「モネ それからの100年」 ギャラリートーク

カテゴリ:会員向けギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「モネ それからの100年」(以下、「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は80人。参加人数が多かったので、先ず、講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。ギャラリートークは、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
以下は、概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものです。

◆本展の概要について(深谷さん)
◎名古屋市美術館で開催するモネ展は、30年間で4回
本展は名古屋市美術館で開催する4回目のモネ展。第1回は1994年で、内容は回顧展。第2回は2002年で「睡蓮の世界」=睡蓮を描いた作品だけの展覧会。第3回は2008年で、マルモッタン美術館所蔵の《印象 日の出》中心にした展覧会。第4回が本展で、「それからの100年」をテーマにした展覧会。
印象派のコレクションを持たない美術館で、30年の間に4回のモネ展を開催するというのは珍しいケース。なお、4回の展覧会は、全て私が担当しました。

◎「それからの100年」というテーマについて
「それから」とは、モネがオランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」を描いた1914年頃を指す。本展のテーマは「睡蓮の壁画が描かれてからほぼ100年経ち、モネの作品が後世の作家にどのような影響を及ぼしているか」を示そうというもの。
本展は89点の作品を展示しているが、モネは26点で、残り63点は現代美術。現代美術のうち、スティーグリッツとスタイケンの写真は19世紀の終わりから20世紀初めのものだが、大半は1950年代以降のもの。
昨日、閉館後に51名の参加で「名画の夕べ」というイベントを開催したところ、1名の参加者から「モネが26点では、モネ展ではない。」という意見があった。チラシ等には「モネと、彼に影響を受けた現代の作家たちとを比較検討」という断りが入っているが、「全部がモネの作品」だと思って来場する人が出るのは止むを得ないと思う。ただ、残り50名の参加者からは「モネ展ではない。」という声は聞かれず、一安心した。

◎モダン・アートの原点はセザンヌからモネへ
かつては「モダン・アートの原点はセザンヌ」という考えが一般的で、モネをモダン・アートの原点に置く人は少なかった。しかし、最近「セザンヌもモダン・アートに影響を与えているが、モネはそれ以上に大きな影響を与えているのではないか。」という考えの人が増えている。
 美術館の展示室に作品が並んでいるのを見ると、事前に思い描いたイメージとは違っていることがある。本展の展示も事前のイメージとは違っていた。それは「いい方」への変化だった。つまり、展示室の作品を見て「モネと現代美術はシンクロしている、つながっている。」という思いを強くした。本展に来場した大半の人も、感覚的に「つながっている」と感じてくれたのではないかと思う。
 モネが好きな人はたくさんいる。本展で、現代アートにアレルギーを持つ人が少なくなると、うれしい。

◎「睡蓮の部屋」オープン時、モネは「過去の人」だった
モネは1926年12月に死去。その半年後の1927年5月にオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」がオープン。しかし、1910~20年代「モネは過去の人」という評価で、オープン時の「睡蓮の部屋」は閑古鳥が鳴いていた。
それが、1940年代後半から1950年代になって、アメリカ現代美術の作家を中心に「モネは先駆的な活動をしているのではないか。」と、モネの作品全体に対する評価が上がり、現代に至っている。
なお、オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は楕円形の部屋二つで構成されており、睡蓮の大壁画22枚が展示されている。

◎晩年のモネと抽象画
本展に展示の《バラの小道の家》(1925)はモネの絶筆(最後の作品)だが、タイトルがなければほとんど抽象画。モネ晩年の10年間は、白内障のため視力が低下。画商のデュラン・リュエルは「今のモネは、ほとんど目が見えないのでは。」という言葉を残しているが、モネがどこまで見えていたのかは、よくわからない。
ただ、睡蓮の池と太鼓橋を描いた1899年の作品と1919年の作品を比べると、1919年の作品はほとんど抽象画。(注:いずれの作品も、本展では展示していない)
ヨーロッパの美術の歴史をたどると、1910年代はモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの前衛美術や抽象画が勢いを持っていたが、第一次世界大戦後の1910年代終わりから1920年代にかけては流行が古典的なものに戻り、エコール・ド・パリなどが勢いを持った。
1910年代のモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの抽象画と比べたら「睡蓮の部屋」は、少しもおかしくない。しかし、モネが「睡蓮の部屋」を描いた1920年代は、復古的風潮が主流であったため、理解されなくても不思議ではなかった。

