長谷川利行展 食事会とミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor


名古屋市美術館協力会主催の食事会とミニツアーが開催され碧南市の大濱旬彩大正館(以下「大正館」)と碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。以下は、そのレポートです。
◆食事会
名鉄碧南駅前の大正館で開催された食事会は正午の開始。早めに大正館に到着した参加者は大広間に案内され、食事会の開始まで涼しく過ごすことができました。参加者は26名。予定通り正午に始まった食事会は、おしゃべりを交えながら前菜のゆでた落花生やメイン・ディッシュのメバルの煮魚などを楽しみ、午後1時過ぎにお開きとなりました。
ミニツアー開始まで、まだ一時間近くあるので、参加者は美術館の近所の見どころを求め二手に分かれて散策。一手が向かったのは清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)。清澤満之は真宗大学(現大谷大学)初代学長を務めた宗教哲学者。清澤満之が暮らした西方寺(さいほうじ)に併設(観覧料300円)されています。
もう一手は今年7月にオープンしたレストラン・カフェのK庵(九重味淋株式会社内)に向かいました。美術館西の横断歩道を渡り土塀に挟まれた路地を20メートルほど歩くと右に門があります。門の向こうにはお目当てのK庵。中に入ると、残念ながら満員。順番待ちをしないと席につけません。仕方がないのでK庵の隣にある「石川八郎治商店」を覗くと、本みりんや本みりんを使った芋けんぴ等の「本みりん関連商品」を売っていました。本みりん使用のジャムを買った参加者もいました。人気があったのは本みりん使用のソフトクリームとロールケーキ。350円のソフトクリームは本みりんの上品な甘さが素敵でした。

◆長谷川利行展ミニツアー
ミニツアーの参加者は35名と、多め。集合時刻の午後2時少し前に美術館の特任学芸員・北川智昭さん(以下「北川さん」)の案内で美術館の2階ロビーに向かいました。
北川さんは先ず美術館について紹介。美術館は商工会議所の建物を増改築したものであるため、天井高が低い、展示室が狭いなどの制約があるとのことでした。
北川さんは続いて長谷川利行(以下「長谷川」)について解説。概要は以下の通りです。なお、「注」は私の補記。

◎2階ロビーでの説明
長谷川は1891年7月9日に5人兄弟の3男として生まれる。本名は「はせがわ・としゆき」。歌人の出た家柄であり、本人も最初は歌人を目指して上京。1923年9月1日に関東大震災に遭遇。震災の経験を契機に「文字」から「絵」に方向転換した。当初から「専業の絵描き」を目指し「絵で食う」という覚悟だった。長谷川は美術学校で絵を学ぶことはなかったが、作品を二科会に出品。しかし、応援してくれる人は熊谷守一など数人に限られた。父の逝去で仕送りが途絶えたことなどから、ドヤ街暮らしとなる。アトリエを持っていないので、じっくり描くことはできない。そのため、30分以内に描く、その場で描いて絵を完成させる、というスタイルで絵を描き続けた。1940年、49歳で死去。胃癌だった。

