「没後90年記念 岸田劉生展」ギャラリートーク

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館で「没後90年記念 岸田劉生展」(以下「本展」)が開催されています。先日、名古屋市美術館協力会主催のギャラリートークに参加しました。担当は井口智子学芸課長(以下「井口さん」)。参加者は93人。2階講堂で簡単な説明を受けた後、展示室に移動してギャラリートークが始まりました。

◆2階講堂でのトーク

集まった参加者の前に井口さんが登場すると、着ていたのは協力会の会員さんからプレゼントされた手編みのケープ。麗子像の肩掛けに似た配色の素敵な品でした。「参加者が多いので、どこにいるか良く分かるように着てきました。近いうちに名古屋市美術館でも毛糸の肩掛けとおかっぱ頭のかつらを用意して、『成りきり麗子』が撮影できるコーナーを設けます」というお知らせもありました。

麗子ちゃん風ケープを羽織った井口学芸課長

また、井口さんが資料を入れていたのは、しりあがり寿が描いた「麗子ちゃんトートバッグ」。「主催者の御厚意でギャラリートーク終了までグッズ売り場が開いています。売り場では2種類の図録を販売しています。一つは《麗子微笑》を表紙にした図録。もう一つは《道路と土手と塀(切通之坂道)》を表紙にした東京会場・山口会場で販売していた図録です。違うのは表紙だけで中身は同じ。図録に収録された『岸田劉生活動記録(山田諭編)』は、数多くの資料を読み込んで編集した、価値の高いものです」というコメントがありました。(注:「岸田劉生活動記録」は劉生に密着取材して書いたような中身が濃いものでした。井口さんの「岸田劉生と名古屋 ― 劉生の《舞妓図》と杉本健吉」も図録に載っています。図録は税込2,500円。この外、毛糸の肩掛けは税込13,200円、トートバッグは税込1,100円です)

岸田劉生(以下「劉生」)については「17歳で絵を学び始めて、38歳で死亡。20年を駆け抜けた天才画家」と、紹介があり「本展は、山田諭・京都市美術館学芸課長が名古屋市美術館に勤務していた頃から企画していた展覧会である」ことも紹介されました。

◆第一章 「第二の誕生」まで 1907-1913

劉生について井口さんは「1891年に東京銀座で生まれ、1900年代には独学で水彩画を描き始める。1907年制作の水彩画を見ると、才能があったことが分かる。転機は1911年。彼は、当時発行された雑誌「白樺」が紹介したゴッホやマチスの作品に影響を受けた。作品を真似るだけでなく、興味を持った要素を取り入れて自分のものとして積み上げていった。物を見る目の鋭さが、彼の能力」と解説。この外、作品番号(以下「No」)14《自画像》については「自分を主観的に見た、ゴッホやマチス風の作品」、No17《築地居留地風景》・No18《築地居留地風景》については「表現主義的な画風」と、コメントがありました。

作品の数が多いので、水彩画、外光派の油絵、当時流行のポスト印象派風の作品と、岸田劉生の作風が目まぐるしく変化していく様子がよく分かりました。

◆第二章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで 1913-1915

井口さんは「劉生は流行を追うのではなく、古典に逆行。友人の顔や自画像を数多く描いた。彼の描写は、だんだん細かくなっていくとともに写実的になっていく」と、解説。この外、No21《B.L.の肖像(バーナードリーチ像)》・No24《裸婦》を紹介。No40《黒き帽子の自画像》(注:1階エントランスの画像の右側の作品)については「帽子はお気に入りのもの。パレットを手にしており、画家としての自分を描いている。自分の道を見つけていった」と、コメントがあり、「美しさを見いだす能力が高かった」と劉生を評した、武者小路実篤の言葉も紹介。

また、第二章の最後のほうに展示されているNo52《高須光治君之肖像》については「デューラーやファン・エイクの影響を受けて、初期のものと比べると写実的になり、肌の状態を生々しく描いている」と、コメントがありました。

