三重県立美術館「シュルレアリスムと日本」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

2024.06.23 PM1:00~2:30

6月23日(日)に、三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」(以下「本展」)の協力会ミニツアーが開催され、参加者は10名でした。

当日の天気予報は「雨」。津駅から三重県美までは10分以上坂道を歩かなければならないので「雨に降られたら、いやだな」と恐れていましたが、何とか傘のお世話にならずに済みました。有難いことです。

ミニツアーの集合時刻は午後1時、集合場所は三重県美地下1階・講堂前でした。前回、三重県美で開催したミニツアーは2019年10月6日の「シャルル=フランソワ・ドービニー展」で、12名が参加しました。今回のミニツアーは、コロナ禍を挟んで5年ぶりの開催です。

当日は、講堂で速水豊・三重県立美術館館長(以下「館長」)のレクチャーを聴いた後、一旦、自由観覧。午後2時から館長のギャラリートークが始まったので、ミニツアー参加者は他の来館者に混じってギャラリートークを聴いてから、自由解散となりました。以下は、ミニツアーの概要です。

◆館長のレクチャーの概要(地下1階講堂)PM1:00~1:35

1 2024年は「シュルレアリスム宣言」100年

「シュルレアリスム」は1920年代にフランスで始まる。最初は文学運動。1924年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表。2024年は「シュルレアリスム宣言」100年に当たる、との解説でした。

2 本展のねらい

館長は「本展のねらいは、戦前の日本のシュルレアリスム運動を見てもらうこと」と解説。戦前のシュルレアリスム運動の全貌にフォーカスした展覧会は、1990(平成2)年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」。本展は34年ぶりのシュルレアリスム展になる、とのことでした。

3 序章 シュルレアリスムの導入

 館長からは、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスムと絵画』を1928年に発表した後、日本では1930年に滝口修造が『超現実主義と絵画』を翻訳し、いち早く取り入れている、との解説がありました。

4 第1章 先駆者たち

館長は、古賀春江《鳥籠》(1929)について「不可思議で驚きを生み出すイメージを描いている」と紹介。具体的には、画面左の鳥籠のなかのヌード、右下の白鳥、右上の機械。「不思議なイメージではあるが、組み合わせの解釈に正解はない。見る者が想像力を働かせて解釈すればよい」との解説がありました。

深沢一郎《他人の恋》(1930)について、館長は「深沢一郎は、1924~31年にフランスに滞在。1931年に開催された独立美術協会の第1回展に37点の絵画を出品。シュルレアリスムを本格で気に導入した画家で、シュルレアリスムに関する文章を発表し、シュルレアリスムを広めたリーダー、と紹介。

なお、二科展に出品した東郷青児、阿部金剛の作品については、「本人は、シュルレアリスムとは思っていない」とのことでした。

5 第2章 衝撃から展開へ

館長は、三岸好太郎《海と射光》(1934)について「亡くなる少し前に描いた、シュルレアリスムの傑作。貝殻と裸婦、海岸を組み合わせた、作家の代表作」と解説。飯田操朗(みさお)《婦人の愛》(1935)については「第5回出品され、独立賞を受賞」との解説でした。

6 第3章 拡張するシュルレアリスム

館長は、1930年代半ばから1937年頃について「集団で盛り上がっていった時代」と解説。滝口修造、山中散生、大下正男が写った写真を投影し「1937年に開催された海外超現実主義作品展・東京展の写真」と紹介。「実物の展示は少なかったが、複製や写真が200点以上並んだ展覧会で、東京・大阪・京都・名古屋・福井を巡回した」との補足がありました。

米倉壽仁(ひさひと)《ヨーロッパの危機》(1936)については「時代の社会的背景を示した作品。画面中央はヨーロッパの地図。地図の周りに馬。地図の裂け目からは色々なものが飛び出ている。スペイン内乱、ナチス政権誕生など、当時の世界の状況を意識」と解説。北脇昇《独活(うど)》(1937)については「作家は、京都で制作。作品は、ダリのダブル・イメージ(一つの物で、二つのイメージを表現)を取り入れている。二本の独活は、植物として描くだけでなく、二人の人物をイメージさせる」と解説。大塚耕二《トリリート》(1937)については「当時、まだ学生。この時期のシュルレアリスム運動を支えたのは画学生。帝国美術学校(武蔵野美術学校の前身)の「表現」というグループ。メンバーは、大塚耕二、浅原清隆など6名で、浅原清隆《多感な地上》(1939)は本展のポスターに使用。《多感な地上》では、ハイヒールから犬が出て来るし、女性のリボンは鳩に変身する。なお、清原は出征してミャンマーで行方不明になった。メンバーの半数は戦死。」との解説がありました。

