展覧会見てある記 「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

現在、名古屋市美術館(以下「市美」)で「辰野登恵子 ON RARERS:A Retrospective 1969-2012」(以下「本展」)を3月31日までの会期で開催しています。英語の副題のとおり、画家・辰野登恵子(1950~2014)の40年余の道筋をたどる回顧展です。
辰野登恵子は本展のチラシや新聞・雑誌の記事で初めて知った作家ですが、「豊麗な色彩と力強い形態の抽象表現で、現代絵画のトップランナーとして活躍した作家である」と、日本経済新聞(以下「日経新聞」)の展覧会評(2018.11.28)が誉めていたので、本展が市美に巡回するのを心待ちにしていました。
先日、本展を見てきましたので展覧会の構成、感じたことなどを書いてみます。

◆日経新聞の誉め言葉はウソじゃなかった
本展の内容は期待以上のものでした。展覧会は年代順に「Ⅰ」から「Ⅷ」までの8章で構成され、入口のある2階にⅠからⅣを、1階にⅤ・Ⅵ・Ⅷを、地下1階にⅦを展示しています。章が変わるたびに作風が変化し、日経新聞の「豊麗な色彩と力強い形態の抽象表現」という言葉どおりのⅥ以降も、さらに作風の変化が続いていることに驚きました。今後も作風の変化を見せてくれると思われるだけに、作家が64歳で急逝したことは返す返す惜しまれます。
作風の変化を文章で表現しようと思ったのですが、残念ながら力不足で書けません。本展にお越しいただき、展示室でご覧くださるようお願いいたします。

◆展示室の壁に作家の文章・言葉(解説は出品リストに)
 本展では展示室に解説がなく、そのかわりに作家の文章・言葉が書かれており、作家と対話しながら鑑賞しているような気持ちになります。
なかでも、Ⅰの“筆で描く時の「もたもた感」がすごくいやだった。とにかく版画という手段、特に写真製版というのは、全面的というわけじゃないけど、ある程度はその手垢のようなものを消すことができるから”という文章が印象的でした。「“「もたもた感」がすごくいやだった”ってどういうこと?写真製版に求めたのはサクサク感?スマートな表現?」などと、あれこれ考えながら作品を見ていきました。
 なお、本展の解説は出品リストに書いてあります。各章ごとに解説が付いた8ページもある立派なもので、鑑賞の手助けをしてくれます。

◆最後に
 「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」の協力会会員向けギャラリートークが、3月3日(日)午後5時から開催されます。講師は名古屋市美術館の清家学芸員で、市美2階講堂に集合という案内が届きました。
ご覧のブログサイトから申し込みできます。参加しませんか。
         Ron.

読書ノート「日本画の歴史」(近代篇)(現代篇)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

草薙奈津子 著 中公新書2513・2514 2018年11月25日発行

 カラー版の新書です。内容は著者が一般市民を対象に平塚市美術館で行った館長講座に数章を加筆したもの。読みやすい本でした。新書化するにあたり(近代篇)「第二章 幕末・明治の浮世絵」や(現代篇)「第六章 女性画家の台頭と活躍」など数章を加筆しており、浮世絵や女性作家に多く言及しているのが特色です。このうち(近代篇)第二章は以下のように始まります。

(浮世絵は)明治時代になっても庶民の間では根強い人気がありました。むしろ技術的には江戸期より明治の浮世絵のほうが優れていたといわれます。(略)作者としては歌川貞秀、落合芳幾、三代歌川広重、月岡芳年、揚州周延、豊原国周など。そして西洋絵画を意識した光線画を生んだ小林清親もいます。