第二章には「これでもか」というほど、数多くの自画像が並んでいます。壮観というだけでなく、作風が変わっていく様子がよく分かります。次から次に自画像を見ていると、劉生の熱気が伝わってくるようでした。

◆第三章 「写実の神秘」を超えて 1915-1918

第三章の前半は主に風景画、後半は主に静物画です。風景画については「劉生が代々木に引っ越した頃は開発が進んでいる時代。彼は外に出て、自然に人間が手を入れている風景を写生。No56《代々木付近(代々木付近の赤土風景)》を見ると、重要文化財の《道路と土手と塀(切通之坂道)》に描かれた二本の黒い影が電柱だったのが分かる。No61《冬枯れの道路(原宿付近写生)》は名古屋展のみの出品。こってり描いているところと、ざっと描いているところを描き分けている」と、コメントがありました。

No65《古屋君の肖像(草持てる男の肖像)》については「着物の形、肌の様子など、写実性の高い作品」と、コメントがあり、静物画のNo69《林檎三個》については麗子が「父 劉生」のなかで「この絵は病と斗う父が、自分の一家三人を林檎に託して描いたときいている」と書いていることと「茶色の机は劉生のお気に入りだった」ことが紹介されました。更に、No70《初夏の小路》については「二科展で最高賞の二科賞を受賞し、賞金100円を受け取った」こと、No75《川幡正光氏之像》については「デューラーの絵を基にしているが、アルファベットの代わりに右に漢字を書いている」こと、No78《静物(手を描き入れし静物》は「二科展で落選。手が描かれており、悪趣味といわれた。現在、手は塗りつぶされている。塗りつぶしたのは劉生ではないが、塗りつぶした人物が誰かは分かっていない」こと、などが紹介されました。

第三章には、井口さんが紹介した以外にも数多くの静物画を展示しています。No73《静物(赤き林檎二個とビンと茶碗と湯呑)》やNo77《静物(白き花瓶と台皿と林檎四個)》などの作品を指して、ある会員が「ジョルジョ・モランディの静物画みたい」と感想を呟きました。モランディの作品は2011年に名古屋ボストン美術館で開催された「恋する静物」展で見ただけですが、「確かに、そんな感じがする」と、私も思います。

◆第四章 「東洋の美」への目覚め 1919-1921

第四章には、数多くの麗子像が展示されています。井口さんは「劉生は、麗子を通じて自分の描きたいものを追求した。それは、劉生と麗子の共同作業。彼は麗子だけでなく、近所に住むお松さんもモデルにした。お松さんは麗子より年上で、利発な田舎娘。麗子像の肩掛けは、元はお松さんのもの。劉生は、ほころびのある肩掛けを気に入って、麗子のために用意した肩掛けと取り換えた。お松さんも喜んでいた」と、コメント。この外、No90《麗子座像》(注:1階エントランスの画像の左側の作品)については「この時期から、劉生は水彩画を描くようになる。油絵はじっくり描くが、水彩画は素早く描くことが出来る」と、No111《麗子微笑》(注:名古屋展の図録の表紙)については「肩掛けの質感にリアリティーがある。程よい感じで微笑んでいる。どこか現実、どこか非現実。超現実の世界」と、No108《麗子洋装之図(青菓持テル)》については「水彩画で、バーナード・リーチとお別れするときに着ていた洋服を描いている」と、コメントがありました。《麗子微笑》については、更に「おかっぱ頭、着物、肩掛けなど現実にあるものを、現実を超えた美しさで描いている。敢えて、顔を横長にしたり、手を小さくしたり、アンバランスにして描いている」と、解説がありました。

1階展示室の出口付近のケース内に5歳の頃の麗子の写真が展示されていました。麗子像よりもかわいい顔をしています。そういえば、2019年9月29日(日)にNHK/Eテレで放映された日曜美術館「異端児駆け抜ける! 岸田劉生」では、《麗子微笑》について「丸い顔に鼻筋が通っているのは、仏像を思わせる。仏像のような微笑みは際どい。俗っぽくなるかどうかの瀬戸際」という画家の証言や「西洋の油絵に東洋の美を盛り込んだもの。異端児がたどり着いた極み」という学芸員の解説がありました。