◎睡蓮を描くまでの、モネの遍歴
本展に展示の《サン=シメオン農園前の道》(1864)は、ノルマンディーの風景を描いたもの。モネは1840年にパリで生まれたが、5歳の時にノルマンディーに移る。若い頃のモネは、コロー、テオドール=ルソーなどのバルビゾン派の作品をお手本にして絵を描いていた。
ノルマンディーの風景を描いた《ヴァランジュヴィルの風景》は日本美術の影響を受けた作品で、葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1831-34)(注:本展では展示していない)と構図が似ている。北斎の絵の左下に逆三角形の部分があるが、モネの絵の海面も同じように逆三角形。ただし、実際の海岸線はモネの絵と違って、湾曲していない。湾曲した海岸線はモネの創作と思われる。実は、北斎の逆三角形の部分も創作らしい。
1880年代の終わりから、積みわら、ルーアン大聖堂、チャリング・クロス橋などの連作が始まる。睡蓮の連作が始まったのは1906年。最初は、睡蓮だけを描いていたが、だんだんと水面に映っているものも描きはじめ、睡蓮の実体と水面に映っている空や木々の影を等価で描くようになる。ジヴェルニーの睡蓮の庭の写真を見ると、水面に映っている空や木々の影の存在が強い。睡蓮と水面は一体のものに見える。
1914年から、モネは「睡蓮の壁画」のための下絵を描きはじめる。「睡蓮の壁画」の本画に使われた下絵は少ないが、本展に展示の《睡蓮、水草の反映》(1914-17)は本画に使われている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術とモネ
モネの睡蓮は、制作当時なかなか評価してもらえなかったが、第2次世界大戦後のアメリカで、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコといった作家がモネの晩年を見直すようになる。
これには、アメリカの戦略的側面もある。ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには「突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている。」という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである。
このような流れを踏まえると、本展では是非ともポロックの作品を展示したいと思ったが、保険金が高すぎて断念した。モネの睡蓮は「身体性」と「中心が無い表現」がポロックの作品と共通している。
スライドで写しているのは、アメリカで開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品したヨーロッパの画家たち。第2次世界大戦中、戦火を逃れてシャガールやモンドリアンなどがアメリカに亡命した。彼らの存在はアメリカの作家に影響を与え、戦後の抽象表現主義の誕生につながった。

◎本展に展示の現代アートについて
本展に展示のモーリス・ルイス《ワイン》(1958)は、色の感じや全体の雰囲気がモネの作品に似ている。福田美蘭の新作《睡蓮の池》(2018)については、保崎さんのギャラリートークを聞いて下さい。

◎7月から開催する「ビュールレ・コレクション」でも睡蓮が
本年7月28日から名古屋市美術館で開催する「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」では、高さ2m、横4.25mの《睡蓮の池、緑の反映》が展示される。スイスから出るのは初めての作品なので、是非、来場を。また、8月5日(日)午後2時から大原美術館館長・高階秀爾氏の講演が開催されるので、興味のある人は参加を。
(注:以下は補足)
高階秀爾氏の講演だけでなく、8月18日(日)及び9月15日(日)午後2時からは深谷副館長の作品解説会があります。事前申し込み制で、申込締め切りは7月22日(必着)。申込方法は、名古屋市電子申請又は往復はがき。往復はがきの場合は、郵便番号・住所・氏名・電話番号・聴講希望日(1つまで)・聴講人数(2名まで)を記入し、〒460-0008 名古屋市中区栄2‐17-25 名古屋市美術館「講演会/解説会」係まで 応募者多数の場合は抽選。詳細は名古屋市美術館HPで。

