お知らせ

2019年12月3日

2019年協力会イベント情報

以下の催しの申込みを受付中です。

1. 名古屋市美術館「岸田劉生展」ギャラリートーク 1月12日(日)

令和元年度協力会秋の旅行は、終了いたしました。ありがとうございました。(事務局)

日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」(要約)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日、名古屋市美術館に行ったら二つ折りの「没後90年 岸田劉生展」(以下「本展」)のチラシが置かれていました。本展の開催日程は2020年1月8日(水)~3月1日(日)、「みどころ」は①劉生の軌跡を辿る、②ベスト・オブ・ザ・ベストの劉生展、③麗子がいっぱい、と書いてありました。開催が、そこまで迫っているということですね。テレビでも、先日のNHK・Eテレ「日曜美術館」(2019.9.29、再放送10.6)で本展の特集が組まれていました。以下は放送内容の要約で、見出しと(注)は私の補足です。

◆番組の冒頭

番組冒頭に出てきたのは《麗子五歳之像》(1918)、次に《麗子微笑》(1920)。「底知れない表情、下手なのか、分からない」と、ナレーションがあります。続いて《壺の上に林檎が載って在る》(1916)が出て「ただならぬ雰囲気」という説明の後「どんなテーマで描いても、どこか気になる、少し変。その秘密は」と続きます。画面が本展・東京会場の東京ステーションギャラリーの展示室に切り替わると、ゲストの現代画家・会田誠さん(以下「会田さん」)と東京ステーションギャラリー学芸室長の田中晴子さん(以下「田中さん」)が紹介されました。

◆初期の作品

  岸田劉生(1891-1929、以下「劉生」)の初期の作品として、16歳で描いた《雨の街路》(1908)が出て「銀座で生まれ、裕福な少年時代を過ごした」と紹介されます。18歳で描いた《橋》(1909)については「黒田清輝の画塾に通い、外光派の画風を学んだ」と解説がありました。

◆肖像画

「雑誌『白樺』に掲載されていたゴッホの作品に目を奪われる」というナレーションに続いてゴッホの影響を受けた《自画像》(1912)の画像が出ます。「友人、自分の肖像を描く。毎日のように自画像を描く中で見えてきた自分のスタイル。強い意志、筆先に力がこもっている。決意がこもっているような自画像」という解説とともに、次々に肖像画が出てきて、最後は妻・蓁(しげる)を描いた《画家の妻》(1915)を紹介し、「細密描写、アーチ、宗教画のような作品。400年前のデューラーに傾倒。至る所にデューラーの影響」と、ナレーションが続きます。

ゲストの会田さんは「当時の新しい西洋画はフランス的な外光派。デューラーのフォロワーは多分、居なかった。劉生は意識が高いので『皆はそうしているが、俺は違う』と自分の考えに従っている。印象派は基本でなく応用。日本は基本をすっ飛ばしているから『俺がやらなきゃ』と思ったのではないか」と解説していました。外光派全盛の日本にあって、400年前のデューラーという「基本」に立ち返った劉生は「異端児」だったということですね。

◆風景画

 「22歳の劉生が移り住んだのが代々木。代々木で何の変哲もない坂道を描く。こちらに迫ってくる坂道。むき出しの大地。ひび割れから伸びる雑草。電柱の影。不思議な圧力。不自然に歪み、こちらに迫ってくる」というナレーションと共に《切通之写生》(1915)の画像が出て、VTRが挿入されます。

VTRには、現在の代々木を描くアーティスト・山内崇嗣さん(以下「山内さん」)が登場。山内さんは「代々木を描いて、あることに気付いた。道路の左側の歪み、カーブのボリュームが強調されているのは創作ではなく、道そのものが歪んでいるのを写実表現した。少しだけ嘘があるのは坂の頂上。劉生は隣の塀を超えるほど大地を盛り上げたかった。そうまでして大地の迫力を描きたかった」と証言します。

VTRを受けて、田中さんが「当時の渋谷・代々木はニュータウンで荒れ地や畑が多く、都会人の劉生は自然のあり方、草木や土に感銘。むき出しの土に生い茂る草木、新緑を描いた」と解説していました。

◆静物画

「25歳で鵠沼に移ったのは静養のため。劉生は結核の診断を受け、長時間の外出を禁止された。麗子は幼く、モデルができない。劉生は静物画に挑戦。静物画すら不思議」とナレーションが入り《林檎三個》(1917)の画像が出て、VTRが挿入されます。VTRには画家の塩谷亮さん(以下「塩谷さん」)が登場。《林檎三個》について「これで絵になるのかなと不安になる。レタスでやってみたが怖くなり、バランスを崩してしまった」と証言しました。(注:《林檎三個》について、2019年9月21日付日本経済新聞「文化」欄の展覧会評に「病と闘う劉生が、自分と妻の蓁、娘の麗子の『一家三人の姿を林檎に託して描いたときいている』という麗子の回想があり、劉生の祈りをも込められた静物画だろう」と書いてありました)

次に「家にこもり2年間集中的に描いた」というナレーションと共に《壺の上に林檎が載って在る》の画像が出て「2018年の修復で劉生の思いがはっきりする」とナレーションがあり、VTRが挿入されます。VTRには修復家の土師広さんが登場。「厚いワニスが塗られ、作品本来の色を隠している。後に別の人間がワニスを塗った。洗浄してワニスを除去」と証言します。「劉生の意図した色彩が蘇った」というナレーションに続き、東京国立近代美術館主任研究員の都築千重子さんが登場。「ハイライトに明るい色を敢えて足した。他の部分とはタッチが違う。ハイライトだけ絵具の色をしっかり残している。写実と言いながらも『本物らしく』を求めない。目の前の対象が『在る』、その基本は何か。哲学しているような作品。驚くべき『実在の力』。自分はそれを探りながら、それが『在る』ことについて受けた感動をキャンバスにぶつけ続けた」と解説していました。

