愛知県美術館「ミロ展 日本を夢みて」ミニツアー

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

愛知県美術館(以下「県美」)で開催中の「ミロ展 日本を夢みて」(以下、「本展」)の協力会ミニツアーに参加しました。参加者は22名、県美12階のアートスペースAで県美の副田一穂主任学芸員(以下「副田さん」)の解説を聴いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆ 副田さんの解説(10:00~45)の概要

〇「庄司達展」の二館同時期開催について

解説の冒頭、副田さんから、県美コレクション展の「庄司達/新聞」と名古屋市美術館(以下「市美」)の「庄司達 布の庭にあそぶ」について、「同時開催を協議していた訳ではないけれど、二館をあわせて鑑賞してください。愛知芸術文化センターの情報誌AAC(2022年6月号)に「庄司達/新聞」関連の記事を掲載しているので、是非お読みください」との話がありました。家に帰って、パソコンでAAC vol.112│情報誌AAC ウェブマガジン (pref.aichi.jp)を検索すると庄司達さんへのインタビューが掲載されていました。《白い布による空間》の翌年制作の《赤い布による空間》の写真もあり、読み応えのある記事でした。

〇ミロ展の企画・開催は、副田さんの夢だった

副田さんの卒業論文のテーマは「ミロ」とのこと。「ミロの展覧会を企画したいという夢を持っていた。しかし、県美では2002年にミロの回顧展を開催しているのであきらめていたところ、今回、開催することになった」と、本展に対する意気込みを語ってくれました。本展に関する雑誌記事は、どれにも副田さんが登場。テレビ愛知「新美の巨人たち」にも登場していましたね。

〇“Joan Miró”は、ジュアン・ミロ? ホアン・ミロ?

 次の話題はJoan Miró(1893-1983)の読み方。中学生の時「ホアン・ミロ」と読んだ覚えがありますが、本展では「ジュアン・ミロ」。副田さんから「スペインの国語は、カスティーリャ語・ガリシア語・バスク語・カタルーニャ語の四つ。スペイン語という場合は、カスティーリャ語を指す。ミロはバルセロナ生まれのカタルニア人。綴りは同じでも、ホアンはカスティーリャ語。カタルーニャ語だとジュアン。Київが、ロシア語のキエフからウクライナ語のキーウになったのと同じ」との解説がありました。

〇ミロは、抽象画家ではない

副田さんの話で面白かったのは「ミロは抽象画家ではない」というもの。軟体動物のようなグニャグニャの姿でも、具体的な物を描いているそうです。また、文字(単語)と画像を区別せず、「鳥」「蜂」という単語の綴りを画面に書くことで、「鳥」「蜂」の姿を描いたことにする、というのもミロの作風、という話も楽しかったですね。

〇ピカソが《ゲルニカ》を発表したパリ万博のスペイン館に、ミロも壁画を発表

「1937年に開催されたパリ万博のスペイン館と言えば、ピカソ《ゲルニカ》が有名ですが、ミロも壁画《刈り入れ人》を発表。しかし、《刈り入れ人》はスペインに戻すときに行方不明になった」という話にも興味を惹かれました。スペイン館の吹き曝しの場所にゲルニカが無造作に展示されている写真には、びっくり。とはいえ、当時のスペイン政府は内戦中なので、若手画家の作品がぞんざいな扱いになったのも無理はない、と思い直しました。

〇フランコ政権下のミロ

 「第二次世界大戦時、多くのシュルレアリストはアメリカに逃げたが、ミロはスペインに戻り、地中海のスペイン領マジョルカ島で暮らした」とのことです。ミロは反フランコ派だったため、フランコ政権下のスペインでは完全に無視され、新作はパリ、ニューヨークで発表。代表作の《星座》シリーズは、小さな紙の作品。画材、用具が不足していたため、大きなキャンバスに描くことができなかった、という話を聞いて「現在はスペインを代表する作家だけれど、ミロの人生は順風満帆という訳ではなかった」ということが、よくわかりました。

