「ボテロ展 ふくよかな魔法」 協力会向け解説会

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館(以下「美術館」)で開催中の「ボテロ展 ふくよかな魔法」(以下「本展」)の協力会向け解説会に参加しました。参加者は49名、猛暑とコロナ禍での開催としては、予想以上に多い人数です。講師は、本展担当学芸員の久保田舞美さん(以下「久保田さん」)。解説会では初めてお目にかかる学芸員さんです。2階講堂で本展の解説を聞いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆久保田さんの解説の要点 (16:03~45)

 以下、久保田さんの解説の要点をかいつまんで記します。

〇ボテロの略歴

1932年、南米コロンビアのメデジン生まれ。現在90歳で、現役の世界的作家。ゲルハルト・リヒターと同じ年の生まれ。「現在も現役の世界的作家」という点も共通。絵画だけでなく、彫刻も制作。1949年、ピカソの評論を地元の新聞に投稿し、高校から退学処分を受ける(17歳)。1956年、マンドリンの穴を小さく描いたら、マンドリンのボリューム感が増すことを発見(24歳)。1959年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに、コロンビア代表として《12歳のモナリザ》を出品(27歳)。1961年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が《12歳のモナリザ》(1959)を購入(29歳)。1963年、メトロポリタン美術館がレオナルドダヴィンチ《モナリザ》を展示しているときに、MoMAが《12歳のモナリザ》を展示して、注目を集める(31歳)。

〇本展について

日本では26年ぶりの大規模展。愛知県では初めての展覧会。ボテロ本人が監修した70点の絵画を出品(彫刻はない)。展示作品のほとんどが、日本初公開。なかでも《モナリザの横顔》(2020)は、世界初公開。

〇出品作品について

出品作品に関する久保田さんの解説については、次の「自由観覧」の中で触れます。

◆自由観覧(16:45~18:00)

〇第1章 初期作品

《泣く女》(1949)は、17歳の時の作品。久保田さんによれば「ピカソの『青の時代』の影響を受けているほか、オロスコなどのメキシコ・ルネサンスの壁画の影響も受けている」とのことです。ボテロは、17歳の時から「ボリュームのある人物」を描いていますが、この時代は手や足など「体の末端が肥大」しているように見えます。また、久保田さんの解説によれば《バリェーカスの少年(ベラスケスにならって)》(1959)は「《12歳のモナリザ》に似ている作品」です。《庭で迷う少女》(1959)も《馬に乗る少女》(1961)も、この時代の作品は「ふくよかな人物」というよりも「二頭身の人物」を描いているように見えます。

〇第2章 静物

《楽器》(1998)に描かれているギターは穴がとても小さく「ボテロが1956年に描いたマンドリンも、こんな姿をしていたのかな?」と思わせる作品でした。ピンク色の布(ふとん?)の質感描写も素晴らしいと思います。《洋梨》(1976)について、久保田さんは「伝統的な静物画のジャンル=ヴェニタス(人生のむなしさの寓意)を踏まえて、腐りかけの果物を描いたもの。果物をかじった跡や、穴、果物を食べている虫を描いているのは、そのため」という趣旨の解説をされました。「虫は目も描かれていて、かわいい」と、付け加えています。「腐りかけ」というなら「萎れて崩れかけた果物を描く」という手もあると思いますが、さすがはボテロ。腐りかけの果物であっても、みずみずしさにあふれています。一方、果物のヘタだけでなく、誰かが齧った跡、虫、どれをとっても小さいので、洋梨のボリューム感は半端ないものでした。

解説の最後に、参加者からの「ボテロにとって、青はテーマカラーですか?」という質問に対し、久保田さんは「青、赤、緑のバランスを取っている。大小のバランスも取っている。青が特別な色という訳ではない」と回答していましたが、《黄色の花(3点組)》《青の花(3点組)》《赤の花(3点組)》(いずれも2006)の三点は、久保田さんの回答のとおり、色のバランスを取った作品でした。特に《青の花》《赤の花》は、花と花瓶の色が補色関係になっており、色の対比とバランスを考えた作品だと思います。