◎Ⅰ 上京―1929 日暮里:震災復興の中を歩く
(注:展示室に移動し、主な作品を取り上げたギャラリートークが始まりました)
 長谷川は「あたらしもの好き」で最先端の東京を描いた。当時の最先端は電化。変電所や電線などを描いている。また、《地下鉄道》は当時最先端の地下鉄駅を描いたもの。「カフェ」も最先端の風俗。現在の喫茶店とは違いコーヒーだけでなくお酒も提供し、店によっては女給さんによるサービスもあった。最盛期には東京に1000軒ほどのカフェがあったという。《カフェ・パウリスタ》は「開運 なんでも鑑定団」で鑑定された作品。30分ほどで描いたと思われるが、エプロン姿の女給さんを活き活きと描いている。
長谷川は国産品ではなく、フランス製の絵の具を愛用していた。《汽罐車庫》はカドミウム・レッドというフランス製の絵の具をたっぷりと使った大作。《靉光像》に描かれた画家・靉光は長谷川を画家の先輩として尊敬していた。こうして見ると長谷川は似顔絵の才能が高いと思う。追加出品の《子供》は元「安藤組の組長」で映画俳優の安藤昇がモデル。安藤が子供の時に長谷川利行が絵を描いたということが確認されている。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その1)
長谷川の生き方を見ていると「お金がなかったからドヤ街を転々とした」というよりも、「都会のなかで異邦人、自由人として暮らす」という生き方をしたのだと思う。
第2章の絵からは「線」が出てくる。《女》は二科展の出品作。長谷川利行展の出品作品のなかで大きいサイズの絵は展覧会の出品作品。
長谷川は戸籍上「はせがわ・としゆき」だが、絵のサインは「TOSHIUKI HASEKAWA」と書いており、仲間内では「ハセガワ・リコウ」と呼ばれていた。
《熊谷守一像》はお世話になった熊谷守一を描いたものだが、あまり尊敬の念が感じられないように思う。熊谷守一の次女の熊谷榧(くまがい・かや)さんから「あるとき、長谷川利行が着物を濡らして熊谷の家を訪ねてきたので代わりの着物を貸してやったところ、いつまでたっても返しに来なかった。」というお話を聞いた。
《水泳場》は、震災復興の象徴で飛び込み台付きのプールを描いたもの。この絵に飛び込み台は描かれていないが、画面右に頭を下にして斜めに空中を飛んでいる人が描かれているので、飛び込み台の存在が分かる。
《カフェ・オリエント》は第1章の《カフェ・パウリスタ》とは作風が変わり、白いバックに色鮮やかな線で描いた作品。これ以降、長谷川の作品は明るいものになる。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その2)
(注:まだ美術館の2階ですが、ここから展示室が変わります)
写真は天城画廊で撮ったもの。天城画廊では2年間に何回も長谷川の個展を開催して多くの絵を売った。長谷川と画商の天城俊彦が一緒に写っており、壁に掛けられている絵は《浅草の女》。《花》《百合の花》は、花が活き活きしている。長谷川利行の描く花は一点一点違う。「一期一会」で描いているので、同じ絵は二度と描けないのだろう。(注:この部屋に展示されている《大根の花》の説明版に「名古屋市美術館蔵」と記されていました)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その1)
ガラスケースの中にヌードをまとめて展示。長谷川は会話をしながら絵を描いたのではないかと思う。真ん中の《青布の裸婦》をはじめ、どのヌードもモデルがリラックスしており、素直に描いている。《足を組む裸婦》は賛否が分かれる問題作。左脚を膝から曲げて右脚の上で組んでいる姿だが、右脚が体の真ん中から突き出ているように見える「解剖学的にありえない」作品。「解剖学的な正しさ」にとらわれずに見た印象を表現しようとしたので、こうなったと思う。《三河島風景》は「その場で描いた」というより「記憶に残っている所を描いた」のではないかと思う。

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その2)
(注:美術館1階北側の小部屋におけるギャラリートークです)
 この部屋には「かわいい絵」を集めた。入口を入って直ぐのところに展示の《ノアノアの少女》《ノアノアの少女図》《モナミの少女》は、いずれもカフェの女性を描いたもの。(注:ノアノア ”noa noa” はタヒチ語で「芳しい香り」。モナミ ”mon ami” はフランス語で「私の友達、私の恋人」)《ノアノアの少女》は異様に首が長いが、違和感はない。《ノアノアの少女》と反対側の壁に展示の《トルソーの女》は表情をうまくとらえている。
 長谷川の描く女性像は可愛くて魅力的だが、男性像は魅力的でない感じがする。(注:《天城俊彦像》は確かに顔が四角くて少し異様な感じがする絵ですが、2階に展示されていた写真と見比べると特徴をよく捉えていると思います。)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その3)
(注:最後の展示室、美術館1階南側の部屋におけるギャラリートークです)
 部屋の奥の壁に展示している《白い画面の人物》は2018年3月に発見された作品。一見、未完成のように見えるがサインがあるので完成作だと思われる。二科会に出品記録のある最後の作品ではないか。《白い画面の人物》は、とりあえず付けた無難なタイトル。二科会に出品した《道化師》ではないかという意見もある。これから調べるところであり、タイトルが変わる可能性がある。宗教画のような雰囲気を持っている。《男の顔(自画像)》は数少ない自画像の一つ。この部屋はお墓のような感じがする。
 長谷川は現在、注目されている作家。《白い画面の人物》のように、新しく発見される作品がこれからも出てくると思われる。