◆麗子像

最初は《麗子五歳之像》。ナレーションは「初めて描いた麗子の肖像画。宗教画を思わせるアーチの下に描いた麗子」。次は《麗子座像》(1919)。ナレーションは「床に置かれた右手。赤・黄の着物。リアルな表情。足の痛みに耐え、必死にこらえたと、後に麗子が語っています」。最後は、毛糸で編んだ肩掛けを羽織った《麗子微笑》。「数え年八歳。成長とともに変わる劉生の画風。本当に幼い娘の表情なのか。なぜ、こんな風に描いたのか」とナレーションがあり、VTRが挿入されます。VTRには再び塩谷さんが登場。麗子と同じ年頃の少女に、衣装も同じようなものを用意して実際に肖像画を描きます。スケッチして全体像を比べると、《麗子微笑》は上下に圧縮。肩がずんぐりし、手も小さい、見れば見るほど奇妙です。麗子が9歳の時の写真と比べると、劉生が写実を超えた何かを目指していたのだと分かります。「劉生は麗子が帰ると支度させ、2週間足らずで完成した」というナレーションに続いて、塩田さんが完成させた肖像画が出てきます。塩田さんの作品と比べると《麗子微笑》の鼻には陰影があり、口が微笑んでいます。塩谷さんは「丸い顔に鼻筋が通っているのは、仏像を思わせる。仏像のような微笑みは際どい。俗っぽくなるかどうかの瀬戸際」と証言。田中さんは「西洋の油絵に東洋の美を盛り込んだもの。異端児がたどり着いた極み」と解説していました。

◆東洋の美/劉生の死

麗子像の次は、日本画の《七童図》(1922)。ナレーションは「東洋と西洋の統合」。会田さんは「油絵具だと、実在感が出るまで描く。やりすぎて、危険な要素を感じる。気の抜けた、ヘタウマというか、これも正しいのではないかと思う。今までの作風と全く違うことをするのは怖いが、マンネリの恐怖も深いものがある。新しい物への挑戦はキャリアを捨てることになるが、劉生にとっては必然だった」と解説していました。

《冬瓜図》(1926)に続いて「非難を受けても、唯一人自分の信じた道を突き進む。しかし、38歳で死去」とナレーションが入り、《満鉄総裁邸の庭》(1929)の画像と「最晩年の作品。青い空、大地の輝き。ただ輝くのみ。『道半ば』か、『終着点』なのか」というナレーションで番組は終了しました。

◆出演者

【ゲスト】現代美術家…会田誠、東京ステーションギャラリー学芸室長…田中晴子 【出 演】アーティスト…山内崇嗣、修復家…土師広、東京国立近代美術館主任研究員…都築千重子、 画家…塩谷亮 【司 会】小野正嗣…作家・早稲田大学教授、柴田 祐規子…NHKアナウンサー

◆講演会のチラシ

名古屋市美術館には、イーブルなごやの「【名古屋市美術館共催】特別展にみる女性たち 2019 岸田劉生の世界~麗子像を中心に~」のチラシもありました。日時:2020年1月20日(月)14:00~15:30 会場:イーブルなごやホール 講師:名古屋市美術館 学芸課長 井口智子さん、事前申込不要・入場無料です。

Ron

三重県立美術館 「シャルル=フランソワ・ドービニー展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「シャルル=フランソワ・ドービニー展 印象派へのかけ橋」(以下、「本展」)鑑賞の名古屋市美術館協力会ミニツアーに参加しました。参加者は12名。三重県美地下1階の講堂で鈴村学芸員(以下「鈴村さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

1 鈴村さんの解説(概要)15:00~15:45

◆本展の巡回先・構成について

 本展は、山梨・広島・東京・鹿児島・三重の5つの美術館を巡回する展覧会で、三重県美が最終会場となります。(注:詳しくは、山梨県立美術館2018/10/20~12/16、公益財団法人ひろしま美術館2019/01/03~03/24、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館2019/04/20~06/30、鹿児島市立美術館2019/07/19~09/01、三重県立美術館2019/09/10日~11/04です。)

 本展は「1章 バルビゾンの画家たちの間で(1830-1850)」「2章 名声の確立・水辺の画家(1850-1860)」「3章 印象派の先駆者(1860-1878)」「4章 版画の仕事」の4章で構成され、「1章」には同時代の画家たちの作品も出品されています。

◆シャルル=フランソワ・ドービニーについて

 シャルル=フランソワ・ドービニー(以下「ドービニー」)(1817~1878)はパリ生まれで、死去したのもパリです。彼が活躍したのはフランスの第二帝政期(注:1852~1870。ナポレオン三世が皇帝としてフランスを支配)で、スライドの《オワーズ川のほとり》(1865)のような、横長の画面に描かれた穏やかな川辺の風景を多く描きました。

ドービニーはバルビゾン派の画家ですが、バルビゾン村で描いた作品は多くありません。(注:本展の3章には「オーヴェールとオワーズ川周辺」というコーナーがあり、多くの作品が出品されています。バルビゾン村はパリの南東ですが、オワーズ川(セーヌ川の支流)は、パリの北東を流れています)

◎歴史風景画家としての成功はあきらめる

ドービニーは歴史画家のポール・ドラローシュのアトリエで学び、若手画家の登竜門「ローマ賞コンクール」の歴史風景画部門に二度挑戦し、失敗。アカデミックな画家としての成功はあきらめます。なお、ポール・ドラローシュは中野京子著「怖い絵」で有名な《レディ・ジェーン・グレイの処刑》(1833)の作者です。歴史画は、歴史上の物語の一場面を描いたもので「物語画」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。当時、歴史画は絵画の最上級に君臨していました。「歴史風景画」は、風景表現に主眼が置かれつつも、歴史画の要素も入っている絵で、ドービニーは《聖ヒエロニムス》(1840)を出品しています。