1階で深谷副館長の解説をきく会員

1階で深谷副館長の解説をきく会員


◆1階の展示について(深谷さん)
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》など
展覧会の概要解説を聴いた後、1階展示室に移動すると、モネ《ヴィレの風景》(1883)と丸山直文《puddle in the wood2 5》(2010)の前に集合して、「立ちあがる色彩と筆触」という副題について、「モネは何を描くかというだけでなく、色彩それ自体の魅力や筆致を楽しんでいる。」などと解説を聴きました。
続いて、深谷さんから「二つの絵を比べて、どんな点が似ていると思いますか。」という質問。参加者が「どちらも、森の木々と水面を描いている。」「色の感じが似ている。」などと回答すると、深谷さんは「昨日の『名画の夕べ』では、『この二つの絵のどこに共通点があるのか具体的に説明して下さい。第一、丸山直文の絵は筆で描いたものではなく、絵の具を沁み込ませて描いていますよね。』という質問があり、答えに窮しました。」とのお話。「この二つの絵は、厳密に一対一で対応しているわけではなく、ゆるい対応です。本展には26人の作家の現代アートを展示していますが、モネの影響を受けていると表明している作家は半数。残りの作家はモネの影響について本人が言ったわけではなく、影響があるのではないかと推測しているにすぎません。」と、話は続きました。

・ジョアンミッチェル《湖》・《紫色の木》
ジョアンミッチェルはアメリカ出身の女性画家で、モネを敬愛し、モネの影響をはっきりと表明しています。《湖》(1954)はミシガン湖のイメージを描いたもの、《紫色の木》(1964)は、フランスにわたってからの作品。
なお、赤い壁に展示されているのはモネの作品。現代アートは白い壁に展示。

・モネの作品の変遷
最初の2点はバルビゾン派の影響を受けた作品。《サン=タドレスの断崖》(1867)は印象派の先駆的作品。典型的な印象派の活動があったのは1870年代で、1880年代になると印象派の作家たちはそれぞれの道を歩むようになる。7月28日から始まる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」で展示されるルノワール《イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》(1880)は、古典的な絵画に回帰した作品。
モネも1880年代に方向転換をしている。1880年代は試行錯誤を続けていたが、1880年代の終わりから積みわらやチャリング・クロス橋などの連作を始めた。

・ルイ・カーヌ、岡﨑乾二郎、中西夏之
ルイ・カーヌはモネを敬愛した作家。本展では《彩られた空気》(2008)が話題になっている。金網の表面に絵の具を塗った作品で、展示室の白い壁に絵の具の影が映り、絵の具とその影が重なって見える美しい作品。
岡﨑乾二郎の作品(注:題名が長すぎて書ききれません)は2点が対になっており、左右の作品は同じようなモチーフを描いているが、色彩と形が少し違っており見比べると面白い。また、絵の具の「塗り残し」をうまく生かしている。
中西夏之《G/Z 夏至・橋の上 To May Ⅶ》(1992)と《G/Z 夏至・橋の上 3ZⅡ》(1992)については、深谷さんから「この絵については、第2章 形なきものの眼差し 光、大気、水 に展示する方が適切だと思われるが、なぜ第1章に展示しているのか、という質問があり、回答に窮した。確かに、第2章でもおかしくない。ただ、第1章・第2章の展示作品は厳密に分けているわけではなく、アバウトな要素もある。」との話がありました。

◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
・スティーグリッツとスタイケンの写真
第2章には19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて撮影された、スティーグリッツとスタイケンの写真が展示されています。深谷さんに聞いたら「横浜美術館からの提案で展示」とのこと。確かに、うち3点は横浜美術館の所蔵品です。第2次世界大戦後の作品ではありませんが、「光、大気、水」という副題にふさわしい展示でした。

・ゲルハルト・リヒター
深谷さんのお話では、個人的な好みを言うと、ゲルハルト・リヒターの2つの作品と岡﨑乾二郎の作品が本展の現代アートでは「イチオシ」とのことでした。なお、ゲルハルト・リヒターの2つの作品は金属板に描かれているため絵の具が完全には定着しておらず、作品を運搬する際は「平らにして運ぶ」よう気を付けているとのことです。

・モネの作品
第2章では、青色の壁にモネの作品を展示。青い壁の一番右に空白があるが、この空白部分には5月22日から作品(注:《雪中の家とコルサース山》(1895))が展示される。
チャリング・クロス橋はテムズ河にかかる鉄道橋で、霧のロンドン(実は石炭を燃料として使うことにより発生したスモッグ)がテーマ。モネは二十数点を連作した。

