展覧会見てある記 豊田市美術館のコレクション展+α

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豊田市美術館(以下「豊田市美」)は、岡崎乾二郎展ミニツアー以来4か月ぶりの訪問。受付の人はマスクとフェイスガードを着けているだけでなく、“オカザえもん”みたいに終始無言。パネルに印刷した文字で、メッセージを伝えてくれます。年間パスポートを提示すると、「休館に伴う年間パスポートの有効期限延長について」というプリントを渡され、有効期限が2か月延長されていたことが分かりました。

今回、お目当ての展覧会は「開館25周年記念 コレクション展 VISION part1 光について/光をともして」と「常設展」「久門剛史 らせんの練習」「コレクション:電気の時代」の4つです。

◎1階・第8展示室「開館25周年記念 コレクション展 VISION part1 光について/光をともして」

 最初に見たのは、玄関を入って右の第8展示室。「開館25周年記念のコレクション展 VISON」 の第1回「光について/光をともして」です。チラシには「身近な街中や遠く宇宙の光と、わたしたちそれぞれの内なる光とが照応するような作品を紹介します」と書いてありました。

 展示の最初は、奈良美智《Dead Flower》(1984)。電球、ノコギリ、切られた花、”Fuck you”と書いたTシャツを着た少女を描いた刺激的な作品です。一方、同じ作者の《Dream Time》(1988)は穏やかな作品。入り口で配られていた小冊子を家に帰って読むと、《Dream Time》が豊田市美に収蔵される前に長らく展示されていた藤ヶ丘の喫茶店「木曜日」のオーナーによる「奈良さんの絵」が載っていました。この小冊子、「片手に展覧会を鑑賞」は、お勧めできませんが、家に帰ってからも余韻を楽しむことができるので必ずゲットしてください。

 村岡三郎《熔断-17,500mm×1,380℃》(1995)が展示室を横断するように横たわっています。タイトルどおり、17.5メートルの太い鉄棒を1,380℃のガスバーナーで熔断したレールを思わせる作品で、ベースとなる鉄板には熔けた鉄の塊がこびりついていました。「どうやって運んだのだろう」と心配になるほど重く、長い作品です。小冊子には、制作に立ち会った画廊主による「村岡さんの1995年の熔断のこと」が載っていました。

 横山奈美《LOVE》(2018)は、「ネオンサインか?」と思える作品。近寄ってみると”だまし絵“でした。でも、面白い。《LOVE-私のメモリーズ》という額装の鉛筆画35点?も、一緒に展示されています。

 マリオ・メルツ《明晰と不分明/不分明と明晰》(1988)は、透明なドームに色々なものがゴチャゴチャと付いている作品。原題は(Chiaro oscuro / oscuro Chiaro)。イタリア語のようです。小冊子には元豊田市美術館副館長による「マリオ・メルツの思い出」が載っていました。

◎1階・第6、第7展示室「常設展」小堀四郎、宮脇晴・綾子

 いつ来ても、この場所には小堀四郎と宮脇晴・綾子夫妻の作品が展示されています。現代美術ばかりを見て緊張気味だったので、気持ちを落着かせるには丁度よい時間と空間でした。

◎2~3階・第1~第4展示室「久門剛史 らせんの練習」

 3月24日付・杉山博之さんのブログや4月4日付中日新聞・生津千里記者の記事がありますので今回は割愛。ここでは、第1展示室の《Force》を見て、今回のコロナ禍の惨状を連想したことを記しておきます。

◎2階・第5展示室「コレクション:電気の時代」

 入ってすぐの壁に岸田劉生《代々木付近》(1915)。岸田劉生展でも見た作品ですが、ここでは「電柱=電気の時代の到来」との解説がありました。クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》(1913/14)やエゴン・シーレ《カール・グリュンヴァルトの肖像》(1917)も「電気の時代の画家」という紹介でした。そういえばエゴン・シーレの死因はスペイン風邪。企画時は意図しなかったでしょうが、約100年後にコロナ禍の中で彼の作品を鑑賞するということに、何かの縁を感じます。

牧野義雄《チェルシー・エンバンクメント》(1909/10)は電気を使った青白い街灯が主役の作品。《ヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアム》(1912)にはオレンジ色のガス灯も描かれています。新美南吉の童話「おじいさんのランプ」を思い出しました。

ペーター・ベーレンスがデザインした電気暖房機や電気扇風機、電気湯沸器のコレクションも必見です。

◎最後に

 今回は「コレクション展の時でもないとお披露目されない作品が展示されているな」と、強く感じました。今見逃すと、しばらくの間、鑑賞できないかもしれませんよ。4つの展示、いずれの会期もコロナ禍の影響で9月22日まで延長しています。ただし、豊田市美は6月22日から一旦、休館。再開は7月18日とのことです。梅雨を避けて、7月以降に鑑賞する方が良いでしょう。

 なお、作品の一部は豊田市美のHP(https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/)で画像公開中。

Ron.