◎華やかなりし第二帝政期

歴史風景画家としての成功をあきらめたドービニーは風景画家をめざし、風景画をサロン(官展)に出品します。1850年代初頭に《ギリュの池》(1853)がナポレオン三世の目にとまり、買い上げられます。《ギリュの池》は現在、アメリカのシンシナティ美術館が所蔵しています。

 1850年代、30代から40代のドービニーは「水辺の画家」として画壇で地位を確立します。名声が高まりまる一方で、「筆づかいの粗さ」に対し「入念な仕上げがなされていない、未完成の作品」という批判がありました。ドービニーは、本物の風景が目の前に立ちあらわれるように、筆跡を残す描写をしたのです。

◎アトリエ船「ボタン号」

 ドービニーは1857年にアトリエ小屋を取り付けた「ボタン号」を購入しました。ボタン号の購入によって船の上から、水面スレスレの視点からの作品を制作することが可能になりました。本展ではボタン号の縮小模型を展示しているので、ご覧ください。また、ボタン号の実物大模型が航行する動画を三重県美のツイッターで、配信しています。(注:URLは、https://twitter.com/mie_kenbi)1868年には二代目のアトリエ船を購入し、川を下って海に出ることも可能になりました。初代のアトリエ船の名前は「ボタン(BOTIN)号」、二代目は「ボッタン(BOTTIN)号」。二つの船の名前は、微妙に違います。  

◎コローと知り合う

 1952年、ドービニーはドーフィネ地方のクレミューへの旅行でカミーユ・コロー(1796-1775)と知り合い、生涯の友となります。二人はパリのペール・ラシエーズ墓地に、隣同士で眠っています。

◎クロード・モネもアトリエ船を真似る

 クロード・モネは、ドービニーを真似て1873年にアトリエ船を購入しています。ただ、二人のアトリエ船の使い方には違いがあります。ドービニーは、アトリエ船を「移動手段」として有効活用しました。しかし、揺れがひどいので、船の上で油絵を制作することは難しかったと思います。一方、モネは自宅近くの水辺に船を固定して、船の上で油絵を制作しました。

◎ランス美術館からの出品

 名古屋市はランス市と姉妹都市提携をしていますが、本展ではランス美術館からの出品が多数あります。なお、ランス美術館は2019年9月から2023年末までリノベーション工事のため、休館中です。(注:出品リストで確認すると、ランス美術館の所蔵品はドービニー及び他の画家の作品を合せて27点でした。また、図録にはランス市長のメッセージが載せられ、カトリーヌ・ドゥロ=ランス美術館館長が「近代の風景画家、ドービニー」「ランス美術館コレクションにおけるドービニー」及び「年譜」を書いています)

◎ドービニー展の紹介アニメーションについて

 本展の入口で展覧会を紹介する7分間のアニメーションを上映していますので、ご覧ください。アニメーション監督は城井文(しろい・あや)さんで、三重インターネット放送局でも視聴できます。(注:URLは、http://www.pref.mie.lg.jp/MOVIE/l1002400001.htm です。)

2 自由観覧 14:45~

◆展覧会の紹介アニメーション

 紹介アニメーションの案内役は、「水辺の画家」にちなんで「カエル」でした。ドービニーの評価が高まったのは、パリが近代的な都市に変貌する中、郊外の豊かな自然への憧れが人々の間で広まったことが背景にあること。1860年代にサロンの審査員になって、印象派の画家を高く評価したこと。1870年にモネの作品がサロンに落選したことに抗議して、コローと共に審査員を辞職したこと。画商のポール・デュラン=リュエルにモネ・ピサロを紹介し、二人の窮状を救ったこと。ドービニーの死後、ゴッホが未亡人を訪ねて《ドービニーの庭》(1890)を描いたことなどを分かりやすく紹介していました。

◆展覧会の印象

想像していたよりも小さく、渋い色彩の作品が多いと感じました。当時、自宅に飾るには、これくらいのサイズ・色彩の方が落ち着くのかもしれません。渋めの絵が並んでいるのを見ると、印象派の作品の鮮やかな色彩に当時の人々が驚いたことが理解できます。ただ、多くの絵では、空とハイライトの部分の色彩は鮮やかです。晩年《ケリティ村の入口》(1871)はハッキリした色彩の作品でした。

鈴村さんから「筆跡を残す描写が批判された」という解説がありましたが、《果樹の花》(制作年不詳)《ブドウの収穫》(1863頃)の筆あとを残す描写は、印象派の作品のように見えます。      

解説してくださった鈴村麻里子さん、ありがとうございました

Ron.