〇本展のテーマ「日本とのつながり」について

「日本を夢みて」という副題で示される「日本とのつながり」は初耳でした。「バルセロナはフランスに近く、ミロの生まれる5年前からジャポニスムが流入していた。1888年開催のバルセロナ万博・日本館では陶磁器、浮世絵を展示。1918.02.16~3.3にミロが個展を開催したダルマオ・ギャラリーでは、同時に浮世絵展、鍔展も開催」という話を聞いて、「ミロの身近に日本があった」ということが分かりました。

1950年にバルセロナで開催された「日本民藝展」では、戦前から神戸に滞在していたスペイン人のエルダウ・セラが収集した大津絵やゴミスの収集した「古作こけし」(戦前に制作した希少品)が展示された、という話や日本の陶芸を研究し、柳宗悦・濱田庄司と交流のあった陶芸作家・アルティガス親子を通して「やきもの」にものめり込んだ、仙厓の《〇△□》もお気に入りで、《無題》(1972)にも「〇△□」が登場する、という話も興味深いものでした。

〇「書」のようで、「書」ではない?作品

副田さんは、書と抽象美術のクロスオーバーのようなミロの作品にも言及しました。ただ、「書」として見た場合のミロの作品に対する書家の評価は高くない。「実に汚いような、ドタバタしたような」とか「下書きしてから書く人はいない」「筆勢、かすれ分かっていない」「習字ではタブーとされている、一度書いた線にもう一度筆を加えている」という話は意外でした。

「実物をみないとわからない」という言葉で、副田さんの解説は終了。ミロの作品の価値を実物と向き合って感じてください、という趣旨の言葉を受けて、自由観覧となりました。

◆ カスティーリャという名前について(おまけ)

ミニツアーに向かう途中に読んでいた、佐藤賢一「王の綽名 『勇敢王』カスティーリャ王アルフォンソ6世」という2022.06.04付日本経済新聞の記事に「カスティーリャ」という名前の由来が書かれていましたので、その抜粋をご紹介します。

カスティーリャ王アルフォンソ6世(在位1072-1109年)は「勇敢王」の綽名で歴史に残る。スペイン語で「エル・ブラボー」、つまりは英語の「ザ・ブレイヴ」(略)カスティーリャは全体どこの国なのか。スペインだが、地名としては古代フェニキア人がイベリア半島を「イシャファニム」と呼び、それを聞いたギリシャ人、ついでローマ人が「ヒスパニア」と発音し、これがスペイン語の「エスパーニャ」、英語の「スペイン」になった。定着したのは、古代ローマ帝国の「属州ヒスパニア」が長かったからだが、5世紀にゲルマン民族大移動が起こると、その一派である西ゴート族が定着して、この地に西ゴート王国を建てた。(略)

8世紀には今度は北アフリカからイスラム教徒が攻め上ってきた。侵攻開始が711年で、その年には西ゴート王国が事実上倒壊。半島はあっという間に征服されてしまった。(略)

西ゴート王国の貴族(略)ペラヨが今のアストゥリアス地方に逃れ(略)キリスト教徒の小さな王国を残すことに成功していた。(略)10世紀初頭以降はレオン王国と呼ばれる。さらに東に拡げた領土に建てられたのがカスティーリャ伯領だが、これが王国から独立を試みたり、隣国ナバラに奪われたり。そのナバラの王子としてカスティーリャ伯領をもらい、妃の相続権でレオン王国も手に入れて、レオンとカスティーリャの再統一に成功した王がフェルナンド1世で、その息子がアルフォンソ6世なのだ。

以後そこはカスティーリャ王国と呼ばれる(略)領土を拡げてきたといったが(略)自らの国スペインで、イスラム教徒の土地を征服していった。スペイン史にいう「国土再征服(レコンキスタ)」である。カスティーリャにせよ、見方を変えれば対イスラム戦の最前線であり、「カスティーリョ(城砦:じょうさい)」ばかりだったのでその名がある。ナバラ、アラゴン、ポルトガルなど他の国々も然りだが、スペインの王というのは国土再征服の戦争を宿命づけられていた。(略)

カスティーリャという名は城砦に由来するのですね。また、世界地図と世界史資料を照合すると、ガリシア≒レオン王国、バスク≒ナバラ王国、カタルーニャ≒アラゴン王国という図式になりそうです。

Ron.

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