三重県立美術館 「シャルル=フランソワ・ドービニー展」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

三重県立美術館(以下「三重県美」)で開催中の「シャルル=フランソワ・ドービニー展 印象派へのかけ橋」(以下、「本展」)鑑賞の名古屋市美術館協力会ミニツアーに参加しました。参加者は12名。三重県美地下1階の講堂で鈴村学芸員(以下「鈴村さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

1 鈴村さんの解説(概要)15:00~15:45

◆本展の巡回先・構成について

 本展は、山梨・広島・東京・鹿児島・三重の5つの美術館を巡回する展覧会で、三重県美が最終会場となります。(注:詳しくは、山梨県立美術館2018/10/20~12/16、公益財団法人ひろしま美術館2019/01/03~03/24、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館2019/04/20~06/30、鹿児島市立美術館2019/07/19~09/01、三重県立美術館2019/09/10日~11/04です。)

 本展は「1章 バルビゾンの画家たちの間で(1830-1850)」「2章 名声の確立・水辺の画家(1850-1860)」「3章 印象派の先駆者(1860-1878)」「4章 版画の仕事」の4章で構成され、「1章」には同時代の画家たちの作品も出品されています。

◆シャルル=フランソワ・ドービニーについて

 シャルル=フランソワ・ドービニー(以下「ドービニー」)(1817~1878)はパリ生まれで、死去したのもパリです。彼が活躍したのはフランスの第二帝政期(注:1852~1870。ナポレオン三世が皇帝としてフランスを支配)で、スライドの《オワーズ川のほとり》(1865)のような、横長の画面に描かれた穏やかな川辺の風景を多く描きました。

ドービニーはバルビゾン派の画家ですが、バルビゾン村で描いた作品は多くありません。(注:本展の3章には「オーヴェールとオワーズ川周辺」というコーナーがあり、多くの作品が出品されています。バルビゾン村はパリの南東ですが、オワーズ川(セーヌ川の支流)は、パリの北東を流れています)

◎歴史風景画家としての成功はあきらめる

ドービニーは歴史画家のポール・ドラローシュのアトリエで学び、若手画家の登竜門「ローマ賞コンクール」の歴史風景画部門に二度挑戦し、失敗。アカデミックな画家としての成功はあきらめます。なお、ポール・ドラローシュは中野京子著「怖い絵」で有名な《レディ・ジェーン・グレイの処刑》(1833)の作者です。歴史画は、歴史上の物語の一場面を描いたもので「物語画」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。当時、歴史画は絵画の最上級に君臨していました。「歴史風景画」は、風景表現に主眼が置かれつつも、歴史画の要素も入っている絵で、ドービニーは《聖ヒエロニムス》(1840)を出品しています。

◎華やかなりし第二帝政期

歴史風景画家としての成功をあきらめたドービニーは風景画家をめざし、風景画をサロン(官展)に出品します。1850年代初頭に《ギリュの池》(1853)がナポレオン三世の目にとまり、買い上げられます。《ギリュの池》は現在、アメリカのシンシナティ美術館が所蔵しています。

 1850年代、30代から40代のドービニーは「水辺の画家」として画壇で地位を確立します。名声が高まりまる一方で、「筆づかいの粗さ」に対し「入念な仕上げがなされていない、未完成の作品」という批判がありました。ドービニーは、本物の風景が目の前に立ちあらわれるように、筆跡を残す描写をしたのです。

◎アトリエ船「ボタン号」

 ドービニーは1857年にアトリエ小屋を取り付けた「ボタン号」を購入しました。ボタン号の購入によって船の上から、水面スレスレの視点からの作品を制作することが可能になりました。本展ではボタン号の縮小模型を展示しているので、ご覧ください。また、ボタン号の実物大模型が航行する動画を三重県美のツイッターで、配信しています。(注:URLは、https://twitter.com/mie_kenbi)1868年には二代目のアトリエ船を購入し、川を下って海に出ることも可能になりました。初代のアトリエ船の名前は「ボタン(BOTIN)号」、二代目は「ボッタン(BOTTIN)号」。二つの船の名前は、微妙に違います。  

◎コローと知り合う

 1952年、ドービニーはドーフィネ地方のクレミューへの旅行でカミーユ・コロー(1796-1775)と知り合い、生涯の友となります。二人はパリのペール・ラシエーズ墓地に、隣同士で眠っています。

◎クロード・モネもアトリエ船を真似る

 クロード・モネは、ドービニーを真似て1873年にアトリエ船を購入しています。ただ、二人のアトリエ船の使い方には違いがあります。ドービニーは、アトリエ船を「移動手段」として有効活用しました。しかし、揺れがひどいので、船の上で油絵を制作することは難しかったと思います。一方、モネは自宅近くの水辺に船を固定して、船の上で油絵を制作しました。

◎ランス美術館からの出品

 名古屋市はランス市と姉妹都市提携をしていますが、本展ではランス美術館からの出品が多数あります。なお、ランス美術館は2019年9月から2023年末までリノベーション工事のため、休館中です。(注:出品リストで確認すると、ランス美術館の所蔵品はドービニー及び他の画家の作品を合せて27点でした。また、図録にはランス市長のメッセージが載せられ、カトリーヌ・ドゥロ=ランス美術館館長が「近代の風景画家、ドービニー」「ランス美術館コレクションにおけるドービニー」及び「年譜」を書いています)

◎ドービニー展の紹介アニメーションについて

 本展の入口で展覧会を紹介する7分間のアニメーションを上映していますので、ご覧ください。アニメーション監督は城井文(しろい・あや)さんで、三重インターネット放送局でも視聴できます。(注:URLは、http://www.pref.mie.lg.jp/MOVIE/l1002400001.htm です。)

2 自由観覧 14:45~

◆展覧会の紹介アニメーション

 紹介アニメーションの案内役は、「水辺の画家」にちなんで「カエル」でした。ドービニーの評価が高まったのは、パリが近代的な都市に変貌する中、郊外の豊かな自然への憧れが人々の間で広まったことが背景にあること。1860年代にサロンの審査員になって、印象派の画家を高く評価したこと。1870年にモネの作品がサロンに落選したことに抗議して、コローと共に審査員を辞職したこと。画商のポール・デュラン=リュエルにモネ・ピサロを紹介し、二人の窮状を救ったこと。ドービニーの死後、ゴッホが未亡人を訪ねて《ドービニーの庭》(1890)を描いたことなどを分かりやすく紹介していました。

◆展覧会の印象

想像していたよりも小さく、渋い色彩の作品が多いと感じました。当時、自宅に飾るには、これくらいのサイズ・色彩の方が落ち着くのかもしれません。渋めの絵が並んでいるのを見ると、印象派の作品の鮮やかな色彩に当時の人々が驚いたことが理解できます。ただ、多くの絵では、空とハイライトの部分の色彩は鮮やかです。晩年《ケリティ村の入口》(1871)はハッキリした色彩の作品でした。

鈴村さんから「筆跡を残す描写が批判された」という解説がありましたが、《果樹の花》(制作年不詳)《ブドウの収穫》(1863頃)の筆あとを残す描写は、印象派の作品のように見えます。      

解説してくださった鈴村麻里子さん、ありがとうございました

Ron.

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