当日は余裕を見て12時半に着いたのですが、既に20人ほどの行列が出来ていました。午後1時の開場と同時に整理券を手に入れて場所取り。講演が始まる頃になると満席で立ち見もチラホラ。PRはチラシとホームページの告知だけのはずですから、皆さんの関心の高さを感じます。
深谷副館長から「名古屋市美術館では2016年春にランス美術のコレクションを中心に藤田嗣治の大回顧展を予定しています。本日はランス美術館のダヴィッド・リオ館長をお招きし、ランス美術館の歴史と日本・藤田との関係について語っていただきます。」と紹介があり、特別講演会が始まりました。特別講演会の要旨は、以下のとおりです。
ランス美術館と日本との関係
ランス美術館の所在地はパリの東、シャンパーニュ地方のReims。シャンパンの醸造が主要産業。(ちなみに、ルーブル美術館ランス分館はパリの北、Lens。全く別の場所)
ランス美術館は、幕末のころ日本に渡航し、横浜の元町で船用飲料水やレンガ製造で財を成したランス出身のアルフレッド・ジェラールから寄贈されたコレクションをもとに設立したとのことです。彼のコレクションには日本美術が800点余含まれ、お墓には鳥居が建てられるなど、彼は日本美術をこよなく愛好した人だそうです。
また、ランス出身のヒューグ・クラフトは親の遺産で世界一周をしたとき、日本に7か月も滞在し各地を旅行しています。彼は日本画も習って「横浜サヨナラ」という画集を残したほか、名古屋城やミヤ(熱田神宮?)を撮影するなど多数の写真を残しており、ランス美術館には彼の写真が400枚ほどあるとのことで、ランスは日本と深いつながりがある街なのですね。
ジャポニスムについて
モネの初期の作品は北斎の影響の下に描かれたもので、ナビ派にも浮世絵の影響があります。前出のヒューグ・クラフトも、帰国後、日本から大工・庭師を呼んでパリ郊外に日本式庭園を持った家「緑の里」を作り、着物を着て記念撮影しています。
幕末に日本が開国したとき一気に美術品、工芸品が海外に流出し、人々がその繊細さ美しさに惹かれてジャポニスムが生まれました。セザンヌのサンヴィクトワール山も富岳三十六景に触発されたものです。
ジャポニスムを語る上で、1900年は大事な年です。この年に開催されたパリ万博から、アール・ヌーボーが生まれました。エミール・ガレはジャポニスムに影響を受け、自然や植物を家具の装飾に取り入れ、寄木細工でブドウの図柄を描いたのです。
ランス市役所は第1次世界大戦で大きな被害を受け、内装を作り直す際にアール・デコの様式を取り入れています。ランス市役所のフレスコ画はアンリ・ラパンが描きましたが、彼の仕事は東京都庭園美術館でも見ることができます。
藤田嗣治のこと
ランス美術館には、藤田嗣治(1886~1968)の遺族から彼のコレクションが寄贈されています。
彼は1913年にフランスに渡り、ピカソのアトリエを訪ね、フランスの社交界に溶け込んだ、とても西欧的な日本人。たちまち、アイドルになって”Fou Fou”(お調子者)と呼ばれました。おかっぱ頭の髪型などユニークなファションで有名でした。
ランス美術館のコレクションには、彼の恋人マドレーヌをモデルにした絵(「ランス美術館のマドンナ」と呼ばれているそうです)があります。彼女はランス近くに生まれたダンサーで、藤田と南北アメリカを旅行し、1930年代に東京で死去しました。彼女を失った後、藤田は君代(1911~2009)と結婚。第2次世界大戦中は従軍画家となり、戦後、フランスに戻りフランス国籍を得て、ランスの大聖堂でカトリックに改宗し、ランスで死去しました。
ランスの大聖堂は歴代フランス国王の戴冠式が行われた場所で、彼はそこに世界から200人のジャーナリストを呼び洗礼を受けました。
ランスは彼の改宗の出発点です。彼はその後の人生を平和に捧げ、ランスに平和の聖母教会礼拝堂を建てました。礼拝堂の壁画も彼が平和への思いを込めて描いたもので、現在、礼拝堂の下には藤田と君代夫人が埋葬されています。
また、近年、藤田の礼拝堂で結婚式を挙げる若い日本人のカップルが増えています。
館長へのQ&Aなど
講演の残り時間で、質問を募ったところ「藤田嗣治の戦争画を展示する考えはあるか」という質問が寄せられました。
ダヴィッド・リオ館長は答え難そうにしていましたが、深谷館長から「藤田嗣治の戦争画は東京国立近代美術館が所蔵しており、2016年の大回顧展でも3~4点展示できるようお願いしている。」という答えがありました。
また、深谷館長からは「現在、藤田嗣治を描いた映画が製作中で、年内公開の予定です。監督は「泥の河」「死の棘」などを制作した小栗康平監督。主演はオダギリジョーと中谷美紀です。楽しみにしていてください。」と話がありました。
追記
2月9日の日経新聞(夕刊)の文化面に「藤田嗣治の人生 光と影で描く」というタイトルで映画「FOUJITA」(フジタ)についての記事が掲載され、その中に次の文章がありました。
1943年、青森での戦争画展に「アッツ島玉砕」を出品した藤田(オダギリジョー)が゙画家仲間の但馬と共に上野に帰る車中だ。(略)オダギリは語りだす(略)「技術がないと描けません。今回は命がけの腕試しだったのです」「でもあれは会心の作です。画が人の心を動かすものだと言うことを、私は初めて目の当たりにした」
休憩時間に小栗に話を聞いた。「藤田はヤワな近代主義者ではない。ヨーロッパ仕込みの個人主義、現実主義。それは戦争協力画を描いている時もびくともしなかった」と小栗。日本の体制に付和雷同したのではなく「現実的に生きる絵描きが、絵画の問題だけを考えて描いた」と見る。
小栗監督も日経の記者も藤田の戦争画に強い関心を抱いており、作家としての藤田を肯定的に見ようとしているように感じます。たしかに、戦争画を抜きに藤田嗣治の大回顧展を開催することはできませんね。ただ、70年以上も前のことであり、子どもたちも鑑賞するので、展示に際しては、描かれた当時の時代背景についても理解できるようにすることが必要だと思います。
ちなみに、東京国立近代美術館は藤田嗣治の戦争記録画を14点所蔵しており、同館のホームページをみると、現在開催中の平成26年度第4回所蔵作品展「MOMATコレクション」でも藤田嗣治の「ハルハ河畔之戦闘」「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」を展示しています。
なお、収蔵経緯の欄には「無期限貸与」と書かれていました。
Ron.