◆第五章 「卑近美」と「写実の欠如」を巡って 1922-1926

井口さんは「1923年9月1日の関東大震災で、劉生の自宅が半壊。9月13日に名古屋の片野元彦が劉生を訪ねてきて、名古屋に移住することになる。劉生が名古屋に住んだのは半月ほど。その後、京都に引っ越したが、名古屋は劉生にゆかりがある土地」と話し、No113《二人麗子図》について「名古屋展のみの出品で、二人とも麗子という不思議な世界」と、No116《麗子微笑》・No117《麗子》については「グロテスク」と、No125《童女舞姿》については「名古屋展のみの出品」と、No135《少年肖像(村上巌氏十七歳)》については「能面のようで、日本画のようにのっぺりとした作品」と、コメントがありました。

第五章には、数多くの日本画を展示しています。井口さんから「劉生の日本画がこれほど集まる展覧会はない。No138《瓜之絵》は、日本画の冬瓜。京都時代の劉生は、あまり評価されていないが、力を蓄えていた時代」と、解説がありました。

第五章の日本画は、それまでの劉生と違い、肩の力が抜けたというか、ヘタウマというか、作風が大きく変わったことが分かります。

◆第六章 「新しい余の道」へ 1926-1929

井口さんから「孤立していた劉生のために、武者小路実篤が1927年に第1回大調和展を企画。劉生は《舞妓図》を出品(注:図録に、《舞妓図》について書いた井口さんの文章が載っています)。1929年には、南満州鉄道株式会社から招聘があり、再起をかけて満州に渡りますが、いい結果が出ず、帰国後、徳山で急逝します。No152《塘芽庵主人閑居之図》には、丸々と太った自分を描きこんでいます。太ったことも病気の原因かもしれません。彼は、癇癪もちでしたが、人間的な人でした。情の熱い人で、キリスト教を捨てたとしているが、人を超えた何かを信ずる人でした」という話があり、ギャラリートークは終わりました。

No160《満鉄総裁邸の庭》など、満州で制作した明るい色彩の作品を見ていると、徳山で急逝しなければ数多くの新たな作品が生まれていたように思え、残念でなりません。

◆最後に

本展を見終わって、監修した山田諭・京都市美術館学芸課長の意気込みを強く感じました。まさに「緻密な研究に裏付けられたすぐれた展示」という展覧会評(日経新聞2019.12.10文化欄)のとおりだと思います。見逃せない展覧会です。図録もお忘れなく。

Ron

「ムーミン展」のことなど

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1 ムーミン展

昨年末に松坂屋美術館で開催中の「ムーミン展 ”Moomin The art and The story” 」に行ってきました。きっかけは、2019.8.23(金)の22:00からNHK・Eテレで放映された『ドキュランドへようこそ「おかえりムーミン~新シリーズ制作の舞台裏~」』。最新のCGアニメ制作の現場を描いた、フィンランドのドキュメント番組です。私にとっては馴染みのなかったムーミンですが、この番組で興味を持つようになりました。

ムーミン展はトーベ・ヤンソン(1914-2001:以下「トーベ」)の小説「小さなトロールと大きな洪水」(1945)の紹介で始まり、挿絵の原画も展示されています。トーベの父親は彫刻家、母親は挿絵画家。彼女自身も15歳の時から雑誌に挿絵を投稿しており、社会風刺のきいた一コマ漫画が何枚も展示されていました。この他にムーミンの様々なキャラクターや、トーベと弟ラルス(漫画家)が共作したムーミンの絵本、ムーミングッズ、舞台になったムーミン、日本との交流を紹介しています。

