先日、豊橋市美術博物館で開催中の「手塚治虫(てづか・おさむ)展」(以下「本展」)に行ってきました。マスクを着用し、手指の消毒と検温を済ませると、鉄腕アトムの人形が出迎えてくれました。展示室は4つ。第1企画展示室と第2企画展示室では手塚治虫の生い立ちと描いたマンガの直筆原稿などを、特別展示室ではアニメーションの原画・絵コンテなどを、第3企画展示室では手塚治虫の作品に込められたメッセージを展示しています。
◎手塚治虫の生い立ちと描いたマンガ(第1企画展示室・第2企画展示室)
手塚治虫は1928年11月3日生まれ。9歳(小3)の時に「ピンピン生チャン」を描いています。また、「紙の砦」(「週刊少年キング」1975.1.1号)の直筆原稿には、旧制中学校の軍事教練における教官の暴力や軍需工場における勤労動員、空襲の体験など、戦時中の様子が描かれていました。
1945年、大阪大学付属医学専門部に入学。在学中に「ママチャンの日記帳」(「小國民新聞」(現在の「毎日小学生新聞)」1946.1.1~3.31)で漫画家としてデビューし、「ジャングル大帝」(「漫画少年」1950年11月号~1954年4月号)にも着手。1952年に医師の国家試験合格後、東京へ進出します。
手塚治虫のマンガの特徴やマンガの描き方についての解説もあります。手塚治虫のマンガの特徴は、映画的手法を採り入れたこととスターシステムの二つです。手塚治虫の映画的手法は、1大胆な構図、2移動する視点、3動き(流線、集中線などの効果線)、4クローズアップ、5擬音としての描き文字、6陰影、7群衆シーン、8モンタージュ(断片を組み合わせる)の8つで、具体例付きの解説がありました。なお、「スターシステム」と「マンガの描き方」については、本展をご覧ください。
1989年2月9日、手塚治虫は胃ガンのために死去。絶筆作品となった「ルードウィッヒ・B」(「コミックトム」1987.6月号から1989.2月号)、「グリンゴ」(「ビッグコミック」1987.8.10号~1989.1.25号)、「ネオ・ファウスト」(「朝日ジャーナル」1988.1.1号~1988.12.16号)の直筆原稿も展示されています。
◎アニメーション(特別展示室)
「鉄腕アトム」(フジテレビ系 1963.1.1~1966.12.3)を始めとするアニメーションの直筆原画、セル画などが展示されています。なかでも興味深かったのは「手塚治虫のテレビアニメ制作システム」と題する解説です。手塚治虫は、時間と予算に制約のあるテレビアニメの制作を可能にするため、①1秒間に撮影する枚数を減らす、②口パク、目パチ(口、目だけを描いたセルを重ねて撮影)、③同じ絵を使いまわす、④動く絵を描くのではなく、絵そのものを動かすようにした、というものです。「テレビアニメはアニメーション映画とは別物」ということが、よく分かりました。
また、「セル画アニメーションの制作工程」と題して、企画、シナリオから始まって、編集、音楽・効果音・セリフの録音までの工程を解説したコーナーもあります。特に、原画(節目にあたるポーズを描く)と動画(原画の間の絵を埋めて動きを完成する)の違いは、NHK連続テレビ小説「なつぞら」で主人公・奥原なつが勤めていたアニメーション制作会社の様子を思い浮かべながら読みました。
◎手塚治虫のメッセージ(第3企画展示室)
「鉄腕アトム」(「少年」1952.4月号~1968.3月号)には「科学と人間のディスコミュニケーション」という表題の、「ブラック・ジャック」(「少年チャンピオン」1973.11.19号~1983.10.14号)には「医者は何のためにあるか」という表題の解説があり、直筆原画も展示されています。手塚治虫の作品の制作意図などをもう一度考えてみる良い機会になりました。手塚治虫の死後31年過ぎましたが、「鉄腕アトム」や「ブラック・ジャック」に込められたメッセージは、今でも古びていないと感じます。
◎最後に
本展の企画制作は株式会社手塚プロダクション。直筆原稿等は約300枚、映像・資料・愛用の品々も展示されており、じっくりと鑑賞するだけの価値がある展覧会だと思います。ただ、直筆原稿やアニメの絵コンテなどは小さな物が多いので、鑑賞用の単眼鏡があると便利です。会期は11月23日まで。
なお、大人の当日観覧券は1,000円ですが、公共交通機関を利用する場合はセット販売(豊橋鉄道市内線1日乗車券+当日観覧券=1,000円)がお得です。豊橋鉄道「新豊橋駅」(JR豊橋駅の東)で販売していますよ。
Ron.
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