協力会ミニツアー再開第2回目は、岡崎市美術博物館・開館25周年記念「渡辺省亭」- 欧米を魅了した花鳥画 ― です。参加者は21名。岡崎市美術博物館1階のセミナールームで、酒井明日香学芸員(以下「酒井さん」)のレクチャーを約25分間聴講した後、自由観覧となりました。
◆ 酒井さんのレクチャー(概要)
本日は予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました。皆様にはレクチャー終了後、入場整理券をお渡ししますので、受付で観覧券と入場整理券を提示してから、展示室にお入りください。
さて、ここにお越しの皆さんは、渡辺省亭(1852~1918、以下「省亭」)を知らない人の方が多いのではないかと思います。省亭は存命中、国の内外で高く評価された画家でしたが、死後は次第に忘れられた存在となっていきました。没後100年に当たる2018年に再評価され、ようやく研究が始まりました。その成果が、今回の展覧会です。
〇 渡辺省亭について
幕末の江戸・下町に生まれた省亭は、子どもの頃から浮世絵の模写が好きな少年でした。奉公先でも模写をして追い出され、16歳の時(年齢は数え歳、以下同じ)人物歴史画を描く菊池容斎(きくちようさい)に弟子入りします。容斎の下では、絵の手本は与えられず、書道の練習に明け暮れます。そのため、省亭の筆さばきは見事なものです。また、容斎からは、よく物を観察し、記憶し、写生することを教えられました。
25歳の時、省亭は輸出用貿易品を扱う起立工商会社に就職、工芸品の下絵描き(デザイナー)となります。28歳の時(明治11年(1878))には、日本人画家として初めて、パリに渡ります。これは留学ではなく、社員としてパリ万博に出張したものです。第1章の最初に《鳥図(枝にとまる鳥)》(1878)のパネルを展示していますが、画家たちも集まるサロンで省亭が即興で描き、エドガー・ドガに贈られたものです。
フランスからの帰国後、省亭は江戸琳派、四条円山派の画風を取り入れて作風を確立します。明治20年代=30歳代のことでした。画風確立後、省亭は画風を変えることはありませんでした。これは研究者泣かせです。年譜など制作年を推定する手がかりがないと、作風だけでは制作年が分からないのですから。
明治30年代になると省亭は画壇から距離を置き、ひたすら注文に応じた制作に没頭するようになります。展覧会など広く作品を紹介する機会が無かったため、没後、省亭は次第に忘れられていきました。なお、出品作には「個人蔵」や所蔵者名の無いものが多数ありますが、いずれも個人が所有する作品です。
省亭が画壇から距離を置いたのは、①「画壇政治」を嫌った、②画壇における展覧会の選考基準に不満を持った、③展覧会向けの大型作品を好まず、床の間向けの作品を多く手掛けた、などの理由が挙げられますが、はっきりした理由は不明です。
〇 第1章 作品でたどる渡辺省亭の生涯
省亭の作品は制作年代のはっきりしているものが少ないので、第1章では制作年代のはっきりしているものを、年代順に並べました。最後に展示の「特別出品」《春の野邊(絶筆)》(1918)は、東京会場の会期(3/27~5/23)中に所有者からの連絡で、省亭作と判明したものです。そのため、岡崎会場からの展示です。署名はありませんが、表具に「省亭」と織り込んだ布が使われています。蓮華の上を飛ぶ蝶の羽根が真っ白で、模様が描かれていないので「未完」と思われます。第2章以降はジャンル別に構成しました。
〇 第2章 花鳥画の世界
本展のサブタイトルは「欧米を魅了した花鳥画」ですが、省亭の花鳥画は欧米の美術館では人気トップテンに入るもので、省亭の作品をプリントしたTシャツを売っている美術館もあります。本展ではイギリスの「グレース・ツムギ・ファインアート」アメリカの「メトロポリタン美術館」の所蔵品を展示しています。省亭の作品は伝統的な構図に写実描写を加えたもので、輪郭線を用いないことや、ぼかしを使うことなどの特徴があります。輪郭線を用いないといっても「西洋絵画の勉強をした」という形跡はありません。近い距離で、作品の鳥の眼を見てください。黒目が丸くて可愛いですよ。また、瞳にハイライトが入っています。
〇 第3章 七宝焼に花開く省亭の原画
