読書ノート 『民藝 MINGEI』 関連書籍の抜き書き

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

1 はじめに

 名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)から「お知らせ」が届きました。『民藝MINGEI― 美は暮らしのなかにある』(以下、本展)を10月5日(土)~12月22日(日)の会期で開催。10月12日(土)には、17:00から協力会向けギャラリートーク(井口智子学芸課長)を開催するほか、14:00~15:00に井口智子学芸課長の一般向け解説会が、15:30~16:30には深谷克典参与によるヨーロッパ最新美術展覧会の報告会があります。

 本展の公式サイト(URL: 『民藝 MINGEI — 美は暮らしのなかにある』公式サイト (exhibit.jp))によれば、「暮らしのなかで用いられてきた美しい民藝の品々約150点を展示」するとのこと。楽しみですね。

なお、公式サイトは、柳宗悦(やなぎ むねよし)と民藝運動について、次のように記しています。

〈柳宗悦(1889-1961)は、東京府麻布区生まれ。1910年(明治43)、雑誌『白樺』の創刊に参加。(略)1913年(大正2)に東京帝国大学哲学科を卒業。朝鮮陶磁、木喰仏の調査研究、収集を進めるなか、無名の職人が作る民衆の日用雑器の美に関心を抱いた。1925年(大正14)には、その価値を人々に紹介しようと「民藝」という新語を作り、濱田庄司や河井寛次郎ら共鳴する仲間たちと民藝運動を創始した〉

つまり本展は「無名の職人が作る民衆の日用雑器の美」の展覧会です。とはいえ、作品リストには「無名の職人」の作品だけでなく「著名な陶芸家」の作品もあります。そこで、柳宗悦・民藝運動と本展に出品の「著名な陶芸家」との関係について、関連書籍の「抜き書き」を作りました 。その内容は、以下のとおりです。

2 バーナード・リーチ(1887~1979)と富本憲吉(1886-1967)の出会い

 l909年(明治42)にエッチングの教師として来日したバーナード・リーチ(Bernard Howell Leach)は、アート雑誌のデザインなどを通し柳宗悦をはじめとする白樺派の人たちと交流。また、1911年(明治44)英国留学を終えた富本憲吉は9月に上京し、バーナード・リーチと交友。リーチと富本の二人は若い画家が集まっていたパーティーで、余興の楽焼(注:素人が趣味で作る低火度の陶器)を行い、リーチは楽焼に感激。1912年(明治45)リーチは6代目尾形乾山である浦野繁吉に陶芸を教わるようになった(出典B p.39)。通訳としてリーチに同行した富本はリーチに触発されて轆轤(ろくろ)を廻すようになり、陶芸家への転向を決意する(出典C p.123)。

3 バーナード・リーチと河井寛次郎(1890~1966)の出会い

 1912年(明治45)2月、東京高等工業学校窯業科に在学中の河井寛次郎は、『白樺』主催の「ロダン展」でバーナード・リーチの楽焼を見て衝撃を受けた。後日、河井は楽焼きの壺を受け取りに向かった上野桜木町でリーチとはじめて出会った(出典C p.163)。

4 柳宗悦、朝鮮の白磁に魅了される(最初の転機)

1914年(大正3)陶磁器研究家の浅川伯教(のりたか)は、オーギュスト・ロダンの彫刻を見るため、千葉県・我孫子の柳宗悦宅を訪れる。その時、柳は浅川から贈られた李朝秋草文面付壺(URL: 大阪歴史博物館:特別展:没後50年・日本民藝館開館75周年 柳 宗悦展-暮らしへの眼差し- (osakamushis.jp))に魅了される。柳は1916年(大正5)以降、何度も朝鮮を訪れて工芸品の蒐集を行う(出典A、出典E)。

5 バーナード・リーチが再来日、安孫子に住む

1916年(大正5) 柳宗悦は、1915年に北京へ移住したリーチに再来日を勧め、自宅の一部を窯と仕事場のために提供。(出典A)。リーチは我孫子で、伝統的な日本の陶芸に中国、韓国そして英国伝統のスリップウェア(Slipware:スポイトや筆を使い、slip=泥漿(でいしょう:泥状の化粧土)で陶器を装飾する技法)を加味した、独特な作風を作り出すことに成功した(出典B p.40)。

6 一万種の釉薬

1916年(大正5)濱田庄司は京都市立陶磁器試験場に就職。濱田は、1914年(大正3)に就職していた河井寛次郎と東山馬町に下宿を借り、河井と素地・釉薬・絵具・窯・焼成法などの研究に従事。釉薬の研究に励んで合成呉須の研究をはじめ、青磁、辰砂、天目など約1万種の釉業の調合を試みた(出典C p.165 p.201)。

7 バーナード・リーチと濱田庄司(1894~1978)の出会い

1918年(大正7)12月、濱田庄司は神田の流逸荘でリーチの第2回個展を見て、会場でバーナード・リーチと初対面し、作品について話し合った(出典C p.202)。1919年(大正8)濱田は、我孫子のリーチ窯を訪ねた。同年5月、我孫子のリーチ陶房は火事に見舞われ、図案や技法の記録、数年間の手記、重要な文献、そして製陶用の道具などが失われた。リーチは黒田清輝の好意で麻布の邸内に築かれた東門窯を借りて作陶し、その冬には濱田も泊まり込みで手伝った(出典C p.203)。

8 濱田庄司と益子の出会い

東京高等工業学校窯業科在学中、陶芸家の板谷波山から学んでいた濱田庄司は、波山宅の棚にあった山水絵の土瓶に興味を持ち、波山から「これは栃木の益子焼だ」と聞いた。この話を覚えていた濱田は、1920年(大正9)に益子を訪ねた(出典C p.201)。

9 濱田庄司、バーナード・リーチに誘われて英国へ向かう

1920年(大正9)濱田庄司はリーチの誘いで、イギリス南西端のセントアイヴス(St. Ives)に窯を築くため、リーチと一緒に船で英国へ向かった(出典C p.203)。同年、リーチと濱田は工房の場所探しや粘土や釉(うわぐすり)の調達に奔走し、西洋で初めての日本式登り窯を作った。この登り窯は、近所のダイナマイト工場の中古レンガを使い、各房の人口のアーチの支えには大きな樽の「たが」(樽を締めている鉄の輪)を利用した(出典B p.41)。1921年(大正10)二人は、ようやく初窯を焚いた。英国の土器に使われたガレナ釉(鉛釉)を1000度の見当で焼いて成功した。鉄絵など楽釉の軟陶のものを焼いたが、2~3割は失敗した。1923年(大正12)セントアイヴスで3年が経った春、濱田はロンドンの画廊で初めての個展を開催し、成功を収めた(出典C p.204)。その後、リーチも同じ場所で個展を開催した(出典C p.205)。

10 マイケル・カーデューがバーナード・リーチに弟子入り

1923年(大正12)一人の若者がバーナード・リーチの住むカウント・ハウス (Count House) のドアをノックした。濱田庄司が工房から連れてきたという。彼はマイケル・カーデュー(Michael Ambrose Cardew)と名乗り、ぜひ弟子にしてほしいと懇願した(出典B p.47)。