藤田嗣治作品解説会

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館が本年6月に藤田嗣治の絵画2点の寄贈を受けたことを記念して10月5日(土)に「藤田嗣治作品解説会」が開催されたので、参加してきました。以下に、深谷副館長による当日の解説を要約筆記しましたのでご覧ください。なお、(注)は私の補足・感想等で、表題も便宜的に付けたものです。

0 名古屋市美術館が所蔵する藤田嗣治の作品について

 名古屋市美術館(以下「当館」)が所蔵する藤田嗣治(以下「藤田」)の絵画を制作年順に並べると、以下のとおりです。①《風景》1918(H2購入)、②《裸婦》1928(H28寄託)、③《自画像》1929(S61購入)、④《家族の肖像》1932(H元購入)、⑤《ベルギーの夫人》1934(H30購入)、⑥《那覇》1939(H28寄託)、⑦《猫を抱く少女》1949(H28寄託)、⑧《二人の祈り》1952(R元寄贈)、⑨《夢》1954(R元寄贈)。

 所蔵に至る経緯についてお話しますと、当館が最初に所蔵した藤田の絵画は③《自画像》で、当館の開館(S63)の2年前・昭和61年に購入しました。平成元年に④《家族の肖像》、平成2年に①《風景》を購入したものの、しばらくの間、収集が途絶えました。平成28年になって「藤田嗣治展」を開催したことを契機に、②《裸婦》・⑥《那覇》・⑦《猫を抱く少女》の3点について寄託を受け、開館30周年に当たる平成30年に⑤《ベルギーの夫人》を購入しています。購入は平成2年以来、約30年ぶりのことでした。

そして、新聞報道等でご存知のとおり、本年6月にオリエンタルビル株式会社取締役社長の平松潤一郎氏(以下「平松様」)から⑧《二人の祈り》と⑨《夢》の2点をご寄贈いただきました。本日、この会場に平松様がいらっしゃいますので、ご紹介いたします。なお、ご寄贈いただきました2点は、平松様が10年前に亡き作家の奥様から購入されたものです。

今回の寄贈により、当館が所蔵する作品で初期から晩年までの作風の変化がよく分かるようになりました。本日の解説会は、これを記念して開催することになったものです。

1 模索する藤田=《風景》(1918)

◆藤田嗣治の親族

藤田の父、嗣章は軍医で森林太郎(森鴎外)の後に軍医総監を務めた人物です。藤田の親族は陸軍関係者が多く、お兄さんは児玉源太郎の娘と結婚しています。小山内薫、岡田三郎助、蘆原英了、芦原義信も縁続きという家系です。

◆黒田清輝に学んだ藤田

周りは陸軍関係者という環境で育った藤田ですが、軍人ではなく絵描きになると決意し、手紙でお父さんに伝えています。わざわざ手紙で伝えたのは、お父さんが怖くて直接言うことができなかったからです。手紙を読んだお父さんは、すぐに理解。当時としては信じられないくらい物分かりの良い人でした。藤田は森鴎外の助言で東京美術学校(注:現在の東京芸術大学)に進学し、黒田清輝からフランスのアカデミズムに印象派の表現を加えた西洋画を学びます。

◆渡仏した藤田

東京美術学校を卒業後、藤田は1913年に渡仏。フランスで最先端の絵画に触れて「一から出直し」を図り、藤田の作風は大きく変わっていきます。当初はキュビスムの洗礼を受けた《キュビスム風静物》(1914)のような作品を描いています。写真は1914年頃に撮られたもので左が藤田です。右は2年前にパリに来ていた画家の川島理一郎。二人が着ているのはギリシア風の衣装で、手先が器用だった藤田の手作りです。次はディエゴ・リベラ(以下「リベラ」)の《藤田と川島》(1914)です。リベラは、藤田がパリで最初に知り合った画家の一人でした。パブロ・ピカソとも知り合います。ピカソのアトリエで見たアンリ・ルソーの絵に、藤田はひらめくものを感じました。また、《収穫》(1917)のように古い時代のものを取り入れた、単純化されたプリミティブな絵も描きいています。輪郭線が主体の平面的な作品です。

◆《風景》(1918) 当館の所蔵品では最も初期に制作されたもので、藤田が南フランス・コートダジュールの町カーニュに滞在した時に制作した、アンリ・ルソー風の作品です。

2 乳白色の下地と細い輪郭線=《裸婦》(1928)

藤田は1920年代になって、乳白色の裸婦を描き始めます。《五人の裸婦》(1923)は初期の代表作で、メリハリのきいた作品です。五人の裸婦は線描のみで濃淡もありませんが、背景のジュイ布や足元の布は緻密な描写で質感もしっかり描かれています。主役はシンプルで、背景は緻密。その間を漆黒に塗ることで、メリハリが生まれています。これは、私(深谷副館長)の想像ですが《五人の裸婦》は、ピカソの《アヴィニョンの娘たち》にヒントを得て描かれたのではないかと思っています。

◆《裸婦》(1928)

白い背景に線描で裸婦を描いた作品です。1920年代前半の裸婦はメリハリがきいていますが、1920年代後半になると多くの注文を受けたためか背景も白塗りで、手抜きが見られます。

◆グラン・フォン・ブラン(grand fond blanc=素晴らしい白色)

藤田というと「白い下地に墨を使った線描」と言われていますが、油絵具の上に墨で描いても、水性の墨は油絵具にはじかれてしまいます。「本当に墨で描いたか」はよくわかりません。藤田の作品のひとつを分析したところ絵具に炭素が含まれていなかったという報告もあります。

藤田の白い下地について「グラン・フォン・ブラン(grand fond blanc=素晴らしい白色)」と称賛されたと言われますが、1920年代の文献のどこにもそんな言葉は出てきません。1930年代から使われ出した言葉です。藤田にとって、自分の絵が「線描を主体にした日本的表現」と言われるのは心外でした。「グラン・フォン・ブラン」は「自分は日本画の手法を取り入れたのではない。下地に工夫したのだ」と強調したいために使われた言葉です。

3 自己アピールをする藤田=《自画像》(1929)

パリで有名になった藤田は、宣伝用写真のモデルも務めています。このような藤田を、日本人の仲間は「目立つこと・売名行為をしているだけで、絵はたいしたことが無い」と、やっかんでいました。

ご覧の写真は、写真家のアンドレ・ケルテスが1928年に撮影したものです。藤田は足踏み式ミシンを踏んで布地を縫っています。くわえタバコで、雪駄履き。「普通の絵描きとは違う」と自己演出した写真です。