◎自由観覧のなかで
「睡蓮の壁画」について深谷さんから話がありました。「モネはオランジュリー美術館所蔵の22点以外にも睡蓮を描いている。22点以外の作品は長い間忘れ去られていたが、1940年代に巻かれたキャンバスの状態で保管されているのが発見され、その多くはアメリカのコレクターが買い取り、一部はヨーロッパのコレクターも買った。再発見された当時、睡蓮の評価は高くなかったので値段は低かった。その時に買い取られた作品のうち1点が巡り巡って、今、直島にある。」とのことでした。
また、6月10日(日)AM9:00からのNHK・Eテレ「日曜美術館」の本編で「モネ それからの100年」が紹介され、深谷さんも出演するとのことです。お見逃しなきよう。

2階で保崎学芸員の話をきく会員

2階で保崎学芸員の話をきく会員


◆2階の展示について(保崎さん)
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネ《睡蓮》のうち、1897-98年制作の作品2点
2階のギャラリートークは、第4章のうち、モネの作品が展示してある小部屋に集合してスタート。保崎さんによれば「モネ・睡蓮の連作の締めくくりは、オランジュリー美術館・「睡蓮の部屋」の壁画22枚。高さ2m、横6m又は高さ2m、横4.5mの作品。皆さんが向かっている壁には《睡蓮》というタイトルの作品が3点されているが、そのうち真ん中の作品は1906年制作、左右が1897-98年制作。3点を比べると、睡蓮を描きはじめた1897-98年制作の2点は、いずれも睡蓮の花・葉が大きい。クローズアップした画面で、水面の面積はそれほど広くない。2点を比べると、向かって左の作品の方が光を強く描いている。」とのことでした。

・モネ《睡蓮》のうち、1906年制作の作品
モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年で、57歳の時。モネは86歳まで生きたので、人生の半分は睡蓮を描いていたことになる。モネがジヴェルニーに転居したのは1883年。最初は借家だったが、1890年に家と土地(注:9,200㎡)を買い取り、1893年には周辺の土地を購入し小さな池を作った。1897年には睡蓮の連作を始め、1901年に隣地を買い取り、池を拡張。(注:現在、モネの家の土地は2万㎡を越える)1902年から1908年までが睡蓮の連作のピーク。3点並ぶ《睡蓮》のうち真ん中の作品は、連作のピークである1906年に制作されたもの。水面が広く、画面の真ん中を水面が占めている。画面の外には太鼓橋、左にポプラ、右には柳が植えられている。

・モネ《睡蓮の池》
この小部屋の入口横に展示されている縦長の作品《睡蓮の池》(1907)は、ベスト・ポジションから夕陽が沈む睡蓮の池を描いた作品。屋外の自然光と水面の反射による一瞬の色彩を素早い筆致で描いている。画面の外に向かって絵の広がりを感じさせる描き方で、モネの特徴が一番よくわかる作品。風景なのに、縦長の画面に描いているのが面白い。水面に映る夕陽の反射が縦方向の流れを作っている。

・福田美蘭《睡蓮の池》
福田美蘭《睡蓮の池》(2018)は、高層ビルのレストランを描いた作品。テーブルを葉、キャンドルを花と、睡蓮に見立て、マネの大胆な筆致をまるまる真似ている。福田美蘭の作品はいつでもウイット(機知)に富んでいるが、この作品でもモネの屋外・自然光という組み合わせに対し、室内・人工光という組み合わせにするなど、モネの逆を行っている。外にも、モネの水面に対し高層ビルを、水面への(下への)映り込みに対し窓ガラスへの(上への)映り込みを配すことにより、モネの「睡蓮の池」を自分のスタイルで描き、モネへのオマージュとしている。

◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
第3章は、全て現代アート。モネを再評価して、継承した作品が並ぶ。抽象表現やポップ・アートはモネと同じ視点に立った作品。例えば、アンディ・ウォーホル《花》(1970)は、雑誌に載っていた花の絵をコピーし、様々な色でシルクスクリーンのプリントをした作品。「複製がオリジナルを越えた」もの。

◆お開き
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。参加者は、三々五々と美術館を後にして、午後7時には全員が帰路に着きました。
Ron.

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