巣ごもりの日々の読書ノート(再開)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

投稿:2020年11月29日

新型コロナウイルスの感染拡大を警戒して「巣ごもりの日々」を再開しましたので、最近読んだ雑誌の記事と書籍について書かせていただきます。

◆「名画レントゲン」(8)秋田麻早子 (週刊文春2020年12月3日号)

「両サイドの法則」が安定を生む グスタフ・クリムト「オイゲニア・プリマフェージの肖像」

 豊田市美術館のコレクション展「VISION」(12月13日まで開催)に出品の、花柄のドレスを着ている女性の肖像画について、著者は「この絵の場合、モデルが縦長の画に直立しているだけなので、画面下部に描きこみを「足す」ことで、主役を両サイドに繋いで固定し、下部が見た目の上で「重く」安定するようになっているのです」と、その構図を分析・解説しています。

ネットで画像を検索すると、確かに手首から下の背景には、画面の両サイドまで花が書き足されています。タイトルの「両サイドの法則」とは「画面の両サイドに何らかの形でつなげることでも、バランスがとれる」ということなのですね。

「オイゲニア・プリマフェージの肖像」は豊田市美術館で馴染みの作品ですが、次に行ったときはこの記事を参考に、じっくり鑑賞したいと思います。

◆中公新書 2569「古関裕而―流行作曲家と激動の昭和」刑部芳則 著(2019.11.25 初版発行)

NHKの連続テレビ小説「エール」は「古関メロディ祭り」で幕を閉じましたが、古関裕二は手塚治虫とも接点があったことを、この本で知りました。該当箇所を下記に引用します。

(前掲書 p.133~134)

戦争末期には日本初の長編アニメーションといわれる、子供向けの映画音楽を監修している。昭和20年4月に公開された松竹映画「桃太郎 海の神兵」である。映画に使われる歌の作詞はサトウハチローが行なっている。富士山の麓の村から出征した猿、犬、熊たちが、海軍陸戦隊落下傘部隊の隊長桃太郎のもとで訓練を受け、最後は「鬼ヶ島」への空挺作戦が展開されるという話である。(略)戦意高揚を図る部分もあるが、平和への夢や希望を持たせる雰囲気が随所に見られる。マンガの神様といわれる手塚治虫は、焼け野原となった大阪の映画館で封切り日に見ている。視聴した感想を「戦争物とは言いながら、実に平和な形式をとっている」、「天狗猿と手長猿と眼鏡猿が、三匹でコーラスをやるのがとても気に入った」と、日記に書いている。そして「おれは漫画映画をつくるぞ」と誓った。美しい古関の音楽は、手塚のアニメーションづくりに一役買ったのである。(引用終り)

Youtubeで『桃太郎 海の神兵』の動画を検索すると、映画のデジタル修復版の冒頭部を見ることができました。「海軍省後援」「昭和19年12月完成」「音楽監督 古關裕而」「作詩 サトウ・ハチロー」等の文字が並び、富士山麓の村を水兵姿の雉、猿、犬、熊が歩く牧歌的な場面が続きます。

Youtubeには、映画の冒頭以外のシーンも分割してアップされています。手塚治虫が「コーラスをやるのがとても気に入った」と評した「アイウエオの歌」を歌うシーンを始め平和なシーンが多いのですが、落下傘部隊が降下して、戦闘を行なうシーンは記録映画のようにリアルでした。

映画の外にも、手塚治虫と映画の脚本・演出を担当した瀬尾光世、映画評論家の荻昌弘の三人による座談会の映像もアップされています。座談会で、瀬尾光世は「海軍省から、平和な場面が多すぎると注意された」「海軍省から兵器の機密情報まで映画に写っている等のクレームを受け、その修正をするために映画の公開が遅れた」「『アイウエオの歌』は映画オリジナルではなく、南方の占領地の人々に日本語を教えるために、古関裕而とサトウ・ハチローのコンビが作ったもの」等と語っていました。

手塚治虫の誕生日は昭和3年11月3日なので、映画公開の昭和20年4月当時は16歳だったと思うのですが、既に「映画通」で、大人顔負けの映画評を書いていたのですね。

    Ron.