7 第4章 シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで

館長は「日本が軍事体制に突入すると、シュルレアリスムは軍国主義に反するものとして、弾圧された」と解説。靉光(あいみつ)《眼のある風景》(1939)については「近代美術史の中でも重要な作品」と解説。北脇昇《周易解理論図(泰否)》(1941)については、「『図式』絵画と呼ばれ、周易の八卦図や色彩学などの概念に基づいて描いた作品」と解説。また、「福沢一郎と滝口修造は、シュルレアリスムと共産主義の関係を疑われて拘束された」との解説でした。

8 第5章 写真のシュルレアリスム

館長は山本悍《題不明(《伽藍の鳥籠》のヴァリエーション》(1940)と坂田稔《危機》(1938)を紹介。

9 第6章 戦後のシュルレアリスム

館長は、岡本太郎《憂愁》(1947)について「岡本太郎は1930年代のパリで、シュルレアリスムの活動に参加した唯一の日本人」と解説。山下菊二《新ニッポン物語》(1954)について「戦前、福田一郎の下で学び、シュルレアリスム的手法を引き継いだ作家。ただし、この作品はルポルタージュ絵画と呼ばれ、シュルレアリスムとは呼ばれない」と解説しています。

10 本展出品の作品・資料について

最後に館長から「本展出品の作品は110点ほど、資料は80点ほど。作品だけでなく、資料も見て欲しい」との話があり、レクチャーが終わりました。

◆館長のギャラリートークの概要(1階 第1室・第4室)PM2:00~2:25

館長のレクチャーが終わり、ミニツアー参加者が本展を鑑賞していると、「間もなく、午後2時から館長によるギャラリートークを始めます。参加を希望される方は、1階展示室入口にお集まりください」という放送が入りました。急いで集合場所に向かうと、50人近くの人数が集まっています。三重県美の係員の誘導で展示室内に移動すると、館長が登場。午後2時からギャラリートークが始まりました。

ギャラリートークは、① 展覧会全体の説明と② 第4室の作品の解説の2部構成でした。

① 展覧会全体の説明

館長の解説によれば、アンドレ・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表して、シュルレアリスムが始まった。シュルレアリスムが始まるとヨーロッパ全体に広まり、その後、全世界に広まる。20世紀では一番広い影響を与えた活動。シュルレアリスムは文学活動として始まったが、美術その他にも広がった。シュルレアリスムは、理性の及ばない無意識の領域に着目した。日本では、1920年代後半からシュルレアリスムの活動が始まる。本展は主に戦前期と戦後の、主に絵画作品を時代順に展示。展示ケース内には文学作品も並べている、とのことでした。

第1室から第2室にかけての展示については、「第1章 先駆者たち」「第2章 衝撃から展開へ」「第3章 拡張するシュルレアリスム」。第3章では、シュルレアリスムが集団的な運動へ変化し、学生たちの活動が活発になる、との解説がありました。また、第3室の内容については「第4章 シュルレアリスムの全盛期から弾圧まで」。日中戦争が始まり、前衛的な表現は弾圧され、消滅していく。多くの画家が、戦争で死亡した、との解説があり、第4室の内容については「第5章 写真のシュルレアリスム」と「第6章 戦後のシュルレアリスム」とのことでした。

② 第4室の作品の解説

第1室でのギャラリートークが終了し、参加者は第4室に移動。第4室で館長が解説したのは第4章の作品のうち、矢崎博信《時雨と猿》(1940)でした。館長によれば《時雨と猿》は、矢崎の描いた最後の大作とのこと。本人は、乗り組んだ輸送艦が魚雷を受けて戦死した。しかし、戦地に赴く前に郷里に戻り作品を置いてきたので、遺族の元に、かなりの作品が残っていた。矢崎は俳句とシュルレアリスムの関係を論じた文章を残しており、この作品は松尾芭蕉「猿蓑」の発句、「初時雨猿も小蓑をほしげ也」を元にしている、と解説されました。

北脇昇《周易解理図(泰否)》(1941)については、図式で思想を表す「『図式』絵画」と説明。周易の八卦の記号と色環の組み合わせで思考を表現した作品は、近年、注目されている。このような表現をした作家は、1940年代には一人だけだった、との解説でした。

「第6章 戦後のシュルレアリスム」については「戦前から活躍している作家に限って展示」と解説。岡本太郎《憂愁》(1947)については、1930年代に欧州のシュルレアリスム展覧会に出品した唯一の日本人。第二次世界大戦の開始で帰国。召集されて中国戦線で戦った。戦前の作品は空襲で全焼。作品は、白旗と頭部を描いているが、これは悲しみの表現、との解説がありました。

