名古屋市美術館で開幕した「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「本展」)の名古屋市美術館協力会・会員向け解説会(A日程)に参加しました。参加者は往復ハガキで申し込んだ50人。解説会の定員は90人で、申し込んだ全員が当選しています。2階講堂で深谷克典・名古屋市美術館参与(以下「深谷さん」)の解説を聴き、その後は自由観覧・自由解散となりました。
なお、本展では特別に、会員向け解説会を2回開催。次回(B日程)は、森本陽学芸員の解説。3月13日(日)16:30~18:30開催の予定です。こちらも、申し込んだ全員が当選しています。
◆2階講堂・深谷さんの解説(16:30~17:15)の概要 なお、(注)は、私の補足です。
・美術館に来る時の注意点
本展の休館日は3月7日(月)・28日(月)の2回だけです。会期は2月23日から4月10日までの約一月半。会期がとても短いので、混雑を緩和するため、休館日を2回にとどめました。「月曜日は全部休み」と思っている方が多いので、ゆったり鑑賞するなら「3月7日・28日以外の月曜日」がお薦めです。
本展は日時指定の予約制です。入場時刻は、最初が9時30分、次が10時30分と、1時間おきです。入場時刻が9時30分だと、9時30分から10時20分までが入場時間帯ですが、多くの人が9時30分よりも前から並ぶため、開館時刻には100人から150人の行列が出来て、入場に20分から30分かかります。10時ごろには行列がなくなるので「並ばずに見たい」という方は10時ごろにお出でください。他の時間帯でも11時ちょうど、12時ちょうど等「毎正時」だと「並ばずに見る」ことができると思います。
・ヘレーネ・クレラー=ミュラーとフィンセント・ファン・ゴッホの関係
本展には「響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」というサブタイトルがついています。このサブタイトル、実は私が考えたものです。ヘレーネは、本展の出展作品のコレクターですが、ゴッホと直接の面識はありませんでした。彼女はドイツ人で、結婚してオランダに移ってから、人生に物足りなさを感じた時に出会ったのがゴッホの作品でした。本展に関係のある、もう一人の人物がH.P.ブレマーです。彼は、絵描き・美術評論家・コレクションのアドバイザーなど多くの肩書を持っています。早くからゴッホの真価を認め、ヘレーネに「是非コレクションすると良い」と勧めた人物です。
・クレラー=ミュラー美術館について
ゴッホが亡くなったのは1890年。ヘレーネはゴッホの死後、1908年から20年間にわたって、270点のゴッホ作品を収集しました。本展には、その一部が出展されます。
オランダの黄金時代は17世紀です。国が繫栄し、美術ではレンブラントやフェルメール等が活躍しました。しかし、その後は低迷が続きます。そして、19世紀になって登場したのが、ゴッホです。
ヘレーネのコレクションを所蔵するクレラー=ミュラー美術館は、1938年に開館しました。ヘレーネは初代館長を務め、開館の翌年、1939年に亡くなりました。
クレラー=ミュラー美術館は、広大な国立公園の中にあります。公園の中には何もありません。私は45年前の学生時代、アムステルダムからバスに乗り美術館に行ったことがあります。バス停から2時間余り歩き続けてようやく着きましたが、道中、周りはずっと森ばかりでした。
・出展作品の搬送と展示
本展は、昨年9月から12月まで東京都美術館で開催されました。いつもなら、出展作品の搬送には作品を所蔵している美術館からクーリエが付き添って来ます。しかし、今回はコロナ禍による外国人の入国制限でクーリエが来日できないため、本展の関係者がオランダに出向いて作品を受け取って来ました。昨年9月のことで、私も同行しました。
美術館のあるオッテルロー近くのホテルに宿泊し、クレラー=ミュラー美術館に行きました。国立公園の入口から、無料の貸自転車で美術館まで、5㎞の道を走ったのですが、止まろうと思ったら自転車のハンドルにブレーキ・レバーが見当たりません。焦りましたね。試行錯誤の末、自転車のペダルを後ろに戻したら、ようやく止まりました。ペダルを戻すと止まる仕組み(フット・ブレーキ)の自転車でした。
