藤田嗣治作品解説会

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館が本年6月に藤田嗣治の絵画2点の寄贈を受けたことを記念して10月5日(土)に「藤田嗣治作品解説会」が開催されたので、参加してきました。以下に、深谷副館長による当日の解説を要約筆記しましたのでご覧ください。なお、(注)は私の補足・感想等で、表題も便宜的に付けたものです。

0 名古屋市美術館が所蔵する藤田嗣治の作品について

 名古屋市美術館(以下「当館」)が所蔵する藤田嗣治(以下「藤田」)の絵画を制作年順に並べると、以下のとおりです。①《風景》1918(H2購入)、②《裸婦》1928(H28寄託)、③《自画像》1929(S61購入)、④《家族の肖像》1932(H元購入)、⑤《ベルギーの夫人》1934(H30購入)、⑥《那覇》1939(H28寄託)、⑦《猫を抱く少女》1949(H28寄託)、⑧《二人の祈り》1952(R元寄贈)、⑨《夢》1954(R元寄贈)。

 所蔵に至る経緯についてお話しますと、当館が最初に所蔵した藤田の絵画は③《自画像》で、当館の開館(S63)の2年前・昭和61年に購入しました。平成元年に④《家族の肖像》、平成2年に①《風景》を購入したものの、しばらくの間、収集が途絶えました。平成28年になって「藤田嗣治展」を開催したことを契機に、②《裸婦》・⑥《那覇》・⑦《猫を抱く少女》の3点について寄託を受け、開館30周年に当たる平成30年に⑤《ベルギーの夫人》を購入しています。購入は平成2年以来、約30年ぶりのことでした。

そして、新聞報道等でご存知のとおり、本年6月にオリエンタルビル株式会社取締役社長の平松潤一郎氏(以下「平松様」)から⑧《二人の祈り》と⑨《夢》の2点をご寄贈いただきました。本日、この会場に平松様がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。なお、ご寄贈いただきました2点は、平松様が10年前に亡き作家の奥様から購入されたものです。

今回の寄贈により、当館が所蔵する作品で初期から晩年までの作風の変化がよく分かるようになりました。本日の解説会は、これを記念して開催することになったものです。

1 模索する藤田=《風景》(1918)

◆藤田嗣治の親族

藤田の父、嗣章は軍医で森林太郎(森鴎外)の後に軍医総監を務めた人物です。藤田の親族は陸軍関係者が多く、お兄さんは児玉源太郎の娘と結婚しています。小山内薫、岡田三郎助、蘆原英了、芦原義信も縁続きという家系です。

◆黒田清輝に学んだ藤田

周りは陸軍関係者という環境で育った藤田ですが、軍人ではなく絵描きになると決意し、手紙でお父さんに伝えています。わざわざ手紙で伝えたのは、お父さんが怖くて直接言うことができなかったからです。手紙を読んだお父さんは、すぐに理解。当時としては信じられないくらい物分かりの良い人でした。藤田は森鴎外の助言で東京美術学校(注:現在の東京芸術大学)に進学し、黒田清輝からフランスのアカデミズムに印象派の表現を加えた西洋画を学びます。

◆渡仏した藤田

東京美術学校を卒業後、藤田は1913年に渡仏。フランスで最先端の絵画に触れて「一から出直し」を図り、藤田の作風は大きく変わっていきます。当初はキュビスムの洗礼を受けた《キュビスム風静物》(1914)のような作品を描いています。写真は1914年頃に撮られたもので左が藤田です。右は2年前にパリに来ていた画家の川島理一郎。二人が着ているのはギリシア風の衣装で、手先が器用だった藤田の手作りです。次はディエゴ・リベラ(以下「リベラ」)の《藤田と川島》(1914)です。リベラは、藤田がパリで最初に知り合った画家の一人でした。パブロ・ピカソとも知り合います。ピカソのアトリエで見たアンリ・ルソーの絵に、藤田はひらめくものを感じました。また、《収穫》(1917)のように古い時代のものを取り入れた、単純化されたプリミティブな絵も描きいています。輪郭線が主体の平面的な作品です。