山下菊二《新ニッポン物語》(1954)については、福沢一郎の研究所に通った戦前からのシュルレアリスト。戦後にルポルタージュ絵画を制作。ルポルタージュ絵画はシュルレアリスムではないが、シュルレアリスム的表現の作品。画面右下に描かれた、口紅を塗りハイヒールを履いた犬の前に ”Yellow Stool” という言葉が書かれている。これは「日本人娼婦」の隠語、犬の頭と尻尾をつかんでいるケダモノは米兵を象徴、との解説があり、高山良作《矛盾の橋》(1954)については、イサム・ノグチが欄干を設計した橋、原爆ドーム、丹下健三が設計した平和記念館を描いている、広島の戦後の状況を描いた作品。高山は円谷プロで怪獣の造形を手掛けた、との解説がありました。

最後に館長は、寺山修司、つげ義春について、シュルレアリスム的なものが引き継がれている、と解説。以上で、ギャラリートークは終了しました。

◆ギャラリートーク終了後の感想など

ギャラリートーク終了後は、《新ニッポン物語》と《矛盾の橋》に話題が集中。《新ニッポン物語》では「どぎつい描写」について、《矛盾の橋》では「館長の解説が無かったら何を描いた作品か分からなかった」ということを中心に、各人の感想が交わされました。

なお、広島市の公式ホームページ(注)を見ると、高山良作が描いたのはイサム・ノグチが設計した2つの橋の欄干のうち「平和大橋」の欄干のようです。欄干は橋詰で上に反り、ラッパのように大きく広がっています。《矛盾の橋》では、欄干がラッパのように広がった部分の上に円盤が置かれ、その上にドーム状の構造物が載っています。高山良作が描いたドーム状の構造物ついては、何を意味しているのか、今でも不明です。

注:平和大橋・西平和大橋の欄干について – 広島市公式ホームページ|国際平和文化都市 (hiroshima.lg.jp)

◆2階・常設展に展示された「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品

 2階・常設展でも「シュルレアリスムと日本」出品作家の作品を展示しており、「撮影画像のSNS投稿OK」の作品もありました。そのうち、三岸好太郎《二人の道化》(1931)を見て、碧南市藤井達吉現代美術館で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」に出品の同《少年道化》(1929)を思い出しました。

◆最後に

本展が「1990年に名古屋市美術館で開催された「日本のシュールレアリスム:1925-1945」以来、34年ぶりに開催されたシュルレアリスム展と聞いて、ミニツアーに参加した意義があったと思いました。名古屋市美術館の所蔵作品も展示されています。

なお、本展のプレスリリースのURLは下記のとおりです。

URL: 001127362.pdf (mie.lg.jp)

Ron.

三岸好太郎《二人の道化》(1931)

展覧会見てある記「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」碧南市藤井達吉現代美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2024.06.20 投稿

中日新聞6月4日・6日の県内版に碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)で開催中の「春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」(以下「本展」)の出品作品紹介記事が掲載されました。4日の紹介記事は岸田劉生「童女図(麗子立像)」(1923)について「岸田のいう『グロテスクな美』が見る者に強い印象をあたえます」と書き、6日の紹介記事は大澤鉦一郎「少女海水浴」(1932)について「緻密に計算された画面構成が、画の面白みを引き立てます」書いていました。

この記事に促され、直ぐに美術館へ行きましたが、会期中に展示替えがあって、後期展示(6.18~7.7)の作品も多数あると分かりました。そこで、後期展示の開始を待って、再度、美術館に足を運びました。以下は、前期展示・後期展示を合わせての報告・感想です。

◆1階ロビーには

美術館に入った時、1階ロビーに開設された ”PHOTO STOP” が目に留まりました。壁に、大きく引き延ばした木村荘八《私のラバさん》(1934)が貼られ、その前に看板が立っています。ここで記念写真を撮影したら、スポットライトを浴びて、ステージに立っているような気分になるでしょうね。ただ、当日は平日の午前中。来館者は高齢の夫婦が中心なので、記念撮影に興じている人は居ませんでした。

◆2階の展示

本展の入口は2階です。踊り場と2階ロビーには本展チラシの表と)同じデザインのパネルが掲げられています。踊り場のパネルの絵は岡鹿之助《窓》(1949)、2階ロビーのパネルの絵は中川一政《向日葵》(1982)でした。

〇第Ⅰ章 始動:第3の洋画団体誕生(展示室1)

第Ⅰ章の解説には、春陽会は帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として1922年(大正11)に誕生。会員は小杉放菴、森田恒友、梅原龍三郎始め7名、客員は岸田劉生、木村荘八、中川一政始め8名で、1923年4月に第1回展が開催された、と書かれていました。