また、(近代篇)第二章は月岡芳年について以下のとおり紹介しています。

月岡(大蘇)芳年 最後の浮世絵師 ― 1839~92
江戸末に活躍した歌川国芳の門からは多くの浮世絵師が輩出しました。その中で特筆すべきは月岡芳年と河鍋暁斎です。河鍋暁斎は狩野派の絵師でもありますから、他の章で述べたいと思います。芳年は明治期の浮世絵師としてよく知られています。しかも国芳の師風をよく受け継ぎ、それを発展させていきました。(略)芳年の師歌川国芳(1797~1861)は江戸末を代表する浮世絵師です。奇想の画家ともいわれ、今、とても人気があります。(略)芳年の絵が“ちみどろ絵”といって評判となるのは1866年です。同門の落合芳幾との合作《英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)》を発表してからです。(略)幕末には残酷な場面が歌舞伎や講談でも表現されていましたから“ちみどろ絵”は芳年ただ一人の傾向というよりも、残酷趣味を求める当時の大衆の風潮であり、時代の好みだったといえそうです。(略)明治に入ると狩野派の画家ばかりでなく、浮世絵師たちも生活に困窮しました。芳年もそうだったようで、作品数が極端に減っています。(略)挙句、1872年には強度の神経衰弱にかかってしまったのです。しかし翌年には回復したのでしょう。大いによみがえるという意味の“大蘇”と号するようになりました。75年になると作画活動も安定を迎え、錦絵新聞、美人絵、そして戦争画に取り組んでいます。錦絵新聞の先駆けは74年の『東京日日新聞』でした。挿絵を担当したのは芳年の兄弟子落合芳幾です。芳幾と芳年は兄弟弟子であると同時にライバルでもあったのです。芳幾の成功にあやかろうと、芳年は75年『郵便報知新聞』の挿絵を手掛けました。(略)1877年には《西郷隆盛切腹図》を描いています。1882年には絵入り自由新聞に月給100円という破格の高給で雇われていますから、芳年の挿絵の人気ぶりが推し量られます。(略)明治10年代後半から晩年にかけて、芳年は江戸時代に回帰したとも評されます。まさに“最後の浮世絵師”といわれる所以です。(略)しかし浮世絵の人気も1887(明治20)年になると陰りがみられるようになり、明治30年代には加速度的に出版点数が減っていきました。写真に取って代わられたのです。しかし芳年の門からは、その後の日本画を担う作家たちが続々と出てきました。例えば、水野年方、鏑木清方、池田輝方・蕉園夫妻、伊東深水らは、自ら歌川派を継ぐ物といってはばかりませんでした。その意味でも、月岡芳年は、まさに幕末から明治という時代を代表する画家の一人なのです。

この記述に関連して、(近代篇)「第七章 官展の歩み - 東京画壇・京都画壇」のなかの「松園・清方・深水に代表される美人画家たち」という項目に以下の記述があります。

深水は松園、清方、そして自分自身を次のようになぞらえています。「清方先生はやはり(鈴木)春信だと思う。色彩画家であり美しい夢を非常にもっている。そうしてなんか清潔な感じがする。松園先生は非常に本格的な技術を身に付けているのですね。そうして非常に気品があるということね。ほかの浮世絵画家にはない品格がある。これは(勝川)春草ですよ、春草に該当する人です。(鳥居)清長は傾向としては私なんです。というのは非常にリアルで割合に均衡がとれて、すこし常識的であり、そうして非常にエネルギッシュであるということ」(『三彩』1956年7月)実に言い得て妙です。