展覧会見てある記 愛知県美術館「古代エジプト展」など

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協力会から送付された資料の中に愛知県美術館「古代エジプト展」(以下「本展」)のチラシと2020年度第3期コレクション展の案内・出品リストが入っていたので、行ってきました。本展のチラシに「土日祝日・日時指定券(事前予約)」と印刷されていたので、予約不要の平日にしたのですが、入場券売り場には午前10時の開館を待つ数十人の行列。「入場券所持」でも十数人の行列ができていました。マスク着用で行列に並び、開館時刻到来で入場。先ず、手指の消毒。サーモカメラ映像のモニターを見ている係員さんから「どうぞ、お進みください」と、声を掛けられて会場へ。展示室入口で「出品リストはありますか?」と聞いたところ「申し訳ございませんが、今回は置いておりません。本展HPから印刷してください」との回答。リサーチ不足でした、残念。

◎第1章 エジプトを探検する

A ヨーロッパによるエジプトの探検

 最初に展示されていたのはロゼッタ・ストーン。ナポレオンがエジプト遠征から持ち帰ったものです。本物は花崗緑閃岩ですが、出品されていたのはプラスチック製。ロゼッタ・ストーンは3段に分れ、上段はヒエログリフ(神聖文字)、中段はデモティック(民衆文字)、下段はギリシア文字、上段と下段には白い点線で囲った文字列があります。当時のファラオはギリシア人のプトレマイオス(アレクサンドロス大王の後継者のひとり)なので、点線で囲まれたギリシア文字は“ΠΤΟΛΕΜΑΙΟΣ”(ラテン文字表記=PTOLEMAIOS)だと思ったのですが、“ΠΤΟΛΕΜΑΙΟY”と読めました。《ツタンカーメン王の倚像(いぞう)》(新王国時代・第18王朝、前1330年頃)は、なぜか頭部が欠けています。10月1日付け中日新聞に写真が載っていましたね。

B ライデン国立古代博物館によるエジプトの発掘調査

 《円筒形壺》(初期王朝時代、第1王朝、前2900~2730年頃)は美しい乳白色のアラバスター(方解石)の壺。どうやって石を削ったのでしょうか?《椀》(後期メロエ時代、2~4世紀)は土器。《コプト十字架の断片》(古ヌビア時代、8~15世紀頃)は青銅製で、十字架の4本のうち1本が欠けています。当たり前ですが、キリスト教伝来以降の品物です。なお、コプトはアラビア語で「エジプト」を表すとのことです。

◎第2章 エジプトを発見する

A 古代エジプト史の概要

 《ワニの描かれた椀》(先王朝時代、ナカーダ期、前3750~3650年頃)は彩色土器、エジプトが統一される前の品物です。《クウと家族の供養碑》(中王国時代、第12王朝、アメネムハト2世の治世、前1878~1843年頃)は石灰岩製の四角い碑。人物と供物は浮彫で、ヒエログリフも彫られています。《タネトアメンのブタハ・ソカル・オシリス像》(第3中間期、第21王朝、前1076~944年頃)は木製の彩色像で、ヒエログリフは縦に書かれています。《イシスの像》(グレコ・ローマン時代、ローマ時代)は花崗閃緑岩の像で「姿勢はエジプト風、写実的な描写はギリシア・ローマ様式」という説明が付いていました。

(参考)古代エジプト史の歴史(2分間のビデオ+本展HPの内容)

 本展で上映されていたビデオの内容と本展HPの記事によれば、古代エジプトが存在したのは、紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝がローマに滅ぼされるまでの約3000年間。時代区分は、下記のとおりです。

○第1~第2王朝が「初期王朝時代」(前2900~2590年頃)

