読書ノート「若冲になったアメリカ人」ほか

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.10.31 投稿

豊田市美術館で開催中の「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」(以下「本展」)で展示のプライス・タワーについて、「若冲になったアメリカ人 ジョー・D・プライス物語」ジョー・D・プライス  インタビューアー 山下裕二 発行所 株式会社 小学館 2007.06.18 発行(以下「若冲になったアメリカ人」)を始めとする書籍、Web記事等についてご紹介します。

◆「若冲になったアメリカ人」

 「若冲になったアメリカ人」は、有名な日本美術コレクター=ジョー・プライスに美術家・山下裕二がインタビューした内容をまとめた書籍ですが、今回はプライス・タワー建設に関係するエピソードに絞って、ご紹介します。

〇 プライス・タワーの設計をフランク・ロイド・ライトに依頼するまで

 ジョー・プライス(以下「ジョー」)は、石油パイプラインの建設で財をなしたハロルド・プライス(以下「父」)の次男。父が自社ビルの設計を思い立った時、ジョーは母校(オクラホマ大学)のブルース・ゴフ氏に設計を依頼しました。すると彼から「その仕事はたいへんやりたいけど、ほんとうに最高の建築家を探しているのなら、迷わずにフランク・ロイド・ライト氏(以下「ライト氏」)を訪ねるべきだ」と助言を受け、1952年に一家(父母と長男・次男の4人)そろってDC3に乗り、ライト氏に会いに行くことになりました。

自社ビルについて、父は低層のビルを考えていたのですが、ライト氏と二人きりで話し合った結果、19階建てのビルにすると決まったとのこと。父の計画を聞いたライト氏は高層の建物を提案。景観との調和や、社屋として必要な機能などをつめていき、いっさい妥協することなく新しいものをつくるには、 19階建てが必要という結論にいたったというのです。ライト氏の言葉は「このビルは周囲の森から一本の樹が抜け出して、町の真ん中に立つようなものです」というもので、ジョーも「まさにそのとおりだ」と思ったそうです。(p.53~60)

〇 プライス・タワーの建設が決まって、伊藤若冲《葡萄図》に出会う

プライス・タワーの計画が決まり、ジョーはエンジニアとして父とライト氏の仲介役になり、週給100ドルで働いていました。当時、ライト氏はニューヨーク五番街のグッゲンハイム美術館の仕事もしており、セントラル・パークに面したプラザ・ホテルに住んでいたので、たびたびニューヨークヘ飛んでいます。

 ある日、メトロポリタン美術館か、ホイットニー美術館を訪ねた帰りに、ライト氏をプラザ・ホテルまで送り届けようとしていたとき、ライト氏は、マデイソン街65丁目の瀬尾商店(Seo Store)に、すっと入っていきました。仕方なくジョーも、ライト氏について店に入り、店の中を見回るうちに伊藤若冲《葡萄図》と遭遇。「ただ欲しくてたまらなくなったのです。それでライト氏をホテルまで送ったあと、すぐに店まで引き返しました。その間にも、あの絵が買われたらどうしよう、と気が気でならなかった。」とジョーは語っています。1953年のことでした。(p.60~65)

◆建築ガイドブック「フランク・ロイド・ライト」

建築ガイドブック『フランク・ロイド・ライト』 Arlene Sanderson著 水上優 訳 発行所 丸善株式会社 平成20年2月15日発行に掲載された「プライス・タワー」に関し、『若冲になったアメリカ人』と重複しない内容をご紹介します。

プライス・タワーの所在地は、オクラホマ州バートルズビル(Bartlesville)。建設は1953年終盤に始まり、1956年に完成。構造的な先例は、1925年のセントマークス教区のアパートメント・タワー計画案(補足:実現せず。本展では1927-29年の鳥瞰透視図を展示)。プライス・タワーのコンクリート製の床スラブは、屋内にある鉄筋コンクリート製の4本の垂直な支持体から伸びる技のような片持ち式。荷重支持の役割から自由にされて、外壁は装飾的なスクリーンとなっている。角度によって変わるタワーの表情は、窓の表面に陰影をつくる20インチの銅製ルーバー、形押しされた銅板、そして金色に染められたガラスによって構成された。