 女性画家については(現代篇)「第一章 昭和戦前期の日本画」で以下のとおり小倉遊亀を紹介しています。

小倉遊亀 崇高な精神と温かみのある人間性 ― 1895~2000
 滋賀県大津に生まれた遊亀は、戦前、関西の優秀な女性に唯一開かれていた奈良女子高等師範学校に学び、首席で卒業しています。(略)遊亀はそこを卒業すると、京都や名古屋で先生をしながら絵の勉強を続け、横浜の捜真女学校の講師時代、誰の紹介もなく安田靫彦に会いに行ったのです。(略)遊亀は安田靫彦という新古典主義を代表する画家に学んでいますから、その作品は線描を主としたものがほとんどです。特に戦前の作品にはそのことがいえます。それにもかかわらず、遊亀の作品には多少の歪みが感じられるのです。遊亀自身は次のように語っています。「描いていくうちにね、そこの形をどうしても歪めていかないと落着かないんです。ですから歪めてしまうんです。そうすると落ち着くんですねえ。……近代的な感覚じゃないですね、あれは。その絵を落着かせる、形のうえの、自分勝手な……自分が美しいと思った形です」。(略)遊亀の作品に指摘されるデフォルメは、東京藝術大学美術館の古田亮なども指摘するようにマチスの影響といわれます。(略)しかしそれだけではないような気もします。日本画の装飾性を遊亀なりに考えて生まれたのではないでしょうか。日本画を学ぶ段階で得た装飾に対する親しみが、マチスの作品を見たときに遊亀の心に感応したのではないかと、私は思っています。(略)マチスなどを学んでいるという意味で、遊亀の作品は理知的というべきかもしれません。しかし実際彼女の作品を目の前にすると、理知的というよりも、温かく人を包み込むような包容力と優しさを感じます。伝統的に日本美術院の作家に顕著なのが、絵画に精神性をもたせるということです。(略)遊亀には高く深く崇高な精神と同時に、優しく温かみのある人間性が見られるのです。

 (現代篇)「第六章 女性画家の台頭と活躍」は最初に秋野不矩を取り上げています。内容は以下のとおりです。

秋野不矩 強い意志 悠然たる気分 - 1908~2001
(略)彼女の本領が発揮されるのは戦後、1948年に仲間と創造美術を結成してからです。息子たちをモデルに描いた《少年群像》(1950年)の裸像の少年らの初々しさ、群像としての構図の取り方、色彩や描法の大胆さなど、戦前作品の細い描線はなくなり、もっと大らかで自由で、我が道を行く泰然とした姿勢が感じられ、その後の不矩の歩みを示唆しているのです。この作品によって第一回上村松園賞を受賞したのでした。上村松園賞とは松園没後の1950年に設けられた賞で、精力的に活躍する実力派女性画家を対象とするものでした。第二回から五回(最終回)までに、小倉遊亀、広田多津、堀文子、朝倉摂が受賞しています。1962年54歳の時、秋野不矩は突然インドに行きました。不矩が教鞭をとっていた京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)の同僚教授、佐和隆研の「日本画の先生でインドに行ってくれる人はありませんか」という一言に乗ったのです。(略)秋野不矩のインドに取材する作品を、私はすべて好きです。そこには深く、大きく、計り知れないインドの大地にそそぐ不矩の愛が感じられるからです。それが秋野不矩の哲学なのだと思います。

◆協力会ミニツアーについて
 平成31年3月24日(日)午後2時から、名古屋市博物館「挑む浮世絵 国芳から芳年展」鑑賞ミニツアーを開催するとの案内がありました。集合は博物館1階。展示説明室で神谷浩・博物館副館長の解説を聴いた後、自由観覧となります。(詳細は、協力会ホームページをご覧ください)
 歌川国芳は「今、とても人気の浮世絵師です」が、上記の「日本画の歴史」によれば弟子の月岡芳年も「まさに幕末から明治という時代を代表する画家の一人」です。「挑む浮世絵 国芳から芳年展」は国芳の個性が芳年を始めとする弟子たちに継承され、変化していくさまを間近で鑑賞できるまたとない機会だと思います。

◆協力会・春の美術館見学ツアーについて
 詳細は未定ですが見学先は、①浜松市美術館「浜松市美術館リニューアル1周年記念 没後70年上村松園展」、②静岡市美術館「小倉遊亀と院展の画家たち(滋賀県立近代美術館所蔵品による)」、③静岡近代美術館・所蔵品展に決まったとの案内がありました。
①について:平成25年に名古屋市美術館で開催された「上村松園展」は素晴らしかったですね。再び上村松園の作品に出合うのが楽しみです。今回は、上記の「日本画の歴史」が取り上げた秋野不矩始め上村松園賞受賞作家の作品も併せて展示されるようです。
②について:「院展の画家」は上記「日本画の歴史」(近代篇)でも多くのページを割いて紹介しています。展覧会の中心となる小倉遊亀については「宗達を敬慕すると同時にマティスやピカソにも刺激を受ける彼女の画業」(山本香瑞子・静岡市美術館学芸員=「美術の窓」2019年1月号より)を是非とも鑑賞したいですね。
③について:「芸術新潮」2019年1月号に「静岡市葵区にある静岡近代美術館。ここは徳川十五代将軍慶喜公の住まいがあった場所で、駿府城公園や静岡浅間神社にもほど近い。閑静な住宅街に囲まれて立ち、2016年に開館した時は知る人ぞ知る「隠れ家的」美術館だったが、近頃その収蔵品の質の高さが密かに話題を呼んでいる。(以下、略)」という紹介記事が載っていました。どんな作品が鑑賞できるか、楽しみですね。
Ron.

