今年の秋の旅行は「日帰り」。目的地は奈良県。奈良市の大和文華館(やまとぶんかかん)と桜井市の喜多美術館(きたびじゅつかん)、聖林寺(しょうりんじ)、安倍文珠院(あべもんじゅいん)の4か所を見学しました。開催日の12月1日(日)は幸運にも、快晴で厳しい寒さもない絶好の旅行日和。紅葉が遅れたため、そのピークと重なり、集合場所の名古屋駅噴水前(銀時計の西)はバスツアーの客でごった返していました。ツアー参加者は、募集人員の30名を大幅に超えて48名。乗車定員いっぱいの参加者を乗せた大型バスは、予定通り午前8時に発車。「マニアックなツアー」(添乗員さんのお言葉)が始まりました。
◆大和文華館:「特別展 国宝彦根屏風と国宝松浦屏風 ―遊宴と雅会の美―」。
今年3月に新名神高速道路の新四日市JCT~亀山西JCTが開通したおかげで、バスは渋滞に逢うこともなく快走。予定時刻の5分前に大和文華館の駐車場に到着しました。庭園の寒椿やサザンカの花、紅葉した木々などを眺めながら、しばらく歩き、玄関前で記念撮影。その後、ロビーで展覧会についての簡単なレクチャーを受けました。
レクチャーの概要は、彦根屏風と松浦屏風は華麗に着飾った人々が遊びを楽しむ様子を描いた「遊楽図」の傑作で、遊楽図は16世紀後から描かれるようになったもの。初めは野外の遊びを描いたものだったが、1620年ごろから部屋の中や庭を描くようになり、なかでも人物だけをクローズアップしたのが彦根屏風と松浦屏風。彦根屏風は繊細な描写が特徴で、松浦屏風は大きなサイズ(注:高さ155.6cm)と描かれた衣装が布地を貼り付けたように平面的に描かれていることが特徴。どちらも「ニックネーム」で、彦根屏風は彦根藩・井伊家の所有であったことから、松浦屏風は平戸藩・松浦家の所有であったことから着いた名前。遊楽図は浮世絵のルーツであり、江戸後期には遊楽図のリバイバルがあった、というものでした。
展示は狩野孝信《北野社頭遊楽図屏風》から始まります。画面の右には朝顔などを描いた金屏風を背に弁当や酒に舌鼓をうったり、扇を手に舞い踊る人々の様子が、中央には幕を張り巡らせたなかで鯛をさばいたり、椀を運んだりしている裏方の姿が、左にはお堂の前で大勢の人々が舞い踊る姿が描かれています。
目を惹いたのが《輪舞図屏風》でした。大勢のひとが輪になって、手をつないでいます。手をつないでフォークダンスを踊ろうとしているわけではないのでしょうが、思わずクスッと笑ってしまいました。
彦根屏風は教科書などで見たことがありますが、思ったよりも小ぶり(94cm×271cm)で、描線の細さにびっくりしました。江戸後期の作品には彦根屏風をお手本にしたものが多く、彦根屏風の影響力を強く感じました。松浦屏風では、着物の柄を楽しむことができました。
展示室はひとつだけで出品数も多くはないのですが、あっという間に集合時刻となってしまいました。
◆大和路を南へ
昼食会場は奈良パークホテル。48人の団体が入ると貸し切り状態で、壮観でした。昼食後は、三笠山向かって東進。しばらく行くと、左に復元された遣唐使船と朱雀門が見えます。奈良市役所の前を過ぎ、JR奈良線・大和路線の高架をくぐり、近鉄奈良駅を過ぎると奈良公園です。奈良公園の鹿を見ていると、登大路園地(のぼりおおじえんち)の交差点で右折して南進。名古屋から来たと思われる観光バスと何度もすれ違います。バスガイドさんによれば、観光バスの目的地は奈良公園とのことでした。
天理市を過ぎると「三輪そうめん」の看板・のぼりが目立つようになります。右手に大きな鳥居が見えたらガイドさんが「大神神社(おおみわじんじゃ)です。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。三輪山がご神体です」という説明してくれました。家に帰って調べると「三輪山は、標高(467m)に比して勾配がきつく体調不良を起こす事例が多いので、登拝にあたっては装備や体調管理には充分ご注意ください」という大神神社の注意書きがありました。
大神神社を過ぎたので「いよいよ喜多美術館に到着か」と思いましたが、バスは更に南進。運転手さんによれば「喜多美術館周辺は道幅が細く大型バスが走行できないので、遠回りするしかない」とのことでした。やっとのことで、大型バス用の駐車場に到着しましたが、駐車しているのはダンプカーばかり。「本当に美術館があるの?」と、不安になってきました。