◆《自画像》(1929)

当館開館(S63)の2年前に購入した作品で、座卓の上には硯と墨が置かれ、藤田は面相筆を持っています。(注:猫も描いています。三重県立美術館所蔵の《自画像》にも硯、墨、面相筆、猫を描いています)

4 中南米に旅行して制作=《家族の肖像》(1932)

1929年に大恐慌が起こりフランスで絵が売れなくなったことから、藤田は1931年から2年間、中南米を旅行します。ご覧の写真は、1932年9月にペルーの日本大使館で撮影したもので、藤田だけでなく歌手の藤原義江も写っています。スライドは《カーナバルの後》(1932)と《室内の女二人》(1932)です。ご覧のとおり、作風がごろっと変わります。藤田は方向転換を図っていました。

◆《家族の肖像》(1932)

当館が所蔵した2点目の作品で、平成元年に購入しました。線描中心の作品です。肖像画は手っ取り早くお金の入る絵でした。

◆ディエゴ・リベラの壁画と《秋田の行事》

スライドは当館所蔵のリベラの壁画《プロレタリアの団結》(1933)です。メキシコに着いた藤田は旧知のリベラを訪ねたのですが、リベラは当時ニューヨークで壁画を制作中だったため、すれ違いに終わりました。(注:このエピソードについては「アートペーパー110」2019年春号の特集「壁画家は日当で働く」に詳しく書いてあるので、ご一読ください。アートペーパーは、名古屋市美術館HPで閲覧できます)

藤田は壁画にも挑戦しました。スライドは秋田県立美術館に展示の壁画《秋田の行事》(1937)です。

5 アメリカ経由で日本に帰国=《ベルギーの夫人》(1934)

中南米旅行後、日本に帰国した藤田が描いた作品です。藤田の日記に「ベルギー大使館に勤めていた職員の夫人の絵を描いた」という記述があるので、モデルはその夫人と思われます。この作品の背景には霊芝、珊瑚、巻子などの吉祥文様が散りばめられているので、夫人を寿ぐために描いたのではないかと思います。ちなみに、夫人はこの絵が制作された翌年に第一子を出産しています。

6 念願の沖縄旅行=《那覇》(1939)

藤田は1938年に念願の沖縄に旅行しており、この作品は旅行の翌年に制作したものです。ただし、画面右下に藤田が書いた「那覇」というタイトルが無ければ、どこの風景か分かりません。

◆戦争画について

 写真は1942年に、戦争記録画の制作を目的として南洋に向かう船上で撮影されたものです。中央が藤田、藤田の左は宮本三郎、藤田の右は吉岡堅二、右端は小磯良平です。第二次世界大戦後、藤田は戦争記録画を描いた責任を問われます。藤田が画家たちの先頭に立って戦争記録画を描いたことには間違いありませんが、自分だけが責められる謂れは無いと思ったことでしょう。スライドは《アッツ島玉砕》(1943)です。日本とアメリカの戦闘を描いた作品ですが、もはや戦地に行くことはできないため、藤田は想像で描いています。初期の戦争記録画は戦地に赴いて制作していますが、あまり面白くありません。想像で描いた作品の方が面白いものになっています。(注:GHQが発表した戦争犯罪者のリストに藤田の名はありません。戦争記録画を描いた藤田を責めたのは、主に日本人の画家仲間たちでした)

7 日本を脱出、ニューヨークで制作=《猫を抱いた少女》(1949)

藤田は1949年にニューヨークへ旅立ち、再び日本に帰ることはありませんでした。1948年に撮影された写真を見ると、背景が描かれていない少女だけの絵が写っています。藤田はこの作品をニューヨークで完成し、個展に出品しました。なお、この絵の背景はニューヨークではありません。スライドは藤田がパリで描いた《アザリーヌ通り》(1940)です。この絵を《猫を抱いた少女》の背景に生かしたと考えられます。

◆パリの思い出

次のスライドは《カフェにて》(1949)です。これもニューヨークで描いた作品ですが、パリの思い出を描いたものです。1920年代のパリが一番華やかな頃の記憶が、アメリカでは受けたのです。1920年代は多くのアメリカ人がパリにいました。藤田はアメリカ人の顧客に受ける絵を描いたのです。(注:そういえば、豊田市美術館所蔵の《美しいスペイン女》(1949)もニューヨークで描いた作品です)

8 改宗への思いが感じられる=《二人の祈り》(1952)

この作品は、フランスに戻って2年後に描いたものです。パリ・モンパルナスの藤田の居間を飾っていた絵で、藤田は死ぬまで手許に残していました。藤田は1950年代になって宗教的な作品を描くようになりますが、この作品はその先駆となるものです。

藤田は1955年にフランス国籍を取得し、1959年にカトリックの洗礼を受けています。この作品は洗礼の7年前に描かれたものですが、改宗への思いが感じられます。

9 晩年に描いた裸婦=《夢》(1954)

初期の裸婦と構成が似ていますが、違いもあります。初期の裸婦はほとんど真っ白でしたが、この作品の裸婦は肌色を帯びた白で描かれています。

◆最晩年の藤田

 最晩年の藤田はパリ郊外のランスに移住し、ノートル=ダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設と内部のフレスコ画制作に取り組み、礼拝堂は1966年に完成します。その後、藤田は体調を崩して1968年にチューリッヒの病院で死去しました。

最後に

平成28年の「藤田嗣治展」から3年。再度、藤田嗣治の作品について、その変遷をたどることが出来ました。名古屋市美術館に藤田の作品が初期から晩年まで9点揃ったというのは素晴らしいことだと思います。解説会の後は地下1階の常設展で《二人の祈り》と《夢》の2点をじっくり鑑賞し、リベラの壁画《プロレタリアの団結》も見てから美術館を後にしました。          

Ron.