読書ノート 「魯山人の器」など

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〇「魯山人の器」(2006年10月30日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版
 近所の図書館で借りた本です。書名のとおり、北大路魯山人(1883~1959。以下「魯山人」)が制作した食器の魅力を語っています。魯山人といえば「美食家」。漫画「美味しんぼ」の登場人物・海原雄山のモデルというイメージが強かったので、「食器」という切り口は新鮮でした。また、本が薄くて「サクッと読めそうだ」と感じたのも手に取った理由です。
まず、「美食家」魯山人が「陶芸家」になった経緯ですが、以下のように書いています。

はじめ書家として世に出た魯山人に、大きな転機が訪れたのは、36歳の折。友人の中村竹四郎と共同で古美術骨董を扱う「大雅堂芸術店」(のちに大雅堂美術店と改称)を開き、いつからか店内で友人知己を集めて手料理をふるまうようになった。ここから会員制の「美食倶楽部」が生まれ、本格的な会員制料亭「星岡茶寮」の開業へとつながった。そして、茶寮で使う食器をそろえるため、魯山人は作陶に手を染めていった。(抜き書き終わり)

 「美食家」になる以前は「書家」「古美術店経営者」であった魯山人。作陶に向かった動機は、「茶寮で使う食器をそろえるため」でした。まさに、目まぐるしい変化です。
本の主題である「魯山人の器」の魅力については、以下のように書いています。

使ってこそわかる器の魅力(略)第一のツボは、ここにある。料理を盛って、器と料理の響きあいを楽しむ心。魯山人の器は、料理を生かし、料理に生かされる器なのです。(略)
自由に線を引く筆さばき(略)魯山人は、陶芸家としてでも美食家としてでもなく、まず書家として名を成した。(略)魯山人の器を鑑賞する第二のツボは、この独特の筆さばきを味わうことにある。「器に書の至芸をみる」のだ。(略)
鍛え上げた目だけを頼りに、己の作品を生み出していった魯山人。こんな言葉も残している。「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。なにかしらコピーでないものはないのだ。但し、そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」(『愛陶語録』)(略)魯山人のコレクションルームには「坐辺師友(ざへんしゆう)」の扁額が掲げられていたという。(略)魯山人は名品に学びながら、独自の器をつくり出した。魯山人鑑賞の第三のツボは、そこにこそ見出せる。「自在な作陶ぶりを味わう」ということである。たとえば、織部について見てみる。(略)魯山人の手になる俎皿(まないたざら)は伝統的な織部には、まったくないものだった。魯山人が、調理場にあるまな板をヒントに案出したものなのだ。しかも、緑釉の部分にも、従来の織部にはない微妙な濃淡がつけられている。(略)魯山人は、それまでなめらかに仕上げるのが絶対とされていた土の表面を、あえて石で叩き、細かい凹凸をつけた。この凹凸が、緑釉に微妙な濃淡と輝きをもたらしたのだ。(略)魯山人は備前焼でも、革新的な作陶を行っている。土の風合いが持ち味とされる備前に、銀の粉をにかわで溶いた「銀泥」を施したのである。(抜き書き終わり)

魯山人の器を鑑賞する第一のツボは「美食家」の、第二のツボは「書家」の、第三のツボは「古美術店経営」の経験に基づいています。「魯山人の器」の魅力は彼の多彩な経験に裏打ちされたものだったのですね。
 抜き書きの中では「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。(略)そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」という魯山人の言葉が特に印象的でした。そして「名品に学びながら、独自の器をつくり出した」例として、織部焼の俎皿と備前焼の銀彩を上げています。
この「独自の器をつくり出した」という点については「美の壺」シリーズの「織部焼」「備前焼」でも、以下のとおり魯山人の業績に触れています。