出展作品は、ご覧のとおり「TURTLE」というロゴと亀のイラストが描かれた緑色の箱に、一点ずつ入れて搬送します。ロゴとイラストは「亀のように固い甲羅で守っています」という意味のようです。乗客の場合と違い、荷物は飛行機の出発の4時間から5時間前には空港に届けなければならないため、朝早く、暗いうちに美術館を出発しました。
ご覧いただいているのは、名古屋市美術館での展示風景です。いつもならクレラー=ミュラー美術館のクーリエが日本のスタッフの横にいて、様々な指示を出します。しかし、今回、クーリエは来日していないため、パソコンでオランダと繋ぎ、画像を転送してクーリエの指示を仰ぎました。この日の展示作業は16時(オランダ時間:8時)から21時(オランダ時間:13時)まで行いました。
・ゴッホと彼の家族
ご覧いただいているのは、ゴッホの弟テオです。ゴッホには2人の弟と3人の妹がいました。男の兄弟、ゴッホと弟2人はいずれも30代で死亡。男たちはみんな「若死に」でした。一方、妹3人は長生きです。
・クレラー=ミュラー美術館が所蔵するゴッホ作品など
クレラー=ミュラー美術館が所蔵するゴッホ作品は油絵90点、素描180点。ヘレーネは1908年から1929年までの20年間、現在の日本円に換算して総額6億円を費やし、作品を収集しました。現在と違って、当時、ゴッホ作品の値段はそれほど高くありませんでした。
ゴッホ作品を一番多く所蔵しているのはゴッホ美術館で、油絵200点、素描500点を所蔵しています。クレラー=ミュラー美術館の所蔵数は二番目。他には、オルセー美術館が油絵24点、版画15点を、メトロポリタン美術館が油絵19点、水彩・素描5点、版画4点を所蔵しています。
・本展の出展作品
本展の出展作品は、ゴッホの素描20点、ゴッホの油絵32点(うち、4点がゴッホ美術館所蔵)、ゴッホ以外の油絵20点です。
ご覧いただいているのは、走る機関車を描いた、ハブリエル《それは遠くからやってくる》(1887)で、ヘレーネが1907年に初めて収集した作品です。次の《森のはずれ》(1883)と《枯れた4本のひまわり》(1887)は、ヘレーネが1908年に初めて収集したゴッホの作品です。なお、《枯れた4本のヒマワリ》は本展に出展していません。
オランダ時代の作品は《織機と職工》(1884)、《女の顔》(1884)、《じゃがいもを食べる人》(1885)。《じゃがいもを食べる人》は油絵と版画を描いていますが、本展に出展しているのは版画です。
ゴッホは、画家としては10年間ぐらいしか活動していません。初期は基本に従って、下絵を描いてから油絵を仕上げていますが、後になるほど描くスピードが速くなり、2~3日で1点を仕上げています。パリ・アルル時代からは、下絵なしでキャンバスに向って描いています。
パリ時代の作品は《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》(1886)と《レストランの内部》(1887)。《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》にはオランダ時代の名残がありますが、《レストランの内部》になると作風が大きく変わります。ゴッホは1886年に開かれた第8回印象派展でスーラの作品(注:たぶん、《グランド・ジャネット島の日曜日の午後》)を見て衝撃を受け、この作品を点描で描きました。
これは脱線ですが、ゴッホが弟のテオ宛てに「パリのルーブル美術館に迎えに来い」と書いて送った手紙が残っています。「本当に、投函した手紙が翌日に届いていたのか?」と疑問を抱いていたのですが、調べると、当時、オランダで出した手紙は、翌日パリに配達されていました。以前、藤田嗣治展でフジタがユキに送った手紙を調査したところ、フジタは一日2、3通の手紙を書き、翌日にはユキに届いていました。
《糸杉に囲まれた果樹園》は1888年4月に描いた作品です。その2か月後に描いたのが《種まく人》(1888)ですが、ゴッホはミレーを尊敬し、《種まく人》を元にした作品を何点も制作しています。
・《黄色い家》と「耳切り事件」
《黄色い家》は1888年9月に描いた作品です。この家は2階が寝室で、1階は食堂とアトリエです。ゴッホは、この家を画家たちの共同生活の場にすることを夢見て、画家仲間を誘ったのですが誰も来ませんでした。ゴッホの弟・テオから頼まれ、テオの顔を立てるため、「黄色い家」にやってきたのがゴーギャン。同年10月下旬のことです。しかし、共同生活は2か月で破綻。12月23日に有名な「耳切り事件」が起き、ゴーギャンはパリに帰ります。