◆喜多美術館
駐車場近くに小さな看板があり、「鳥居を抜けて進んでください」と書いてあります。鳥居を抜け、車一台がやっと通れる幅の道を上っていくと前方に二つ目の鳥居。右には白い建物が見えます。「あれが喜多美術館だろう」と見当をつけて歩いていくと、そのとおりでした。
喜多美術館では「当館は、創設者の喜多才治郎氏が収集した西洋近・現代美術のコレクションを展示している。本館南西の新館では阪上眞澄展を開催。現代美術は必ずしも視覚をよろこばせるものではない。感じ取ることが大切。疑問に思ったことがあれば、自分で答えを出してください」とレクチャーを受けました。
展示室が狭く48人がまとまって動くことは難しいので、3班に分かれて鑑賞。阪上眞澄さんは書道の人で、キャンバスに墨や岩絵の具で描いた作品を展示していました。コレクションは、展示室1~3と図書室・研究室の4か所に展示。展示室3は「デュシャンとボイスの部屋」で、マルセル・デュシャンとヨーゼフ・ボイスのほかベッヒャーの写真などを展示していました。
家に帰って調べると、我々が上ってきた道は天理市から桜井市を結ぶ全長約16km「山の辺の道」の一部。二つ目の鳥居を抜けて進むと第10代崇神(すじん)天皇の「磯城瑞籬宮跡伝承地(しきみずがきのみやあとでんしょうち)」があるようです。(桜井市のHP解説より。URLは下記のとおり) https://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/rekishi/chiku/yamanobemakimukai/1396000677273.html
◆聖林寺
喜多美術館を出発して15分ほどで聖林寺の駐車場に到着。坂道と石段を上がったところが聖林寺。秋の旅行最大の難所です。石段を登りきると北に、卑弥呼の墓とも言われる箸墓古墳(はしはかこふん=三輪山の西麓に広がる纒向古墳群(まきくむこふんぐん)のひとつ)が見えました。
聖林寺では、2班に分かれて見学。本堂に安置しているのは元禄時代に造られた子安延命地蔵菩薩。大きな石を削って地蔵菩薩を造り、その後、本堂を建てたとのことで、地蔵様に向って右が掌善童子、左が掌悪童子、との解説でした。
観音堂に安置しているのが、国宝十一面観音菩薩。廃仏毀釈の時、大神神社に附属して建てられた大御輪寺から聖林寺に移されたものです。岡倉天心・フェノロサ・ビゲローに発見され、当初は本堂に安置していたが、大正時代に観音堂を建設して移設。乾漆像で天平時代に渡来人がつくった、との解説でした。
◆安倍文珠院
聖林寺を出発後10分余りで安倍文珠院の駐車場に到着。5分ほど歩き、客殿の大広間でお茶菓子と抹茶の接待を受け、法話を聴きました。法話は漫談のように愉快なもので笑ってばかりでした。法話によれば、安倍文珠院は645年に安倍氏の氏寺として創建。国宝の文殊菩薩像は快慶作で檜の寄木造。その他に善財童子像、優填王像、須菩提像、維摩居士像も国宝。また、安倍文珠院は、丹後切戸の智恩寺、奥州亀岡の大聖寺と合せて日本三大文珠霊場、とのことでした。法話の後は、本堂に移動して安置されている仏像を拝観。敷地内にある「特別史跡」文珠院西古墳の内部も見学しました。
◆帰路
安倍文珠院の駐車場を出た時点で、当初計画から1時間遅れ。遅れた要因は、遠回りして喜多美術館に行かざるを得なかったことで30分。安倍文珠院の法話が長かったことで30分。以前のようなひどい渋滞には遭遇せず1時間遅れのまま、20時30分頃に名古屋駅到着。こんなこともあろうかと名阪関ドライブインで弁当を積み込んだので、ひもじい思いをすることはありませんでした。
◆最後に
天候に恵まれ、往復の車中で深谷副館長のトークを聴くことも出来ました。その上、「山の辺の道」を歩いたり、箸墓古墳を眺めたり、文珠院西古墳を見学するなど古代遺跡に触れることができ、満足できる旅行となりました。旅行を企画した松本さま、添乗員・ドライバー・ガイドの皆さま、そしてツアーに参加された皆さま、ありがとうございました。
Ron.