人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒について

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 名古屋市美術館協力会から7月19日付で「秋のツアー 2024」の開催日は11.09(土)、目的地は関が原人間村生活美術館と岐阜県現代陶芸美術館(以下「陶芸美術館」)になった、との通知がありました。

 陶芸美術館で見学するのは「生誕130年 荒川豊蔵展」。岐阜県多治見市出身で「志野」と「瀬戸黒」の無形需要文化財保持者(人間国宝)となった荒川豊蔵の人となりを振り返る展覧会、とのことです。

 以下は、人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒に関する書籍の抜き書きとSNS記事の紹介です。

1 人間国宝(重要無形文化財保持者)について

 1950(昭和25)年5月に制定・公布された「文化財保護法」は1954(昭和29)年5月に改正され、無形文化財の価値の観点から、その「わざ」を高度に体得している者(又は正しく体得し、かつそれに精通している者)を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)として認定するよう定められた。

 この新制度のもと、陶芸の分野では1955(昭和30)年2月に〈色絵磁器・富本憲吉〉〈鉄釉陶器・石黒宗麿〉〈民芸陶器・濱田庄司〉〈志野・瀬戸黒・荒川豊蔵〉について、1956(昭和31)年4月に〈備前焼・金重陶陽〉について、重要無形文化財の指定及び保持者の認定が行われた。

出展:『人間国宝事典 工芸技術編』 美術品出版株式会社 芸艸堂 2009年9月28日発行(以下「A」)p.8

2 人間国宝・荒川豊蔵について

 荒川豊蔵(あらかわとよぞう)は1894(明治27)年3月21日生まれ、1985(昭和60)年8月11日没。1922年京都宮永東山窯の工場長となり、その後、北大路魯山人が鎌倉に築いた星ケ岡窯の窯場主任となる。1930年美濃大萱(おおがや)で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯趾を発見、1933年この古窯趾の近くに桃山時代と同様の半地下式の単室窯を築き、窯跡から発見した陶片をたよりに、桃山の志野・瀬戸黒の復興に尽力した。1955年重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者に認定。1965年紫綬褒章。1971年文化勲章。

〇 桃山時代の古窯跡を発見した経緯

1930(昭和5)年4月、星ケ岡窯の展覧会が名古屋で開かれた時、同地で筍の絵のある志野筒茶碗を見せてもらったのが機縁となって、故郷に近い現在の可児市久々利大萱で、桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸を焼いた古窯趾を発見した。その事は、桃山の志野は瀬戸で焼かれたという通説を覆す画期的な発見となった。(略)

出展:前出A、p.21

3 志野(しの)について

志野は、桃山時代の天正(1573~91)・文禄(1592~95)の頃、現在の岐阜県多治見市、土岐市、可児市、笠原市にまたがる東美濃地方で焼かれたわが国独特の陶芸である。(略)

 志野は幾つかの様式に類別されるが、(略)桃山時代のものでは文様のない無地志野、鬼板(おにいた)と呼ばれる酸化鉄の泥漿で釉下に簡素な文様を描いた絵志野、鬼板の泥漿を化粧掛けし、文様を白く象嵌風に表した鼠志野、鬼板の化粧掛けの上に長石釉を薄く掛けて赤く発色させた赤志野がある。(略)

出展:前出A、p.22

4 瀬戸黒(せとぐろ)について

瀬戸黒は、志野・黄瀬戸とともに、桃山時代に、現在の岐阜県可児市大萱周辺で焼かれた茶陶である。(略)轆轤で成形された直截な円筒形の茶碗で、底が平たく、高台は極めて低く小さい。16世紀後半の天正(1573~91)頃に最もすぐれたものが焼かれたので「天正黒」と呼ばれる。

 釉薬は長珪石と土灰(雑木を焼いた灰)を合わせ、これに鬼板を加えたもので、志野と同じ窯に入れて焼く。温度が1,150度ぐらいに上って、釉薬が熔けはじめたころを見はからって、色見穴から鉄の鋏で茶碗を挟み、窯の外に引き出して急冷すると、漆黒色に発色するので、一名「引出し黒」とも呼ばれる。

 鉄鋏が届く範囲が限定されるので一窯に窯詰めされる数は、せいぜい15箇ぐらいと言われる。引き出しの時機によって漆黒の釉調に変化が表われ、古来その豪快な作調とともに侘びた味わいが賞玩される。