◎北川さんによる「締め」の挨拶
私のギャラリートークはこれで終わりです。引き続き長谷川利行展をご覧ください。
また、美術館の西には大谷大学の初代学長を務めた宗教哲学者を紹介する清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)と今年7月にオープンしたレストラン・カフェがあります。よろしければ、美術館の帰りにお立ち寄りください。

◆自由観覧
ギャラリートークの終了は午後2時35分頃。その後は自由観覧となりました。
 北川さんのギャラリートークでは触れていませんが、最後の部屋に展示されていた数点のガラス絵は小さなサイズでヒビの入ったものもありますが、発色が鮮やかで魅力的な作品でした。
                            Ron.

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

「エミール・ビュールレと大原孫三郎 東西の大コレクター」(後編)

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

◆プレ印象派と印象派について
マネは印象派に近い部分と、古典派に近いものを併せ持つ画家です。人々の生活をしっとりと描きました。ドガは印象派の仲間とされていますが、馬、踊り子などを描き他の画家達とは路線が違います。
印象派が登場した19世紀は市民社会が中心となった時代です。市民を相手にするということから、展覧会が画家と市民をつなぐ場所になりました。展覧会は、画家にとっては「訴える場所」、市民にとっては「見に行く場所」でした。「サロン」は政府主催の展覧会で、毎年開催されました。画家がサロンに出品しても審査に通らなければ、つまり入選しなければ展示されない。現代も同じですが、入選しなければ画家の発表する場所はありません。
1860年代、マネ、ルノワール、ピサロはサロンに入選したことがあります。しかし、作品に自己主張が入ると落選が続きました。そこで1874年に、マネ、ルノワール、ピサロたちはサロンとは別の自分たちのグループ展・「画家・芸術家組合展覧会」を開催しました。ルアーブルの港の朝日の印象を描いたモネ《印象、日の出》は、この展覧会に出品されました。ジャーナリズムは、この展覧会の新聞評の中で《印象、日の出》を揶揄して「印象派」と命名しました。「印象派」は悪口のタネでした。
印象派による展覧会は全部で8回開催されましたが、第3回か第4回からは自ら「印象派」と名乗りました。ピサロ、モネ、ルノワールは主に風景を、ドガは馬、踊り子、動きのある人物を描いています。ドガは晩年、目が悪くなって踊り子の彫刻を制作しました。
・大原コレクションのドガは《赤い衣装をつけた三人の踊り子》
舞台に出る前の踊り子を描いた作品です。
◎カミーユ・ピサロ《ルーヴシエンヌの雪道》
ピサロは印象派グループの中で最年長の1930年生まれ。モネは1940年、ルノワールは1939年。印象派展全8回すべてに登場するのはピサロだけです。
この作品は雪の道、木の影を描いています。ピサロは水を描かない「大地の画家」と呼ばれます。題材は道、林、農家で、それに人の生活が加わります。その土地の人々の社会生活を描いた画家です。
・大原コレクションのピサロは《りんご採り》
 第8回目の印象派展に出品した作品で、上から見下ろした視線で描いています。
◎アルフレッド・シスレー《ブージヴァルの夏》
 シスレーは「空の画家」、大気・空気の画家です。《ブージヴァルの夏》は、空が画面を覆っている明るい風景を描いた作品です。
・大原コレクションのシスレーは《マルリーの通り》
 広い空、道、建物を描いた作品です。
◎クロード・モネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》
 モネは春先のヒナゲシを良く描いています。フランスで5月に咲くヒナゲシの風景は色彩豊かなものです。もともとフランスは色彩豊かな国ではないので、ヒナゲシが咲く季節は、その期間は短いものの、見事な風景となります。
与謝野晶子の短歌「ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟 われも雛罌粟 (読み)アアサツキ フランスノノハ ヒノイロス キミモコクリコ ワレモコクリコ」は5月のヒナゲシ(Coquelicot) を歌ったものです。前年に渡欧した与謝野鉄幹の後から、シベリア鉄道を乗り継いでフランスに到着した晶子。彼女を夫・鉄幹がパリの駅で迎えてくれた時に詠んだ歌です。
(注:晶子は車窓から、モネのヒナゲシ畑のような風景を見ていたのでしょうね。ヒナゲシは虞美人草とも書きます。「虞美人草」は夏目漱石が職業作家として執筆した第1作の題名でもあります。美貌の女性、甲野藤尾さんが登場しますね。)