なかでも目を引いたのは1971年の日本滞在時にトーベが箱根・富士屋ホテルの便箋に描いたスケッチ、浮世絵と彼女の描いた本の表紙や挿絵の原画の展示です。「ムーミン谷の十一月」の挿絵と広重の《蒲原 夜の雪》、「ムーミン谷の彗星」の挿絵と北斎の《神奈川沖浪裏》などを比べて楽しむことが出来ました。なお、浮世絵は複製版やパネルです。

2 新作TVアニメ「ムーミン谷のなかまたち」第3話など

大晦日の18:40~19:05に、NHK・Eテレで「ムーミン谷のなかまたち」第3話「世界でいちばん最後の竜」が放映されました。スナフキンの声は高橋一生。ムーミンは「ムーミントロール」と呼ばれていました。トーベの姪ソフィア・ヤンソン(弟ラルスの娘)が監修した作品なのでムーミンの世界観を楽しむことが出来ます。アニメに引き続いて2019.8.23に放映された「おかえりムーミン」の再放送もありました。ドキュメントの中に出てきたのが「世界でいちばん最後の竜」の1シーンだったと分かったことは、この日の収穫です。また、新シリーズアニメのシーズン2が2020.1.9(木)19:30からNHK・BS4Kで放送されるというPRもありました。うれしいニュースですが、我が家ではBS放送は視聴できないのが残念であります。

 Ron.

展覧会見てある記 愛知県美術館「地球★爆」など

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 「史上最大級(200m超)絵画出現!」というキャッチコピーに惹かれて愛知県美術館で開催中の「地球★爆 Earth Attack 10人の画家による大共作展」(以下「本展」)を見てきました。

◆「地球★爆」とは何?

中日新聞の記事(2019.11.15付「Culture」欄)によると、プロジェクトを主導したのは岡本信治郎氏で、143点の作品すべてをつなぐと全長240メートル。きっかけは2001年の米中枢同時多発テロ。岡本氏はこの衝撃を東京大空襲に重ね合わせ、知人作家らに共作を呼び掛け、18年かけて完成したとのこと。つまり、「完成したばかり」の作品を展示しているのです。

◆展示室の様子は?

通常は展示室1にある入口が、本展では展示室2にあります。作品数が多いため、作品リストはタブロイド版8ページというボリュームです。「地球★爆 第1番」から「地球★爆 第11番」までの作品番号とタイトルだけでなく、図版、作品解説、会場マップまでも印刷されています。会場マップでは展示室1、2が10の小部屋に区切られ、基本的な順路は、小部屋の壁に沿って右から左へと見るよう動き、小部屋を一周すると次の小部屋に移動。全ての作品を見終わったら、プロジェクトに参加した作家個人の作品を展示している展示室3に移動するというものです。確かに、全長240メートルもの作品を一直線に展示することは不可能ですよね。作品リストには「お好きな順にご覧いただいても差し支えありません」との記述もありました。

◆描かれていたものは?

2001年の同時多発テロに触発されたプロジェクトですが、空襲などによる破壊をストレートに描いた作品はありません。原爆をテーマにしたと思われる「地球★爆 第3番」の3-01《ダブルパラドクスⅠ》は広島に投下された”Little Boy”を時限爆弾に見立てた作品で、3-10《ダブルパラドクスⅡ》は長崎に投下された”Fat Man”とアメリカ国防総省「ペンタゴン」を組み合わせた作品。3-07《植物的要素=ピカドン図》は、花火と桜吹雪を組み合わせたような作品でした。また、東京大空襲をテーマにしたと思われる「地球★爆 第10番」10-2、10-3《大時計・上野地下鉄ストア》については「大時計とパチンコをダブらせる。パチンコ玉をめぐらせる渦巻き状の大音響を類推したのだ。(略)描きたかったのは、東京のブリキ玩具化。ミニチュアとしての不在都市だ」との解説がついていました。「描かれたものから類推されるイメージを、頭の中で様々に組み合わせる」というのがこの大作の鑑賞法のようです。知的で綺麗な作品群でした。