○第3~8王朝が「古王国時代」(前2592~2118年頃)で、ピラミッドが作られた時代

○第9~10王朝が「第1中間期」(前2118~1980年頃)で、混乱の時代

○第11~12王朝が「中王国時代」(前1980~1760年頃)で、流麗なスタイルが流行し後代にも影響を与えた時代

○第13~17王朝が「第2中間期」(前1759~1539年頃)で、再び混乱に突入し、第18~20王朝が「新王国時代」(前1539~1077年頃)で、ツタンカーメンは第18王朝のファラオでした

○第21~24王朝が「第3中間期」(前1076~723年頃)で、第25 ~30王朝と第2次ペルシア支配の時期が「後期王朝時代」(前722頃~332年)。「第3中間期」から「後期王朝時代」にかけては、リビア人や海の民、ヌビア人など、様々な外国勢力の侵入を受けた時代です

○アレクサンドロス大王の後継者のひとり=プトレマイオスがファラオとなったプトレマイオス朝から、プトレマイオス朝が滅ぼされ、ローマの属領となった時代までが「グレコ・ローマン時代」(前332年~後395年)で、ギリシアなどの影響を強く受けた美術様式が主流となった、とのことです

B 古代エジプト史の宗教

 古代エジプトは多神教で、上部が半円形の石灰岩に浮き彫りされた《イシスとオリシスが彫られた石碑》(新王国時代、第18王朝から第19王朝、前1300年頃)のような人間の形をした神だけでなく、《猫の像》《コブラ》《コウモリ》(いずれも青銅製、後期王朝、前722~332年頃)のような動物の神もいます。

◎第3章 エジプトを解読する

A 死後の世界

 古代エジプト人は「永遠の生」を信じており、パピルスに書かれた《ネスナクトの『死者の書』》(グレコ・ローマン時代、プトレマイオス朝、前304~30年)の解説には「来世への死者の旅路を案内する呪文の集成、通称『死者の書』と呼ばれる。この案内は(略)死者を守り、彼/彼女が来世における多くの障害を乗り越えるための手助けであった」と、書かれていました。《心臓スカベラ》(年代不詳)は、緑色の石で出来たフンコロガシで「古代エジプト人は、人間の思考をつかさどるのは心臓と考え、ミイラ制作時に体内に残した」という解説がついていました。《醸造所の模型》(中王国時代、前1980~1760年頃)は木製の副葬品で、11月3日付け中日新聞に「ビール醸造 詳細な工程」という表題の写真付き解説が載っていました。《護符とビーズの首飾り》(新王国時代、前1539~1077年頃)は9月30日付け中日新聞に写真が載っていました。

B 埋葬習慣の変化

 ミイラを納める棺、ミイラの制作方法、来世のための護符が出品されています。展示を見て知ったのですが、ミイラを埋葬する時は、ミイラの上に「ミイラ覆い」を載せて「内棺」に納め、「内棺」を更に「外棺」に納めたのですね。ミイラの棺はどれも大きくて、本展のハイライトのひとつです。詳細は本展HPをご覧ください。

《男のミイラの肖像》(グレコ・ローマン時代、ローマ時代、1~2世紀)は、ポンペイの壁画を思わせる肖像です。エジプトがローマの属領となった後もミイラの習慣はあったのですね。《ハビ神の護符》(年代不詳)は、11月4日付け中日新聞に「青色に『再生復活』願い」という表題の写真付き解説が載っていました。きれいな青緑色なのでトルコ石製かと思ったのですが、実は「ファイアンス」という、青色が特徴の焼き物でした。

◎第4章 エジプトをスキャンする

A 永遠の命:ミイラのベールを取る

展示の最後は、ミイラと、それをCTスキャンで透視したビデオで、本展の「もうひとつのハイライト」です。「科学の進歩はここまで来たのか」と、思いました。詳細は本展HPをご覧ください。