〇第3章 信仰の世界

《キリスト》(2000)を見て、特定の年代の参加者は「俺たちひょうきん族の神様にそっくり」と言っていました。若い人には何を言っているのか分からないと思いますが、とにかく似ています。《コロンビアの聖母》(1992)について解説の最後に、参加者から「幼いキリストと思われる子どもが現代風の服を着ているのは、何故ですか?聖母がつまんでいるのは果物ですか?」という質問がありました。久保田さんの答えは「ボテロに聞けば、ピンクが欲しかったから、と答えるかもしれません。聖母がつまんでいるのは果物です。子どもがつまんでいる小さなものは、コロンビアの国旗。ボテロが、この作品を描いたのは1992年当時のコロンビアの暴力的な環境にあるのでは、とも思いますが、答えは不明です」というものでした。1992年といえば、1984年から続いた、麻薬組織メデジン・カルテルとコロンビア政府との「麻薬戦争」が終結した年です(Wikipediaによる)。久保田さんによれば、《守護天使》(2015)は「ボテロの自画像」です。

〇第4-1章 ラテンアメリカの世界

最初に展示されているのが《バルコニーから落ちる女》(1994)。何が起きたのか、よくわかりませんが、説明書きには「陰謀の犠牲者か?」と書かれています。《ピクニック》(2001)に説明書きはありませんが、「芸術新潮」2021年12月号は「草原でくつろぐ男女は、マネの《草上の昼食》が元ネタ」と書いています。言われてみれば、そんな雰囲気が漂っています。元ネタそのままではなく、一度自分の中に取り込んでから「ボテロ流」に再構成した作品ですね。ボテロの作風には、揺らぎがありません。《通り》(2000)に違和感を覚えたので説明書きを見ると「現実にはあり得ない空間。(略)絵画とは現実を表したものではなく、個人的な現実を独自の視点と体験をもとに創り上げたもの」と書かれていました。

〇第4-2章 ドローイングと水彩

4-2章からは2階に展示。キャンバスに青鉛筆で描き、水彩絵の具で彩色した作品が並んでいます。いずれも、2019年に制作したもの。思わず「うまい」と、声を出してしまいました。描かれているのは、どれも「ふくよかな」人物ですが、油絵と違って「凛々(りり)しく」、違和感がありません。とはいえ、作風そのものは、まったく変わっていませんでした。

〇第5章 サーカス

「サーカス」で一つの章を構成するのですから、サーカスは、ボテロにとって「欠かせないもの」だったのでしょうね。どの作品にも、補色関係である緑と赤の対比が使われていました。「現実にはあり得ない遠近感」も、楽しめます。

〇第6章 変容する名画

名画がどのようにデフォルメされたか分かるように、元ネタとボテロの作品を並べて展示しています。なかでも、久保田さんが力を入れて解説したのは《ピエロ・デラ・フランチェスカにならって(2枚組)》(1998)でした。キーワードは「この作品には、フランチェスカに対する尊敬があらわれている。陰影を強くつけることなく、線と色彩でボリューム感を出している。フランチャスカを思わせるのは、無表情ではなく、口角を挙げて少し微笑んでいること。ボテロの様式で描いた、気分の上がる作品」等です。展示室で見ると、とても大きな作品でした。画面の上下を縮めて「ふくよか」な感じを強調していますが、他の作品に比べるとデフォルメの程度は小さく感じます。この作品で見入ったのは、服や帽子、髪飾りなどの質感描写です。イタリアで基礎を学んだだけあって、久保田さんの解説どおり「線と色彩でボリューム感」を出していました。質感も出ています。ボテロなら、元ネタそっくりに描くことも出来るでしょうが、それでは「模写」であって彼の「作品」にはならないので、デフォルメした作品を制作したのでしょう。絵の向きも、元ネタの逆です。他に目を引かれた作品が《フォルナリーナ(ラファエロにならって)》(2008)でした。ボテロの描く人物の多くは無表情ですが、このフォルナリーナの眼差しや唇は、妙に色っぽいのです。《モナリザの横顔》(2020)にも表情があります。このことを久保田さんに質問したところ、「微笑や眼差しは、作品を特徴づけるもので、不可欠な要素。なので、デフォルメしても、残したのではないか」という趣旨の回答をいただきました。上記以外の作品も「元ネタそのまま」ではなく、人物の向きや、服装などを変化させています。それを発見するのも、鑑賞の醍醐味だと思いました。