読書ノート 「失われたアートの謎を解く」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

ディエゴ・リベラの壁画《プロレタリアートの団結》(名古屋市美術館蔵)の図版が掲載されているのを見て、衝動買いしてしまった本です。監修の「青い日記帳」はTak(タケ)の愛称でブログ「青い日記帳」を主宰する美術ブロガーです。また、「あとがき」には「膨大な資料を元に執筆してくださった古川萌氏、齋藤久嗣氏、鈴木雅也氏の三名の執筆陣に心より感謝いたします」という謝辞がありました。

 ◆アートペーパーNo.110 2019年春号の特集記事

衝動買いの要因は、名古屋市美術館ニュース アートペーパーNo.110 2019年春号の特集「“壁画家は日当で働く”― ディエゴ・リベラ、壁画の報酬」(執筆J.T.)です。「ニューヨークでの挫折と《アメリカの肖像》」という章で「ロックフェラー2世の次男・ネルソン・ロックフェラーから壁画制作を依頼されたリベラは、壁画にレーニンの肖像を描いたために解雇され、壁画は破壊された。その壁画の報酬として14,000$をもらったリベラがニューヨークの<新労働者学校>に描いた壁画21点中の一つが名古屋市美術館常設展に展示の《プロレタリアートの団結》である」という話を紹介していました。「失われたアートの謎を解く」(以下「本書」)に、その「破壊された壁画」の記事があったため、思わず飛びついてしまったのです。

◆本書・第三章 15 レーニンを描いたから破壊されたロックフェラーセンターの壁画

   レーニン像を描いたために破壊された壁画《十字路の人物》について、本書「第三章 捨てられて上書されて」のp.162~175は「制作中の壁画の中にレーニン像を見つけた地元の新聞紙が『リベラがRCAビルの壁に社会主義者を描いた―出資者はロックフェラー2世』とセンセーショナルな見出しで報道した」「下絵制作時点ではレーニン像を描く予定はなかった」「リベラはレーニンを描きこむことによって自らの思想を体現しようとした」「当初、レーニン像を描くことに容認的であったネルソン・ロックフェラーも相次ぐ批判に抗いきれず、リベラに対してレーニン像をありきたりの普通の男の顔に描き替えて壁画を完成するように指示を出した」「リベラの頑迷な抵抗の前に調整は実らない。膠着状態が長引くと、さらに事件は政治的な色合いを帯びる」「RCAビルには壁画の破壊に反対する労働者が押しかけ小競り合いが起こる一幕もあった」「結局1933年11月、リベラが作業現場を留守にしている隙に壁画は取り壊された」と、事件の経過を書いています。芸術家のリベラを高く評価していても、レーニン像を描いたことが政治的な色合いを帯びてしまったため、壁画を破壊せざるを得なかったということですね。

本書は後日譚として<新労働者学校>に壁画を描いたことに加え、メキシコに帰国したリベラが「時のロドリゲス政権の理解と資金的バックアップを得て《十字路の人物》の再現作品をメキシコシティ、国立宮殿の中央階段壁に描き出した」ことを書き、《十字路の人物》を再現制作した《人類、宇宙を制御する主体》の図版も載せていますので、アートペーパーNo.110の特集とあわせて読むと良いと思います。

◆ナチスによる絵画略奪も

本書「第二章 戦争で消された名画」のp.72~103には、ナチスの絵画略奪に関する「05 ヒトラーの美術品犯罪 略奪された400万点」「06 連合軍が救った名品コレクション アルト・アウスゼー岩塩坑に隠された1万点」「07 フリードリヒスハイン高射砲塔に隠された美術品の行方」「08 今も美術館を悩ますナチス御用画商の隠し絵画」という4つのエピソードがあります。今年の春に日本で公開された記録映画「ヒトラー vs.ピカソ 奪われた名画のゆくえ」や2019.8.25付と同9.1付の日本経済新聞「NIKKEI The STYLE / Art」に連載された「ナチスの略奪(上)(下)」でも取り上げている内容ですが、本書の記事は膨大な資料をうまくまとめており読みやすいと思います。

◆特別寄稿 甦る!《サモトラケのニケ》 文・池上英洋

本書p.42~45に、頭部と両腕を失った《サモトラケのニケ》を同時代の作品をもとにCGで推定復元した姿を掲載しています。図版の説明は「右手にはオリーブの枝を持っていたなど諸説あるが、勝利の女神であるニケは本来、勝利者に捧げる月桂樹の冠(月桂冠)を手にしていた可能性が高い」というものです。「そうだったのか」と、興味深く読ませてもらいました。

Ron.

「空間に線を引く 彫刻とデッサン展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

今回のミニツアーは、碧南市藤井達吉現代美術館(以下「当館」)で開催中の「空間に線を引く 彫刻とデッサン展」(以下「本展」)を鑑賞しました。参加者は9名。解説は、大長(だいちょう)悠子学芸員(以下「大長さん」)でした。大長さんは「本展は彫刻家のデッサンに着目した展覧会です。画家は三次元を二次元で表現しますが、彫刻家は二次元の中で三次元をめざします。そのために触覚・手触りを働かせます。19人の戦後作家のデッサン・彫刻を紹介しますが、プロローグとして戦前の彫刻家・橋本平八のデッサン・作品を展示しています」と、本展の意図・構成を話してくださいました。

◆2階エントランスホール

本展の入口は2階。2階エントランスホールには青木野枝《雲谷(もや)2018-2》が展示されています。大長さんは「これはまさに『空間に線を引いた』作品です。展示室の壁に貼られたデッサンを見ると『デッサンを立体化』した作品であることが分かります。《雲谷》は目に見えない空気を表現したものですが、本展で紹介した彫刻家はいずれも形にならないものを彫刻するためにデッサンをしました」と解説してくださいました。