 補足:型押された銅板は、ヨドコウ迎賓館の金属板に使われている銅板と同じ発想のもののようです。

◆プライス・タワーのフロアプラン

ネットで入手したプライス・タワーのフロア・プラン(URLは下記のとおり)を見てみましょう。

URL:https://www.pinterest.jp/pin/493214596692589235/visual-search/?x=16&y=16&w=532&h=534&cropSource=6

建物の構造は「建築ガイドブック」のとおりですが、「住宅」と書かれた部屋と「婦人科医」「外科医」「歯科医」と書かれた部屋とでは、床の形が違います。住宅は、ほぼ方形で窓にはルーバーが設置されています。特徴的なのは、部屋が建物に対し時計回りに30度回転していることです。そのため、住宅の角は壁面から飛び出した格好になっています。本展に展示の鳥瞰透視図でも住宅の角は飛び出ているように見えますから、同じアイデアで設計したものと思われます。

住宅が30度回転しているため、他の部屋はそのあおりを食らって、エレベーターホール近くの幅は広いのですが、奥に行くに従い狭くなる、という変則的な間取りになっています。本展に展示の「1956年 オフィス内観」の写真(撮影:ジョー・プライス)を見ても、奥に行くに従って狭くなっているのが分かります。

◆ライトの高層建築「プライスタワー」2017年4月10日のブログ(URLは、下記のとおりです)

ライトの高層建築「プライスタワー」 | デザイン性の高い注文住宅 | オーガニックハウス 滋賀湖南店 | デザイン性の高い注文住宅 | オーガニックハウス 滋賀湖南店 (e-hlc.net)

このブログによると、プライス・タワーは2003年から、全21室のミュージアム&ホテルとして生まれ変わり、建築&現代美術ミュージアム「プライス・タワー・アーツ・センター・ギャラリー」ではライトの図面や写真、家具などが展示されているとのことです。

◆ミカオ建築館 2022.03.15XML

 「ライトによる実現されたプライス・タワー」と題し、イラストを使ってプライス・タワーについて解説しています。URLは、下記のとおりです。

https://plaza.rakuten.co.jp/mikao/diary/202203150001/

◆日本経済新聞 2023.10.29 The STYLE “A journey to Uncover the Beauty of the Circular House” より

2023.10.29付け日本経済新聞 The STYLE に掲載された「円形住宅」を訪ねる特集ですが、最後で取り上げたのは、円形住宅ではなくプライス・タワーでした。

記事の中では特に、「実はこのタワーはもともとニューヨークのマンハッタンのダウンタウン、セントマークスに建てるためにデザインされた(略)ライトが1935年に発表し、都市デザイン関係者の間で脚光を浴びた未来都市構想『ブロードエーカーシティ』の中心に据えられた建物だった。景気低迷などの影響でこの計画は頓挫するが、時と場所を変えてオクラホマで日の目を見た」という下りが、印象的でした。

Ron.

読書ノート「帝国ホテル・ライト館の謎」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.10.31 投稿

今回は、「帝国ホテル・ライト館の謎」――天才建築家と日本人たち  山口由美 著(集英社新書0054G)について、「帝国ホテルは関東大震災の被害をどのように防いだのか」という観点に絞って書きました。

ライト館には、取り壊されるときまで、一度も本来の目的には使われなかった施設がある

一読して衝撃だったのはp.109の「帝国ホテル・ライト館には、取り壊されるときまで、一度も本来の目的には使われなかった施設がある。それが、地下のスイミングブールだ」という下りです。「この場所は、ワインなどを貯蔵する倉庫として使われていた」とのこと。「柱が折れて、壁にいくつもの亀裂が入った地下のスイミングブールは被害が大きかった」から「本来の目的に一度も使われることがなかった」(p.110)というのです。