「耳切り事件」は「ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手に持って追いかけて来た。ゴーギャンが振り向いてゴッホを睨むと、ゴッホは引き返した」という話ですが、これは事件から10年ほど後にゴーギャンが自伝に書いたことを元にしています。しかし、これが少しあやしいのです。事件の数カ月後、ゴーギャンはフェルミ―ル・ベルナールに事件について語っています。フェルミ―ル・ベルナールは別の作家に手紙を書いていますが「ゴッホが剃刀を持って、ゴーギャンを追いかけた」ということは書いてありません。(注:ゴッホが自分の耳を切ったことは確かですが、「彼がゴーギャンを追いかけた」という部分は「盛った話」かもしれない、ということですね)
・本展の出展作品(つづき)
《善きサマリア人》(1890)は、ドラクロア《善きサマリア人》(1849-50)の版画を模写したものです。《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890年5月)は、1996年に名古屋市美術館で開催した「ゴッホ展」でも出展されました。ゴッホが亡くなる2か月前、サン・レミで描いた作品です。
ゴッホは、アルルで多くの「ヒマワリ」を描いています。そして、サン・レミでは「糸杉」をたくさん描いています。ヒマワリは、生命・信仰の象徴ですが、糸杉は見るからに禍々しく、死の象徴とされています。十字架も糸杉を素材にして作られています。ゴッホの中に「死に向っていく意識があった」と言われています。
「生と死」を表すとき、太陽と月を同じ画面に描くことがあります。《夜のプロヴァンスの田舎道》には金星と月が描かれているとされますが、私は、画面の左側に描かれているのは「金星」ではなく、「太陽」ではないかと思っています。この作品は実際に見た風景ではなく、想像力を使って描いた作品です。
糸杉はベックリン《死の島》(1880)に描かれ、ダ・ヴィンチ《受胎告知》(1472-5)にも描かれています。《死の島》の糸杉は「死の象徴」ですが、《受胎告知》の糸杉は「生命の誕生を告げる樹木」です。つまり、糸杉は「生のイメージ」と「死のイメージ」の二つの象徴です。私はゴッホが「生と死の間を揺れ動いていたのではないか」と思います。ゴッホは1889年から1890年までの間、繰り返し糸杉を描きました。
・ゴッホ以外の出展作品
本展にはルノワール《カフェにて》(1877)、モンドリアン《グリッドのあるコンポジション5》(1919)など、良い作品がいっぱい出展されています。ヘレーネは、ゴッホ以外の作家についても質の高いコレクションを作り上げていました。
◆自由観覧(17:15~18:30)の概要
・オランダ時代の作品など(1階)
最初の部屋に展示されているのは《ヘレーネ・クレラー=ミュラーの肖像》と《H.P.ブレマーの肖像》。出展された作品に関係の深い二人に敬意を表するために展示しているのでしょう。
次の部屋に入り左に曲がると、オランダ時代の暗い色調の油絵が並んでいます。油絵の次は、ゴッホ時代の素描。深谷さんは「ヘレーネが収集したゴッホ作品は、油絵90点、素描180点」と解説していましたが、出展された素描を見て「ヘレーネがゴッホの素描を高く評価していた」と感じました。深谷さんも「ゴッホの素描はうまい」と話しています。ゴッホが素描に力を注いていたことが分かりました。
作品を鑑賞していると、参加者から「油絵の額縁と素描の額縁、作品の種類別に同じデザインの額縁を使っている」という声が上がりました。深谷さんは「おっしゃる通りです」と回答。「クレラー=ミュラー美術館開館時の写真を見ると、当時からこの額縁を使っている」という説明が続きました。
・ゴッホ以外の作品(1階)
点描の作品が5点並んでいました。見覚えのある作品があったので家に帰って調べると、少なくともスーラ《ポール=アンベッサンの日曜日》(1888)、シニャック《ポルトリューの灯台、作品183》(1888)、アンリ・ヴァン・ド・ヴェルド《黄昏》(1889)は、2014年に愛知県美術館で開催された「点描の画家たち」(以下「点描の画家たち」)に出展されていました。そういえば「点描の画家たち」もクレラー=ミュラー美術館の所蔵品からの出展でしたね。