◆プロローグ 橋本平八から現代へ

会場入口近くに、橋本平八の彫刻《石に就いて》を印刷したハガキと彼の日記が展示されています。大長さんの解説は「《石に就いて》は自然石を木で彫った作品です。そして、この作品は『石を超越した存在』であるということから、作家は『仙』と呼んでおり、作品名も《石》ではなく《石に就いて》です。日記をみると、何枚も下図を描いて、どのような作品にするかを追求していたことがわかります。本展は平塚市美術館、足利市立美術館と巡回し、当館は3館目の展示なので《石に就いて》はハガキ、《少女立像》《裸形少年像》は下図だけの展示になりました。次の巡回先は町立久万美術館(愛媛県久万高原町)です」というものでした。

同じ場所の奥には、戸谷成雄の彫刻《襞の塊(ひだのかたまり)Ⅴ》《襞の塊Ⅵ》とデッサン《鉛のかたまり》《紙のかたまり》が展示されています。大長さんは「《襞の塊Ⅴ》は鉛板の塊、《襞の塊Ⅵ》は紙の塊を表現したもので、鉛板や紙をかたまりにした時に表面にできる襞(ひだ)がモチーフです。また、二つの彫刻はデッサン《鉛のかたまり》《紙のかたまり》に対応しています。重そうに見えますが中空なので意外と軽くて、それぞれの重さは30㎏です」と解説してくださいました。《石に就いて》は具象彫刻、《襞の塊》は抽象彫刻。分野は異なりますが「目指すものは同じ」ということなのですね。

◆第1章 具象Part1

「具象Part1」は柳原義達と佐藤忠良、舟越保武のデッサン・彫刻を展示しています。大長さんの解説は「三人は『具象彫刻の三羽烏』と呼ばれた作家で、新制作派協会彫刻部を創立しています。特に、柳原義達はデッサンを重視して何千何万というデッサンを描きました。細かい線で、周りの空間も含めて、触るように描いています。舟越保武はクリスチャンで信仰心が篤く、精神の気高さを彫刻で表現して、戦後の抽象彫刻が流行した時期に具象彫刻を牽引した作家です。佐藤忠良のデッサンには定評があり、ロシア民話をもとにした絵本『おおきなかぶ』の作者としても知られています。ロシア民話を取り上げたのは、シベリアに抑留された経験が関係しているかもしれません」というものでした。

この時ミニツアーの参加者から、柳原義達の彫刻《犬の唄》について「妊婦のような体型と《犬の唄》というタイトルの関係がわからない」という質問がありました。大長さんの回答は「《犬の唄》というタイトルは、普仏戦争で敗れたフランス人の心情を歌ったシャンソンの題名です。抵抗する気持ちを持ちながらも、表面上、プロイセンに対しては犬のように従順さを示す、とフランス人の心情を歌ったシャンソンに託して、作家は第二次世界大戦の敗戦で破壊された人間像を表現しました」というものでした。

◆第2章 抽象Part1

「具象Part1」の部屋は、最後に「抽象Part1」の展示に変わります。森堯茂のデッサン・彫刻について大長さんは「視覚が通り抜けていく内部空間を表現しようとした作家です」と解説。デッサンと彫刻を見比べると、森堯茂のデッサンはまさに設計図だと思いました。森堯茂の彫刻《罠》については「ブロンズ彫刻ではなく鉄の針金と石膏で制作して漆を塗ったものです。経年劣化が進んで、今はボロボロ」との解説がありました。砂澤ビッキについては「ビッキはアイヌ語で『虹』。《午後三時の玩具》の玩具は、足を動かすことが出来ます」という解説でした。原裕治については「戸谷成雄と同世代の作家で、学年は違いますが二人とも愛知県立芸術大学の同窓生です。原は水脈をモチーフにした、立体と平面の間のような作品を制作しています。また、《けもの道1》《けもの道2》などのデッサンに描かれた白い線は、練りゴムなどで削ったものです。平面なのに彫刻のような雰囲気があります。紙が波打っているのは、屋外で制作したことによる湿気の影響だと思われます」という解説があり、若林奮の《1999.2.21》というタイトルのドローイング2点については「若林奮はドローイングを『薄い彫刻』と捉えていた」と解説してくださいました。

◆第3章 抽象Part2

「抽象Part2」は舟越直木のデッサン・彫刻の展示から始まります。大長さんは「舟越直木は舟越保武の三男で、舟越桂の弟。舟越保武の長男は幼い頃に亡くなっています。直木は絵画でスタートしましたが、兄の舟越桂は『直木の方が造形力がある』と評価しています」と解説し、長谷川さちについては「本展では一番若い作家です。1階フロアには重さ500kgの石の彫刻を展示しています。彼女は『石は何千回もハンマーを振って削らないと形にならなくて不自由だが、デッサンは自由』と言っています」と解説。大森博之については「《背後の手間》は、ネバネバした光がテーマです。素材は石膏ですが、表面に蜜蝋を塗って質感を出しています。彼は『ネバネバ度が高いのものが彫刻で、ネバネバ度の低いものがデッサン』と言っており、《昼休み》については『座薬を入れる感覚』と表現しています」と解説。青木野枝のデッサンについては「鉄のモノトーンな彫刻と違って、色彩豊かな作品が多い」と解説してくださいました。

◎1階フロア

1階フロアに降りると、大長さんが「重さが500kg」と紹介した長谷川さち《mirror》が置かれています。見ただけでは重量を実感できませんが「2階に上げることが難しかったので、仕方なく1階フロアに置きました」という大長さんの話を聞いて、如何に重いか納得できました。