展示室に入ると、春陽会設立趣意書と春陽会発足の記念写真、絵葉書が展示され、最初の作品は小杉放菴《双馬図》(1925)。淡い色彩の作品で、日本画のような趣があります。その反対側の壁に展示されているのは萬鐵五郎《高麗山の見える砂丘》(1923頃)、カラフルな作品です。萬鐵五郎の作品は第Ⅱ章にも5点展示しています。このほか、面白いと感じたのは、竹ざるに入った鰯3匹を描いた、小林徳三郎《鰯》(1925頃)。竹ざるが光を放っているのです。岸田劉生の作品は《童女図(麗子立像)》始め8点。豊田市美術館所蔵の《鯰坊主》(1922)や椿を描いた作品などの油彩だけでなく、絹本着色の《白狗図》(1923)も見ることができました。梅原龍三郎はヌード2点の外に風景画もありました(前期《榛名湖》(1924)、後期《カンヌ》(1921))。

第Ⅰ章の最後に、一宮市三岸節子記念美術館所蔵の三岸節子《自画像》(1925)に出会いました。隣は三岸好太郎《少女》(1924)という組み合わせです。

〇第Ⅱ章 展開:それぞれの日本、それぞれの道(展示室1~2)

第Ⅱ章の解説には、岸田劉生が春陽会を去ったこと、三岸好太郎らの若手が研鑽を積んだこと、萬鉄五郎が亡くなったことなどが書かれていました。

第Ⅱ章も、最初の展示は小杉放菴の作品2点。うち、《羅摩物語》(1928)の服装はインド風。調べると「ラーマーヤナ」の一場面のようです。萬鉄五郎の作品は、墨絵の《わかれ道》(1922頃)の外、《荒れ模様》(1923)とヌード3点。うち、《羅布かづく人》(1925)の顔は、どういう訳か「のっぺらぼう」でした。萬鉄五郎のヌードは、いずれも「美しく描こう」とは思っていないところが注目すべき点です。第Ⅱ章前半では外に、ピエロを描いた三岸好太郎《少年道化》(1929)に目が留まりました。

第Ⅱ章後半の作品は、展示室2に展示されています。ロビーの記念撮影コーナーで見た《私のラバさん》は展示室2に展示。同じ作者の《パンの会》(1924)にはレストランでの宴会風景を描いたと思われ、芸者2人の前で三味線を弾く男の姿が目を引きます。中日新聞が紹介した《少女海水浴》は1m×1.5m程の大画面でした。3点とも面白い作品です。

〇第Ⅲ章 独創:不穏のなかで(展示室2)

第Ⅲ章の解説には、石井鶴三、木村荘八、中川一政が挿絵で活躍した、と書かれています。

展示は、倉田三郎《春陽会構図》(1937)から始まります。描かれた人物の名前を記した図も付いているので、しばらくの間、描かれた人物と名前との照合作業に追われました。第Ⅰ章、第Ⅱ章でも登場した小杉放菴は日本画の《松下人》(1935)を展示。「挿絵」では資料として書籍(「人生劇場」、「宮本武蔵挿絵集」、木村荘八が口絵を描いた「明治一代女」「墨東奇譚」)と「墨東奇譚」の予告記事を展示しています。中川一政による尾崎士郎著「人生劇場」の挿絵は4点。小説「人生劇場」については、三州吉良(現:西尾市吉良町)出身で早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いたという以上は知らない、ということを再認識しました。石井鶴三による吉川英治著「宮本武蔵」の挿絵も4点。ここでは、佐々木小次郎、沢庵和尚、お通といった登場人物が分かるだけで、どの場面を描いたのかは不明のままでした。木村荘八による永井荷風著「墨東綺譚」の挿絵は9点。前期・後期で総入れ替えです。うち、前期の《挿絵9》(1937)だけは、玉の井の部屋にいる主人公とお雪を描いたと分かりましたが、残念ながら、他の挿絵が描いた場面については見当がつきませんでした。

長谷川潔の版画と藤田藤四郎の版画にも目を引かれました。

〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その1:中川一政と岡鹿之助=多目的室)

第Ⅳ章の展示は主に戦後の作品です。多目的室では、中川一政と岡鹿之助の作品を展示。本展チラシの表(おもて)に使われた作品は、いずれも多目的室に展示されています。二人の作家の作品だけで一室を占領していますが、作風が対照的なので楽しく鑑賞できました。

◆1階の展示

〇第Ⅳ章 展望:巨星たちと新たなる流れ(その2:建築家アントニン・レーモンドと若手の作家=展示室3)