ゴッホ以外の作品の最後は、《グリッドのあるコンポジション5》とバート・ファン・デル・レック《種まく人》(1921)です。2021年に豊田市美術館で開催された「モンドリアン展」(以下「モンドリアン展」)の最後の部屋に出展されていた作品の数々を思い出しました。当時最先端だった抽象画も収集していたことに、ヘレーネの「目の付け所の良さ」を感じます。なお、「点描の画家たち」でも最後の章にはモンドリアンの作品を出展していました。
・クレラー=ミュラー夫妻が購入したファン・ゴッホ作品(1階)
1階の最後は、壁一面を使った「クレラー=ミュラー夫妻が購入したファン・ゴッホ作品」の一覧表です。購入年、作品名だけでなく、現在の円に換算した金額も示されているので「開運!なんでも鑑定団」を見ているような気がしました。興味深かったのは、本展の目玉《夜のプロヴァンスの田舎町》の購入価格が10,000ギルダー(925万円余)で、17,500ギルダー(1619万円余)で購入した《善きサマリア人》よりも安かったということです。それから、1928年には131点の素描を「まとめ買い」していました。クレラー=ミュラー美術館が所蔵しているゴッホの素描は180点ですから「素描の約七割はこの年に購入したもの」ということになります。
・ゴッホ美術館の所蔵品(2階)
2階に移動して、最初に目に入るのはゴッホ美術館の所蔵品4点です。なかでも《黄色い家》は、別格扱いでした。
・パリ時代の作品(2階)
最初に展示されている《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》は、「モンドリアン展」で見たハーグ派の作風で描いた初期モンドリアンの作品を思わせる暗い色調の絵でした。この作品以外は、印象派の影響を受けた色鮮やかな絵ばかりなので、パリでゴッホの作風に大きな変化が起きたことがよく分かります。
・アルル時代の作品(2階)
《夕暮れの刈り込まれた柳》(1888)は、1階に展示されていた素描《刈り込んだ柳のある道》(1881)と同じような樹形の柳を描いた作品です。「モンドリアン展」でも、同じような樹形の柳を描いた作品が数点あったことを思い出しました。《種をまく人》は「日暮れ時に種を蒔いている」ことが良くわかる作品です。ただ、まだ明るく、しかも鴉が何羽も周りにいるので「種を蒔いても、鴉が次から次へと食べてしまうのではないか」と要らぬ心配をしてしまいました。
・サン=レミとオーヴェル=シュル=オワーズ(2階)
《夕暮れの松の木》(1889)は、何故か日本的な感じのする作品でした。ただ、そのように感じる理由については、良く分かりません。本展の目玉《夜のプロヴァンスの道》は、最後に一点だけの特別席に鎮座。沢山の人が作品を取り囲んで見ることができるよう、絵の周りに広い空間を確保していました。
・「点描の画家たち」で見たゴッホ作品
2階にも、見覚えのある作品がありました。家に帰って調べると、少なくとも《レストランの内部》、《種まく人》、《麦束のある月の出の風景》(1889)は「点描の画家たち」に出展されていました。なかでも《種まく人》は、ポスターかチラシに使われていた記憶があります。
◆最後に
本展を鑑賞するため、午後2時30分に並んだことがあります。その時の待ち時間は5分ほどでした。ただ、展示室に入ると「すし詰め」とは言いませんが、①最前列に並んで、人の流れに逆らわず、ゆったりと作品を鑑賞するか、②並んでいる人の後ろに立って、人と人の隙間から覗くようにして作品を鑑賞し、自分のペースで移動するか、二者択一の判断を迫られるほどの「混み具合」でした。その時は、時間の余裕がなかったので止む無く、②を選択しましたが、じっくりと鑑賞できなかったのは、少し残念でした。
これに対し、今回の自由鑑賞は「50人の貸し切り」ですから、じっくりと、しかも自分のペースで鑑賞しました。「贅沢な時間」を満喫することができたので、大満足です。
解説会が始まる前、スクリーンに動画が映されていたので、家に帰り〈「ゴッホ展」展覧会公式サイト〉にアクセスして「スペシャル」を選択すると、〈「ゴッホ展がよく分かる!」こどもも大人も楽しめるジュニアガイド〉という動画を見ることができました。確かに「こどもも大人も楽しめる」ガイドです。
◆蛇足ながら
協力会の活動が再開したのは、2021.02.07に開催の「写真の都」物語-名古屋写真運動史の「会員向け解説会」でした。ようやく、一年が経過。これからも協力会の活動が続くことを願ってやみません。
Ron
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