名古屋市博物館で開催中の「ムーミンコミックス展」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は7名。1階の展示説明室で清家三智学芸員(以下「清家さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。なお、清家さんは、本年4月に名古屋市美術館から名古屋市博物館に異動。本展は、彼女が異動後最初に担当する展覧会とのことでした。
◆清家さんの解説(10:00~35)の要旨(注は、筆者の補足です)
・これまでに日本で開催された、ムーミン関連の展覧会
2014年はムーミンの作者トーベ・ヤンソン(1914~2001)の生誕100周年にあたることから、2つの展覧会が開催されました。一つは「MOOMIN! ムーミン展」で、全国9カ所に巡回。もう一つは「生誕100周年 トーベ・ヤンソン展~ムーミンと生きる~」です。この展覧会は彼女の全仕事を紹介するもので、ヘルシンキ・アテネウム国立美術館で開催された後、全国5カ所を巡回しました。
2019年秋から2021年秋にかけて全国を巡回したのは、フィンランドと日本の国交100周年を記念した「ムーミン展 “Moomin The art and The story”」。名古屋では松坂屋美術館で開催され、小説、雑誌の挿絵、絵本、一コマ漫画、舞台、日本との交流、浮世絵の影響などムーミンの魅力を紹介しました。
・本展について
本展は「ムーミンコミックス」にフォーカスした展覧会です。2020年秋に「松屋銀座」から巡回が始まり、名古屋市博物館は7館目。残りの巡回先は4館。次の会場は「横浜そごう」。最後の会場「東京富士美術館」の会期終了は2022年8月になります。
・「ムーミン」の誕生など
スクリーンに映したのはトーベと彼女の下の弟ラルス・ヤンソン(1926~2000)の写真です(注:本展チラシの裏面に掲載)。二人の左に写っている彫刻は父親の作品。撮影したのは上の弟(注:ペル・ウーロフ・ヤンソン=写真家、1920~2019)です。
ムーミンは、トーベがスウェーデン語で書いた小説(注:「小さなトロールと大きな洪水」1945年出版)に初めて登場します。なお、フィンランドの公用語は二つ、フィンランド語とスウェーデン語です。フィンランドはスウェーデンに支配されていたため(注:13世紀から600年間。その後、100年間はロシアが支配。独立はロシア帝国崩壊後の1917年)、スウェーデン語も公用語になっていますが、少数派です(注:現在は、国民の5.5%)。トーベの父親ヴィクトル・ヤンソン(1886~1958)は、スウェーデン語系フィンランド人の彫刻家。母親シグネハマルテルステン・ヤンソン(1882~1970)はスウェーデン人。家族はスウェーデン語で会話し、トーベはスウェーデン語で小説を書きました。
トーベが書いたムーミンの小説は、フィンランドではなかなか受け入れられませんでした。理由は二つあります。一つは言葉の壁です。フィンランドではスウェーデン語は少数派なので、読者が広がりません。もう一つは「想像上の動物が主人公」だったからです。フィンランド人が好むのは、活劇や恋愛小説。「想像上の動物の話」は、受け入れられなかったのです。
トーベはムーミンを普及するため舞台化(注:1947年に初のムーミン劇「ムーミン谷の彗星」を初演)や絵本化(注:1952年に初の絵本「それからどうなるの」をスウェーデン語とフィンランド語で出版)に取り組み、フィンランドのスウェーデン語紙に「ムーミンコミックス」を掲載しました(注:1947年に「ムーミントロールと世界の終り」の連載開始)。しかし、ムーミンパパの発言が批判されるなど、フィンランド国内では受け入れられない状況が続きます。
・英国「イヴニング・ニューズ」紙に「ムーミンコミックス」を連載
1950年に小説「楽しいムーミン一家」が英語に翻訳(注:”FINN FAMILY MOOMINTROL”) されると外国で評価され始め、ムーミン人気はフィンランドに逆輸入されます。
英国でムーミンの人気が高まったことから、世界最大の夕刊紙「イヴニング・ニューズ」を発行している英国・ロンドンのイヴニング・ニューズ社からトーベに「ムーミンコミックス」連載の話が舞い込みます。しかし、スウェーデン語を英語に翻訳するのは大変な仕事で、英語力が高い人材が必要になります。トーベの下の弟ラルス・ヤンソンは子どものころから英語の小説に親しんでいました。彼は、ムーミン谷の世界観もよく理解していました。そのため、トーベはラルスを共同制作者として、イヴニング・ニューズ社と契約。トーベが、あらすじ・作画・セリフを考え、ラルスが英語に翻訳するという役割分担でした。