◆ボテロとゲルハルト・リヒターは、共通点があるものの、対照的な作家

ボテロもゲルハルト・リヒターも1932年生れで、世界的な作家、日本で大規模な巡回展が開催されている、という共通点があるものの、素人ながら対照的な作家だと思います。ボテロは20歳の時に描いた作品が第9回コロンビア・サロンで二等賞を獲得。その賞金でヨーロッパに渡り、プラド美術館でゴヤやベラスケスを模写。その後パリに移り、ルーブル美術館で巨匠の作品を模写。更にフィレンツェに移り、サン・マルコ・アカデミーに入学。フレスコ画の技法を学び、フィレンツェ大学美術学科でロベルト・ロンギの講義を受けています。抽象絵画が主流の時、古典絵画をデフォルメするという作風を確立してからは、作風を変えていません。一方、リヒターは東ドイツで描いていた「社会主義リアリズムの壁画」に疑問を持ち、西ドイツに出国。デュッセルドルフで抽象絵画の洪水に出会い、模索の後、フォト・ペインティングで評価されます。その後、カラーチャートやアブストラクト・ペインディングなど、具象と抽象の間で作風は変遷しています。「どちらが良いか」というのではなく、今年は対照的な二人の作家の展覧会を続けて鑑賞することができる、又とない機会だということです。

◆最後に

 正直に言うと、あまり期待せずに来たのですが、良い意味で裏切られました。いずれの作品も「ふざけて、ふくよかな人物を描いたのではなく、元になった名画に敬意を表して、まじめに描いたもの」でした。大きな作品が多く、見応えがあります。解説会にも予想以上の数の参加者がありました。お薦めですよ。

Ron

読書ノート 「シャネルの真実」 山口昌子(しょうこ)著 新潮文庫 2008年4月1日 発行

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2022.07.08付中日新聞の「Cultre」欄に、豊田市美術館で開催中の「交歓するモダン」の記事が載っていました。記事の「コルセットが不要なドレスが出現」「大戦の影響で女性が主力になった」という言葉に刺激され、Little Black Dressについて「もう少し掘り下げたい」と思い、本書を手に取りました。

◆本書の成り立ちと内容

本書の著者は執筆当時、産経新聞パリ支局長。「あとがき」によると、産経新聞の大型企画「20世紀特派員」の枠組みで1997年6月2日から7月18まで「皆殺しの天使」(シャネルが、コルセットなどの服装面のみならず、19世紀的なものをすべて葬ったという意味)の題名で連載。加筆して「シャネルの真実」と改題し、2002年4月に人文書院から刊行。2008年に新潮文庫として刊行後、2016年から講談社+α文庫が刊行。私は新潮文庫を古本で購入しましたが、講談社+α文庫なら、新刊が買えます。

本書は、綿密な取材に基づいて、シャネルの生い立ちから晩年までを書いています。第3章で米国のモード誌『ハーバーズ・バザール』1916年11月号がシャネのドレスを取り上げたことに触れ、1917年に同誌が《シャネルを一枚も持っていない女性は、取り返しがつかないほど流行遅れである》と述べたことも書いていますが、ずばりLittle Black Dressについて記しているのは、第4章の「モードの革命 小さな黒い服とショルダーバッグ」(本書p.210~p.220)です。以下、その主な内容を記します。