〇「織部焼」(2007年10月25日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
古田織部と織部焼の謎
 古田織部の存命中、単に「瀬戸茶碗」や「瀬戸皿」と呼ばれていた織部好みの器が、「織部焼」の名で呼ばれるようになるのは、織部の死から80年近く過ぎた江戸も中期頃からだという。そしてそれが瀬戸ではなく美濃で焼かれたことがわかったのは、つい80年ほど前のことだ。昭和5年、後に人間国宝となる美濃の陶芸家、荒川豊蔵(1894~1985)は、現在の岐阜県可児市にある牟田洞の古窯跡で、筍の絵が描かれた志野の陶片を発見する。これが端緒となって、桃山茶陶の粋、志野と織部がともに美濃で焼かれていたことが明らかになったのだ。(略)長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは、何といっても昭和初期の古窯跡の発掘をきっかけに、陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎(1898~1985)だ。桃山陶を換骨奪胎し、ともに大きな成果を遺した二人だが、稀代のプロデューサーだった魯山人が、織部焼はそれ以前から美濃で焼かれていたやきものを古田織部が「発見」したと考えているのに対し、自ら轆轤を挽き、窯を焚いた唐九郎が、織部を優れたデザイナーにして近世の幕を開けた芸術家ととらえているのは面白い。(抜き書き終わり)

 抜き書きの中では「長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは(略)陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎だ」という箇所が特に印象的でした。
「魯山人でもてなす。」(2009年5月20日発行 コロナ・ブックス編集部 平凡社)の巻末年表には「1927年(昭和2)京都の宮永東山窯から荒川豊蔵を招く。1930年(昭和5)荒川豊蔵とともに、大萱牟田洞窯、窯下窯、大平窯などの窯跡発掘。1936年(昭和8)荒川豊蔵、美濃大萱へ」とあり、昭和2年から昭和8年まで、荒川豊蔵は魯山人と一緒に仕事をしていたことが分かります。Wikipediaは荒川豊蔵について「1955年(昭和30年)-志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される」と記載していました。
 前述の「魯山人でもてなす。」には志野・織部に関する記述もあります。志野に関しては「魯山人は志野に純日本的美意識を見た。そして言う。『志野は稀にみる純日本的陶器であり、珍重すべき陶器である。簡単にこれだけで充分だ』と。いくら口を極めて説明しても、わかる者にしかわからないのが志野の魅力だ、とも」というもので、織部に関しては「魯山人の食器中もっとも数が多いのが織部。手描きの素朴な絵と鮮やかな緑色の釉を日本独特の美として好んだ。1955年に魯山人は小山富士夫を通じて重要無形文化財の指定を打診されるが、このとき対象となったのが織部であった。ちなみに、魯山人はこの指定を固辞した」というものです。
 
〇「備前焼」(2008年9月20日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
 当時、美濃では荒川豊蔵(1894~1985)が志野の陶片を発掘し、桃山志野の再現に意欲を燃やしていた。刺激を受けた金重陶陽は、後に豊蔵と親交を結ぶ。30代にして本格的に轆轤に立ち向かった陶陽は、つてをたどって備前焼の茶陶を見せてもらい、茶道を学んだ。窯に改良を重ね、良質の田土を探して精製法を工夫し、桃山備前をみごとに再現した陶陽は、1956年、備前焼最初の人間国宝に認定される。息子たちを筆頭に多くの後継を育て、その功績は計り知れない。(略)
[達人のことば  備前 ― その土味 窯変の妙]   黒田草臣(渋谷「黒田陶苑」代表取締役)
(略)はじめ魯山人の指導で信楽土の焼締や伊賀、志野、織部釉でオブジェを制作していたイサム・ノグチは、魯山人作品の中で備前焼に興味をもち、備前土で制作したいという強い希望をもった。(略)魯山人は、「無釉の陶器のなかで群を抜いて備前は美しい。備前は何といっても土そのものに変化があり、味わいがある。土と火との微妙な関連によって渋い奥行きのある色が出るなど世界に類をみない。無釉の備前土こそ芸術的才能がそのまま表れる」といい、昭和27年の5月、ノグチを伴い備前を訪れた。(略)昭和24年にも陶陽窯で制作している魯山人は、「備前で作陶している人は伝統の中に居眠りをしているのではないかな。こんなに良い土があるのに、もったいないことだ」といいながら、備前土の感触をみながら、針金で四角くスライスする。これを大きな手の平でとんとんと叩き、縁を処理してうねりをつける。みるみるうちにできた四方皿や俎皿に陶陽は舌を巻いた。それは備前の陶工たちが忘れていた土味の良さを引き出す方法だった。(抜き書き終わり)