◆プロジェクトに参加した作家個人の作品もあります

展示室3に入ると、天井から無数の黒い紐が垂れ下がっており、気味悪い思いをして通り抜けました。作品リストを見ると、大坪美穂《黒い雨》。「黒い雨は、核兵器の炸裂や原子炉事故等の核爆発で生じた、放射性物質と煤などが強い上昇気流に乗って上空に達した後、雨となって落下したもの」という解説がついていました。道理で気味が悪かったわけです。

◆同時開催のコレクション展・「戦争の手触り」(展示室4~5)について

展示作品の中では、オットー・ディックスの『戦争』が強烈でした。第一次世界大戦の従軍体験を描いた、生々しい版画の連作です。彼の作品はナチスの迫害で「1937年の頽廃芸術展に展示。1938年には260点もの作品が公的コレクションから押収された」という解説がついていました。

◆小企画 岸本清子 メッセンジャー(展示室7)も見もの

岸本清子(きしもとさやこ)の作品は、名古屋市美術館の常設企画展「没後40年記念 中村正義をめぐる画家たち」(2017.10.7~12.3)と同美術館のコレクション展Ⅰ「名古屋のパフォーマンス-追悼 岩田信市と岸本清子」(2018.4.25~7.10)に続き、3年連続で出会うことができました。今回は、絵画だけでなくパフォーマンスの動画も出品されていました。

Ron.

三重県立美術館「ドービニー展」スライド・トークの要約

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 三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「シャルル=フランソワ・ドービニー展 印象派へのかけ橋」鑑賞の名古屋市美術館協力会ミニツアーに参加する前に、三重県美・地下1階の講堂で鈴村学芸員のスライド・トークを聴きました。下記は、その要約です。

◆スライド・トーク・「1870-71 ロンドン」 本日のスライド・トークのタイトルは「1870-71 ロンドン」です。1870年から1871年にかけて起きた事柄に絞ってお話します。シャルル=フランソワ・ドービニー(1817-187)は、フランスの第二帝政期(1852-70)に活躍した風景画家です。ポール・ドラローシュのアトリエで学び、1850年代に風景画家としての評価が高まりました。1870年にはロンドンに滞在し、モネとピサロを画商のポール・デュラン=リュエルに紹介しています。

本日のスライド・トークの主題は「ドービニーがどのようにしてモネとピサロをデュラン=リュエルに紹介したか」です。

1 時代背景

1870/7/19  フランスがプロイセンに宣戦布告

9月   ナポレオン三世がプロイセンの捕虜となり帝政廃止。共和国(臨時国防政府)樹立宣言

9/20~  プロイセンによるパリ包囲開始。深刻な食糧不足

1871/1/28 パリ降伏

2/26  仮条約。50億フランの賠償金、アルザス=ロレーヌの割譲

3/1   国民衛兵中央委員会が結成される

3/18  大砲事件(武装解除に対する市民の抵抗、蜂起) → ヴェルサイユへ政府が移る

3/28   パリ・コミューン宣言

5/21   ヴェルサイユ軍のパリ侵攻、市街戦の開始「血の一週間」 → 政府軍の勝利(5/28)