◎クロード・モネ《陽を浴びるウォータールー橋、ロンドン》
 ロンドンシリーズの作品です。モネは、サヴォイ・ホテルから見えるテムズ川に架かる橋、ウォータールー橋とチャーリング・クロス橋を何枚も描いています。霧の中の風景です。
◎クロード・モネ《ジヴェルニーのモネの庭》
 庭の中の風景です。モネは後半生ジヴェルニーに住み敷地の中に池を作って睡蓮を植え、庭には花を植えています。池には日本風の太鼓橋を置き、睡蓮の絵をいっぱい描きました。
◎クロード・モネ《睡蓮の池、緑の反映》
 オランジュリー美術館の睡蓮の部屋には、どこまでも広がる睡蓮の壁画が展示されています。
・大原コレクションのモネは《積みわら》と《睡蓮》
 《積みわら》はポプラ並木と積みわら、母子を描いた作品。《睡蓮》は児島虎次郎がモネのところに行って(モネは1926年まで存命)入手した作品です。なかなか「うん」といってくれないところを粘って、手に入れました。《睡蓮》は上から眺め下ろした画面の作品です。これは日本独特の視点です。西洋の風景画は、空と大地を地平線が区切るという構図が一般的です。《睡蓮》には水平線がありませんが、水面に映った空が水平線を暗示させます。
◎ピエール=オーギュストスト・ルノワール《夏の帽子》、《泉》
 ルノワールは風景画では、南画風の知友会の風景を描いていますが、もっぱら女性像の画家として知られています。《夏の帽子》は金髪とブルネット、白の衣装と赤の衣装の対比が美しい作品です。《泉》は裸婦を描いた作品ですが、アングルにも《泉》という作品があります。どちらも西洋の伝統に従って、泉の精を擬人化した絵です。
・大原コレクションのルノワールは《泉による女》
 これは泉の水を受け止めている座った裸婦の像です。三好達治は「仏蘭西人の使う言葉では母の中に海がある、僕らの使う文字では海の中に母がいる」と書いています。フランス語の母はmère、海はmer。発音は同じですが、母の方が一文字多いので「母の中に海がある」のです。脱線しましたが、「水と女性には縁がある」ということです。
 この作品は、大原孫三郎が、安井曾太郎などを通して、直接にルノアールへ制作を頼んだ作品です。
(注:三好達治の詩の出典は、詩集「測量船」所収の散文詩「郷愁」です。全文は以下のとおり。中央公論新社「日本の詩歌22 三好達治」に収録されたものを記しました。
  郷  愁
 蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴(き)く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。隣の部屋で二時が打つ。「海、広い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」)         

◆ポスト印象派の画家について=セザンヌ・ゴッホ
◎ポール・セザンヌ《赤いチョッキの少年》
 セザンヌは第1回目から第3回目まで印象派展に参加していましたが、次第に印象派から離れていきました。骨格のあるものを描く、つまり構築的な、物(山、建物など)がはっきりと分かる作品を描く画家です。
 《赤いチョッキの少年》はセザンヌの代表作です。彼は存在感を強く出そうとするので、動きのないポーズになります。モデルに向かって「絶対に動くな」と言ったのは有名な話です。この作品は赤、青、白のバランスが良くとれています。
 セザンヌは「20世紀芸術の父」と呼ばれます。彼の作風はやや新しいもので、ゴッホ、ゴーギャンとともに「ポスト印象派」に分類されます。
・大原コレクションのセザンヌは《風景》と《水浴》
 《風景》は周囲に塗り残しがあり、未完成の作品かもしれません。彼は作品を完成するのに時間がかかる人でした。それは、物の存在、画面の構築に苦労するからです。一つ一つの物を描くだけでなく、それを画面の中でどのように調和させるか考えながら描くので全体がまとまりにくいのです。そのため、しばしば四隅が塗り残されている作品を描いています。《風景》も四隅を塗り残した状態で画面全体のバランスをみて、「これで良し」としたのかもしれません。《水浴》は女性像のポーズの組み合わせを考えた作品です。
◎フィンセント・ファン・ゴッホ《日没を背に種まく人》と《二人の農婦》
 《日没を背に種まく人》はミレーの宗教的主題を引き継ぐ作品で、聖書に主題を取っています。ミレーと同様に「聖なるもの」を描きました。黄色い太陽は光背です。《二人の農婦》も同様に、宗教的主題の作品です。
・大原コレクションのゴッホ
 大原コレクションにもゴッホの作品は1点ありますが、真偽が怪しいのです。児島虎次郎による取集の後に購入したものです。ゴッホの作品には偽物が多いのです。