◎感想

本展チラシの「土日祝日・日時指定券」の説明に「館内での滞在時間は1時間半を目安にご鑑賞・ご利用いただくようお願いいたします」と印刷されていましたが、今回の鑑賞時間も1時間半。本展の鑑賞には「1時間半というのがちょうど良い頃合い」ということなのですね。

◎2020年度第3期コレクション展

協力会から案内・作品リストが送られてきたので、コレクション展も鑑賞しました。

・展示室8 《黒漆厨子 千体観音図貼付》愛知県文化財指定記念 木村三コレクションの仏教美術

今回は、仏教美術の工芸品が出品されていました。愛知県文化財に指定された《黒漆厨子》は厨子の内側に千体の観音像を描いた絵が貼り付けられたもの。外にも2点の黒漆厨子が出品されています。銅三鈷杵や銅独鈷杵、銅経筒、携帯できる仏像の《愛染明王香合仏》など、多数の仏具が並んでいました。

・展示室7 新収蔵記念かたかげり ―秋岡美帆とともに―

秋岡美帆(1952-2018)は「風景を撮影した写真を大きく引き伸ばした作品で知られる作家」との解説があり、仲田好江、島田鮎子、辰野登恵子の作品も出品されています。

・展示室6 クリンガーと「ブリュッケ」 ―令和元年度新収蔵作品を中心に―

クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》のほか、マックス・クリンガーやエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、エーリッヒ・ヘッケルの版画などが出品されていました。

・展示室5 私は生まれなおしている ―令和2年度新収蔵作品を中心に―

愛知県美術館のHPに「新型コロナウィルス感染拡大の影響により、作品発表の場が減っている作家・アーティストを支援するため、愛知県では、今年度から3年間、美術品等取得基金に1億円の特別枠を設け、愛知県美術館で若手作家の現代美術作品を重点的に購入します」と、書いてあります。展示室5は、令和2年度に購入した作品のお披露目ですね。展示室に入って正面奥にネオンサインで制作したような作品があったので近寄ってみると、横山奈美《Sexy Man and Sexy Woman》(2018)でした。今年の6月に豊田市美術館のコレクション展でみた《LOVE》(2018)と同じ作者の作品です。遠目にはネオンサインの作品に見えますが、実は油絵でした。水戸部七絵《I am a yellow》(2019)は、大量の油絵具を盛り上げた塑像のような油絵。山田七菜子《海みずから泳ぐ海》(2012)は、青く塗られた大画面の中に赤が点在する作品。本山ゆかり《画用紙(柔道_左)》と《画用紙(柔道_右)》は、ハリガネ細工の人形を描いたような作品。山下拓也《TALIONの子(TALION GALLERRYの壁を使って欄陵王の彫刻を制作する》(2014-15)は、題名のとおりギャラリーの壁面で制作した立体作品でした。

美術館が若手作家の現代美術作品を重点的に購入するのは、好い試みだと思いますね。必見です。なお、会期は「古代エジプト展」「2020年第3期コレクション展」のいずれも、12月6日まで。

Ron.

読書ノート 『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)など

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豊橋市美術博物館で「手塚治虫展」が11月23日までの会期で開催されているので、手塚治虫を始めとする戦後まんがに関する書籍を2冊ご紹介します。

◆『トキワ荘と日本マンガの夜明け』(芸術新潮2020年11月号の特集)

 皆さんご存知のとおり「トキワ荘」は、手塚治虫を始めとするマンガ家たちが住んだ木造2階建てのアパートです。特集には2020年7月にオープンした豊島区立トキワ荘マンガミュージアムを紹介するグラフ「ようこそ! トキワ荘マンガミュージアムへ」のほか、「トキワ荘 居住期間年表」「トキワ荘の青春」「黎明期のマンガ進化論」「水野英子と『少女マンガ』誕生」「トキワ荘こぼれ話」「マンガ家たちのそれから」など、読み応えのある記事がひしめいています。