11 河井寛次郎、スランプに陥る

1917年(大正6)京都市立陶磁器試験場を退職した河井寛次郎は、五条坂の五代 清水六兵衛(きよみず ろくべえ)の顧間となり、2年間、各種の釉薬を作る仕事に着手する。1920年(大正9)30歳になった河井のため、久原(くはら)鉱業監査役・山岡千太郎は鐘鋳(かねい)町の清水六兵衛の持ち窯と土地を購入する援助をした。河井は、地名にちなんで「鐘渓窯(しょうけいよう)」と名づけた(出典C p.166)。1921年(大正10)河井は東京高島屋で初個展を開催した。陶磁器研究学者の奥田誠一はこの展示会を絶賛。この頃、柳宗悦は、神田流逸荘で「朝鮮鮮民族美術展」を開催。河井は李朝陶磁の美しさに心打たれ、自身の作品に疑問と反省を持ちはじめた。そんな矢先、柳が「河井の仕事は技術の模倣に過ぎない」と酷評した。河井は「中国陶磁を越える作品は生まれていない」と反省。それが葛藤となりスランプに陥った(出典C p.160)。

12 英国から帰国した濱田庄司が、河井寛次郎を訪問

1924年(大正13)濱田庄司が英国から帰国し、河井寛次郎を訪問。再開を果たした二人はそれから2カ月間、寸暇を惜しんで語り合い、互いの進む道を確認しあった(出典D p.168)。英国から送った荷物がようやく河井宅に着いた。スリップウェアの皿10枚と、ドイツの古い水指などであった。そのスリップウェアを賞賛した河井は、すぐに真似た皿を作り上げたが、専門家にも見分けられないほど素晴らしかった(出典C p.206)。

13 柳宗悦、木喰仏と出会う(第二の転機)

1924年(大正13)1月、柳宗悦は、朝鮮の陶磁器を見るために古美術の蒐集家・小宮山清三を訪問した際、暗い庫の前に置かれていた二体の木喰(もくじき)仏に出会う(出典A、出典E)。

14 下手物(雑器)の美

1924年(大正13)前年の関東大震災で被災した柳宗悦は一家で京都へ移住。柳は河井寛次郎に連れられて東寺や北野天神の朝市を回り、そこで出会った「下手物(げてもの)」(一般民衆が使用する雑器。上手物(じょうてもの=精巧に作られた高価な工芸品)の反対語)に惹かれ、蒐集を進めた。1926年(大正15)9月、柳は「下手ものの美」という文章を越後タイムズに発表、その語感に注目が集まる。1927年(昭和2)柳は「下手ものの美」を改題した『雑器の美』(URL:柳宗悦 雑器の美 (aozora.gr.jp))を「民藝叢書」の第一編として刊行し、同年には東京鳩居堂で最初の「日本民藝品展覧会」を開催(出典A)。

15 木喰仏調査の旅先で「民藝」を造語

1925年(大正14)河井寛次郎は濱田庄司に誘われ、吉田山の柳宗悦を訪ねた。河井は柳の家で大津絵に共鳴し、李朝陶などをみて感激。さらに天衣無維な木喰仏を見て、自らの造形と響きあうものを感じ、柳と河井の二人はいっぺんに意気投合。積年のわだかまりが氷解した(出典C p.169)。同年12月、紀州旅行の途中に柳、河井、濱田の三人は木喰上人遺跡を訪ねた。淺川伯教、巧(たくみ)兄弟の影響で李朝陶磁に興味を持った柳は、木喰仏を通じて独自の鑑賞眼を確立した。濱田はスリップウェアや錫の器などに美しさを感じ、河井は民衆の使う雑器に心奪われていた。ここで三人は「民衆の工芸」を略して「民藝」の造語を生んだ(出典C p.206)。

16 濱田庄司、益子に移住

 京都や東京の都会が主な拠点だった濱田庄司も、波山のところで知った益子を訪れ「健康的な心が根付く田舎」に住む気になった(出典C p.206)。濱田が移住した当時の益子は甕(かめ)・擂鉢(すりばち)・湯たんぼ・片口・山水土瓶・石皿などを量産していた。(注:現在の量産品は「峠の釜めし」用土釜)大正期には一度の登窯で1万個焼いたというほど関東一円の台所用品を生産していた。1924年(大正13)セーターにコールテンのズボンをはいて、外国のホテルや航路で集めたラベルやシールを貼ったスーツケースを持って益子に入った濱田の格好は、田舎の益子では人目についた。(略)警察や役場の人たちに監視される日が6年間続くことになる(出典C p.207)。

17 沖縄への旅

1924年(大正13)濱田庄司は、寒い冬の間、沖縄へ行くことにした。新垣栄徳(1947年没)に世話になり、翌3月まで滞在して壺屋で制作した。その後、妻子と共に1年以上も沖縄で暮らした。沖縄は濱田の気持ちを受け入れてくれるところだった。無意識の創作力を失って久しい濱田にとって、沖縄壺屋での陶工の仕事ぶりには学ぶことが多かった(出典C p.208)。

18 3万坪の土地に住居と窯

1930年(昭和5)濱田庄司は、益子に3万坪の土地を求め、住居は益子の道祖土(さやど)にあった80坪の豪壮な農家が気に入り、住んでいる人に頼み込んだ。相手が渋るのを納得させて移築、翌年には邸内に3室の登窯を築き、昭和17年には8室の登窯を築き、松薪で焼いた(出典C p.209)。

後日、濱田は「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返った(出典C p.198)。

19 河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった

1941(昭和16)以降、河井寛次郎は民藝を脱し自由な造形の世界へと進んでいった(出典D p.12)。

20 富本憲吉が民藝派と決別

1946年(昭和21)12月、富本憲吉は、柳宗悦率いる「民藝派」とのつながりをはっきり断ち切るために国画会工芸部も脱退した。民藝派とはその機関誌である『民藝』の創刊号から10号まで毎回、題字を書いていたこともあるほど長い付き合いであったが、民藝の主張と相いれぬものがあった。「民藝派の主張する民藝的でない工芸はすべて抹殺さるべきだという狭量な解釈はどうにもがまんがならなかった。創作こそ美術家の根本理念である。河井、濱田らの民藝派グループの工芸は創作性の僅少な、むしろ伝統の繰り返しを平気でやっている」と、国画会と手を切ったのである(出典C p.135)。

出典の一覧

A 民藝運動 Wikipedia  URL: 民藝運動 – 民藝運動の概要 – わかりやすく解説 Weblio辞書

B 『バーナード・リーチとリーチ工房の100年』著者 加藤節男 

発行所 株式会社河出書房新社 2020年2月28日発行

C 講談社選書メチエ『名匠と名品の陶芸史』著者 黒田草臣 2006年6月10日発行

D 「陶工・河井寛次郎」著者 松原龍一 京都国立近代美術館 副館長

 京都国立近代美術館編 川勝コレクション『河井寛次郎』2019年3月31日発行 発行所 光村推古書院 所収

E 【先人たちの底力 知恵泉】URL: 【先人たちの底力 知恵泉】柳宗悦 多様性社会をどう築くか? Eテレ 6月4日夜放送 – 美術展ナビ (artexhibition.jp) 

読書ノート 黒田 草臣 著『名匠と名品の陶芸史』「荒川豊蔵」編

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講談社選書メチエ363 発行所 株式会社講談社 2006年6月10日発行

名古屋市美術館協力会「秋のツアー 2024」では岐阜県現代陶芸美術館『生誕130年 荒川豊蔵展』を見学するというので、SNSを検索して本書を見つけました。著者の黒田草臣氏は東京・渋谷の(株)「黒田陶芸」代表取締役。草臣氏の父親・黒田領治氏は「黒田陶芸」の創業者で、多くの陶芸家と交流がありました。本書は「この交流から得た秘話も盛り込み、名匠たちの思想と名品の作陶ぶりを追うことで、近代陶芸史を新たに語り直そうと試みたものである」(本書p.18、以下はページ数のみを記載)とのことです。