◆1926年10月1日付『Vogue』米国版が、Little Black Dressを紹介

本書は「『Vogue』がシャネルのLittle Black Dressを“シャネル・フォード”と呼びイラスト付きで紹介」と書いています。ネットで、”Chanels original Little Black ‘Ford’ Dress”と表示された画像を発見しました。

●画像:”Chanels original Little black ‘Ford’ Dress”と表示された、長袖ドレスの写真とイラスト

URL: chanels-little-blackford-dress-1926.jpg (569×624) (glamourdaze.com)

Vogue は読者に「フォードの大衆車が同じ型だからといって、買うのをためらう人がいるだろうか」と問いかけ、シャネルのLittle black dressの品質と大衆性を、‘Ford’ Dressという言葉で表現したのです。

●画像:Little black dressには、袖の無いものもある

URL: z17702365IH,Coco-Chanel-i-jej-projekty.jpg (700×700) (im-g.pl)

◆Little black dressの革新性とは

本書は、Little black dressの革新性を「第一に(略)喪服のイメージしかなかった黒を単色でまとめた点である。(略)第二に、誰にでも着られるという大衆性だった。(略)それは同時に第三者のコピーが可能だ、という点にもつながる。その点でシャネルは20世紀が(略)大量生産、消費社会の到来であることをいちはやく見抜いていたことになる」と、書いています。本書が「コルセット不要」を「Little black dressの革新性」に入れていないのは「既に、ポール・ポワレのドレスがコルセット不要だったから」だと思います。

Little black dressが広く流行したのは、他者にコピーされたからです。本書は「シャネルは他のデザイナーたちと異なってコピーを恐れず、《私は自分のつくり出したアイデアが他人によって実現されたときのほうがうれしくさえある》とさえ断言している」と書いています。シャネルは「たとえ他人にコピーされても、自分の作品は売れる」と、自らの才能に自信を持っていたのですね。

◆シャネルとは対照的に、戦後フランスファッションの主役だったポール・ポワレは転落

豊田市美術館「交歓するモダン」では、「戦後フランスファッションの展開」の展示で一番目立つ場所にあったのは、ポール・ポワレ《デイ・ドレス「ブルトンヌ」》でした。1925年に開催された「アール・デコ展」でもポワレが主役。本書は「この時、ポワレがシャネル出品の黒のサテンや黒のジョーゼットのシンプルな作品を見て、「貧困主義」と皮肉ったことはよく知られている。しかし、この言葉は後世には結局、ポワレの敗北宣言として流布されることになる」と、書いています。「貧困主義」の意味するところは、よく分かりませんが「シンプルで装飾の少ない服は貧乏くさい」という指摘なら、ポワレは「時代のニーズを把握できなかった人物」ということになります。Little black dressが流行したのは、「大戦の影響で女性が主力になった」ことによりシンプルで着やすい服が求められたからだと、私は思います。ポワレは「アール・デコ展」の12年後、1937年に破産の憂き目を見て、1944年に極貧の中で死去。本書は「彼自身は最後まで、なぜ、自分がシャネルに敗北したのか、正確には理解できなかったかもしれない」と、書いています。

Ron.

ボテロ展、「山田五郎 おとなの教養講座」は必見

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

来る7月17日(日)午後4時から「ボテロ展 ふくよかな魔法」の協力会向け解説会が開催されます。

協力会から届いたチラシを見ると、人も、動物も、花も、楽器も、何もかもが「ぽっちゃり」。「コロンビアの巨匠 待望の“大”絵画展」という文字も躍っています。

「ぽっちゃりとした絵を描く人、という以外の知識が全く無い」とつぶやいたところ、ある人が「それだけ分かっていれば、十分」と慰めてくれました。それでも、「何か予備知識を得たい」と思っていたところ、出会ったのが、フェルナンド・ボテロを取り上げたyoutube動画「山田五郎 おとなの教養講座」です。