出展:前出A、p.20

補足:SNSで「瀬戸黒の技法」(URL:瀬戸黒の技法 (touroji.com))を検索すると「高台の周りに釉薬がかかっていない」ことが瀬戸黒の特徴だと分かります。また、名古屋市博物館所蔵の黒楽茶碗(URL: 黒楽茶碗 銘「時雨」と森川如春庵|名古屋市博物館 (city.nagoya.jp)を検索すると、黒楽茶碗は高台まで釉薬で覆われており、瀬戸黒との違いがはっきり分かります。

5 美濃・瀬戸の陶磁器の歴史

 古代から中世にかけて、愛知県周辺の陶器焼成には一般に「窖窯(あながま)」と呼ばれる、丘陵の傾斜地を地表に沿って掘り、トンネル状に構築された半地下式ないし地下式の単室窯が用いられてきた。(略)戦国時代の大規模窯業地は瀬戸・美濃、常滑、越前、信楽・伊賀、丹波、備前の六カ所に限定されることから、当期は「六古窯の時代」とも呼ばれる。(略)窯業考古学においては、当期の瀬戸窯は県境を挟んで隣接する岐阜県の美濃窯と一体的にとらえて、「瀬戸・美濃窯」と称している。(略)16世紀後半、瀬戸市域における窯炉の存在が確認できず、岐阜県土岐市など岐阜県東濃地域において陶器生産が展開したようである。この現象は(略)「瀬戸山離散」と呼ばれる。かつては戦国の戦乱にともなう陶工の流出と解されてきたが、近年は織田信長による産業経済政策の一環としての陶工の移動と評価されつつある。瀬戸市域における陶器生産の再開は、江戸時代初期における尾張藩と名古屋城下町の成立を待たねばならなかった。(略)

出展:梅本博志 編 『日本史のなかの愛知県』 株式会社山川出版社 2024年5月31日発行 所載の 4章〈中世〉やきもので見る中世愛知 執筆者 小川浩紀・愛知県陶磁美術館学芸員 p.83

補足:つまり、16世紀後半の陶器生産は東農地方で展開されましたが、江戸時代初期、尾張藩の初代藩主・徳川義直が美濃の陶工を呼び戻したことにより、瀬戸で陶器生産が再開した(出典URL: 歴史 | 知る | 瀬戸焼振興協会 (setoyakishinkokyokai.jp))ということです。

6 志野の歴史

志野の降盛期は天正年間(1573-91)から慶長年間(1596-1614)の初頭にかけてのことで、美術史的には安土挑山時代に当たる。この桃山時代には美術工芸の活力が最も充溢し、和物志向が強まり、侘び茶が流行して、陶芸文化が花開いた。志野、瀬戸黒、黄瀬戸、織部が茶の場の美的感性に裏打ちされ、変化に富んだ新しい造形美を展開したといってよい。

慶長以後の陶芸史では、京都でやきものが新しく興隆し、同時に志野陶の内容が低下した。製陶の中心が肥前に移る江戸時代には、釉胎、器形、作風ともに劣り、幕末の加藤春岱(しゅんたい)の志野などもあるが、桃山志野に比べるといずれも冴えが足りない。明治時代以後の志野作りは瀬戸の赤津が中心で、春岱風志野が有名である。(略)

出展:責任編集・大滝幹夫『人間国宝の技と美 陶芸名品集成 一 陶器』 発行2003年7月15日 発行所 株式会社講談社 所載の「日本陶芸小史」執筆者 大滝幹夫 p.158

補足:志野の隆盛期は桃山時代。その後、京焼の興隆と同時に志野の内容は低下。江戸時代から幕末・明治以降、志野の制作は瀬戸が中心だった、ということです。なお、加藤春岱については、瀬戸市美術館で「稀代の名工 春岱」(URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)が開催されました。

7 人間国宝・荒川豊蔵に関する「読み物」

 人間国宝・荒川豊蔵について、古志野の陶片発見後に起きた北大路魯山人との決別や志野・瀬戸黒の再現に至るまでの生活苦の中での粘り強い努力、荒川豊蔵が制作した茶碗の図版などを盛り込んだ記事が下記のURLで閲覧できます。「学術記事」ではなく「読み物」として書かれているので、とても読みやすいですよ。

URL: 美濃桃山陶を再び!人間国宝・荒川豊蔵の『志野再現』と作陶にかけた人生に迫る! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)

Ron.

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