展覧会見てある記 豊橋市美術博物館「ゆったり、美術館散歩」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

豊橋市美術博物館(以下「美術館」)の訪問は二週間ぶり。今回の目的は、コレクション展「ゆったり、美術館散歩」(以下「本展」)。コロナ禍の影響により、企画展「山水に遊ぶ」を本展に変更して開催されました。受付で「豊橋市にお住まいですか?」と聞かれ「いいえ」と答えると「観覧料は400円です」。「豊橋市民なら?」と聞くと「70歳以上の方でしたら、200円です」と答えてくれました。

◎1階・第1展示室「日常にあるやすらぎ」で中村正義《空華》(1951)に再開

 本展は、私たちの身辺や日常を主題とする作品を集めた第1展示室「日常にあるやすらぎ」の外「日本の風景を旅する」「世界をめぐる・世界で見出す」「手のなかにある旅―和歌・東海道・地図―」の4つで構成されています。第1展示室の入口には高柳淳彦《半蔵御門の朝》(1934)。画面手前に、おかっぱ頭の女の子を乗せた手押し車を押す、下駄ばきで和服姿の女性。桜田濠(半蔵濠?)の奥には半蔵門。近くには英国大使館もある都会のど真ん中ですが、半蔵門周辺は当時から緑豊かな場所だったのですね。廣本季與夫《緑陰・世田谷農婦》(1949)は木陰で雑誌を読む野良着の女性と、藁束のうえで昼寝する女の子を描いた作品。「終戦直後の世田谷は田舎だった」と再認識しました。中村正義《空華》(1951)には「第7回日展無鑑査出品」との解説。2011年に名古屋市美術館(以下「市美」)で開催された「日本画壇の風雲児 中村正義 新たなる全貌」のチラシやポスターに使われた作品で、9年ぶりの出会いでした。三岸節子《室内》(1943)はマティス風のおしゃれな作品で、鬼頭鍋三郎の作品も《午後》(1935)が展示されていました。

◎第2展示室「日本の風景を旅する」

 入口には岸田劉生風の《田舎の道》(1919)。「作者の横堀角次郎は草土社の同人」という解説を読んで納得。田植え直後の水田を描いた鈴木睦美《吉良の里・初夏》(1985)は梅雨時の季節感たっぷりです。中村正義《斜陽》(1946)は第2回日展に初入選した作品。田原の町はずれを描いた細井文次郎《汐川》(1929)ですが、川に浮かんでいるのはいずれも帆掛け船。「当時は帆船が主流だった」と実感しました。

◎特別展示室「手のなかにある旅―和歌・東海道・地図―」

 特別展示室には和歌の写本や東海道の絵地図、屏風、地球図などが展示されています。歌川広重の《吉田》(1833頃)や《二川》(1833頃)等の浮世絵もあります。

◎第3展示室「世界をめぐる・世界で見出す」

 入口にはデュフィ風の坂口紀良《コートダジュールのテラス》(1997)。赤や黄色などの原色が目に飛びこみ、南欧リゾート地の日差しを感じます。「人」という文字で埋め尽くされた、松井守男《もう一つの自然》(1986)は面白い表現だと思いました。

スペイン・アンダルシア地方を描いた三岸節子《グアディスの家》(1988)は、赤と白が印象的な作品。今年、市美の常設展で見た《雷がくる》(1979)を思い出しました。市美関連といえば荒川修作《図式のX線》(1969)や桑山忠明《無題》(1968)も展示されています。

◎2階の常設展も

 以前、ブログで紹介した2階の常設展は、第2常設展示室「芳年と、同時代の浮世絵師たち―東海道名所風景―」も含め全て、会期は本展と同様に7月12日まで。こちらは入場無料なので「ゆったり、美術館散歩」とあわせて鑑賞することをお勧めします。見逃す手はないですよ。

◎最後に

 東海地方は梅雨入り、外出が億劫になる季節になりました。美術館のコレクションをゆったりと鑑賞するのは、精神衛生にも良いことだと思います。豊橋市美術博物館では長らく休業していた「ネオ こすたりか ミュージアムカフェ」も再開し、大勢の人がソフトクリームやコーヒー、昼食などを楽しんでいました。

Ron.