動画の冒頭で「案件=ボテロ展のプロモーションを含む動画」だと、種明かしをしています。出品作品の写真も多数出てきて、必見の動画だと思いますよ。

なお、URLは下記のとおり。

(1570) 【ボテロ】なぜモナ・リザをふくよかに!?コロンビアの巨匠の深い意図【パロディじゃない!】 – YouTube

 ネタバレになってしまうので動画の内容を詳しく書くことはできませんが、ボテロの作品は「パロディ」などではなく「古典をリスペクトして真剣に制作したものだ」ということが分かりました。 Ron

「ゲルハルト・リヒター展」に関するノート

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

6月25日付日本経済新聞文化欄で岩本文枝記者による「ゲルハルト・リヒター展」の展覧会評を読んだ翌日、名古屋市美術館に出かけると、ミュージアムショップに「ゲルハルト・リヒター展」を特集した「美術手帖」が何冊も並んでいました。巡回先は豊田市美術館ですが「名古屋市美術館のショップとしても無視できない」ということですね。また、youtubeを検索すると、数多くの「ゲルハルト・リヒター展」関連の動画がアップされています。展示風景を見ることや、展覧会の感想を語り合う声、2020年に公開された映画「ある芸術家の数奇な運命」の感想などを聞くことも出来ます。2022.06.30には「美術展ナビ」の「ゲルハルト・リヒター展」の特集も掲載され、家にいながら展覧会情報を得ることができました。以下は、検索した中で、気になった記事です。

◆『美術展ナビ』 「ゲルハルト・リヒター展」絵画の可能性とものを認識する原理を追求 2022.06.30

URL: https://artexhibition.jp/topics/news/20220630-AEJ863199/

・鏡を生かした展示

展示室の写真と文章を交えながらのレポート。最初の写真は《ビルケナウ》の展示室。向かって右が《ビルケナウ》2014、左が《ビルケナウ(写真バージョン)》2014、正面は《グレイの鏡》2019。《グレイの鏡》は灰色に塗った鏡で、左右の作品だけでなく、観客と《ビルケナウ》の元になった4枚の写真も写り込んでいます。『美術展ナビ』は「リヒター自身が日本側と直接ディスカッションを行い、構成を考えた」と書いています。《ビルケナウ》が鏡の写り込みを生かした展示構成になっているのも、リヒター自身のアイデアに基づくものなのでしょう。なお、《鏡》1968の写真にも《4009の色彩》2007が写り込んでいました。

・《ビルケナウ》について

高さ2.6m、幅2mの巨大な4点の油彩画《ビルケナウ》については「この絵の下には、収容所内で密かに撮影された写真のイメージが描かれています。鑑賞者は直接そのイメージを目にすることはできません。よって自ずと知識や記憶、想像力を働かせ、絵具の下に隠れたイメージを思い描くことになります」と書いています。何か肩透かしを食らった気分になりますが、日本経済新聞は「リヒターは1960年代以降、ホロコーストという主題に何度か取り組もうとし、その深刻さゆえに断念してきた。ようやく到達した本作によって芸術的課題から『自由になった』と語る」と書き、この作品の手法を認めているようです。

・フォト・ペインティング

 『美術展ナビ』は「リヒターの代名詞ともいえるフォト・ペインティングやアブストラクト・ペインティングから、肖像画やオイル・オン・フォト、そして最新のドローイングまで、その画業を通覧するにふさわしい内容となっています」と書き、フォト・ペインティングとして赤ちゃんを描いた《モーリッツ》と、ピンクのセーター女の子を描いた《エラ》(本展のチラシに使用)の写真を掲載しています。

 写真を絵画に写し取った作品が、ボケやブレなどを書き加えているとはいえ、なぜ高い価格で買われるのか不思議ですが「リヒターがフォト・ペインティングで作家としての評価を得た」ことは事実です。