 1階・展示室3の入口には、春陽会展示会場で展示設営するアントニン・レーモンドの写真と彼の作品《題不詳[コンポジション]》(1959)が展示されていました。その内訳は、具象的な作品と抽象的な作品が半々。具象的な作品では、北岡文雄《雪の犀川》(1977:後期展示)の白と青の対比が美しく、水谷清《絵を描く女》(1953)に描かれた女性画家のインパクトが強烈でした。関頼武《失楽園》(制昨年不詳)はピカソの絵のように見えました。また、藤井令太郎《アッカドの椅子(Ⅱ)》(1957)は、首なしの彫刻と椅子が向かい合った構図で、デ・キリコの「形而上絵画」の影響を受けているように感じました。

◆補足:アントニン・レーモンドについて

・フランク・ロイド・ライトとの関係

アントニン・レーモンドは、植松三千里の小説「帝国ホテル建築物語」(PHP文庫)にも登場しています。彼は1919年末に、フランス人のデザイナー・ノエミ夫人とともに来日し、帝国ホテルの建設に携わっているフランク・ロイド・ライトの助手になります。レーモンドの仕事は、ライトが描く無数のスケッチをもとに図面を引くことでした。レーモンドが引いた図面の中から、ロイドが気に入ったものを選ぶのですが、1922年にレーモンドは独立します(Wikipediaでも1922年独立ですが、本展の解説は「来日の翌年(=1920年)独立」と書いています)。小説の中でレーモンドは「今のままでは、僕はクリエイティブなことが何もできないし、やり直しが果てしなく続いて、もう疲れました」と言い、作者は「レーモンドは命じられたことに自分の独自性を加えなければ、気が済まない。そこがライトの気に障るのだ」と付け加えています。

一方、フランク・ロイド・ライトは帝国ホテルの完成を見ることなく、1922年に帰国。再び日本の地を踏むことはありませんでした。

・南山大学との関係

アントニン・レーモンドは第二次世界大戦後に再度来日し、南山大学の総合計画(1964)と同大学の神言神学院(1966)も手がけています。(出典は、下記のとおり)

 アントニン・レーモンド – Wikipedia

 建築家 アントニン・レーモンド|南山大学 (nanzan-u.ac.jp)

 【南山大学】アントニン・レーモンド特設サイト (nanzan-u.ac.jp)

◆追加情報

碧南市藤井達吉現代美術館HP(本展チラシ、作品リスト、主な作品の図版を掲載)のURLは次のとおり。

春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ/碧南市 (hekinan.lg.jp)

Ron.

展覧会見てある記「コスチュームジュエリー」愛知県美術館

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

現在、愛知県美術館(以下「県美」)で開催中の「コスチュームジュエリー シャネル、ディオール、スキャパレッリ 美の変革者たち 小瀧千佐子コレクションより」(以下「本展」)に行ってきました。アクセサリーの展示が中心なので、女性の来館者が多く、子どもの姿もありました。

 なお、作品リストはスマホでQRコードを読み取る方式です。紙のリストが欲しい方は、事前に本展の公式サイト(URL:コスチュームジュエリー 美の変革者たち シャネル、ディオール、スキャパレッリ 小瀧千佐子コレクションより (ctv.co.jp) )からダウンロードし、印刷しておくと良いでしょう。

◆第1章 ポール・ポワレとメゾン・グリポワ

★ポール・ポワレの作品

第1章の見どころは、何といっても、ポール・ポワレがデザインした夜会用マスク・ブレスレット《深海》(1919)です。写真ではよくわかりませんが、実物を見ると「マスクのモチーフは蛸だ」とわかります。目の隙間がとても細く「本当に前が見えるだろうか?」と心配になりました。作品のキャプションには「制作:マドレーヌ・パニゾン」と書かれています。

県美では他の会場と違い《深海》だけでなく、ポール・ポワレの《イヴニング・ドレス》(1933₋35年頃)や、デザイン画も併せて出品されています。ドレスやデザイン画も展示されているので、視野が広がった気がしますね。イヴニング・ドレスは、「ハーレムパンツの上から円錐状のスカートを着ている」という感じの奇抜なスタイルです。スカートの裾には輪が入っているので、きれいな円錐形のシルエットになりますが「歩きにくいのでは?」と心配になってしまいます。

なお、本展の出品作品は基本的に「撮影可能」ですが、ドレスやデザイン画は「撮影禁止」。ドレスの図版は、公式サイトでご覧ください。

★メゾン・グリポワの作品

第1章の解説によれば、メゾン・グリポワはポワレのコスチュームジュエリーの制作を担ったジュエリー工房のひとつ。後に、ガブリエル・シャネルやクリスチャン・ディオールのコスチュームジュエリーも制作しています。シャネルのために制作したものの中では、ブローチ“蜂”モチーフ(No.92:No.は作品番号、以下同じ)や“カエル”(No.93)が、ディオールのために制作したものの中では、ネックレス“葉と藤の花”モチーフ(No.131:写真)やイヤリング、ブローチ“すみれ”モチーフ(No.138)が目を引きました。いずれも、色ガラスや針金を使った、細かい細工の美しいものです。なかでも“蜂”や“カエル”は、とても小さくて可愛らしいと感じ、宝石や貴金属を使っていなくても、美しく着飾ることができるのだと思いました。

