名古屋市美術館で開催中の「ランス美術館展」のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は71人。参加人数が多かったので、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
◆「ランス美術館展」が7館も巡回する理由など(深谷さん談)
ランス美術館展は、ランス市と名古屋市の姉妹都市提携(調印式は2017.10.20)を記念する展覧会。ただ、ランス美術館展そのものは、名古屋市が動き出す前から開催準備が進んでおり、名古屋市は割り込む形で参加。巡回の最終・7番目の会場となりました。
なお、姉妹都市提携を考慮し、ランス美術館は名古屋市美術館だけの特別出品として、ドラクロア、コラン、ブーダンの作品を貸出。2階・企画展示室2の展示です。
◆ランス市のこと、ランス美術館のこと(深谷さん談)
ランス市はパリの東、特急で40~50分の距離=日帰り圏の人口20万人弱の都市。歴代フランス王の戴冠式が行われたノートルダム大聖堂(ランス大聖堂)が有名です。
現在のランス美術館は、修道院の建物を改築して1913年に開館したもの。収蔵品は1800年から公開していますが、当初は市庁舎内に展示。建物老朽化のため別の場所に移転し、2018年リニューアルオープンという計画が進んでいましたが、現市長の判断で中止。今は、現建物を改築する計画が2020年着工予定で進んでいます。
ランス美術館は、絵画だけでなく、工芸品のコレクションも豊富。シャンパーニュ地方の中心都市なので、シャンパン会社社長からの寄贈により収蔵品の総点数は5万点超。
◆第1章~第3章のみどころ(深谷さん談)
1階の展示は、年代順に第1章から第3章まで。
第1章は17世紀からフランス革命前の時代の絵画。マールテン・ブーレマ・デ・ストンメ《レモンのある静物》は、今回唯一のオランダ絵画。単に、レモン、食器、クルミ、貝殻を描いた絵だと思ったら大間違い。ヨーロッパでは意味のない絵画は描けないので、描いているものは五感の象徴。「メメントモリ=世の儚さ」が、絵の主題です。
ランス美術館のコレクションは19世紀以降のものが充実。それは、19世紀以降に寄贈された作品が多く、制作時期も同時代=19世紀以降のものが多いためです。
第2章は、フランス革命期から印象派前の絵画。ダヴィッド(および工房)《マラーの死》のオリジナルはベルギー・ブリュッセルの王立美術館が所蔵。評判が良く、ダヴィッドの工房は3~4枚のコピーを作成。展示されている作品は、そのうちの一つ。マラーはジャコバン党(急進派)に属するフランス革命の指導者。ダヴィッドはマラーの友人で、入浴中にナイフで刺されて暗殺されたマラーの死を悼んで制作したのが、傑作《マラーの死》。惨たらしいはずの殺人現場をキリストのように描くことで、マラーを殉教者・救済者に見せている。画面の上半分を真っ黒に塗ることでマラーの姿が浮き出ており、ドラマチックな効果を与えています。ダヴィッドは「新古典派」に属する画家で革命期に活躍しましたが、ナポレオンの死とともに表舞台を去り、その後、ドラクロワなどのロマン派が台頭。
カミーユ・コロー《川辺の木陰で読む女》は、一見、同じトーンの画面構成ですが、女の髪飾りの赤がアクセントを与えています。これは、コローの絵の特徴。ランス美術館はコローの作品を27点所蔵、ルーブル美術館に次ぐ作品点数です。
エドゥアール・デュブッフ《ルイ・ポメリー夫人》、右手に手袋を持っている理由をランス美術館の学芸員に尋ねたところ、「急な来客と握手をするために手袋を外し、待っている姿」との回答でした。
第3章は、印象派以降の絵画。印象派ではシスレー《カーディフの河岸》、ピサロ《オペラ座通り、テアトル・フランセ広場》を展示。《オペラ座通り》は、ホテルの窓から見た風景を描いた7~8枚の連作の一つ。連作の中では、今回展示作品の出来が一番。影や服装を見ると、描かれた季節や時刻が分かります。因みに、答えは寒い時期の早朝。
ゴーギャン《バラと彫像》、テーブルの上の花瓶を描いただけに見えますが、彫像の頭に花を重ねるなど、絵にした時の効果を狙い画面構成や色彩に工夫を凝らした作品です。
◆自由観覧
深谷さんのトーク後は、15分間の自由観覧。元々が自宅などを飾るための個人コレクションだったためか、ゆったりと鑑賞できる作品が多いと感じました。訪問先の応接間に案内され、壁の絵を眺めているといった感覚でしょうか。
自由観覧後は2階に上がり、もう一つのグループと場所を交替しました。