省亭は、工芸の分野でも活躍。「無線七宝」という新しい技法を開発した濤川惣助(なみかわそうすけ)に原画を提供しました。七宝焼きは、釉薬が混ざらないように金属の表面に銀線を置いて、釉薬を入れて焼成します。これを「有線七宝」と言い、焼成後は金属線が輪郭線となって残ります。無線七宝は、釉薬を入れた後に金属線を取り除く技法で、ぼかしを表現できますが、釉薬を混ぜないためには技術が必要です。本展では、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)「花鳥の間」にある七宝額の原画を展示しています。
〇 出版界でも活躍(第1章、第5章 明治出版界での活躍)
省亭は出版でも活躍しました。明治20年代に、菊池容斎の門下は小説の挿絵や口絵で活躍。省亭も山田美妙「胡蝶」の挿絵に裸婦を描いています(第1章展示)。木版画による美術雑誌「美術世界」の編集にも活躍しました(第1章展示)。「花鳥画譜」と二つの「省亭花鳥画譜」は省亭の作品集ですが、同時に図案集でもあり、工業品の下絵に借用されました(第5章展示)。
〇 第4章 江戸の情緒を描く
省亭は、花鳥画だけでなく美人画・風俗画も手がけています。師の菊池容斎は歴史人物画の大御所でした。人物の表情がリアルなのが、省亭らしさです。風俗画では下町の情緒を描いています。省亭が外国へ行ったのは、明治11年のパリ万博出張だけで、下町に住み続けました。その場に行って写生した情景が、省亭の作品に空気感を与えています。季節の行事を描いたものも多く、床の間に飾って楽しむ絵を数多く描きました。
以上が、酒井さんのレクチャーの概要で、標題や( )内の注は私の追記です。
◆ 感想など
〇 略年譜と地図
展示室に入って直ぐの略年譜には「1890(明治23)40歳 6月13日 関本千代との間に長女ナツが生まれる」「1894(明治27)44歳 8月23日 関本千代との間に次女くみが生まれる」と書いてありました。<地図で見る「省亭の暮らした町、歩いた場所」>というパネルには、自宅だけでなく別宅の表示もあります。NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一と同様、省亭にも愛人がいたのですね。
〇 第1章
《龍頭観音》は、1884年制作の小さな作品と1893年制作の比較的大きな作品が展示されていました。龍頭観音は省亭が好んで描いた題材とのことですが、酒井さんのレクチャーどおり、年を経ても作風は変わっていません。『美術世界』は14冊展示。最後の1冊だけページが開かれ、嘴で桜の花びらをくわえた雀が描かれています。残り13冊は表紙しか見えませんが、いずれも綺麗な本です。
〇 第2章
海を渡った省亭の作品の写真パネルが4点並んでいます。パネルなので出品リストには載っていませんが、明治10年(1877)の内国勧業博覧会に出品され、さらにパリ万博にも出品された《群鳩浴水盤ノ図》(フーリア美術館・アメリカ)は「パリでマネの弟子のジョゼッペ・デ・ニッティスが購入、筆法を研究したが、その技術の高さに模写はあきらめたという逸話が残る」と解説されていました。《雪中鴛鴦之図》(1909)は「伊藤若冲の《雪中鴛鴦図》に倣って描かれた異色作。サイズも若冲画に合わせた大きさであり、原画をよく研究していることがわかる」と解説されています。若冲からドギツさを除いた、優しく心休まる作品です。第2章の最後の方に《葡萄に鼠図》が2点展示されていますが、どちらも鼠の5本の指が極細の線で克明に描かれており、省亭の技量の高さに感心しました。
〇 第3章
七宝の皿や花瓶の色彩が綺麗です。釉薬なので鮮やかな色彩が保たれ、美しい作品ばかりです。
〇 第4章
酒井さんは「師の菊池容斎は、歴史人物画の大御所」という解説していましたが、省亭の人物画も美しい作品が並んでおり、《塩冶判官の妻》では絶世の美人・顔世(かおよ)のヌードを描いています。
〇 第5章
展示ケースの中に本が並んでいます。地味な展示なので見落としそうになりました。
◆ 最後に
レクチャーの冒頭で「予想以上の入場者があり、入場制限を行うことになりました」という話がありましたが、作品を見て入場者が多いことに納得しました。6/22~7/11は後期展示となります。岡崎市美術博物館のホームページに掲載されている作品リストは前期・後期が色分けされ、分かりやすいですよ。
Ron.
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