なお、第1章「ポール・ポワレとメゾン・グリポワ」は、県美独自の章立てです。他の会場では「美の変革者たち オートクチュールのコスチュームジュエリー」の中で《深海》を展示しています。

◆第2章 美の変革者たち

 第2章には本展の副題に書かれた「シャネル、ディオール、スキャパレッリ」が登場するので、先ずは、シャネルからご紹介します。

★シャネルの作品

本展に展示されている《デイ・スーツ》《カクテル・ドレス》は、いずれも1960年頃のものです。ジャクリーヌ・ケネディもアメリカ製のシャネル・スーツを愛用していましたね。ピンク色の花に緑の葉をあしらったネックレス“花”モチーフ(No.60:写真)は、メゾン・グリポワ制作ですが、第1章ではなく第2章に展示。首にかけた状態で展示しているので、身につけた時の感じが分かりやすいと感じました。葉の緑色が良いアクセントになっています。

★スキャパレッリの作品

 ポール・ポワレに才能を見出されたスキャパレッリの《ディナー・スーツ》(1935頃)は茶色のベルベット地で、襟とポケットに金色の飾りをつけた豪華なものです。黒い《イヴニング・ドレス》(1948)のキャプションには「デザイン:ユベール・ド・ジバンシィ」と書かれています。ひざ下から広がっている女性的なものでした。ジバンシイは、スキャパレッリに師事し、1952年に独立しています。映画「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘプバーンが着ていたブラックドレスは、彼のデザインでしたね。県美では、スキャパレッリだけでなく、ジバンシィのドレスも見ることが出来ました。

ネックレス“葉”(1937:写真)も首にかけた状態でクリップ“葉”モチーフと一緒に展示されていました。キャプションには「デザイン/制作:ジャン・クレモン)」と書かれています。金色の葉がキラキラ光り、とても豪華な雰囲気があります。

スキャパレッリのコーナーには、当時のファッション雑誌も展示されており、ダリの記事も載っていました。「一見の価値あり」です。

★ディオール、イヴ・サンローランの作品

 クリスチャン・ディオールの作品は、黒の《ディナー・ドレス》(1952)とグレーの《イヴニング・ドレス》(1953)。ディナー・ドレスは腰を強く絞っているので、着る時は大変だったでしょうね。イヴニング・ドレスは一昔前のバッスル・スタイルで、お尻にボリュームがあります。復古調のスタイルですが、第二次世界大戦後ということで受け入れられたのでしょうね。ディオールに才能を見出されたイヴ・サンローランの作品は《パンツ・スーツ》(1982)です。男性のファッションであるタキシードを女性向けにアレンジしたもの。時代の空気を先取りしたファッションだと思います。

ディオール向けに制作されたジュエリーで目を引いたのは、ネックレス・イヤリング(No.115:写真はネックレス)。素材はガラスと模造パールですが、とても上品なアクセサリーです。キャプションには「デザイン:ロジェ・ジャン=ピエール、制作:ミッチェル・マイヤー」と書かれていました。

◆第3章 躍進した様式美

第3章ではパルリエ(宝飾師。宝石やコスチュームジュエリーなどを制作する職人)別に作品を展示。目を引いたのは、リーン・ヴォートラン:ブローチ“花の精”(No.206)、コッポラ・エ・トッポ:チョーカー“花火”(No.216:写真)、ロジェ・ジャン=ピエール:ネックレス(252)、リナ・バレッティ:ネックレス(No.296)などです。

◆第4章 新世界のマスプロダクション

第4章は、アメリカのコスチュームジュエリーを展示。目を引いたのは、ミリアム・ハスケル:ペンダント・ネックレス(No.324)、ケネス・ジェイ・レーン:ネックレス“ジャッキー・オナシス スタイル”(No.407)などです。

◆最後に

昨年度は名古屋市美術館「マリーローランサンとモード」でファッションの展示がありましたが、今回は展示されるファッションの点数が多いので、更に楽しむことができます。

Ron.

「吉本作次 絵画の道行き」記念講演会と「吉本さんを囲む会」

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor

現在、名古屋市美術館で開催中の「吉本作次 絵画の道行き」(以下「本展」)関連催事として、4月21(日)午後2時から記念講演会「吉本作次―絵画論」が開催されました。また、同日午後5時からは、名古屋市美術館協力会の「吉本さんを囲む会」も開催されました。以下は、その概要です。

◆記念講演会「吉本作次―絵画論」 pm2:00~3:30

会場は名古屋市美術館2階の講堂。定員180人の会場は、「見た目では満席」という状態でした。

講演会を始めるにあたり、吉本作次さん(以下「吉本さん」)は「全部乗せで行く」と宣言。講演会は、宣言どおり「盛り沢山」で、あっという間に1時間半が過ぎてしまいました。吉本さんが「全部乗せ」と言うだけあって、とても情報量が多いので、項目を絞って内容をご紹介します。

★芸術って、必要ですか?