◆贋作について
 贋作、偽物という問題には微妙な事情があります。例えば、レンブラントは工房で作品を制作していたので、レンブラントの名前で仲間に描かせた作品や弟子に描かせた作品もあります。ルーベンスも同様で、大まかな構図はルーベンスが指導しているものの、工房で手分けして作品を制作しています。日本の俵屋宗達も工房で描いています。現代の作家は一人で最後まで仕上げることが普通ですが、工房で制作している作家の場合は、「贋作」と断定できない要素があります。
 アメリカのメトロポリタン美術館で「Rembrant or Not Rembrant」という展覧会を開催したことがあります。これは、全てメトロポリタン美術館の収蔵品で開催したからできたことです。偽物と言われる恐れのある展覧会に作品を貸す美術館はありません。

◆ポスト印象派の画家について(続き)=ゴーギャン
◎ポール・ゴーギャン《肘掛け椅子の上のひまわり》と《贈りもの》
 ゴーギャンはゴッホに誘われて、アルルでゴッホとの共同生活を送りますが破綻しました。ゴッホは「耳切り事件」を起こしています。
 ゴーギャンは晩年にひまわりを描いた作品を2点制作しています。ひまわりはゴッホの象徴でありゴッホへの思いを描いたものです。《肘掛け椅子の上のひまわり》の「肘掛け椅子」はアルルでゴッホが、ゴーギャンのために用意した肘掛け椅子の象徴です。ゴーギャンはその椅子に、ゴッホの象徴であるひまわりを載せて、この作品を描いています。
・大原コレクションのゴーギャンは《かぐわしき大地》
 ビュールレ・コレクションの《贈りもの》と同様にタヒチの女性を描いたものです。《かぐわしき大地》に描かれた裸婦は、旧約聖書に出て来る悪魔に誘惑されるイブを描いたものです。

◆ビュールレ・コレクションと大原コレクションの対比
◎アンリ・ド・トゥールズ=ロートレック《コンフェッティ》= ポスターの下絵
→大原コレクションのロートレックは《マルトX夫人 - ボルドー》=肖像画
◎ピエール・ボナール《室内》 →大原コレクションは《欄干の猫》
◎エドゥアール・ヴュイヤール《訪問者》《自画像》
 →大原コレクションは《薯をむくヴュイヤール夫人》
◎ポール・シニャック《ジュデッガ運河、ヴェネツィア、朝》
 →大原コレクションは《オーヴェルシーの運河》
◎アンリ・マティス《雪のサン=ミシェル橋、パリ》
 →大原コレクションは《画家の娘-マィティス嬢の肖像》
・大原コレクションのエドモン=フランソワ・アマン=ジャン《ヴェニスの祭》は大原別邸の装飾のため画家に直接注文した作品です。(注:本展にはアマン=ジャンの出品作品はありません)
◎モーリス・ド・ヴラマンク《ル・ペック近くのセーヌ川のはしけ》
 →大原コレクションは《サン・ドニ風景》
◎アンドレ・ドラン《室内の情景(テーブル)》
 →大原コレクションは《静物》と《イタリアの女》
◎ジョルジュ・ブラック《レスタックの港》《ヴァイオリニスト》
 →大原コレクションは《裸婦》
◎パブロ・ピカソ《イタリアの女》《花とレモンのある静物》
 →大原コレクションは《鳥篭》と《頭蓋骨のある風景》

