に着手する。1920年(大正9)30歳になった河井のため、久原(くはら)鉱業監査役・山岡千太郎は鐘鋳(かねい)町の清水六兵衛の持ち窯と土地を購入する援助をした。河井は、地名にちなんで「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名づけた(出典C p.166)。1921年(大正10)河井は東京高島屋で初個展を開催した。陶磁器研究学者の奥田誠一はこの展示会を絶賛。この頃、柳宗悦は、神田流逸荘で「朝鮮鮮民族美術展」を開催。河井は李朝陶磁の美しさに心打たれ、自身の作品に疑問と反省を持ちはじめた。そんな矢先、柳が「河井の仕事は技術の模倣に過ぎない」と酷評した。河井は「中国陶磁を越える作品は生まれていない」と反省。それが葛藤となりスランプに陥った(出典C p.160)。

12 英国から帰国した濱田庄司が、河井寛次郎を訪問

1924年(大正13)濱田庄司が英国から帰国し、河井寛次郎を訪問。再開を果たした二人はそれから2カ月間、寸暇を惜しんで語り合い、互いの進む道を確認しあった(出典D p.168)。英国から送った荷物がようやく河井宅に着いた。スリップウェアの皿10枚と、ドイツの古い水指などであった。そのスリップウェアを賞賛した河井は、すぐに真似た皿を作り上げたが、専門家にも見分けられないほど素晴らしかった(出典C p.206)。

13 柳宗悦、木喰仏と出会う(第二の転機)

1924年(大正13)1月、柳宗悦は、朝鮮の陶磁器を見るために古美術の蒐集家・小宮山清三を訪問した際、暗い庫の前に置かれていた二体の木喰(もくじき)仏に出会う(出典A、出典E)。

14 下手物(雑器)の美

1924年(大正13)前年の関東大震災で被災した柳宗悦は一家で京都へ移住。柳は河井寛次郎に連れられて東寺や北野天神の朝市を回り、そこで出会った「下手物(げてもの)」(一般民衆が使用する雑器。上手物(じょうてもの=精巧に作られた高価な工芸品)の反対語)に惹かれ、蒐集を進めた。1926年(大正15)9月、柳は「下手ものの美」という文章を越後タイムズに発表、その語感に注目が集まる。1927年(昭和2)柳は「下手ものの美」を改題した『雑器の美』(URL:柳宗悦 雑器の美 (aozora.gr.jp))を「民藝叢書」の第一編として刊行し、同年には東京鳩居堂で最初の「日本民藝品展覧会」を開催(出典A)。

15 木喰仏調査の旅先で「民藝」を造語

1925年(大正14)河井寛次郎は濱田庄司に誘われ、吉田山の柳宗悦を訪ねた。河井は柳の家で大津絵に共鳴し、李朝陶などをみて感激。さらに天衣無維な木喰仏を見て、自らの造形と響きあうものを感じ、柳と河井の二人はいっぺんに意気投合。積年のわだかまりが氷解した(出典C p.169)。同年12月、紀州旅行の途中に柳、河井、濱田の三人は木喰上人遺跡を訪ねた。淺川伯教、巧(たくみ)兄弟の影響で李朝陶磁に興味を持った柳は、木喰仏を通じて独自の鑑賞眼を確立した。濱田はスリップウェアや錫の器などに美しさを感じ、河井は民衆の使う雑器に心奪われていた。ここで三人は「民衆の工芸」を略して「民藝」の造語を生んだ(出典C p.206)。

16 濱田庄司、益子に移住

 京都や東京の都会が主な拠点だった濱田庄司も、波山のところで知った益子を訪れ「健康的な心が根付く田舎」に住む気になった(出典C p.206)。濱田が移住した当時の益子は甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・湯たんぼ・片口・山水土瓶・石皿などを量産していた。(注:現在の量産品は「峠の釜めし」用土釜)大正期には一度の登窯で1万個焼いたというほど関東一円の台所用品を生産していた。1924年(大正13)セーターにコールテンのズボンをはいて、外国のホテルや航路で集めたラベルやシールを貼ったスーツケースを持って益子に入った濱田の格好は、田舎の益子では人目についた。(略)警察や役場の人たちに監視される日が6年間続くことになる(出典C p.207)。

17 沖縄への旅

1924年(大正13)濱田庄司は、寒い冬の間、沖縄へ行くことにした。新垣栄徳(1947年没)に世話になり、翌3月まで滞在して壺屋で制作した。その後、妻子と共に1年以上も沖縄で暮らした。沖縄は濱田の気持ちを受け入れてくれるところだった。無意識の創作力を失って久しい濱田にとって、沖縄壺屋での陶工の仕事ぶりには学ぶことが多かった(出典C p.208)。

18 3万坪の土地に住居と窯

1930年(昭和5)濱田庄司は、益子に3万坪の土地を求め、住居は益子の道祖土(さやど)にあった80坪の豪壮な農家が気に入り、住んでいる人に頼み込んだ。相手が渋るのを納得させて移築、翌年には邸内に3室の登窯を築き、昭和17年には8室の登窯を築き、松薪で焼いた(出典C p.209)。

後日、濱田は「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返った(出典C p.198)。

19 河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった

1941(昭和16)以降、河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった(出典D p.12)。

20 富本憲吉が民藝派と決別

1946年(昭和21)12月、富本憲吉は、柳宗悦率いる「民藝派」とのつながりをはっきり断ち切るために国画会工芸部も脱退した。民藝派とはその機関誌である『民藝』の創刊号から10号まで毎回、題字を書いていたこともあるほど長い付き合いであったが、民藝の主張と相いれぬものがあった。「民藝派の主張する民藝的でない工芸はすべて抹殺さるべきだという狭量な解釈はどうにもがまんがならなかった。創作こそ美術家の根本理念である。河井、濱田らの民藝派グループの工芸は創作性の僅少な、むしろ伝統の繰り返しを平気でやっている」と、国画会と手を切ったのである(出典C p.135)。

出典の一覧

A 民藝運動 Wikipedia  URL: 民藝運動 – 民藝運動の概要 – わかりやすく解説 Weblio辞書

B 『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』著者 加藤節男 

発行所 株式会社河出書房新社 2020年2月28日発行

C 講談社選書メチエ『名匠と名品の陶芸史』著者 黒田草臣 2006年6月10日発行

D 「陶工・河井寛次郎」著者 松原龍一 京都国立近代美術館 副館長

 京都国立近代美術館編 川勝コレクション『河井寛次郎』2019年3月31日発行 発行所 光村推古書院 所収

E 【先人たちの底力 知恵泉】URL: 【先人たちの底力 知恵泉】柳宗悦 多様性社会をどう築くか? Eテレ 6月4日夜放送 – 美術展ナビ (artexhibition.jp) 

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