講演の冒頭、吉本さんは講演参加者に「芸術って、必要ですか?」という質問を投げかけました。

そして、吉本さんのお答えは、「飢えている子どもや災害のときに、アートは無力。先ず必要なものは、食べる物。日本の終戦後、ガード下に登場したのは食べ物の屋台」というものでした。

ただ、それだけでは終わらず「1949年には、読売美術展(後のアンデパンダン展)が開催された。“衣食足りて芸術を知る”」と話されました。「衣食足りた状態になって、ようやく人は芸術を求める」ということですね。

「“猫を飼うことって、必要ですか?”という質問は、“芸術って、必要ですか?”という質問に似ている。どちらも、個人の嗜好性に関するものだ」という吉本さんの言葉も、含蓄の深いものでした。

★芸術もAIに乗っ取られる?

生成AIが描いた絵画が話題になる時代になりましたが、吉本さんは「世界最速の男ウサイン・ボルトと言っても、競走すれば犬より遅い。将棋のAIソフトと対局すれば、人間が負ける時代。一定のルールの中で競うことで感動が生まれる。人と人の対決は無くならない」と話されました。生成AIが商業デザインの仕事に利用されるようになるとは思われますが、芸術家の役割は無くならないだろう、と少し安心しました。

★芸術は客観性だけでは測れない

吉本さんは、美の優劣は判断基準によって変わることを、セザンヌの名作を例に話されました。古典主義の絵画が全盛時代なら、セザンヌの良さは評価されない。芸術作品の鑑賞には「見るポイント」を持つことが必要、ということでした。

「千利休の茶器の“わび・さび”の価値は、主観の為せる技。美の価値は、客観性だけでは測れない」という言葉も、心に響きました。

★現代アートは“親殺し”、一代限りのもの

ダダイズムの作品で、既製品の便器に“泉”というタイトルをつけたものがありますが、吉本さんは「現代美術は“親殺し”、前の世代の否定。絶えず“アンチ”を出すことには限界が出てくる」と話します。この言葉には、衝撃を受けました。

★吉本さんが辿ってきた道

講演会の話題は、吉本さんの経歴に移っていき、吉本さんは以下のような話をされました。

高校生の時、月刊漫画誌『ガロ』に嵌(はま)り、受験勉強は真剣に取り組まなかったので、何校も受験したけれど合格したのは名古屋芸術大学だけ。若い頃は、キース・ヘリングやバスキアが流行しており、倉庫のようなギャラリーで作品が展示されている時代。巨大な作品用のキャンバスは、既製品では手に入らないので、麻布(あさぬの)を業者に縫ってもらい、それを板に貼りつけて作品を制作。作品が雑誌『BRUTUS』の目に留まり、特集号の表紙を飾った。当時は、桑名市の鋳物工場で作品を制作。油絵具ではなくアルキッド系のインクを使用。本展に出品している当時の作品は《中断された眠りⅠ》《中断された眠りⅡ》(いずれも1985)。《Bone》(1986)は油絵具で描いた。ニューヨークに渡り、メトロポリタン美術館のブリューゲルの作品に感動。透明色を塗り重ねる「グレージング」を知る。また、ジャスパー・ジョーンズやジョン・ケージのアトリエの近くのコテージで《Goodbye Tomato》(1986)を制作した。インスタレーションの制作を繰り返し、1989年にニューヨークで個展をやってもうれしくなかった。個展のお客は少なく、落ち込むばかりで「俺は何をやっているんだ?」と思った。

★「書の勉強」が転機となった

吉本さんは「NHK教育テレビで放送していた榊漠山“書の歴史講座”が転機となった」と語ります。

講座は甲骨文字から始まり、「削る」が書の原型だそうです。粘土に甲骨文字を削る時、最初に刃物を沈め、その後、浮かせるように使うとのこと。筆と墨を使って紙に文字を書くようになると、沈めたり浮かせたりを複数回行う「多節法」が生まれる。吉本さんは「これは、そのまま絵に使える」と思ったそうです。