◆《風景》(1918) 当館の所蔵品では最も初期に制作されたもので、藤田が南フランス・コートダジュールの町カーニュに滞在した時に制作した、アンリ・ルソー風の作品です。

2 乳白色の下地と細い輪郭線=《裸婦》(1928)

藤田は1920年代になって、乳白色の裸婦を描き始めます。《五人の裸婦》(1923)は初期の代表作で、メリハリのきいた作品です。五人の裸婦は線描のみで濃淡もありませんが、背景のジュイ布や足元の布は緻密な描写で質感もしっかり描かれています。主役はシンプルで、背景は緻密。その間を漆黒に塗ることで、メリハリが生まれています。これは、私(深谷副館長)の想像ですが《五人の裸婦》は、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》にヒントを得て描かれたのではないかと思っています。

◆《裸婦》(1928)

白い背景に線描で裸婦を描いた作品です。1920年代前半の裸婦はメリハリがきいていますが、1920年代後半になると多くの注文を受けたためか背景も白塗りで、手抜きが見られます。

◆グラン・フォン・ブラン(grand fond blanc=素晴らしい白色)

藤田というと「白い下地に墨を使った線描」と言われていますが、油絵具の上に墨で描いても、水性の墨は油絵具にはじかれてしまいます。「本当に墨で描いたか」はよくわかりません。藤田の作品のひとつを分析したところ絵具に炭素が含まれていなかったという報告もあります。

藤田の白い下地について「グラン・フォン・ブラン(grand fond blanc=素晴らしい白色)」と称賛されたと言われますが、1920年代の文献のどこにもそんな言葉は出てきません。1930年代から使われ出した言葉です。藤田にとって、自分の絵が「線描を主体にした日本的表現」と言われるのは心外でした。「グラン・フォン・ブラン」は「自分は日本画の手法を取り入れたのではない。下地に工夫したのだ」と強調したいために使われた言葉です。

3 自己アピールをする藤田=《自画像》(1929)

パリで有名になった藤田は、宣伝用写真のモデルも務めています。このような藤田を、日本人の仲間は「目立つこと・売名行為をしているだけで、絵はたいしたことが無い」と、やっかんでいました。

ご覧の写真は、写真家のアンドレ・ケルテスが1928年に撮影したものです。藤田は足踏み式ミシンを踏んで布地を縫っています。くわえタバコで、雪駄履き。「普通の絵描きとは違う」と自己演出した写真です。

◆《自画像》(1929)

当館開館(S63)の2年前に購入した作品で、座卓の上には硯と墨が置かれ、藤田は面相筆を持っています。(注:猫も描いています。三重県立美術館所蔵の《自画像》にも硯、墨、面相筆、猫を描いています)

4 中南米に旅行して制作=《家族の肖像》(1932)

1929年に大恐慌が起こりフランスで絵が売れなくなったことから、藤田は1931年から2年間、中南米を旅行します。ご覧の写真は、1932年9月にペルーの日本大使館で撮影したもので、藤田だけでなく歌手の藤原義江も写っています。スライドは《カーナバルの後》(1932)と《室内の女二人》(1932)です。ご覧のとおり、作風がごろっと変わります。藤田は方向転換を図っていました。

◆《家族の肖像》(1932)

当館が所蔵した2点目の作品で、平成元年に購入しました。線描中心の作品です。肖像画は手っ取り早くお金の入る絵でした。

◆ディエゴ・リベラの壁画と《秋田の行事》

スライドは当館所蔵のリベラの壁画《プロレタリアの団結》(1933)です。メキシコに着いた藤田は旧知のリベラを訪ねたのですが、リベラは当時ニューヨークで壁画を制作中だったため、すれ違いに終わりました。(注:このエピソードについては「アートペーパー110」2019年春号の特集「壁画家は日当で働く」に詳しく書いてあるので、ご一読ください。アートペーパーは、名古屋市美術館HPで閲覧できます)

藤田は壁画にも挑戦しました。スライドは秋田県立美術館に展示の壁画《秋田の行事》(1937)です。

5 アメリカ経由で日本に帰国=《ベルギーの夫人》(1934)