◎1階 手前の展示室

「抽象Part2」の展示は1階展示室にも続いています。床に置いてある4個の立方体について、大長さんは「4個の鉄の塊は多和圭三《無題》で、1個あたりの重量は280kg。表面の模様はハンマーで何回も叩いて作った槌目です。ドローイングは木炭で描いています。一見すると前面を真っ黒に塗りつぶしているように見えますが、目を凝らすと六角形を描いていることが分かります」と解説してくださいました。

◆第4章 具象Part2

多和圭三のドローイング・彫刻の奥に「具象part2」舟越桂と高垣勝康のデッサン・彫刻が並んでいます。大長さんによると「舟越桂は、戦後の具象彫刻を代表する作家で、1980年代に発表された作品は衝撃をもって迎えられました。終わったと思われた具象彫刻に光を当てたのです。《冬の木》の眼は大理石の玉眼です。彫刻の目線と鑑賞者の目線が交わらないので、不思議な雰囲気があります。また、作家のドローイングを見ると、輪郭線をしっかりとつかもうとしていることが分かります。また、高垣勝康は今回の展覧会で発掘した作家です。金沢工美術工芸大学を卒業していますが、彼の生前は作品をほとんど発表していません。彼のデッサンは、顔の中心から描き始めるのが特色です」とのことです。高垣勝康のデッサンは平面なのに、何故か立体感があり、レリーフのように見える不思議な作品でした。

◎1階 

奥の展示室 奥の展示室では三沢厚彦と棚田康司のデッサン・彫刻を展示していました。大長さんの解説は「二人とも舟越桂の影響を受けて彫刻家を目指した作家です。棚田康司《少女》は、3.11の震災後、舟を漕ぐ少女のイメージを夢でみて制作した作品です。棚田康司は一本の木から人間を彫り出す「一木造り」で作品を制作しています。先ず、木材の表面にドローイングします。ドローイングを描いたら、表面部分を剥いで手元に置き、それを見ながら彫刻する、という独特の制作スタイルです。そのため、ここでは紙ではなく木材の表面に線画を描いたドローイングも展示しています」というものでした。

◆最後に

 抽象彫刻の鑑賞は苦手でしたが、大長さんの解説を聞きながら作品を見ると、分かってきたような気がしました。やはり「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」(徒然草 第五十二段)ですね。大長さん、ありがとうございました。

 Ron.

ネットで読む「没後90年記念 岸田劉生展」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

来年1月8日から3月1日まで名古屋市美術館で開催される「没後90年記念 岸田劉生展」(以下「本展」)ですが、東京ステーションギャラリーでは、去る8月31日から開催されています。東京まで出かける機会はないため、ネット検索してみました。

◆東京ステーションギャラリーのホームページ=ギャラリートークの講師は山田諭さん

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition.html

東京ステーションギャラリーのホームページ(以下「HP」)で「イベント」をクリックすると「記念講演会『岸田劉生の道』」の案内が掲載されていました。内容は「日時:8月31日(土)19:00~20:30/会場:2階展示室/講師:山田諭(本展監修/京都市美術館学芸課長)/参加費:無料*閉館後実施のため、展覧会はご覧いただけません/定員:70人 事前申込制」というものです。「会場は展示室で、閉館後実施」ということは協力会のギャラリートークと、ほぼ同じです。このギャラリートークの記録ですが、HPの中では見つかりませんでした。ただ、他のサイトで記録らしきものを見つけることが出来ましたので、次の記事をご覧ください。

◆美術展ナビ Art Exhibition JAPAN=ギャラリートークの記録? https://artexhibition.jp/topics/news/20190912-AEJ103188/

東京ステーションギャラリーの展示室で山田諭さんが解説する姿や展示風景を掲載しています。ただ、画像はコピーできませんので上記URLを検索してご覧ください。面白かったのは岸田劉生の署名に関する記事で「大きな節目では署名を変えている。ゴッホら近代美術の影響下にあった時期の署名「R.Kishida」は、西洋の古典絵画への傾斜とともに紋章のような署名に変わる。山田さんが『羽(はね)R(アール)点(てん)』と呼ぶ羽飾りのついた盾形の紋章のような署名だ。(略)次の変化は東洋美術への関心を深めた1918年。サインは『劉』と漢字に変わる。(略)1929年に満州(中国東北地方)を旅した劉生は、当地の風景画を油彩で描く。署名は『Riusei Kishida』に変わっていた」というものです。

◆ぴあ いま、最高の一本に出会える 水先案内人のおすすめ=ポイントを押さえた紹介

アートライター・木谷節子氏の記事で「日本近代絵画史上、最も重要な画家のひとりで岸田劉生の、没後90年を記念して開催中の展覧会。学生時代から劉生を研究してきた京都市美術館学芸課長・山田諭氏の監修とあって、展示作品の質量たるや半端ない。また図録に収録されている山田氏編の「岸田劉生活動記録」も貴重なので、少しでも劉生に興味のある人は購入されることをおススメする。(略)10代の水彩画を描いていた時から、満州より帰国後、山口で客死するまでの流れの中で、完全な時系列で観ることができる」と、ポイントを押さえた紹介です。

https://lp.p.pia.jp/shared/pil-s/pil-s-21-01_a1e183f7-ec95-4be1-9831-93354d615a47.html

◆最後に

ホームページの名前とURLだけの紹介になりますが、以下の記事も面白いと思いました。

◎美術手帖 NEWS/ REPORT – 2019.8.31 https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/20460

◎ニコニコニュース 2019年9月4日https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_LP_P_PIA_f4671b4d_8674_

46d0_95a3_1f3bfec5d683/

Ron.