確かにライト館は「無傷」ではありませんでしたが、被害は「概して軽微」で「震災後、罹災した大使館、新聞社、通信社などに客室を提供して」おり、「外観を見る限りでは、何の損傷もなく威風堂々とした姿をそのままにとどめていた」(p.111)ことから、ライトが自伝に書いた「大地震にあってもライト館は倒れなかった」という内容は、必ずしも事実に反するとは言い切れないと、著者は述べています。

それでも生き残ったライト館

著者は書き進めるなかで「生き残った、という意味で言えば、大丸徹三支配人をはじめとする帝国ホテルの従業員が、身を挺してライト館を火災から守ったことのほうが、評価されるべきかもしれない」(p.117)と、意見を述べています。

著者は、余震がやって来る直前、這うようにしてメインスイッチにたどり着き、これを切った電気技師の森田伝治について、「彼が、いち早く動力室から逃げ出していたならば、どんなにライトの耐震設計が優れていたとしても、ライト館はどうなっていたかわからない」(p.118)と、その勇気をたたえています。

更に「ライト館には、次々と周囲の火災が襲いかかった。『帝国ホテル百年史』によれば、類焼しそうになる危機が全部で四回あったという。そのたびに、従業員が壁や屋根によじ登り、あるいは、宿泊客も加わったバケツリレーで、降りかかる火の粉を防いだのである。道路一本隔てて隣接する愛国生命ビル(現在の日本生命ビル)に火がついたときには、接客係の生田富三郎ら数人の従業員がビルまで走り、消火にあたった。火を消し、窓を開じて帰ってきた彼らを帝国ホテルでは、歓呼の声と拍手で迎えたという」(p.118)とも書き「まずは、完全ではなかったとはいえ、耐震設計が考えられていたことが、あつただろう。だが、身を挺してライト館を守った人々の存在がなければ、激震に耐えた「天才の記念碑」は灰になっていたかもしれないのだ」(p.119)と締めくくっていました。

Ron.

展覧会見てある記「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2023.10.31 投稿

豊田市美術館(以下「豊田市美」)で開催中の「フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」(以下「本展」)に行ってきました。以下は、本展の概要と私の補足・感想等です。

◆1階 展示室8

本展の会場は1階の展示室8。右方向に進もうとしたら「順路は左です。順路を示す番号に従ってお進みください」と指示を受けました。入口で受け取った作品ガイドを見ると、本展は「Section 1 モダン誕生 シカゴ-東京、浮世絵的世界観」から「Section 7 多様な文化との邂逅」までの7章構成ですが、順路が複雑に折れ曲がっていて分かりにくいので、順路を示す番号に沿って、特に目を引いた展示の概要等を書くことにします。

1 モダン都市シカゴ

眼を上に向けると「1 モダン都市シカゴ」という表記があります。興味を引かれたのは「シカゴ万国博覧会と鳳凰殿」というコーナーのうち「鳥瞰図」と「シカゴ万国博覧会日本館 鳳凰殿」の写真でした。

鳳凰殿は宇治の平等院を思わせる建物で、フランク・ロイド・ライト(以下「ライト」)の帝国ホテル二代目本館(以下「ライト館」)にも似ています。鳥瞰図を見ると、鳳凰殿は会場中央に設置された池の島に単独で建設。シカゴ万国博覧会に入場した人々は、鳳凰殿を別世界の存在と見たのではないか、思いました。

2 モダン都市東京

20世紀初頭の東京です。絵葉書「東京名所 警視庁(1911年)」を見ると、庁舎の印象がまるで違いました。家に帰って調べると写真の建物は関東大震災で炎上しています。1931年に桜田門近くに旧庁舎が建てられ、「相棒」等でお馴染みの現庁舎は1980年竣工。なお、絵葉書「東京名所 帝国ホテル」を見たお年寄りが「これが帝国ホテルなの? 何か違う」と首を捻っていましたが、ライト館ではなく「初代本館」です。

5 日本の発見

このコーナーは、浮世絵展でもおかしくないほどの内容です。歌川広重や磯田湖龍斎などの作品のほか、「シカゴ美術館における1908年の浮世絵展」の写真も展示されています。ライトは、自分のコレクションを美術館に展示できるほど多数の浮世絵を収集していたのだ、と分かりました。