以下は、本書「第一章 荒川豊蔵」のうち「秘話」を中心に要約したものです。

志野はどこで焼かれたか

昭和5年(1930年)4月8日、名古屋を訪れた北大路魯山人(以下「魯山人」)と荒川豊蔵(以下「豊蔵」)は、名古屋の古美術商・横山守雄から名古屋の関谷家が所有する志野筒茶碗・銘「玉川」(現在は、徳川黎明会所蔵、URL: 竹の子文志野筒茶碗 歌銘 玉川 文化遺産オンライン (nii.ac.jp))を見せられた。(略)3年前、36箇所の瀬戸古窯址を徹底的に発掘したのに、志野陶片の一片すら見つけることができなかった魯山人は「瀬戸で焼かれたものだろうか」と半信半疑。豊蔵も茶碗の高台内に付着したハマコロ(窯詰の時に使う焼台)が赤い(瀬戸のハマコロなら白い)ことに疑問を持った。(略)その夜、豊蔵は大正14年(1925年)正月に美濃で青織部の陶片を拾ったことを思い出した。(p.22)

筍の破片

翌日、魯山人は鎌倉の星岡窯に戻るが、「志野は美濃で焼かれたもの」と思った豊蔵は、美濃で陶片を調査するため、休暇を取る。(略)豊蔵は従兄と友人の長男を伴って陶片を調査し、「玉川」に描かれた小さい方の筍と同じ図柄の陶片を発見。それは4月11日、豊蔵36歳の春であった。(p.22~24)

続々と出る古志野のかけら

数日後、豊蔵が持ち帰ったその陶片に魯山人は興奮した。(略)魯山人は計画的に発掘することにした。5月の下旬より豊蔵の案内で美濃に出向いて人を雇った。労賃として6円50銭を現金で支払って、ミカン箱32箱分を発掘した。(p.24~26)

コメント:ブログに添付の「瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感」には、魯山人が豊蔵に「美濃に行って古い釉薬でも探して来いと言ってやると、二、三日して(略)志野の破片を持って来た」と、書かれています。

パトロンからの援助

陶片発見後、大萱牟田洞に窯を完成させるまで、豊蔵は何度も何度も美濃と鎌倉を往復し、昭和7年(1932年)、志野を再現するために陶片を拾った岐阜県可児郡久々利村大萱牟田洞(URL:美濃桃山陶の聖地・可児 (minomomoyamato.jp))で独立することを決意した。(略)資金不足の豊蔵を救ったのは、日本文化を深く理解するスエーデン人のトルエドソン夫人である。運転資金100円を出してくれた。(p.29~30) 

コメント:豊蔵はトルエドソン夫人の帰国後、魯山人を通じて知った田邊加多丸からも資金の援助を受けています。気難しい魯山人ともウマが合っていたようですから、人柄がよかったのでしょうね。

半地下式穴窯築窯

 トルエドソン夫人の援助のもと、古窯址からヒントをえて、豊蔵は半地下式穴窯を築窯し、昭和8年(1933年)12月、初窯の窯焚をする。(略)この初窯は失敗し、翌年、その窯から40メートル北の小高い現在地に窯を築窯。試行錯誤を繰り返したが失敗。途絶えていた技術で、頼りは発掘した陶片と窯道具であった。窯の構造、燃料、窯道具などはすべて手探りであり、瀬戸黒だけはどうにかとれたが志野は焼けず、豊蔵の前途に暗い影が落ちてきた。試行錯誤を繰り返していた昭和11年(1936年)、作品を持って魯山人を訪ねた時、陶芸に専念することとなった魯山人(注)を1年間手伝った。(p.30)

注:魯山人は昭和11年に会員制料亭・星岡茶寮を追われ、星岡窯の看板を「魯山人陶芸研究所」に塗り替え、陶芸家として再起に踏み切った。(p.262~264)

コメント:豊蔵は昭和8年に独立した時に魯山人と縁を切ったわけではなく、その後も交流が続いていたということになりますね。

ジャージャー漏りの作品

資金難で困っていた豊蔵に新しい後援者が現われた。魯山人を通じて知った日本勧業銀行筆頭理事の田邊加多丸(たなべ かたまる)である。豊蔵は、美術に見識のある田邊に援助を依頼した。(略)田邊は、茶碗などの作品を各20口×20円で頒布し、毎回400円を資金提供することを豊蔵に提案し、頒布する作品の配達・集金は黒田領治に依頼した。黒田は「ジャージャー水漏れする」花入や茶碗など、頒布品の苦情処理にも対応。花入にはコールタールを流し込み、茶碗はお粥を何度も焚いて水漏れを止め、顧客に届けた。(略)黒田は、何度もボテ籠(竹で編んだ籠)を背負って大萱へ通い、その度に豊蔵の田舎家に泊まった。(p.31~32)

初個展

黒田は、豊蔵の初個展を大阪梅田の阪急百貨店で開催した。戦前に行われた唯一の個展である。阪急の社長は田邊の兄・小林一三であり、個展の会期は昭和16年(1941年)10月7日から12日と決まった。(略)しかし、準備不足のため、自信がもてる志野や瀬戸黒の作品はわずかしかない。急遽、個展の1ヵ月前から古巣の東山窯の素地に色絵、染付などの模様を入れて制作し、初日に作品を運び込んだ。(略)志野などはあまり売れなかった。阪急展の後、黒田は豊蔵の志野作品をボテ籠に詰めて日本橋三越に持ち込んだ。茶碗の売値は50円。委託販売なので三越に35円を納め、豊蔵に20円、桐箱屋に箱代8円を支払ったが、あまり売れなかった。千歳山の川喜田半泥子(注:陶芸家・実業家。政治家。東の魯山人、西の半泥子と称される)のところに、三輸休雪(注:陶芸家・後に萩焼の人間国宝)、金重陶陽(注:陶芸家・後に備前焼の人間国宝)とともに集まり、4人で『からひね会』を結成したのはこの頃(昭和17年)である。(p.32~34)

コメント:大物の陶芸家と4人で『からひね会』結成というのも、豊蔵の人柄ゆえでしょう。

大萱での作陶

素焼はせず、たっぷりと鬼板(鬼瓦に似た板状の褐鉄鉱)を含ませて骨太な絵を描く。志野釉は結晶化して透明性を失うので細かな絵は適さず、単純で素朴な絵が似合う。(略)古窯址を参考にして傾斜15度の穴窯を設計した。秋から冬にかけて大萱の谷から吹き上げる北西の季節風を利用する焚口は手前の一箇所で、赤松を700~800束使い、1150度で瀬戸黒を引き出し、その後、1250度まで上げる。焼成時間は三昼夜から四昼夜かけた。(p.34~35)

静かな大往生

第1回の重要無形文化財(人間国宝)に認定(注)された昭和30年(1955年)、戦後はじめての個展を三越で開催。昭和39年の「大萱築窯30周年記念展」には昭和18年に制作した志野茶碗など代表作30点、新作50点を展示した。(略)桃山時代の黄瀬戸は灰が掛らないように匣鉢(さや:焼成の際に製品の保護と窯内部に効率よく積み上げるために使う耐火容器)に入れられているものが多いが、豊蔵は匣鉢に入れずに、焼成した。力強い轆轤と箆捌(へらさば)きが見事な竹花入や砧(きぬた)花入は、火前の荒い炎のために割れや歪みを生じた荒々しいものもあり、桃山時代の黄瀬戸に比べ、極めて挑戦的なものとなった。(略)筍の陶片を発見してから55年後の昭和60年8月11日午後2時10分、多治見市の安藤病院で老衰による急性肺炎のため天寿をまっとうした。享年91歳であった。(p.36~38)

注:同年、魯山人は文化財保護委員会から「織部焼」の重要文化財保持者(いわゆる人間国宝)の認定を打診されたが、生涯無冠を貫いた魯山人はこれを断り、翌年も拒否した。(p.267)