○トキワ荘 居住期間年表

主なマンガ家の居住期間は次のとおりです。手塚治虫=昭和28年1月~29年10月、藤子・F・不二雄/藤子不二雄A=昭和29年10月~36年10月、石ノ森章太郎=昭和31年5月~36年12月、赤塚不二夫=昭和31年8月~36年10月、水野英子=昭和33年3月~10月。このうち、藤子不二雄の二人は手塚治虫と入れ替わりに入居。また、水野英子はトキワ荘に住んだ唯一人の女性マンガ家です。7か月入居した後、故郷の下関に戻りますが、また上京して「少女マンガ」のパイオニアになります。

○絵物語 「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部

11のエピソードで構成されています。①「ジャングル大帝」最終回、藤子A感涙のアシスタント、⑥手塚治虫行方不明?「ぼくのそんごくう」代筆事件、⑧紅一点、水野英子来る!⑩赤塚不二夫がギャグマンガでついにブレイク!など、エピソードのタイトルを読むだけでも興味津々です。

○黎明期のマンガ進化論 文:中条省平

「戦後日本マンガは手塚治虫とともにはじまったといっても過言ではないでしょう」という言葉で始まります。「『新宝島』の衝撃」という章では、手塚治虫の『新宝島』(1947刊行)を見て藤子不二雄A(安孫子素雄)が発した「これは映画だ。紙に描かれた映画だ」という驚きの言葉が紹介され、「後にトキワ荘に集まる藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫のマンガ人生の軌跡は、手塚治虫のマンガとの出会いから始まったのです」と続けています。また、「卓抜な石ノ森のセンス」という章では「いちばん最初に独創的なマンガ表現に踏みだしたのは、4人のなかで最年少の石ノ森章太郎でした。(略)石ノ森のスタイルの唯一無二の特色が鮮やかに表れたのは、意外なことに少女マンガのジャンルにおいてでした」と、書かれています。

○水野英子と「少女マンガ」誕生 構成・文 図書の家

 筆者は「恋愛を描くことがタブーとされていた少女マンガ黎明期、ロマンティックな恋愛を最初に持ち込んだのは水野英子である。(略)人と人の関係性や繊細な感情の機微を描くことを重要視する、今ある少女マンガの原型を、1950年代末にすでに完成させていた功績は高く評価されるべきである。(略) 69年からスタートした「ファイヤー!」は、その当時世界を席巻していたロック、ヒッピー・ムーブメントを描き、社会問題も色濃く反映した作品で、同性愛にも深く切り込んでいる。余談だが、そうした水野作品を読みながら育ち、強く影響されマンガ家を志した、いわゆる“花の24年組”と呼ばれる主な作家たちがデビューしたのは、実にこの69年前後である」と、その功績をたたえています。

○ミニコラム トキワ荘こぼれ話

「⑧他にもあったマンガ家コミュニティ」で紹介されるコミュニティは先ず、トキワ荘が一杯になった頃に上京した松本零士に、ちばてつや、牧美也子、トキワ荘を出た後再び上京していた水野英子ら女性マンガ家も加わった「本郷グループ」。次に、手塚・トキワ荘的なストーリーマンガとは一線を画す一派をなした、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを等の劇画制作集団「劇画工房」です。

○エピローグ マンガ家たちのそれから

「早すぎた死」という章が切なかったですね。「平成元年(1989)2月、手塚治虫が亡くなった。胃がんだった。(略)手塚の最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」だったという。平成8年(1996)9月には、藤子・F・不二雄が仕事場で倒れ、その3日後に死去。石ノ森章太郎は、平成10年(1998)1月に亡くなった。手塚と石ノ森は60歳で、藤子Fは62歳だった。若い頃から徹夜は当たり前で、無理に無理を重ねて、膨大な量の仕事をこなしてきただろうか。あまりにも早すぎる死だ」と書かれています。本当に「もう少し生きていてほしかった」と、思いました。