中南米旅行後、日本に帰国した藤田が描いた作品です。藤田の日記に「ベルギー大使館に勤めていた職員の夫人の絵を描いた」という記述があるので、モデルはその夫人と思われます。この作品の背景には霊芝、珊瑚、巻子などの吉祥文様が散りばめられているので、夫人を寿ぐために描いたのではないかと思います。ちなみに、夫人はこの絵が制作された翌年に第一子を出産しています。

6 念願の沖縄旅行=《那覇》(1939)

藤田は1938年に念願の沖縄に旅行しており、この作品は旅行の翌年に制作したものです。ただし、画面右下に藤田が書いた「那覇」というタイトルが無ければ、どこの風景か分かりません。

◆戦争画について

 写真は1942年に、戦争記録画の制作を目的として南洋に向かう船上で撮影されたものです。中央が藤田、藤田の左は宮本三郎、藤田の右は吉岡堅二、右端は小磯良平です。第二次世界大戦後、藤田は戦争記録画を描いた責任を問われます。藤田が画家たちの先頭に立って戦争記録画を描いたことには間違いありませんが、自分だけが責められる謂れは無いと思ったことでしょう。スライドは《アッツ島玉砕》(1943)です。日本とアメリカの戦闘を描いた作品ですが、もはや戦地に行くことはできないため、藤田は想像で描いています。初期の戦争記録画は戦地に赴いて制作していますが、あまり面白くありません。想像で描いた作品の方が面白いものになっています。(注:GHQが発表した戦争犯罪者のリストに藤田の名はありません。戦争記録画を描いた藤田を責めたのは、主に日本人の画家仲間たちでした)

7 日本を脱出、ニューヨークで制作=《猫を抱いた少女》(1949)

藤田は1949年にニューヨークへ旅立ち、再び日本に帰ることはありませんでした。1948年に撮影された写真を見ると、背景が描かれていない少女だけの絵が写っています。藤田はこの作品をニューヨークで完成し、個展に出品しました。なお、この絵の背景はニューヨークではありません。スライドは藤田がパリで描いた《アザリーヌ通り》(1940)です。この絵を《猫を抱いた少女》の背景に生かしたと考えられます。

◆パリの思い出

次のスライドは《カフェにて》(1949)です。これもニューヨークで描いた作品ですが、パリの思い出を描いたものです。1920年代のパリが一番華やかな頃の記憶が、アメリカでは受けたのです。1920年代は多くのアメリカ人がパリにいました。藤田はアメリカ人の顧客に受ける絵を描いたのです。(注:そういえば、豊田市美術館所蔵の《美しいスペイン女》(1949)もニューヨークで描いた作品です)

8 改宗への思いが感じられる=《二人の祈り》(1952)

この作品は、フランスに戻って2年後に描いたものです。パリ・モンパルナスの藤田の居間を飾っていた絵で、藤田は死ぬまで手許に残していました。藤田は1950年代になって宗教的な作品を描くようになりますが、この作品はその先駆となるものです。

藤田は1955年にフランス国籍を取得し、1959年にカトリックの洗礼を受けています。この作品は洗礼の7年前に描かれたものですが、改宗への思いが感じられます。

9 晩年に描いた裸婦=《夢》(1954)

初期の裸婦と構成が似ていますが、違いもあります。初期の裸婦はほとんど真っ白でしたが、この作品の裸婦は肌色を帯びた白で描かれています。

◆最晩年の藤田

 最晩年の藤田はパリ郊外のランスに移住し、ノートル=ダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設と内部のフレスコ画制作に取り組み、礼拝堂は1966年に完成します。その後、藤田は体調を崩して1968年にチューリッヒの病院で死去しました。

最後に

平成28年の「藤田嗣治展」から3年。再度、藤田嗣治の作品について、その変遷をたどることが出来ました。名古屋市美術館に藤田の作品が初期から晩年まで9点揃ったというのは素晴らしいことだと思います。解説会の後は地下1階の常設展で《二人の祈り》と《夢》の2点をじっくり鑑賞し、リベラの壁画《プロレタリアの団結》も見てから美術館を後にしました。          

Ron.

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