コメント:『生誕130年 荒川豊蔵展』には、火割れした黄瀬戸の花入も出品されるようです。

緑に随う

昭和39年夏、豊蔵の信念でもある「縁に随(したが)う」にあやかり、随縁碑という記念の石碑を据えた。13歳で嫁いできた糟糠(そうこう)の妻・志づ に志野符絵茶碗・銘「随縁」(美濃焼 《志野筍絵筒茶碗 銘隨縁》 – 荒川豊蔵 (1894-1985) — Google Arts & Culture)を贈った。昭和5年に見た銘「玉川」よりやや大きめの筒茶碗で、土見せと高台がある。(p.38)

◆北大路魯山人が書いた志野・瀬戸黒・織部の論考(青空文庫)

 豊蔵の志野陶片発見には北大路魯山人が深く関わっており、魯山人も志野・瀬戸黒・織部に関心を寄せていたことから、魯山人が書いた論考もご紹介します。

☆志野焼の価値  北大路魯山人 (昭和5年)URL: 北大路魯山人 志野焼の価値 (aozora.gr.jp)

☆織部という陶器 北大路魯山人 (昭和6年)URL: 北大路魯山人 織部という陶器 (aozora.gr.jp)

☆瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感 北大路魯山人 (昭和8年)URL: 瀬戸・美濃瀬戸発掘雑感 – 北大路魯山人 | 青空書院 (aozorashoin.com)

☆瀬戸黒の話   北大路魯山人 (昭和28年)URL: 北大路魯山人 瀬戸黒の話 (aozora.gr.jp)

    Ron.

人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒について

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 名古屋市美術館協力会から7月19日付で「秋のツアー 2024」の開催日は11.09(土)、目的地は関が原人間村生活美術館と岐阜県現代陶芸美術館(以下「陶芸美術館」)になった、との通知がありました。

 陶芸美術館で見学するのは「生誕130年 荒川豊蔵展」。岐阜県多治見市出身で「志野」と「瀬戸黒」の無形需要文化財保持者(人間国宝)となった荒川豊蔵の人となりを振り返る展覧会、とのことです。

 以下は、人間国宝・荒川豊蔵と志野・瀬戸黒に関する書籍の抜き書きとSNS記事の紹介です。

1 人間国宝(重要無形文化財保持者)について

 1950(昭和25)年5月に制定・公布された「文化財保護法」は1954(昭和29)年5月に改正され、無形文化財の価値の観点から、その「わざ」を高度に体得している者(又は正しく体得し、かつそれに精通している者)を重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)として認定するよう定められた。

 この新制度のもと、陶芸の分野では1955(昭和30)年2月に〈色絵磁器・富本憲吉〉〈鉄釉陶器・石黒宗麿〉〈民芸陶器・濱田庄司〉〈志野・瀬戸黒・荒川豊蔵〉について、1956(昭和31)年4月に〈備前焼・金重陶陽〉について、重要無形文化財の指定及び保持者の認定が行われた。

出展:『人間国宝事典 工芸技術編』 美術品出版株式会社 芸艸堂 2009年9月28日発行(以下「A」)p.8

2 人間国宝・荒川豊蔵について

 荒川豊蔵(あらかわとよぞう)は1894(明治27)年3月21日生まれ、1985(昭和60)年8月11日没。1922年京都宮永東山窯の工場長となり、その後、北大路魯山人が鎌倉に築いた星ケ岡窯の窯場主任となる。1930年美濃大萱(おおがや)で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯趾を発見、1933年この古窯趾の近くに桃山時代と同様の半地下式の単室窯を築き、窯跡から発見した陶片をたよりに、桃山の志野・瀬戸黒の復興に尽力した。1955年重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者に認定。1965年紫綬褒章。1971年文化勲章。

〇 桃山時代の古窯跡を発見した経緯

1930(昭和5)年4月、星ケ岡窯の展覧会が名古屋で開かれた時、同地で筍の絵のある志野筒茶碗を見せてもらったのが機縁となって、故郷に近い現在の可児市久々利大萱で、桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸を焼いた古窯趾を発見した。その事は、桃山の志野は瀬戸で焼かれたという通説を覆す画期的な発見となった。(略)

出展:前出A、p.21

3 志野(しの)について

志野は、桃山時代の天正(1573~91)・文禄(1592~95)の頃、現在の岐阜県多治見市、土岐市、可児市、笠原市にまたがる東美濃地方で焼かれたわが国独特の陶芸である。(略)

 志野は幾つかの様式に類別されるが、(略)桃山時代のものでは文様のない無地志野、鬼板(おにいた)と呼ばれる酸化鉄の泥漿で釉下に簡素な文様を描いた絵志野、鬼板の泥漿を化粧掛けし、文様を白く象嵌風に表した鼠志野、鬼板の化粧掛けの上に長石釉を薄く掛けて赤く発色させた赤志野がある。(略)

出展:前出A、p.22

4 瀬戸黒(せとぐろ)について

瀬戸黒は、志野・黄瀬戸とともに、桃山時代に、現在の岐阜県可児市大萱周辺で焼かれた茶陶である。(略)轆轤で成形された直截な円筒形の茶碗で、底が平たく、高台は極めて低く小さい。16世紀後半の天正(1573~91)頃に最もすぐれたものが焼かれたので「天正黒」と呼ばれる。

 釉薬は長珪石と土灰(雑木を焼いた灰)を合わせ、これに鬼板を加えたもので、志野と同じ窯に入れて焼く。温度が1,150度ぐらいに上って、釉薬が熔けはじめたころを見はからって、色見穴から鉄の鋏で茶碗を挟み、窯の外に引き出して急冷すると、漆黒色に発色するので、一名「引出し黒」とも呼ばれる。

 鉄鋏が届く範囲が限定されるので一窯に窯詰めされる数は、せいぜい15箇ぐらいと言われる。引き出しの時機によって漆黒の釉調に変化が表われ、古来その豪快な作調とともに侘びた味わいが賞玩される。

出展:前出A、p.20

補足:SNSで「瀬戸黒の技法」(URL:瀬戸黒の技法 (touroji.com))を検索すると「高台の周りに釉薬がかかっていない」ことが瀬戸黒の特徴だと分かります。また、名古屋市博物館所蔵の黒楽茶碗(URL: 黒楽茶碗 銘「時雨」と森川如春庵|名古屋市博物館 (city.nagoya.jp)を検索すると、黒楽茶碗は高台まで釉薬で覆われており、瀬戸黒との違いがはっきり分かります。

5 美濃・瀬戸の陶磁器の歴史

 古代から中世にかけて、愛知県周辺の陶器焼成には一般に「窖窯(あながま)」と呼ばれる、丘陵の傾斜地を地表に沿って掘り、トンネル状に構築された半地下式ないし地下式の単室窯が用いられてきた。(略)戦国時代の大規模窯業地は瀬戸・美濃、常滑、越前、信楽・伊賀、丹波、備前の六カ所に限定されることから、当期は「六古窯の時代」とも呼ばれる。(略)窯業考古学においては、当期の瀬戸窯は県境を挟んで隣接する岐阜県の美濃窯と一体的にとらえて、「瀬戸・美濃窯」と称している。(略)16世紀後半、瀬戸市域における窯炉の存在が確認できず、岐阜県土岐市など岐阜県東濃地域において陶器生産が展開したようである。この現象は(略)「瀬戸山離散」と呼ばれる。かつては戦国の戦乱にともなう陶工の流出と解されてきたが、近年は織田信長による産業経済政策の一環としての陶工の移動と評価されつつある。瀬戸市域における陶器生産の再開は、江戸時代初期における尾張藩と名古屋城下町の成立を待たねばならなかった。(略)