これって絵画なの? 超リアルと面白かたち展

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:members

岡崎市のおかざき世界子ども美術博物館(以下「子ども美術館」)で開催中の「これって絵画なの? 超リアルと面白かたち展」(会期:5/26~7/12)を見てきました。

◎路線バスと徒歩で子ども美術館へ

子ども美術館へのアクセスは、自家用車か名鉄名古屋本線美合駅(急行停車)からタクシー利用がお薦めですが、今回はJR岡崎駅から路線バスを利用。JR岡崎駅のバスターミナル3番乗り場から「市民病院方面ゆき」のバスに乗車し、「西美合」で降車。「ほたる橋南」の交差点を右折して東に進み、案内看板に従って歩き、子ども美術館に到着。バス停から約2km。運動不足解消には程よい距離ですが、熱中症予防のためには日傘か帽子、水筒かペットボトルが必需品です。ちなみに、名鉄の美合駅からは3kmの行程です。

◎超リアル(=絵そらごと?)な上田薫の作品

 子ども美術館の玄関で検温。36.4℃で無事通過、手指を消毒、受付で500円支払い、企画展示室へ。超リアルで巨大な作品《ハンバーガーA》(1974)がお出迎えです。この作品、リアルなのですが、何故か違和感があります。振り返って説明を見ると、次のような言葉が書いてありました。

「絵そらごと」っていう言葉があるとおり絵は人間の錯覚を利用したイカサマなんです。はじめは抽象画、行き詰まると目の前のものを描くだけですむというリアルな絵を描いた。今はリアルじゃなくて抽象。生卵が割れて、中から黄身や白身が落ちてくる絵が描かれていますが、そんな瞬間は目で追うことはできません。その瞬間を写真に撮って、プロジェクターでカンヴァスに投影して輪郭を取り、色は写真を見ながら描いています。身の回りのものを描いていても、一瞬と永遠、現実と空想という全く逆の世界を一枚の絵で表現するかのようです。

過去に「弾丸がトランプを射抜く瞬間」や「水で一杯になったゴム風船が割れる瞬間」等の高速度撮影写真を見た時には「え! こんな写真が撮れるんだ」と、びっくりしたものの、違和感はありませんでした。ハンバーガーや生卵に対する違和感の原因は、作者の仕掛けだったのでしょうか。

《あわA》(1979)等の「あわ」のシリーズや《シャボン玉B》(1979)等の「シャボン玉」シリーズには撮影する作者が写りこんでおり、ひとひねりした「自画像」のように見えるためか、違和感はありませんでした。第1展示室に出品されている《流れQ》(1996)等の「流れ」シリーズや《SkyA》(2000)等の「気象」シリーズにも違和感はありません。流れや入道雲、夕焼けなどは「モノ」ではなく「現象」として捉えているので、静止画を見ても動画を見ているような感じでした。

生卵は「一瞬と永遠が一枚に表現」しているので違和感が生じ、水の流れや成長する入道雲は、最初から動画として見ているので違和感が生じなかったのかもしれません。《アカンサスB》(2013)や《サラダE》(2014)については、グラフィック・デザインにしか見えなかったので、こちらにも違和感はありませんでした。

「作品を鑑賞するとはどういうことか?」を考えさせる作品が約100点展示されており、壮観でした。

◎世界の有名美術家10代の作品(収蔵品展)

次の展示室に展示されているパブロ・ピカソ19歳の作品《踊り子》(1901)《街の娘》(1901)はいずれも、わずかな輪郭線だけで立体感を出しており「これが19歳の作品か?」と思わせるものでした。ベルナール・ビュッフェ19歳の作品《風景(塔のある風景)》(1947)には、後の作品の萌芽のようなものが見られます。宮脇晴15歳の作品《母58歳の像》(1917)も同様に、大人になったからの作品を思い浮かべながら鑑賞しました。齋藤吾朗12歳の作品《三ヶ根山ロープウェイ》(1959)は「いかにも子供の作品」でした。

さすが「子ども美術館」。「世界の有名美術家10代の作品を見逃す手はない」と思いました。

◎面白かたち=元永定正の作品

カラフルで面白い形の版画30点が展示されています。上田薫の作品とは対照的に、全て抽象画。しかし、現実世界の欠片のようなものが随所に散らばっています。歪んだ方眼紙や階段、蓋、らせん、机の脚、パイプ、人の口とそこから吐き出される言霊(ことだま)のようなもの等、見れば見るほど想像力を掻き立てられます。

◎最後に

 「西美合」のバス停から「市民病院方面ゆき」のバスに乗れば、岡崎市美術博物館の収蔵品展(7/12まで、入場無料)を鑑賞することも出来たのですが、時間的な余裕が無くて断念しました。二週間ごとに担当学芸員が入れ替わり、三部構成でそれぞれがテーマを設けて展示品を入れ替える、というので「気になる展覧会」です。

Ron.