◆大原美術館へのお誘い
 「至上の印象派展」は9月24日で終了しますが、大原コレクションは倉敷まで行けば、いつでも見ることができます。ぜひ、大原美術館にお出で下さい。
(注:主要作品の画像と解説だけなら大原美術館のHPで閲覧できます。)

◆最後に
 特別公演は、数多くの図版をスクリーンに映しながら2時間近く続きましたが、与謝野晶子の歌や三好達治の詩の紹介もあり、多岐にわたった内容で飽きることがありませんでした。
 高階秀爾さま、ありがとうございました。
Ron.

「至上の印象派展」特別講演会について

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

演題「エミール・ビュールレと大原孫三郎 東西の大コレクター」
講師 高階秀爾(大原美術館館長)
2018.8.5(月)14:00~15:45 名古屋市美術館 2階講堂

名古屋市の最高気温が39.9度を記録した8月5日に、大原美術館館長 高階秀爾さんの特別講演を聴くため「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下、「本展」)開催中の名古屋市美術館2階講堂まで足を運びました。
特別講演の開会に当たり名古屋市美術館の深谷副館長から「本日の講師・大原美術館館長 高階秀爾さんは皆さんご存知の通り、西洋美術研究の第一人者で東大教授、国立西洋美術館館長を歴任され、文化勲章も受賞されています。」という紹介があり、高階秀爾さんが挨拶されました。
以下は講演内容を要約筆記したものです。なお、(注)は私が補足したものです。

◆講演の趣旨
大原美術館もビュールレ美術館も同じ頃の印象派のコレクションを所蔵しています。今日はビュールレ・コレクションと大原コレクションを対比しながら話したいと思います。

◆優れたコレクションのための3条件
優れたコレクションが成立するためには3つの条件が必要です。第1は「チャンス」。収蔵庫にしまい込まれて世の中に出てこない作品を収集することはできません。作品収集には、いいものが出る、出物があるという「チャンス」をつかむ必要があります。第2は「鑑識眼」。優れたものを見る眼です。第3が「資金」。
ビュールレは、あちらこちらに情報網を張り巡らせてチャンスをつかみました。大原コレクションの創設者・大原孫三郎(以下、「大原」)は倉敷絹織(注:現在の「クラレ」)を始め、いくつもの事業を手掛けていましたが、鑑識眼は自身ではなく児島虎次郎に任せました。もちろん、収集は大原と相談のうえです。

◆大原コレクションについて
大原美術館は昭和5年に開館しましたが、大原コレクションは美術館開館よりも前、第一次世界大戦(1914-1918)直後から始めています。1920年代にコレクションを始めたという点では、松方コレクションと同じ頃ということになりなります。
児島虎次郎は大原の援助でヨーロッパに渡り、1912年(大正元)に帰国する時に大原に手紙を出しています。手紙の主旨は「美術作品は本物を見ないと良さが分からない。一つでもよいから本物を買って、日本の若者、若い画家、愛好家に見せたい」というものでした。大原はすぐO.K.を出します。大原コレクションは最初から「美術館」=みんなに見せたいという目的を持っていたのです。
ヨーロッパのコレクターの目的は、先ず「自分が眺めるため」で、次に「人に見せて自慢するため」です。したがって、コレクションには個人の好みは強く反映されます。個人コレクションの例としてはロシアの資産家、モロゾフやシチューキンのコレクションがあります。
大原は茶人の嗜みとして日本の美術・工芸に関する素養はありましたが、西洋の絵を買ってきて何の役に立つのかという点に疑問があり、作品の収集になかなか「うん」とは言いませんでした。
ところが、最初に買い付けた何点かの作品を倉敷市内の小学校に飾ったところ、これが大評判となり東京から倉敷に来た人で倉敷駅から会場の小学校まで行列が出来ました。大原は、これを見てびっくり。美術にこれほどの力があるならば本気になって収集しようということになり、児島虎次郎は3回ほどヨーロッパへ収集に行きます。(注:大原美術館のHPによれば児島虎次郎が収集した最初の西洋絵画は、当時のフランスを代表する画家・エドモン=フランソワ・アマン=ジャンの《髪》です。倉敷市内の小学校にも飾られました。)
第一次世界大戦後のヨーロッパには画商の「良いお得意様」が三人いました。大原孫三郎、松方幸次郎(注:松方コレクション→戦後、国立西洋美術館が所蔵)と新薬の開発・販売で財を成した米国人のバーンズ(注:アルバート・C・バーンズ=バーンズ・コレクションの創設者)です。1994年に国立西洋美術館で開催した「バーンズ・コレクション展」には107万人以上の来館者がありました。(注:当時の国立西洋美術館館長は高階秀爾氏)三人は同じ頃にパリで美術品を収集していました。
印象派の発足は1870年。ナポレオン3世が普仏戦争で捕虜となってフランス第二帝政が崩壊し、第三共和政が始まった年です。印象派の作品は最初の頃、売れませんでした。印象派の画家達は第一次世界大戦のころまではまだ生きており、やっと世の中に認められるようになってきた時期でした。印象派の収集にはタイミングが良かったのです。