出展:梅本博志 編 『日本史のなかの愛知県』 株式会社山川出版社 2024年5月31日発行 所載の 4章〈中世〉やきもので見る中世愛知 執筆者 小川浩紀・愛知県陶磁美術館学芸員 p.83

補足:つまり、16世紀後半の陶器生産は東農地方で展開されましたが、江戸時代初期、尾張藩の初代藩主・徳川義直が美濃の陶工を呼び戻したことにより、瀬戸で陶器生産が再開した(出典URL: 歴史 | 知る | 瀬戸焼振興協会 (setoyakishinkokyokai.jp))ということです。

6 志野の歴史

志野の降盛期は天正年間(1573-91)から慶長年間(1596-1614)の初頭にかけてのことで、美術史的には安土挑山時代に当たる。この桃山時代には美術工芸の活力が最も充溢し、和物志向が強まり、侘び茶が流行して、陶芸文化が花開いた。志野、瀬戸黒、黄瀬戸、織部が茶の場の美的感性に裏打ちされ、変化に富んだ新しい造形美を展開したといってよい。

慶長以後の陶芸史では、京都でやきものが新しく興隆し、同時に志野陶の内容が低下した。製陶の中心が肥前に移る江戸時代には、釉胎、器形、作風ともに劣り、幕末の加藤春岱(しゅんたい)の志野などもあるが、桃山志野に比べるといずれも冴えが足りない。明治時代以後の志野作りは瀬戸の赤津が中心で、春岱風志野が有名である。(略)

出展:責任編集・大滝幹夫『人間国宝の技と美 陶芸名品集成 一 陶器』 発行2003年7月15日 発行所 株式会社講談社 所載の「日本陶芸小史」執筆者 大滝幹夫 p.158

補足:志野の隆盛期は桃山時代。その後、京焼の興隆と同時に志野の内容は低下。江戸時代から幕末・明治以降、志野の制作は瀬戸が中心だった、ということです。なお、加藤春岱については、瀬戸市美術館で「稀代の名工 春岱」(URL: 公益財団法人 瀬戸市文化振興財団 (seto-cul.jp)が開催されました。

7 人間国宝・荒川豊蔵に関する「読み物」

 人間国宝・荒川豊蔵について、古志野の陶片発見後に起きた北大路魯山人との決別や志野・瀬戸黒の再現に至るまでの生活苦の中での粘り強い努力、荒川豊蔵が制作した茶碗の図版などを盛り込んだ記事が下記のURLで閲覧できます。「学術記事」ではなく「読み物」として書かれているので、とても読みやすいですよ。

URL: 美濃桃山陶を再び!人間国宝・荒川豊蔵の『志野再現』と作陶にかけた人生に迫る! | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る! (intojapanwaraku.com)

Ron.

展覧会見てある記「松本竣介《街》と昭和モダン」碧南市藤井達吉現代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.08.07 投稿

現在、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「松本竣介《街》と昭和モダン」(以下「本展」)を見てきました。以下は、本展のレポート・感想です。

◆本展の成り立ち

美術館の受付で受け取ったチラシには、本展は公益社団法人糖業協会(以下「糖業協会」)の日本近代洋画コレクションと、公益財団法人大川美術館(以下「大川美術館」)のコレクションから選りすぐった約140点による、「昭和モダン」をテーマに構成した展覧会、と書かれています。後で調べると、糖業協会は1936年設立。公益事業として、全国の国公立等の美術館へ所蔵美術品の貸し出しを行っています(注1)。また、大川美術館は桐生市出身の実業家・大川栄二氏が収集したコレクションを中心として1989年に開館した美術館。大川美術館のURLに掲載された大川栄二氏の経歴は、1946年に三井物産株式会社入社、1969年ダイエー株式会社入社・副社長就任後、サンコー(現・マルエツ)社長、ダイエーファイナンス会長を経て勇退、というもの。「会長で勇退」ですから、優秀な社員だったのですね(注2)。

注1 URL:協会概要|公益社団法人糖業協会 (sugar.or.jp)

注2 URL:概要・沿革 | 大川美術館 (okawamuseum.jp)

◆第1章 自然をながめる(展示室1・2階)

〇第1章-1 海と山

本展の入口は2階。第1章は「海と山」から始まります。小振りな作品が並ぶ中、大画面に波が岩にぶつかり、真っ白な波しぶきが高く上がる様子を描いた松田文雄の《海(波)》(1959)が目を引きました。有島生馬は「有島武郎の弟の画家」という知識だけで作品は未見だったので、《春雪》(1940)を見ることが出来て、うれしくなりました。梅原龍三郎の作品は、愛知県美術館の「第2期コレクション展」で《北京紫禁城》(1939)を見たばかりでしたが、本展では《紫禁城の黄昏》(1939)、《桜島遠景》(1956)の2点を見ることが出来ました。本展の図録には「糖業協会の所蔵品はオフィスビルの部屋を飾るために購入、寄贈された作品群とされます」と書いてありましたが、確かに穏やかな気持ちで鑑賞できる多くの作品を見ることが出来ました。

〇第1章-2 くつろぎの庭

「くつろぎの庭」というサブタイトルのとおり、庭を描いた作品が並んでいます。その中で、萬鐵五郎《風景》(1926)と川口軌外《息子・京村のいる風景》(1927頃)は、少し雰囲気が違います。よく見ると、2点とも大川美術館の所蔵でした。2つのコレクションの所蔵品が出品されているので、収集傾向の違いを楽しむことができます。

◆第2章 テーブルの上の物語(展示室1・2階)

〇第2章-1 花の彩り

糖業協会の所蔵品の中に、フォービスムの里見勝蔵《椿》(1935)やシュルレアリスムの福沢一郎《花とてんとう虫》(1974)が入っていました。愛知県美術館の「第2期コレクション展」で見た里見勝蔵《裸婦》(1928-29頃)は激しい色使いの作品でしたが、《椿》は優しい感じでした。この外、三岸節子《花》(1986)にも目を引かれました。

〇第2章-2 静物のささやき

糖業協会所蔵の熊谷守一《玩具》(1957)、笠井誠一《独楽と玩具》(1977)と、大川美術館所蔵の靉光《洋梨》(1942)、川口軌外《静物》(1920)に目を引かれました。静物画では、収集傾向に大きな違いは感じられませんね。

◆第3章 松本竣介(展示室2・2階)

〇第3章-1 街

本展の核となる章です。本展では、松本竣介《街》(1942)だけは撮影、SNS投稿OKでした。大川美術館から出品作は、ほとんどが松本竣介のもので、他の作家の作品は野田英夫《無題(カフェにて)》(1938頃)と清水登之《パリの床屋》(1924)でした。本展の図録によれば、野田英夫はディエゴ・リベラの助手として壁画運動に携り、松本竣介が影響を受けた作家とのこと。《無題(カフェにて)》には《街》との共通点が見えます。清水登之の作品は、名古屋市美術館の「北川民次展」でも見ました。「北川民次展」の図録には「ニューヨークで北川民次と同じ美術学校に通っていた」と書かれていましたね。

なお、本展図録によれば、本展出品の松本竣介《ニコライ堂の横の道》(1941)との出会いが「大川栄二氏が美術収集を始めるきっかけだった」とのことです。

〇第3章-2 モダンガール

糖業協会の所蔵品を中心に女性像が並んでいます。安井曽太郎《女と犬》(1940)と東郷青児《羊飼》(1935)は、いかにも「昭和モダン」という感じの作品で、本展チラシに図版が掲載されています。また、猪熊弦一郎《婦人の像》(1941)はピカソ風の作品でした。以上3点はいずれも糖業協会の所蔵品ですが、長谷川利行《婦人像》(1937)と藤田嗣治《婦人》(1950-55)は大川美術館の所蔵品です。「モダンガール」には松本竣介の作品が数多く出品されており、《婦人像A》(1942)は油彩画、他にデッサンが9点あります。