吉本さんは「藤原佐理(注:ふじわら・すけまさ=小野道風・藤原行成と並ぶ三蹟(三跡とも言う)の一人。藤原行成は大河ドラマ「光る君へ」に登場しましたね)が好き」とのことで、褚遂良(注:ちょ・すいりょう=唐初期の書家。虞世南・欧陽詢と並ぶ初唐の三大家・楷書の完成者の一人)、黄庭堅(注:こう・ていけん=北宋の書家・詩人)、傅山(注:ふ・ざん=明末・清初の書家・画家。唐の顔真卿、晋の王羲之の書に取り組む)、倪元璐(注:げい・げんろ=明末の書家・官僚、書を王羲之、北宋の蘇軾に学ぶ)についても紹介されました。

★テンペラから油絵へ

「書」の続きは、油絵の起源についての話です。

吉本さんによれば「油絵はフランドルが起源」とのこと。それまでの絵は、絵の具を卵の黄身を混ぜ合わせて板に絵を描くテンペラが主流。イタリアのヴェネツィア派になると、カンヴァス(帆布)を使った大きな絵を油絵具で描くようになる。ティツィアーノは白(鉛白)でハイライトを描き、その上にグレージングで透明色を塗る。北方ルネサンスもヴェネツィア派と同じとのことです。

ダ・ヴィンチ、ラファエロからアングルまで、筆跡を消すスフマートが主流ですが、ルーベンスの作品には筆跡が残されています。ルーベンスの魅力は、筆跡のS字カープ。なお、日本人の描く線はS字ですが、西洋人はS字ではなく、“C”と“裏返しのC”の組み合わせ、という違いがある。

★線について

吉本さんは、レンブラント《解体された牛》(1655)の線について「激しいストローク(注:大きく腕を振るって筆を動かすような運動間のある行為)は、長谷川等伯《松林図屏風》(1568-1600)と共通する、と話します。また、ストロークの白眉は、マネ《フォリー・ベルジェ―ㇽのバー》(1882)のチョーカーの中のストローク。「線が似ている」と感じるのは、ヴェロッキオの作品の髪と《平治物語絵巻(三条殿焼討)》(13世紀後半)の炎、ダ・ヴィンチの髪と尾形光琳《紅白梅図屏風》(18世紀)。

また「線の良し悪しは漫画を読めばいい」と話し、上村一夫の作品を投影しました。

★遠近法について

講演会の最後は、各種の遠近法=「平行遠近法」「ジグザグ遠近法」「逆行き遠近法」と絵画の構図についてのお話と、「画家は60過ぎてから!」「打ち上げでは、宴会を開く」という話をされて、講演会は終了しました。

◆「吉本作次 絵画の道行き Ⅱ」KENJI TAKI GALLARY

記念講演会の終了後、協力会の「吉本さんを囲む会」の開始までは時間があったので他の会員と連れ立って、美術館の近所(中区栄三丁目20-25、本町通の東側)のケンジタキギャラリー(URL: ケンジタキギャラリー (kenjitaki.com))で開催中の「吉本作次 絵画の道行き Ⅱ」を見てきました。

◆吉本さんを囲む会

会場は名古屋市美術館1階のスギヤマコーヒー。最初にビールやシャンパン、日本酒、ソフトドリンクで乾杯。軽食を食べながら歓談を楽しみました。吉本さんから「講演会では顔真卿の話も予定していたが、時間の関係で割愛。残念だった」という話を聞きました。「顔真卿の書は建築的」と話され、好奇心が湧きましたね。最後に吉本さんとのQ&Aタイムもあり、「宴会好き」の吉本さんだけでなく、参加した皆さん方も満足されていました。

◆「吉本作次 絵画の道行き」のレビュー(Web記事のご紹介)

本展の概要については、「美術展ナビ2024.04.21」に記事(URL:【レビュー】特別展「吉本作次 絵画の道行き」 ~重厚長大な画面を経て、線がもたらす視覚的愉しみへ~ 名古屋市美術館 – 美術展ナビ (artexhibition.jp))が載っています。分かりやすい解説で、図版も入っているご紹介します。

◆補足(岡本太郎と北大路魯山人、顔真卿の書が親子三代にわたる関係をつなぐ)

吉本さんから「顔真卿」という名前を聞いて、数年前に読んだWeb記事(URLは下記のとおり)を思い出しました。岡本太郎の祖父・岡本竹次郎は、顔真卿の書を基本とする書道家で、「岡本可亭」と名乗っていました。北大路魯山人(本名:福田房次郎)は22歳の時、可亭に弟子入り。顔真卿に憧れ30代で「魯卿」40代で「魯山人」と名乗ります。魯山人は可亭の内弟子を2年で終えて独立。「福田鴨亭」と名乗り、書・篆刻(看板彫り)で生計を立てますが、岡本家との関係は、内弟子を終えた後も親子三代にわたって続いたとのことです。

出展:■北大路魯山人と岡本家の人びと | 政治・文化情報2017 (kousin242.sakura.ne.jp)

Ron.

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