◆フジタとランスの関係(保崎さん談)
藤田嗣治の略歴ですが、東京美術学校卒業後、1913年に渡仏。エコール・ド・パリの画家と交流する中、1920年代に自分のスタイルを確立。白い下地に細い線で描いた裸婦によってパリの寵児となる。1929年に日本へ帰国後、南米・米国を旅行し、一時日本に滞在して渡仏。1940年、戦火を避けるように帰国。第2次世界大戦後は、居辛くなった日本を脱出し米国経由でフランスに定住。1955年にフランス国籍を取得。1959年にはランス大聖堂で洗礼を受けカトリックに改宗。洗礼名はレオナール・フランソワ・ルネ。洗礼名の「ルネ」はランスのシャンパン会社GHマム社会長・ルネ・ラルー(以下「ルネ」)に因る。
ルネとフジタの交流は、1956年にパリの画廊で開催されたフジタの個展をルネが見て、感銘を受けたことから始まる。ルネの依頼により、フジタはシャンパン(ロゼ)用のバラの絵を描いた。この時のバラの絵は今も使われている。改宗の半年前、フジタはルネの招きでランス市を訪問。サン・レミ修道院を訪れた時、「改宗せよ」との啓示を受けた。
平和の聖母・礼拝堂(通称、フジタ・チャペル)の建設資金と土地を提供したのもルネ。フジタは、1966年6~8月の3カ月で、礼拝堂内部の壁画を一人で描き切った。
◆第4章のみどころ(保崎さん談)
ランス美術館のフジタ・コレクションは絵画800点、資料も合わせると2300点。その多くは、戦後、フランスに定住してからの作品。1920年代の作品としては、熊本県立美術館所蔵の《ヴァイオリンを持つ少年》、ひろしま美術館所蔵の《十字架降下》を展示。
《フジタ、7歳》は戦争画を描いていた時代の作品。《マンゴー》は南米を旅行中、ブラジル・リオで描いた作品で、1920年代と打って変わった土着的・土俗的な作風。《猫》の中央上部に描かれた猫は名古屋市美術館所蔵の《自画像》の猫にそっくり。なお、額縁の左には「1949」という数字が彫られており、縦長用だったものを横に寝かせて使用したと思われる。額縁上部に釣竿を持った少年、下部に虫取り網を持った少年の彫刻がある。
《十字架降下》は日本画のスタイルで描かれた1927年の作品。改宗後に描いた左右の聖母と対比すると面白い。向かって右の《マドンナ》は、映画「黒いオルフェ」に出演したマルペッサ・ドーンがモデル。周囲の天使も黒人。
フジタ・チャペルの壁画は、下絵のほうが素晴らしい。80歳とは思えない迫力を感じる。また、よく見ると、壁に転写した時に素描の線をなぞった跡が見られる。
◆特別出品の3点(保崎さん談)
ドラクロアは、ご存じ「ロマン派」の画家。ブーダンはモネの師匠で、印象派に先駆けて移り変わる光と大気を描写した画家。ラファエル・コランは黒田清輝の先生。アカデミスムの画家で、本国では忘れられつつあるが、白馬会の久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作の先生でもあり、「西洋画と日本を繋いだ画家」として展示。
◆自由観覧
《十字架降下》を見て、深谷さんが《マラーの死》について語った「マラーをキリストのように描いている」ということの意味が分かりました。フジタの描くキリスト、表情・ポーズ・胸の傷の位置、どれも《マラーの死》のマラーを思い起こさせますね。
《父なる神》は両手両足を広げた、歌舞伎の「見得」のポーズ。私の隣の参加者は、これを見て「《風神雷神図》みたい。」と、話していました。
フジタは、壁画を一人で描き切った後に体調を崩し、1968年1月にスイス・チューリッヒで逝去されました。80歳という高齢の身で、過労死ラインの重労働を成し遂げた後での死去。最後の仕事に命を注ぎ込んだのだと思うと、作品を見る目が変わりました。
最後、コラン《思春期》を見てポーラ美術館の黒田清輝《野辺》を思い出しました。
◆マラーになりきる
グッズ売り場向かいの奥まったスペースに「なりきりマラー」のコーナーがありました。《マラーの死》に出て来るナイフや羽根ペン、帽子などの小道具があり、マラーに扮して《マラーの死》の再現写真が撮影できるコーナーです。ギャラリートーク参加者も「マラーになりきる」挑戦をしていました。果たして、出来栄えやいかに。
◆最後に
フランス・ブラジル・イタリア合作、1959年公開の映画「黒いオルフェ」は見たことがありませんでしたが、Youtubeの動画(10:32)を見て粗筋がつかめました。映画の主題歌「カーニバルの朝」はボサノヴァの名曲で、様々な演奏家・歌手がカバーしています。
Ron.