〇ヨーロッパ留学の画家たち

荻須高徳《ヴェネツィア、リオ・テ・レ・ベカリエ》(1935)始め5点の大川美術館所蔵品を展示しています。

◆第4章 人の形-肖像画から人間像へ(多目的室A・2階)

多目的室Aでは、戦中から戦後の作品を展示。最初の作品は、松本竣介《自画像》(1943頃)です。7月27日(土)22:00に放送された【新美の巨人たち】「松本竣介・立てる像×緒方直人」を思い出しました。番組では松本竣介について、俳優の緒形拳が息子・緒方直人に「名前だけでも覚えておけ」と言った話や緒形拳が松本竣介の遺族宅を2度訪れて、遺されたデッサンを熱心に見ていた話が紹介され、《立てる像》を所蔵している神奈川県近代美術館の長門佐季・館長も出演していました。

この外、印象に残ったのは、戦死した息子を描いた清水登之《育夫像》(1945)、福沢一郎《作品》(1957)、秀島由己男の油彩画《コマと太郎》(1978)と版画5点(1972~1989)、浜田知明の《初年兵哀歌(歩哨)》(1952)を始めとする版画10点などです。浜田知明の作品は、三重県立美術館で開催された「シュルレアリスムと日本」でも《初年兵哀歌-風景(一隅)》(1957)他1点を見ました。

◆第5章 まだ見てない「かたち」 ― 幻想と抽象(展示室3・1階)

第5章は、全て戦後の作品。猪熊弦一郎《Hill》(1956)や桂ゆき《作品》(1965)などの抽象画や瑛九の幻想的な版画などが並んでいます。

◆令和6年度コレクション展2期「墨色百景」(展示室4・1階)

展示室4は、藤井達吉の作品を展示しています。出品作は10点ですが、うち2点は着物。松葉を描いた《白地松葉散し着物》と梅を描いた《白地梅絵着物》です。どちらの着物も袖から背中まで柄が繋がり、見事な仕上がりでした。作品の解説については、スマホアプリ「ポケット学芸員」のお世話になりました。

◆鑑賞を終わって

本展では、最近見た三重県立美術館「シュルレアリスムと日本」、名古屋市美術館「北川民次展」、愛知県美術館「第2期コレクション展」、テレビ愛知【新美の巨人たち】で見た作家の作品との出合いがありました。不思議な縁を感じますね。

◆美術鑑賞の後は

当日は、あまりに暑くて冷たいものが欲しくなり、道を横断して西に進んだ「K庵」で、かき氷を味わいました。「季節のおすすめ」3種(柚子みりんシロップのかき氷、いちごとみりん粕ミルクのかき氷、みりん粕クリームとほうじ茶のかき氷)の中から、好きなものが選べます。温かいほうじ茶もセットなので、有難いです(注3)。入口に予約機があるので、大人・子どもの人数を入力し、予約ボタンを押すと予約番号を印刷した紙が出て来ます。順番待ちの行列に並ばなくても良いので、番号を呼ばれるまで、お土産を物色することが出来ました。

注3 URL:K庵|九重味淋株式会社 (kokonoe.co.jp)

Ron.

展覧会見てある記「アブソリュート・チェアーズ」「第2期コレクション展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.07.03 投稿

愛知県美術館(以下「県美」)で開催中の「アブソリュート・チェアーズ」(以下「本展」)と同時開催の「2024年度第2期コレクション展」(以下「第2期展」を見てきました。以下は、そのレポートと感想等です。

◆「アブソリュート・チェアーズ」

県美に入り、廊下の奥に目をやると木箱が見えます。それが本展の目印。木箱に近寄ると、本展の受付がありました。この木箱は、本展の出品作家・副産物産店が制作した《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》(2024)。県美が使っていたロダンの彫刻の運搬箱に4本の脚をつけて「椅子」に仕立てた作品で、座ることも出来ます。運搬箱には彫刻の写真等が貼ってありました。

本展のタイトル「アブソリュート・チェアーズ:Absolute Chairs」は「唯一・絶対な椅子」という意味ですが、前記の《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》を見ると「反語的なタイトル」と思われます。「椅子」を主題にした展覧会ですが、本年4/18-5/5にジェイアール名古屋タカシマヤで開催された「椅子とめぐる20世紀のデザイン展」URL:椅子とめぐる20世紀のデザイン展 (takashimaya.co.jp) とは違い、岡本太郎《座ることを拒否する椅子》等が並ぶ「へそ曲がりの展覧会」です。でも、それが本展の魅力。「椅子とは何か」を考えさせる仕掛けがいっぱいでした。

★第1章 美術館の座れない椅子 Unsittable Chairs in Museum

本展は5章で構成。第1章のタイトルが「美術館の座れない椅子」。メインの作品がマルセル・デュシャン《自転車の車輪》(1913/1964)というのですから、挑戦的ですね。《自転車の車輪》と椅子の関係ですが、自転車の車輪の台座は4本脚の「丸椅子」なのです。見方を変えれば「椅子を使った作品」とも言えます。しかし、この丸椅子は「台座」ですから、人は座れません。その横に展示の竹岡雄二《マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1913)へのオマージュ》(1986)に描かれているのは「丸椅子」だけ、「自転車の車輪」は影も形もありません。シュールですね。

草間彌生《無題(金色の椅子のオブジェ)》(1966)は木製の椅子。しかし、詰め物の入った金色の小袋で覆われており、座ることは出来ません。なお、豊田市美術館の「コレクション展」では、この作品と同シリーズの《チェア》(1965)を、9/23まで展示中です。岡本太郎《座ることを拒否する椅子》(1963/c.1990)は5個で1組。「座ることを拒否」とはいえ、オレンジと黒だけは座ることができます。ジム・ランビー《トレイン イン ヴェイン: Train in Vain》(2008)は、切断した中古の椅子を組立て、バッグをぶら下げた作品。本展のチラシに使われていますが、椅子の機能としては「in vain=むだな」オブジェ。Absolute Chairsとは真逆ですが、それが狙いなのでしょう。

★第2章 身体をなぞる椅子 Tracing the Human Body

最初の作品は、フランシス・ベーコン《Triptych(三連画)》1974-77と《座れる人物》(1983)。崩れた人物を描いた作品ですが、ちゃんと椅子に座っています。アンナ・ハルブリン《シニアズ・ロッキング:Seniors Rocking》(2005/2010)は、ロッキングチェアに座った高齢者のエクササイズを撮った映像作品。水鳥の群れが水面に下りる場面もあります。

一番目立つのは檜皮(ひわ)一彦《Knitting_record [SPEC_APMoA]》(2023-2024)ですね。本展は「walkingpractice/CODE:Kitting_record [SPEC_APMoA]」という「ワークショップ」の参加者を本展のチラシで募集。その内容は、本展出品作家・檜皮一彦と共に「車いす編み機」を連れて名古屋の街を歩くというもので、実施は7/27(土)でした。本展では、ワークショップで使用した車いす編み機(車いすの動きに連動して円筒状のマフラーを織る機械)と編んだマフラーを展示。名古屋市の観光名所(名古屋城、名古屋市科学館、名古屋市美術館、愛知県美術館、セントラル・ブリッジ等)を巡ったワークショップの記録映像も併せて展示しています。当然ですが、本展チラシに掲載の画像は7/27に実施のワークショップのものではなく、埼玉県立近代美術館で実施した「荒川河川敷から埼玉県立近代美術館を目指して約7㎞の道のりを歩いた」イベントの写真です。