 残念ながら知識不足のため、これ以上掘り下げることはできませんでした。「IMA LIVING WITH RHOTOGRAPHY」というサイトに「東京国立近代美術館 『ゲルハルト・リヒター展』より 写真と絵画、どちらが客観か主観か」という、東京国立近代美術館主任研究員・桝田倫広さんへのインタビュー記事(URL: https://imaonline.jp/articles/archive/20220527gerhard-richter/#page-1)が掲載されていますので、ご覧ください。

◆「ゲルハルト・リヒター展」の動画

 検索ワードを「youtube ゲルハルト・リヒター展 / Gerhard Richter – 東京国立近代美術館」と打ち込んで検索したところ、3分51秒の動画と2分12秒の動画がヒットしました。いずれも開幕早々に撮影した動画のようで、短い時間で展覧会の雰囲気をつかむことができます。

Ron.

ガブリエル・シャネルの「リトル・ブラック・ドレス」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

◆ 豊田市美術館で見たシャネルのドレスと同じようなドレスを「美術展ナビ」で発見

豊田市美術館「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」で見た、ガブリエル・シャネル(1883-1971)《イヴニング・ドレス》(1927年頃)が気になり、ネットで検索したところ「美術展ナビ」で同じようなドレスを発見しました。記事は、「ガブリエル・シャネル展」(三菱一号館美術館)の特集(URL: https://artexhibition.jp/topics/news/20220627-AEJ858090/)で、ドレスの説明は《イヴニング・ドレス》(1920年代後半)というもの。「美術展ナビ」の記事には「1920年代から30年代にかけて、ツーピースのスーツや単色のドレスが登場。過剰な飾り気がなく、柔らかでシンプルな造形は『リトル・ブラック・ドレス』など、シャネルの『マニュフェスト』の重要な要素として定着していきます」と書かれていました。

◆ 「リトル・ブラック・ドレス」とは何か? その革新性は?

リトル・ブラック・ドレス(Little black dress)については「ココ・シャネルの歴史的な業績とは何か」に分かりやすい説明がありました。(URL: https://histori-ai.net/archives/1522

記事の要点は、以下のとおりです

・1926年、アメリカのファッション誌「VOGUE」で紹介されて、一躍世界中に広まった

現在の目で見ると「女性用の普通の黒いワンピース」だが、以下の革新性があった

・コルセットをしていない

コルセットの着用によって多くのヨーロッパの貴婦人は行動の自由を制限された生活を送った。そんな中で、シャネルはコルセット不要なドレスを発表して社会に受け入れられた

・黒一色のみ

当時、黒一色の服は「喪服」か「黒の組織」のメンバーの一員を意味した。その様な中でシャネルは黒一色のドレスを発表。このドレスの爆発的な普及により黒を喪服以外での通常のファッションカラーとして世間一般に認知させることに成功した

・スカートの丈が膝丈

当時は、裾が床に触れるほど長く、レースやフリルがついたドレスが一般的。シャネルは簡素で筒状の「裾が膝丈まで」という非常にシンプルなデザインで新しい女性像を提案。女性が歩きやすい、動きやすい、活動しやすいことを前提としたデザインされたドレスだった

◆ ネット記事「実は『新』定番だった リトル・ブラック・ドレスの歴史」 より

 URL:http://www.fragmentsmag.com/2015/10/little-black-dress-history/

 見出しのネット記事には「1929年に米国に起こった大恐慌の頃は、質素倹約の時代。それが逆に追い風になり、リトル・ブラック・ドレスは定着。女性の「定番」となっていくのです」と書かれていました。

また、1961年に公開された「ティファニーで朝食を」で、黒のシックなドレスを身にまとったオードリー・ヘップバーンと、そのドレスをデザインしたユベール・ド・ジバンシィが「リトル・ブラック・ドレスを1960年代のファッションアイコンに育てた」とも書いています。

◆最後に

 「交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー」に展示されていたガブリエル・シャネルの《イヴニング・ドレス》。気になった訳は「歴史的な作品だったから」でした。

Ron.

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