◆『まんがでわかる まんがの歴史』大塚英志 角川書店 2017年11月4日発行

 「まんが日本の歴史」などの「学習まんが」と同じような「日本まんがの歴史書」です。近所の図書館で借りてきました。以下は、面白いと思った内容です。

「日本型のまんが」とは

著者は、戦後日本まんがのキャラクターについて、①額や目や鼻や口や耳の各パーツ(「記号」)を組み合わせる「描き方」(「ミッキーの書式」)をしている、②ミッキーマウスは「記号」の組み合わせなので、ガケから落ちても死なないし、成長しない。しかし、戦後日本のキャラクターは「ジャングル大帝」に登場するレオのように成長するし、死ぬこともある、③リアルな身体を持っているので、心があり、思い悩むことも可能という、三つの特徴があるとしています。

また、このキャラクターに「映画的手法」と「ストーリー」が組み合わさって「日本型のまんが」になる、とも説明しています。

16歳の手塚治虫少年のノートの中で戦後まんがは生まれた

著者は「映画的手法は、戦争中のまんがに文化映画が侵入する過程で成立し、それを手塚が長編アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て、ノートに描いた習作『勝利の日まで』に持ち込んだのであって、誰か個人の発明というわけではない(略) 「新宝島」で映画的手法が「発明された」という説は否定されるが、この作品に衝撃を受けたまんが少年たちが多数いたことは重要」と解説。藤子不二雄Aの『まんが道』や自伝を引用して、その衝撃の大きさを書いていました。

少女まんがについて

著者は「第5講 ミュシャと与謝野晶子から少女まんがは生まれた ―アール・ヌーヴォーと『明星』の挿絵―」で、「少女まんがの絵。実はその起源は「外国」にあるのです。それがミュシャに代表されるアール・ヌーヴォーの「絵」です。ただ、この「絵」によってもたらされたものが、まんがの様式と最終的に結びついていくのは戦後少女まんが史のことです。しかし始まりは明治にあります!」として、一条成美が雑誌『明星』誌上で晶子の詩に付したイラストや『明星』の表紙などを紹介しています。この内容は、同じ著者の角川新書「ミュシャから少女まんがへ」(2019年7月10日発行)にも書かれていますが、まんがによる解説の方が、感性に訴えるので分かりやすいと感じました。

◆最後に

 「手塚治虫展」の年表には、手塚治虫が「ジャングル大帝」の連載中に東京へ進出し、トキワ荘に住んだことが書かれていました。また、「映画的手法」「ストーリーマンガ」についても、詳細な解説がありました。とはいえ「手塚治虫展」では図録が見当たらなかったので、上記の2冊は「手塚治虫展」で知った内容を更に深めたり広げたりするのに、とても役立ちました。

 蛇足ですが、豊橋市美術博物館の「手塚治虫展」・玄関ホールでは、100人に近いキャラクターが来館者をお迎えしているそうですよ。

    Ron.

展覧会見てある記 豊田市美術館のコレクション展 第2幕

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豊田市美術館(以下「豊田市美」)開館25周年記念展の第2幕が始まったので、行ってきました。第1幕のテーマは「光について/光をともして」でしたが、今回のテーマは「DISTANCE いま見える景色」。展覧会は5展示室から第8展示室までを使った「豊田市美術館25年のあゆみ―展覧会ポスターとコレクション」と、第1展示室から第4展示室までを使った「距離のたのしみ―所蔵作品にみる遠近の感覚」の2つで構成され、2階通路でも特集展示「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUTUS こざかほんまち」を開催しています。

◎「豊田市美術館開館25周年のあゆみー展覧会ポスターとコレクション」

 1階の第8展示室に入ると、最初に展示されていたのはコロマン・モーザー《花入れ》(製作1904;→1724)とヨーゼフ・ホフマン《フラットウエア・サーヴィス》(製作1904:ナイフ、フォークのセット)。続いて、マルセル・ブロイヤー《ワシリーチェア》(デザイン1925;→117)、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ《アームチェア(MR534)》(デザイン1927;→352)などの名作椅子も展示。前者はオーストリア(ウィーン工房)、後者はドイツ(バウハウス)のデザインですが、オランダのデ・スティルに参画したヘリット・トーマス・リートフェルト《ベルリン・チェア》(デザイン1923、再製作1958;→1794)の展示もありました。蛇足ですが《ワシリーチェア》は名古屋市美術館のロビーに置かれており、来館者は自由に腰掛けることができますよ。