★第3章 権力を可視化する椅子 Chairs to Visualize Authority

最初の作品は、有名な現代美術コレクター夫妻を石膏で型撮りした肖像=ジョージ・シーガル《ロバート& エセル・スカルの肖像》(1965)です。夫妻が座っているソファが玉座(ぎょくざ)の役割を持ち、二人の権威を可視化する、という仕掛けになっているようです。クリストヴァオ・カニャヴァート《肘掛け椅子》(2012)は、写真だと分かりにくいのですが、実物を見れば、銃の部品を組み立てたアームチェアだと分かる作品です。アンディ・ウォーホル《電気椅子》(1971)は、新聞記事を元にしたシルクスクリーンの版画が10点。Wikipediaによると、電気椅子は絞首刑に代わる「人道的な死刑執行方式」として採用されたもの。映画『グリーン・マイル』(主人公の看守は死刑執行も担当)では、木製の椅子に被執行者を座らせて革ベルトで拘束し、高圧の電気を流す様子も描かれており、刑を執行する手順を一つ抜いて悲惨な結果になった場面は衝撃的でした。

ミロスワフ・バイカ《φ51×4, 85×43×49》(1998)は、電気コードで宙吊りになった椅子。作品名のφ51×4は、腕輪(椅子に取付け)と足元の足輪のサイズでしょうか? また、85×43×49は椅子のサイズでしょうか? 足元の大きな輪の中には塩。拷問具の雰囲気が漂っています。渡辺眸(ひとみ)の《東大全共闘 1968-69》は、安田講堂に立て籠もった全共闘の記録写真です。安田講堂の長椅子を取り外してバリケードにした写真は、見るからに痛々しいものでした。

★第4章 物語る椅子 Narrative Chairs

一番目立つ作品は宮永愛子《waiting for awaking – chair》(2017)。大原美術館を創設した実業家・大原孫三郎の別邸(有隣荘)で使われていた椅子をナフタリンで造形し、透明な樹脂に封じ込めた作品です。作品の説明には「樹脂に貼られたシールをめくるとナフタリンが気化する」と書いてあります。ナフタリンが全て気化すると、椅子の跡は空洞。シールで封印されている間、作品は目覚めを待っている(waiting for awaking)ということでしょうね。

潮田登久子(うしおだ・とくこ)《マイハズバンド》シリーズから、10枚(9/2021~1984/2023)の写真を展示。写真は、夫(島尾伸三・写真家、作家。父親は作家・島尾敏雄)と娘(しまおまほ・現在は漫画家)の日常風景を撮影したものですが、本展では、出品作に写り込んだ椅子に焦点を当ててるようです。確かに、写り込んだ椅子には存在感があります。

名和晃平《PixCell-Tarot Reading (jan.2023)》は、無数の透明な球体で覆われた椅子。韓国の作家YU SORA《my room》(2019)の連作4点は、綿を入れた白布に黒糸で、椅子に掛けた衣服を刺繍した作品。椅子に掛けられた衣服が何かを語りかけてくるようです。

★第5章 関係をつくる椅子 Chairs Which Establish Relationships

6展示室から8展示室に作品を展示していますが、オノ・ヨーコ《白いチェス・セット/信頼して駒を進めよ》(1966/2015)の展示場所は廊下の突き当り。タイトルどおり、チェスの駒は白・黒のセットではなく白・白のセットなので、先手・後手の駒を区別するには、自分の記憶と対戦相手への信頼だけが頼りです。正に、信頼の上に成り立つ「平和的なチェス・セット」ですね。

6展示室のミシェル・ドゥ・ブロワン《樹状細胞》(2024)は会議用の椅子で組み立てた球体。椅子の脚は全て外を向いているので、コロナウイルスのような攻撃的な物体に見えます。

7展示室には、本展受付の前に置かれていた《Absolute Chairs #1_rodin’s crate》(2024)と同じ、副産物産展が制作した廃材を使った作品が並んでいます。ダイアナ・ライヒ《Interventions》(2020-)の連作写真は、人が公園ベンチに寝そべることを防ぐため、わざわざ中央部に肘掛けを取り付けたベンチなど、いわゆる「排除アート」を撮影したものです。花で装飾したベンチもありますが、底意地の悪さが透けて見えます。

8展示室は、映像作品《Re:ローザス!》を展示。《Re:ローザス!》はTVモニターで上映。この外、壁面にダンスワークショップ 「《Re:ローザス!》を踊る!」で募集したメンバーによるパフォーマンスを投影しています。上記のワークショップは本展のチラシで参加者を募集し、7/23~7/25に開催。ローザス創設メンバーの一人・池田扶美代氏が講師となって椅子を使ったダンスを講習。ワークショップに参加したメンバーは、覚えたダンスを芸文センター1階、2階、10階のロビーで披露。8展示室の映像は、ダンスワークショップで撮影したものを編集したようです。知り合いが写っているかもしれませんね。

(参考資料)埼玉県立美術館で開催された「アブソリュート・チェアーズ」展覧会評のURL

本展が巡回した埼玉県立近代美術館の展覧会評はネットで検索することができます。なかでも、以下に掲げた2つのURLは会場写真も掲載されているので、参考になると思われます。

「アブソリュート・チェアーズ」(埼玉県立近代美術館)レポート。ウォーホルやベーコン、名和晃平らの作品を通じて「椅子の絶対的魅力」に迫る|Tokyo Art Beat

芸術家たちは椅子を使って何を表現したか。 「アブソリュート・チェアーズ」 | FEATURE【アートニュース・特集記事】 | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ (artagenda.jp)

◆2024年度第2期コレクション展

本展を鑑賞した後、同時開催の第2期展も鑑賞しました。通常なら企画展を開催する展示室を使っているので会場が広く、内容も見ごたえのあるコレクション展でした。いつもより質・量ともに多く「推し」の展覧会ですね。以下のとおり、4つの章で構成されています。

★県美の名品、裏話(展示室2)

グスタフ・クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》(1903)、マックス・エルンスト《ポーランドの騎士》(1954)などの名品が目白押しですが、ポール・デルヴォー《こだま(あるいは「街路の神秘」)》(1943)の隣には、キャンバスの裏に描かれたものの、黒く塗りつぶされたデルボー夫妻の肖像画のX線写真も展示しています。正に「裏話」です。

★木村定三コレクション 加藤孝一のセラミック(展示室2)

作品リストには「木村定三が愛好した多数の焼き物作品をご紹介する、当館で受贈後初となる特集展示です」と書かれていました。

★明治から昭和初期の洋画(展示室2)

黒田清輝《暖き日》(1891)の解説を読み、高橋由一《厨房具》(1878-79)と見比べて「旧派」「新派」の違い(断絶?)を実感しました。古賀春江《夏山》(1927)、藤田嗣治《青衣の女》(1925)、里見勝蔵《裸婦》(1928₋29頃)、猪熊弦一郎《馬と裸婦》(1935)など、「また会えて良かった」と感じる作品が並んでいました。

★明新制作派協会彫刻部の創立メンバーたち(展示室3)

本郷新、柳原義達、舟越保武、佐藤忠良という重鎮の作品が並ぶ中、舟越桂の作品は《つばさを拡げる鳥がみえた》(1985)、《肩で眠る月》(1996)の2点。故人を追悼する思いを込めて作品を鑑賞しました。

Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館「エッシャー 不思議のヒミツ」  

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

 2024.07.24 投稿

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「エッシャー 不思議のヒミツ」(以下「本展」)に行ってきました。以下は本展のレボートと感想です。