荒川豊蔵の活躍は備前焼にも刺激を与えていたのですね。また、前述の「魯山人でもてなす。」は備前焼について「備前は魯山人がもっとも愛したやきもの。絵や釉薬の施されることのなかった備前に釘で絵を彫り、銀彩などの釉薬をかけることによって備前に新しい世界を拓いたのも魯山人である」と書いています。
Ron.

《天女(まごころ)像》の記事を発見しました

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日(2019.1.25)発売の「芸術新潮」2月号特集「奇想の日本美術史」では、陶芸家・宮川香山と彫物師・石川雲蝶の”やりすぎスピリット“の後継者として佐藤玄々(1888~1963)と《天女(まごころ)像》を紹介しています。その内容は以下のとおりです。

p.78
ご存知、日本橋三越本店中央ホールにそびえる像は、畢生の大作。絢爛な装飾物に彩られた天女は悠然と微笑むが、そりかえった足指の先にまでゆき届く緊張感に、作者のひたむきな情熱を感じて、胸がジーンとする。
p.79(写真の説明)
生誕130年を記念した佐藤玄々の本格的回顧展が巡回中。2月24日までは碧南市藤井達吉現代美術館で、3月6日から12日は本作を囲んで日本橋三越本店のホールを舞台に、作品が展示される。●《天女(まごころ)像》昭和35年(1960)木彫彩色 高10.91m 日本橋三越本店蔵

p.79の写真は日本橋三越本店の本館1階中央ホール吹き抜けに設置された、4階の天井に届くほどの《天女(まごころ)像》。写真をみると、天女像そのものは像全体の四分の一ほどの高さ、像の大半を台座と光背が占めています。
また、「日本橋三越本店 Nihombashi Mitsukoshi」のfacebook:2015年4月10日付の記事も《天女(まごころ)像》に触れていました。内容は以下のとおりです。

~三越歴史再発見①~ 【天女(まごころ)像】
みなさま日本橋三越本店の天女像をご存知ですか?天女像とは、本館1階中央ホールに鎮座する高さ10.91m、重さ6.45トンもある極彩色の巨大な木像です。
彫刻家 佐藤玄々によって、京都の貴船神社の山中にあった樹齢500年の檜を使い、約10年の歳月をかけて1960年に完成いたしました。
計画当初は6m程度の小さな像で予算も400万円でしたが、最終的には製作費1億5000万円(現在の価値で約10億円)の大作となりました。
今年の日本橋三越本店のテーマは「アート」。現代美術として再評価される天女像をアートの象徴として、日本橋三越本店は、これから、アートを楽しむ暮らしを提案していきます。 http://mitsukoshi.mistore.jp/…/nihombas…/history/list03.html
◆日本橋三越本店 本館1階 中央ホール

 《天女(まごころ)像》は三越にとって「アートの象徴」なのですね。
Ron.

会場にて「inferno」 解説してくださった特別主任学芸員の北川智昭さん、ありがとうございます 2018ArtLabTokyoここにもアートラボ 石切り場 前室にて 音のアーキテクチャ トンネルでピクニック 佐川美術館 ギャラリートークの様子 展示会場で話をきく会員たち 泉屋博古館にて まずは講堂でレクチャを聴く会員たち 会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます! 「回生の苗床」 光内惟奈 燃やせないもの