2 画家たちと1870-71

1870/7/19 フランスがプロイセンに宣戦布告

9/2   ナポレオン三世がプロイセンの捕虜となる → 9/4  第二帝政廃止

9/8   ポール・デュラン=リュエルがロンドンに向け出発

9/19  エドゥアール・マネ、ジェームズ・ティソはパリに残る

9月終り クロード・モネ ロンドンへ 家族と合流

10月  シャルル=フランソワ・ドービニー ロンドンへ

11月  フレデリック・バジール(1841-1890)がオルレアン近郊で被弾し、戦死

12月  カミーユ・ピサロがロンドンに到着

12/10  デュラン=リュエル、フランス芸術家協会初の展覧会をジャーマン・ギャラリーで開催

12/17  チャリティー・イベントとしてペル・メルで展覧会を開催。ドービニー、モネ出品

1871/1/21 デュラン=リュエルは、ピサロとモネが連絡を取り合えるよう取り計らう   二人はロンドンの美術館で出会う。ターナー、コンスタブルの風景画を鑑賞

5月   モネ、ロンドンを出発、オランダへ。フランスには秋に帰国

5/21  「血の一週間」始まる

5/28   「血の一週間」終結。ギュスターヴ・クールベはスイスに亡命

5月   ドービニーがロンドンを離れる

3 ドービニーの足跡をたどる

1870年10月 ヴィレールヴィル(注:バス・ノルマンディー地方)滞在中にパリ包囲の知らせを受ける。息子のカールは軍隊に、娘セシルと女婿カジミール・ラファン、弟ベルナールと妻、使用人とともにロンドンへ向かう。オテル・ド・レトワールに宿泊。

10/20   ウエスト・ケンジントンに家を借りる

11/2    デュラン=リュエルが画廊をオープン。作品を3点制作

ドービニーは《サリー・サイドから見たセントポール寺院》(1871-73)を描き「信じられないくらいの濃霧」と、ロンドンの濃霧に面食っています。モネも《テムズ川と国会議事堂》(1871)を描いています。現在は、いずれもロンドン・ナショナルギャラリーが所蔵しています。

4 デュラン=リュエルとクロード・モネの出会い

ドービニーは、1870年12月又は1871年1月にモネをデュラン=リュエルに紹介しました。 デュラン=リュエルは、1860年代にバルビゾン派の作品を扱い、1870年代は印象派の作品を扱う画商として画廊での個展を開催し、画家の医療費、絵具代、食費も援助しました。

モネは「デュラン=リュエルのお陰で餓死せずにすんだ」と日記に書いています。 また、ドービニーはデュラン=リュエル経由で、オランダの風景を描いたモネの作品《ザーンダムのザーン川》(1871)を購入しています。

5 モネとドービニー

モネとドービニーは1870年より前から、お互いに知り合っています。モネはブーダンへの手紙に「ドービニーの作品は、私にはとても美しく見えます」と書いています。

ドービニーは印象派の画家たちに極めて好意的でした。1868年のサロンで、モネ、ピサロ、バジールの作品を入選させ、1870年にはモネの入選が叶わず、コローと一緒に審査員を辞任しました。

◎アトリエ船について

 ドービニーは1857年にアトリエ小屋を取り付けた「ボタン号」を購入しました。モネも1873年にアトリエ船を入手。ドービニーは、アトリエ船で写生。移動手段でもありました。モネの場合、アトリエ船は移動手段というよりも絵を描く場所で、船を固定し腰を据えて油絵を制作しています。

◆普仏戦争と関係する柳原義達《犬の唄》の原型を紹介

 スライド・トークの最後に、鈴村学芸員から「当館の柳原義達記念館では、フランスのシャンソンにちなんだ柳原義達の彫刻《犬の唄》の原型を展示していますので、ご覧ください」と案内があり、歌手のテレザを描いたエドガー・ドガ《カフェ・コンセール(犬の歌)》(1876-77)の画像が示されました。(注:ドガの作品は、歌手の仕草が犬のように見えることから「犬の歌」と呼ばれたそうです。また、碧南市藤井達吉現代美術館で開催された「空間に線を引く」にも《犬の唄》というタイトルの作品が出品され、「《犬の唄》は、普仏戦争で敗れたフランス人の心情を歌ったシャンソンの題名です。抵抗する気持ちを持ちながらも、表面上、プロイセンに対しては犬のように従順さを示す、とフランス人の心情を歌ったシャンソンに託して、作家は第二次世界大戦の敗戦で破壊された人間像を表現しました」と解説がありました。なお、当日、柳原義達記念館に展示されていた石膏の原型は「空間に線を引く」に展示されていた作品の原型ではありませんでした)      

Ron.