ワシリーチェア

次に目を引いたのが、プラスチックの破片を虹のように散りばめた、トニークラッグ《スペクトラム》(1979;→1737)。2011年に開催された「Play / Pray あそぶ美術、おもう美術」に出品された作品です。森村泰昌《なにものかへのレクイエム(創造の劇場/ヨーゼフ・ボイスとしての私》(2010)は、デュッセルドルフ芸術アカデミーで講義しているボイス(?)に扮した作品。豊田市美術館では来年、「ボイス+パレルモ」の開催を予定しているので出品したのでしょうか。先日見た、ゲルハルト・リヒターをモデルにした映画『ある画家の数奇な運命』の講義シーンを思い出しました。

「1億1000万円で購入」と新聞報道のあった奈良美智の大きな(220×195cm)作品《Through the Break in the Rain》(2020)は第8展示室にあり、その左の床には同じ作者の人形《Girl on the Boat》(1994;→11267)も出品されています。第6、第7展示室は、いつもどおり小堀四郎と宮脇晴・綾子の作品を展示。

2階に移動して「距離の楽しみ――所蔵作品にみる遠近の感覚」を鑑賞した後、第5展示室で目を引いたのがフジイフランソワの作品《鶏頭蟷螂図》(2008)《コブコブラ》(2008)《桃太郎》(2007;→17675)の3点です。遠目には「明治の日本画?」と思ったのですが、展覧会ポスターには「綯交(ないまぜ)-remix- フジイフランソワ、いったいこやつのアートはいかに。2008.04.22-06.27」という文字が印刷されています。家に帰って豊田市美術館HPで「過去の展覧会」を検索すると「名古屋在住のコテコテの日本人でありながら、フランソワという男の名を語る女絵師、フジイフランソワ」という解説がありました。摩訶不思議な作品です。また、黒田辰秋《拭漆家具セット》(1964;→6986)は、とても立派なもの。岸田劉生の《自画像》(1913→4773)《麗子洋装之図(青果持テル)》(1921;→462)も出品されています。

黒田辰秋の家具

◎「距離のたのしみー所蔵作品にみる遠近の感覚」

 2階の第1展示室に入ると、アルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの胸像》(1954;→1291)が展示され、その向こうには若林奮の作品が「これでもか」というほど並んでいます。3階の第2展示室には松江泰治の写真などが、第3展示室には中西夏之、設楽知昭の作品などが、第4展示室には河原音温の「Todayシリーズ」などが並んでいます。抽象的な作品が数多く並んでいるなかで、山本丘人の日本画《海の微風》(1936;→7658)を見つけた時は、思わずホッとしました。

◎「岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS こざかほんまち」

 2階の廊下には、コロナ禍のなかで岡﨑乾二郎がアトリエに籠って集中的に描いた150点を越える絵画シリーズ「TOPICA PICTUS」の中から10点が展示されています。作品リストはありませんが、作品ごとにリーフレットが印刷されケースに入っているので、自由に持ち帰ることができます。

◎最後に

 年間パスポートを購入しようとしたのですが「現在は販売していない」との回答なので、観覧券を購入して展覧会を鑑賞しました。豊田市美術館の全館と高橋節郎館を見て300円ですから「とてもお値打ち」ですよ。

 家に帰ってから作品リストを読み返し、作品リストのコレクション・オーディオガイド番号(上記「;→」の後に記載)を豊田市美術館HPで入力して音声ガイドが聞けることを知りました。「利用の際は当館Free Wi-Fi(Museum_Toyota_Free_Wi-Fi)をご活用ください」とのこと。音声ガイドを聞くときはイヤホンをお忘れなく。

Ron.