厄介なのは、イヴニング・ニューズ社との契約内容でした。「奴隷契約」とも言うべき厳しいもので、連載原稿は半年先の分まで用意しておくこと、王室批判、政治批判は駄目、理不尽な死を描写することも駄目など、制約が多く、印税の配分もトーベにとっては不利なものでした。
今なら、下書きも電子ファイルで瞬時に送信できますが、当時の通信手段は郵便。下書きのやり取りだけでも時間がかかるため、夕刊紙への連載は過酷なものとなりました。そのため、ラルスは、あらすじの構想も手助けし、キャラクター制作についても提案するようになりました。このようにして、1954年9月20日から1959年12月末までの約5年半の間、トーベとラルスの共同制作が続きました。
・「ムーミンコミックス」連載は、ラルス・ヤンソン単独で制作することになる
トーベは1959年末で「ムーミンコミックス」の連載を終了し、1960年の契約更新はしないと決心します。しかし、イヴニング・ニューズ社との契約には「トーベ・ヤンソン以外でも連載を継続できる」という条項がありました。母親のシグネに相談すると、彼女は「弟のラルスが一人で連載を継続するべきだ。ムーミンの世界観を引き継げるのはラルスだけだ」と答えました。母親のシグネは挿絵画家で切手原画のデザイナーでした。トーベもテンペラ、素描、挿絵、油絵となんでもO.K.です。しかし、母親や姉と違い、ラルスはこれまで絵の勉強をしてきませんでした。そこで、ラルスはシグネやトーベから「ムーミンコミックス」制作の指導を受け、1960年から1975年まで、ラルス単独で「ムーミンコミックス」を制作しました。ラルス単独で制作した期間に読者が増えています。ラルスは作画力も持ち合わせていたのです。
・本展の構成
本展は、大きく二つに分かれています。前半は「黄色」の壁で、トーベとラルス共同制作の作品。後半は「ブルー」の壁で、ラルス単独制作の作品です。
・トーベが描いた原画など
トーベが描いた「ムーミンコミックス」の下絵・原画は、トーベの許にはほとんど残っていませんでした。トーベの許には彼女のファンが多数押しかけ、子どものファンにはコミックスの原画をプレゼントしていたのです。展示しているキャラクターのスケッチや構想図は、トーベの遺族の手許にあったものです。
スクリーンに映したのは、キャラクターのスケッチです(注:本展チラシの裏面に掲載)。英語で書かれているので、イヴニング・ニューズ社との打ち合わせ用と思われます。ムーミンに口はあるのですが、前からは見えません。そのため、ムーミンの表情は、目・眉・身振り・手振り等で表現しなければなりません。口を描かないという制約はありますが、ムーミンは表情豊かです。
・ラルスが描いた原画など
ラルスが描いたコミックスの原稿は残っていました。ラルスの原稿が発表されるのは、日本初です。
なお、本展は、ラルスが設立したムーミンキャラクターズ社の特別協力を得ています。ムーミンキャラクターズ社は、ムーミンに登場するキャラクターの版権等を管理する会社で、現在はラルスの娘ソフィア・ヤンソンが会長を務めています。
以上で、清家さんの解説が終了。参加者は自由観覧となりました。
◆自由観覧
当日は、日曜日ということもあり子ども連れが目立ちましたが、若いカップルや高齢者の姿も多く、名古屋市博物館は、にぎやかでした。ムーミンといえば「子ども向けアニメ 」のイメージが強かったので、「大人向けムーミン」は新鮮でした。展示されていた「イヴニング・ニューズ」には、4つのコミックが印刷されています。日本のマンガ雑誌だと、人気の低いマンガは早々と連載打ち切りの羽目に陥ります。展示されたコミックスを見て、20年以上も連載が続いた訳が分かりました。「ムーミンコミックス」は、安心して読むことができるのです。
◆TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」
名古屋市博物館のホームページから本展の公式サイトを経由して「ムーミン公式サイト」に入ったところ、TVアニメの記事にたどり着きました。〈フィンランドとイギリスの共同制作によるフルCGアニメーション「ムーミン谷のなかまたち」(2019年4月にNHKのBS4Kで放送)が、2021年11月6日(土)午前10時30分からNHK・Eテレで放送開始決定〉というものです。午前中の放送なので「子ども向けアニメ」という位置づけになりますが、大人も楽しめると思います。
Ron.
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