一宮市三岸節子記念美術館(以下「美術館」)で開催中の「河鍋暁翠展」の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は19名。美術館主催の「学芸員によるギャラリートーク」(事前申込不要)を他の入場者と一緒に聴く、という企画です。ミニツアー前後の過ごし方は自由ですから、早めに美術館に行き、作品を見てからミニツアーに参加することにしました。
◆第一展示室 第1章 暁翠と暁斎 - 父の手ほどき
美術館2階ロビーに集合。作品リスト、チラシなどをもらい、大村菜生学芸員(以下「大村さん」)の案内に従って、開始予定時刻の14時よりも少し前に第一展示室へ入ると、部屋は参加者でいっぱいとなりました。50人は居たでしょうか。あまりの人数で、押されてもいないのに圧力を感じます。
〇 河鍋暁翠と暁斎について(解説の概略、以下同じ)
大村さんによれば「河鍋暁翠は、明治元(1869)年、東京・本郷生まれ。本名は豊(とよ)。父の河鍋暁斎(1831-1889)は一時期、忘れられていたが、2008年の展覧会(注:京都国立博物館「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai」)で再評価。暁翠(1868-1935)は、上村松園(1875-1949)と同時代の画家。河鍋暁斎の陰に隠れがちな存在だったが、165回直木三十五賞を受賞した澤田瞳子『星落ちて、なお』(2021)で注目を集めている」とのことです。『星落ちて、なお』は、面白かったですからね、納得です。
〇 父・河鍋暁斎の作品
最初の作品《極楽大夫図》では「極楽大夫の着物に描かれた寿老人は閻魔大王、福禄寿は補佐官、布袋と唐子は賽の河原で水子を救いに来る地蔵菩薩、というように極楽と地獄を重ね合わせている」と説明がありました。本展のチラシ等に使われている《猫と遊ぶ二美人》は、意外に小さな作品。「暁斎が描いた下絵を元に、暁翠が描いたもの。背景の調度品を双六にするなど、下絵と変えている」と解説があり、《霊山群仙図》については「暁斎の死によって未完成のまま残されたものに、暁翠が仙人などを加筆した」と解説。「暁翠は暁斎から学び、その画業を引き継いだ画家だ」と、よく分かりました。
◆第二展示室
第2章 土佐・住吉派に学ぶ
第2章では、「暁翠は明治21(1888)年に土佐・住吉派の山名貫義(1836-1902)に弟子入り。物語を優しい色彩で描く「やまと絵」を学んだ」と説明があり、養老の滝の伝説を描いた、山名貫義《養老》と暁翠《養老の滝図》の対比の外、伊勢物語の一場面を描いた《東下り》に見られる「やまと絵」と「狩野派」の描き分けなどについての解説もありました。また、《五節句之内 文月》については「小説『星落ちて、なお』のカバーになった作品」とのことです。
第3章 教育者として
島田友春《木蘭》について「父の代わりに戦争で手柄を立てた少女「木蘭」を描いた作品。暁翠は、島田友春(1865-1947)の後任として、1902年に女子美術学校の教師になった」との解説がありました。
朱色の《鐘馗》について「絵に算用数字を書き込み、絵を描く際の手順を示している」と説明されるなど、熱心な教育者、生徒から慕われた教師としての暁翠を知ることができました。
第4章 受け継がれた伝統
《能 石橋》《松風・羽衣》について「能を描くには知識が必要で、能をテーマにした絵を描ける人は限られていた」と解説され、《百福図》《百福の宴》については「暁翠が描いたお多福の絵は、この外に、大英博物館所蔵の作品がある。暁斎・暁翠の作品は、海外で人気があった」との解説がありました。
《鐘馗図》については「狩野派では修行の一環として鐘馗を描く」ことや「暁翠が61歳の時、鐘馗を描いて、展覧会で一等賞金牌を受賞」したこと、「暁翠が最後に描いたのも鐘馗」など、暁翠と鐘馗との深い結びつきを知ることができました。それで、《鐘馗図》が最後に展示されていたのですね。
◆最後に
一宮市三岸節子記念美術館のミニツアーは、4月の「貝殻旅行」に次いで2回目。「伝統的な日本画」が展示されており、参加者から「来てよかった」という声を聞くことができました。
Ron.