◆本展の会場構成

 本展の会場は1階の展示室6~8。受付で観覧券を受け取ると、展示室8に案内されます。

〇1章 デビューとイタリア Debut and Italy

1章の展示は、初期の作品とイタリア滞在時に制作した作品です。エッシャーは「だまし絵のグラフィックデザイナー」と思っていたのですが、1章の作品を見て「エッシャーはすぐれた技量の版画家だ!」と強く感じました。当たりすぎる感想ですね。

1章前半=初期の作品のうち《イースターの花》(1921)の連作は、精細な図柄を彫った、白と黒のコントラストが鮮やかな木版画です。ただ、120mm×90mmという小さな画面(ハガキは148mm×100mm)なので、近づかないと細かいところまではよく見えません。《エンブレマータ》(1931)の連作になると、少し大きく(180mm×140mm)なります。

1章後半=イタリア滞在中に制作した作品は、明るい部分と暗い部分のコントラストをうまく使った大判の風景画です。《サン・ミケーレ・デイ・フリゾーニ聖堂(ローマ)》(1932)は、近景のサン・ミケーレ・デイ・フリゾーニ聖堂を多くの線を使って黒く描き、遠景のサン・ピエトロ大聖堂を細い線を使って白く描いています。このように彫り方を変えることで、遠近感が際立っています。435mm×491mmというA2(420mm×594mm)に近い画面なので、遠くの小さな建物もはっきり見えます。風光明媚な村を描いた《スカンノの街路、アプルッツィ地方》(1930)も近景の黒い人物から遠景の山頂までの黒から白までの階調描き分けにより、奥行きと遠近感を強く感じる作品です。少し大きな画面(627mm×431mm)で、見応えがあります。

〇2章 テセレーション(敷き詰め)Tessellations

「エッシャー」と聞いて思い浮かべるのは、2章以降の作品です。2章のタイトル「テセレーション」は、幾何学においては「タイル張り」(出典:タイル張り – Wikipedia)とも呼ぶようです。

《平面の正則分割1》(1957)は、画面を分割して1~12の番号を付け番号順に、①分割されていない平面、②平行四辺形に分割、③市松模様の平面へと変化し、最後の⑫では白いトビウオと黒い鳥を敷き詰めた画面になっています。番号順に眺めると、変化が面白くて見飽きません。《平面の正則分割Ⅵ》(1957)では、画面の一番上は1匹のトカゲですが、画面下に向かうに従って、同じ形を繰り返しつつ、次第に縮小し、数を増やしながら、最後は小さな黒と白の三角形の組み合わせになります。

《太陽と月》(1948)は、貼り付ける絵が違う作品で、おまけに多色刷りという作品でした。《蛇》(1969)は、エッシャー最後の作品で、最も完成度が高いそうです。

〇3章 メタモルフォーゼ(変容)metamorphosis

《昼と夜》(1938)は、昼の景色と夜の景色を一つの画面に描き、しかも昼から夜へ、夜から昼への変化も描いた有名な作品です。会場には、細部までよく観察できるように、大きく引き延ばした画像を展示しています。大画面だと少し離れ、時間をかけてじっくり眺めることが出来るので、良いですね。

〇4章 空間の構造 The structure of space

一番目を引いたのは《写像球体を持つ手》(1935)。左手で支えた球体の中に、エッシャーを取り巻く世界が全て写っているという不思議な作品です。入場者がこの作品の中に没入した写真を撮影できるコーナーもありました。表と裏が繋がっている世界を描いた《メビウスの輪Ⅱ(1963)》も面白い作品です。

〇5章 幾何学的なパラドックス(逆説)Geometric paradoxes

平面的な袖から陰影を施した立体的な手首が出てきて、平明的な袖を描くという《描く手》(1948)は、いわゆる「だまし絵」です。4章を象徴する作品だと思いました。我々が絵を見ると、陰影の付け方や大きさの違い、色彩の濃淡から、明るい方が上で暗い方が下、大きなものは近い、小さなものは遠い、濃い方が近く、淡い方が遠い、などと無意識に判断して頭の中で立体像を作り上げます。陰影を施した手首は「立体」と判断できますが、輪郭線だけで描いた袖はペチャンコです。このような人間の認識の「癖」を逆手にとって、不思議な世界を描くのが「だまし絵」です。そして、私たちは「だまし絵」にだまされることが大好きです。

 《物見の塔》(1958)に描かれた三階建ての塔は、一見すると不思議な要素はありません。しかし、よく見ると平行になっていると思われた二階と三階は90度ねじれています。二階と三階をつなぐ柱も変です。三階手前側の角(かど)に繋がっていた柱は、二階になると奥の角(かど)に繋がり、柱は斜めになっています。《物見の塔》は大きく引き延ばした画像も展示されています。大画面だとねじれ具合がよく分かります。《滝》(1961)は、本展の垂れ幕に使われていました。

・蓮實重彦『伯爵夫人』にも登場するドロステ社のココア缶(1904年デザイン)

 5章ではエッシャーがデザインしたドロステ社のココア缶も展示。それは、2016年に第29回三島由紀夫賞を受賞した蓮實重彦『伯爵夫人』の中に出て来たココア缶でした。

〈(略)伯爵夫人が語り始めたのは、和蘭陀(オランダ)製のココアの話だった。(略)あの缶に謎めいた微笑を浮かべてこちらを見ているコルネット姿の尼僧が描かれていますが、誰もが知っているように、その尼僧が手にしている盆の上のココア缶にも同じ角張った白いコルネット姿の尼僧が描かれているので、この図柄はひとまわりずつ小さくなりながらどこまでも切れ目なく続くかと思われがちです。(略)〉(出典:『伯爵夫人』蓮實重彦 新潮文庫 平成31年1月1日発行 p.83)

 小説では、切れ目なく続く無限連鎖は尼僧の視線が断ちきっている、尼僧が見つめているのは戦争以外の何ものでもない、と伯爵夫人が語る場面が続きます。そして、ココア缶はその後、何度も登場。なお、『伯爵夫人』は周りに人がいない所で、こっそりとお読みください。

〇6章 依頼を受けて制作した作品

6章では、依頼を受けて制作した蔵書票、グリーティングカード、切手などを展示しています。

◆展示室6、7

 展示室6は「鏡の迷路」を展示。小さな部屋ですが、中に入ると、かなり戸惑いました。どちらに進んだらよいか、すぐには判断できないのです。

展示室7では、床と垂直に立っているつもりなのに倒れそうになり、人の身長が違って見える「相対的な部屋?」(別の名前かも)を展示しています。

展示室6、7は、いずれも遊園地のアトラクションのような仕掛けで、とても楽しめます。子どもの入場者が多いと、長い行列ができるかもしれませんね。

◆展示室5(2階、コレクション展)

 コレクション展を開催している2階・展示室5でもエッシャー《方形の極限》(1964)と「《方形の極限》の版木(1956)」を展示しています。テセレーション(敷き詰め)の作品で、同じパターンが4回繰り返されるため、版木は作品を四つに割った三角形。赤色印刷用・黒色印刷用の2種を展示しています。版木も展示しているので、本展が「面白い」と思ったら、コレクション展も併せて見ると良いでしょう。

◆最後に

 当日は平日の午前中でしたが「入場者が多い」と感じました。本展の2章以降は「タイルの敷き詰め」や「だまし絵」のような作品が並ぶので「肩の力を抜いて楽しめのではないか」と期待して来場する人が多いのでしょう。作品を鑑賞する以外に、「試してみましょう」という質問に答えることで「人間の認識の癖」を知ることが出来る体験型のパネルで遊ぶこともできます。とはいえ、一番の収穫は、1章の展示で「すぐれた技量の版画家・エッシャー」を知ることができたことです。

Ron

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