◆ビュールレ・コレクションの中身について
◎フランス・ハルス《男の肖像》
タッチが素早い。印象派風の描写。堂々としている。
◎フランチェスコ・グァルディ《サン・マルコ沖、ヴェネツィア》
画面右手はサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。ヴェネツィアはターナーが好んだ都市。これは旅行者の記念、お土産の絵です。グァルディの作品は、その中でも優れた油絵です。
◎カナレット《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》
17世紀から18世紀の代表的な作品。
◎ウジェーヌ・ドラクロア《モロッコのスルタン》
ドラクロアは19世紀ロマン派を代表する画家です。アングルを代表とする新古典派と競いました。一方のアングルは、本展で《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》と《アングル夫人の肖像》が出品されています。
フランスは1855年にパリ万国博覧会を開催しました。第1回万国博覧会は1851年にロンドンで開催。最初は産業博覧会で、水晶宮が有名です。パリ万博では「イギリスの真似だけではつまらない」ということから、万博に併せて「フランス美術の百年展」を開催しました。万博と美術が結びついた最初の万国博覧会でした。また、毎年開催している美術展の拡大版も開催しています。「フランス美術の百年展」では、ドラクロアとアングルそれぞれに特別室が与えられ、二人が競いました。
なお、アングルの持ち味は明確なデッサンと、はっきりした色彩です。

◆大原コレクション:エル・グレコ《受胎告知》について
大原コレクションの中で古いものはエル・グレコ《受胎告知》(1530頃-1603)。エル・グレコは、ご存知のようにマニエリスムの画家です。
児島虎次郎が収集したのは同時代の作品でした。印象派の外に、クールベ、ミレー、コローなどの作品を収集しました。エル・グレコ《受胎告知》の収集は特別なものです。
ご存知のようにエル・グレコは17世紀の優れた画家で、スペイン・プラド美術館の収蔵品が有名です。エル・グレコは一時期「忘れられた画家」でしたが、表現主義の画家に持ち上げられて20世紀初頭に再評価されました。1920年代はエル・グレコ再評価の時代でした。画商から売りに出された《受胎告知》を見て、児島虎次郎は「特別な絵だ。ぜひ買いたい。今は、まさにチャンスだ」と見て、高価な絵でしたが購入したのです。
「受胎告知」の構図は通常、マリアと天使が同じ高さで対面しています。しかし、エル・グレコの《受胎告知》では天使が上から降りてきて、鳩は天使の下、マリアは下から天使を見上げるという構図です。画面のダイナミックな動き、明暗の対比は表現主義の画家の心をとらえるものでした。