12 地形と建築

主に山邑太郎左衛門邸(現:ヨドコウ迎賓館)とエドガー・カウフマン邸(落水荘)の写真、図面等の展示です。ヨドコウ迎賓館の外観写真は白い船のように見えます。ヨドコウ迎賓館は、2021年9月18日放送の「新美の巨人たち」が取り上げていました。番組ホームページのURLは下記のとおりです。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/?trgt=20210918

落水荘は、よく見る写真でした。『Casa BRUTUS』2023年11月号(豊田市美ミュージアムショップで販売)の表紙も飾っています。

18 木も花も本来ひとつ:自由学園とローゼンヴァルド学校計画

東京・池袋の自由学園は、2020年に放送されたTVドラマ「相棒18」で、オープニングに使われていたので身近な感じのする建物です。本展では、写真・図面だけでなく、自由学園明日館所蔵の模型まで展示されているので見ごたえ十分。「関東大震災救護活動絵巻」4点も見逃せません。

なお、自由学園明日館は2013年11月23日放送の「美の巨人たち」でも取り上げていました。番組ホームページのURLは下記のとおりです。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin_old/backnumber/131123/index.html

この外、テレビの感想を綴ったブログも発見しました。URLは下記のとおりです。

http://blog.livedoor.jp/konnnatv/archives/35098456.html

19 建築教育の場としてのタリアセン・フェローシップ

「タリアセン・フェローシップ」とは、建築塾のようなものです。ここでは、ライトの3番目の妻・オルギヴァナ・ライト(1898-1985)の写真が展示され、「教育に尽力」と書かれていました。

なお、ライトの妻と子どもたちについて書いたWeb記事を発見。URLは下記のとおりです。

フランク・ロイド・ライトの妻や子供、家族について。不倫、スキャンダル、惨劇も!|芸術家の恋人たち

22 帝国ホテル二代目本館クロニクル

ライト館に関する写真、図面を展示しています。中でも注目したのが「帝国ホテル二代目本館集合写真」(A)、絵葉書「1965年頃の帝国ホテル二代目本館」(B)と「田根剛氏による帝国ホテル 東京 新本館イメージパース」(C)です。Aには、ライトのほかに当時の支配人・林愛作、ライトの愛弟子・遠藤新が写っています。何れも「写真撮影不可」ですが、Bはチラシ・特大ポスターに使われています。特大ポスターを撮影するなら、1階講堂の近くに貼ってあるポスターが撮影しやすいですよ。また、本展図録(豊田市美のミュージアムショップで販売)の外に『Casa BRUTUS』2023年11月号にも掲載されています。

23 メガ・プロジェクトのはじまり

「模型 3D計測データを用いた3Dプリントレプリカ」が見ものです。京都大学所蔵の原作模型をもとに京都工芸繊維大学が制作したものです。なお、この模型に関するWeb記事を発見。URLは、下記のとおりです。

https://www.d-lab.kit.ac.jp/uncategorized/2023/frank_lloyd_wright_model/

25 総合芸術としての帝国ホテル

豊田市美所蔵の机と椅子を展示しています。いずれも、ライトが帝国ホテルのために設計したもの。私が見ていると、年配の男性の団体がやって来て、おしゃべりをしながら椅子の背もたれを触ろうとするので、係員から何度も注意を受けていました。ご本人は「気になる部分を指さしただけで、触ろうと知ったわけではない」と弁解していましたが、私が見た指先の動きは、危なっかしいものでした。「団体で見るときは自制心が鈍くなるので要注意」と自分に言い聞かせた次第です。

ただ、撮った写真を見返すと、背もたれを支える支柱は、中央の支柱の上部に木ネジの頭が見えますが、左右の支柱には木ネジの頭が見えません。どうやって背もたれと支柱を結合したのか不思議に思い、仲間に意見を求めるために指で差したのだろうと、分かりました。とはいえ、展示品のすぐ近くで指を動かすのは止めましょう。