◆ビュールレ・コレクションと大原コレクションの対比
◎ギュスターヴ・クールベ《彫刻家ルブッフの肖像》
クールベは理想化、美化をしない、そのままの姿を描く「レアリスム」「写実主義」の画家で、同時代の生きた社会を描きました。この作品は、友人の彫刻家を描いたものです。
一方、新古典派のアングルは、親しい人、王侯貴族、歴史画を描きました。
・大原コレクションのクールベは《秋の海》
「波のシリーズ」の一つです。波立つ海、空、ヨットを描いています。
◎カミーユ・コロー《読書する少女》
コローは風景画家として有名で、人物画は少ないものの優れた作品を残しています。
・大原コレクションのコローは《ラ・フォンテ=ミロンの風景》
小品だが見事です。
・大原美術館自慢のジャン=フランソワ・ミレー《グレヴィルの断崖》
ミレーはノルマンディーの生まれ。この作品は育った海岸を描いたものです。崖の上で休む人物はミレー自身でしょう。大原コレクションではミレー、コロー等のバルビゾン派の作品を収集しています。(注:本展にはミレーの作品は出品されていません)
◎ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《コンコルディア習作》
シャヴァンヌはアカデミーの古典的様式を引き継ぎながら、象徴的な意味を持たせた象徴主義の画家です。
19世紀後半のフランスでは、リヨン、マルセイユなどいくつもの地方美術館ができました。壁画家として評判が高かったシャヴァンヌには建物の装飾の依頼が来て、よく手がけました。《コンコルディア習作》も壁画の下絵です。
・大原コレクションのシャヴァンヌは《幻想》
 大きな作品で、ブルジョアの食堂を飾っていた4点のうちの1点です。少年と女性、羽の生えた馬を描いています。自然そのままではなく、そこに様々な理念、象徴をまとわせた作品です。
・大原コレクションの象徴派 ギュスターヴ・モロー《雅歌》
人気のある女性像です。(注:本展にはモローの作品は出品されていません)                                    <後編につづく>

佐川美術館で開かれている田中一村展

カテゴリ:アート見てある記,旅ジロー 投稿者:editor

佐川美術館

佐川美術館


先日NHK日曜美術館でも紹介されたように、琵琶湖の畔の佐川美術館で「生誕110年 田中一村展」が開かれている。佐川美術館では7月14日から9月17日まで開催されている。佐川美術館は佐川急便が創立40周年を記念して1998年に開館した美術館。通常は平山郁夫と佐藤忠良と15代樂吉左衛門を展示する美術館だが、特別展も時折開かれている。
前回行ったのは、偶然佐藤忠良が亡くなってすぐだったから、2011年2月のことだった。所在地が守山市ということなので、東海道線守山駅からタクシーで行った。守山駅からもバスはあるが本数がとても少なく、タクシー代は\3,000.-以上だった。今回は京都にも寄るつもりで調べてみたら、湖西線の堅田駅に出てバスに乗るのが便利なことが分かった。地下鉄東西線の蹴上駅から山科駅で湖西線に乗り換えて堅田駅まで30分ほど。堅田駅前からバスに乗ると15分ほどで美術館に着いた。バスはだいたい一時間に一本で、湖西線に連絡している。気候が良いときは、堅田駅から琵琶湖大橋を渡って歩く人もいるようで距離は4 km強、タクシーだと\1,800.-程度。名古屋から一番速く簡単に行く方法は、新幹線で京都駅に出て、湖西線に乗り換えて堅田駅に出る行程で、名古屋駅から美術館まで1時間半程度だ。入館料は\1,000.-、特別展をやっていてもいなくとも同じ料金だ。
田中一村は、1996年に東京新宿にあった三越美術館で観て以来、とても好きな画家だ。奄美大島に観に行きたいと前々から思っているが、未だに行けていない。今回の展示作品は、一村の子供時代から奄美大島時代までを網羅していて、一村作品の軌跡がよく分かるようになっている。個人蔵の作品がかなり多いので、奄美大島の田中一村記念美術館に行っても観られないだろうと思う作品がかなりあった。その一方で、これぞ一村という作品はそれほど多くなかった。今回の目玉は「アダンの海辺」、アダンの実の向こうに砂浜と海が見える作品だ。22年前には気付かなかったが、砂浜の表現が超絶技巧で暫し見入ってしまった。ヤマボウシの白い花を一面に描いた大きな作品「白い花」も美しい。いつもは佐藤忠良の作品を並べてある展示室も使っているので、忠良作品は廊下などに展示されていた。