26 素材の探求:大谷石とすだれレンガ

ライト館で使用した「金箔入りガラス」「テラコッタの装飾ブロック」「千鳥模様のすだれレンガ」「換気用に用いるテラコッタの装飾ブロック(複製)」を展示していました。とはいえ、一個ずつの展示なので、どのように使われていたかは、想像するしかありません。以前、常滑市のINAX ライブミュージアムの「建築陶器のはじまり館」に行った時、大谷石とすだれレンガ、コンクリートが一体になった柱が展示されていました。「建築陶器のはじまり館」のURLは下記のとおりです。

https://livingculture.lixil.com/ilm/facility/terracotta/terracotta_about/

なお、豊田市美に置いてあるチラシで、INAX ライブミュージアムが12月25日まで企画展「帝国ホテル煉瓦製作所」を開催している、と知りました。企画展のURLは下記のとおりです。

https://livingculture.lixil.com/ilm/see/exhibit/imperialhotel_brickfactory/

30 関東大震災に耐えた構造

ここでは、3分間の映画「関東大震災記録」を上映していました。小さな画面ですが、震災の生々しい被害状況をつかむことが出来ます。なお、関東大震災の時の帝国ホテル従業員の奮闘ぶりについては〈読書ノート「帝国ホテル・ライト館の謎」〉を書きましたので、そちらをご覧ください。

35 高層建築――樹状構造

ジョンソン・ワックス・ビルとプライス・タワーに興味を引かれました。

先ず、ジョンソン・ワックス・ビルですが、事務室の中にキノコのような柱が林立しているSF映画のような写真にびっくりしました。写真だけでなく「樹状柱の耐荷重試験」という2分40秒の映画も上映。映画では、樹状柱の広い天井部に土嚢や土などの荷重を少しずつ増やし、荷重が60tになった段階で支えを外すと、転倒してしまうというものです。試験は見事な失敗ですが、何度も繰り返して見てしまいます。

プライス・タワーはオクラホマ州の田舎町バートレスビルにある19階建てのビル。建設を依頼したのは石油パイプライン建設で財を成したハロルド・プライスです。ビルの模型とオフィスの写真も展示しています。なお、写真の撮影者は、若き日の故ジョー・プライス。皆さま方ご存じ、伊藤若冲など日本美術のコレクター、ご本人です。そして、ハロルド・プライスは、ジョーの父親。このことについては〈読書ノート「若冲になったアメリカ人」ほか〉を書きましたので、そちらをご覧ください。

37 ライトへ注がれた同時代の目

アイノ・アアルトが撮影した写真2点《アルヴァ・アアルト、長女ヨハナと長男「落水荘」のゲストハウスにて》(1939年)《アルヴァ・アアルトの長女ヨハナと長男「落水荘」のゲストハウスにて》(1939年)とアルヴァ・アアルトからフランク・ロイド・ライトに宛てた手紙(1945年12月13日)に注目しました。

1939年は、ニューヨーク万国博覧会が開催され、フィンランド館の企画を担当したアルヴァ・アアルト夫妻は渡米。アアルト一家はアメリカ旅行をしているので、ライトの斡旋で「落水荘」に宿泊したのでしょうね。1945年の手紙は、ヘルシンキ大学で建築を勉強している息子を1946年にタリアセンに送りたいとい願いするものです。(アルヴァ・アアルトは1945年にマサチューセッツ工科大学(MIT)に長期滞在しています)

◆1階 展示室6・7 ライトと並走するヨーロッパのデザイン

展示室6・7では、本展関連の常設展として「ライトと並走するヨーロッパのデザイン」を企画。展示室7には三大巨匠ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの《アームチェア(MR 534)》(1927年)とル・コルビュジェの《アームチェア(バスキュラン)》(1928年頃)に加えて、「モンドリアン展」でも展示されていたヘリット・トーマス・リートフェルトの《ベルリンチェア》(1923年)《ジグザグ・チェア》(1932-33年)も展示されています。見逃せませんよ。 Ron