映画『フリーダ・カーロに魅せられて』

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

現在、ミッドランドシネマ2で、大画面で美術を体験するドキュメンタリー「アート・オン・スクリーン」の一作「フリーダ・カーロに魅せられて」が上映されています。原題は ”FRIDA KAHLO”、「アート・オン・スクリーン」は英語表記で ”EXHIBITIN ON SCREEN”。文字通り、フリーダ・カーロ(以下「フリーダ」)の生涯をたどりながら、彼女の代表作や写真などを紹介する「展覧会」でした。

最初の油絵は、交通事故の療養中に描いた《ベルベットドレスの自画像》(1926)

フリーダが誕生したのは1907年7月6日。父はドイツから移住した写真家で、母はスペイン人とインディオの混血です。彼女の生活を一変させたのは1925年9月17日に遭遇した交通事故。乗っていたバスが路面電車と衝突し、大怪我をします。その療養中、彼女は独学で絵の才能を開花。恋人のために、ベッドの天蓋に鏡を取り付けて描いたのが《ベルベットドレスの自画像》(1926)です。映画では「ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》と重ねている」との解説がありました。この時から、彼女が描く眉は左右が繋がっていましたね。

ディエゴ・リベラと結婚、デトロイトで流産《ヘンリー・フォード病院》(1932)を描く

交通事故の後、フリーダは画家のディエゴ・リベラ(以下「ディエゴ」)と知り合い、1929年に結婚します。1930年、ディエゴは壁画を制作するためにサンフランシスコへ渡り、この頃描かれたのが《フリーダとディエゴ・リベラ》(1931)です。この絵で彼女が着ているのはメキシコの民族衣装「テワナ」です。彼女はサンフランシスコでメキシコ文明に回帰し、メキシコ南部オアハカ州テワンテペクの女性の民族衣装「テワナ」を身に着けるようになりました。また、映画では「フリーダの母親が二人のことを、象と鳩の結婚と言った」と紹介しています。

1932年、ディエゴはフォードの工場に壁画を描くためデトロイトに行きますが、この時、フリーダは妊娠2か月で流産してしまいます。この流産を描いたのが《ヘンリー・フォード病院》(1932)です。背景はフォードの工場。血に染まったベッドに横たわる裸婦は涙を流し、その体からは血管のような6本の赤い糸が出て、胎児や骨盤、子宮の解剖図、ランの花、カタツムリ、機械と結ばれています。この作品について映画は「彼女は、大衆の芸術であるメキシコの奉納画・レタブロの様式を参考にして描いた」と解説していました。レタブロは神様にお願いする文章と絵を組み合わせたもので、フリーダはレタブロをたくさん収集していたそうです。

ディエゴがフリーダの妹と不倫、《ちょっとした刺し傷》(1935)を描く

二人がメキシコに帰国後、女癖の悪いディエゴはフリーダの実の妹と不倫してしまいます。これに怒ったフリーダは、ディエゴと別居。全身をめった刺しにされ、血まみれでベッドに横たわる裸婦と、その横でナイフを手に持って立つ男を描いた《ちょっとした刺し傷》(1935)は、この時の心の傷を描いています。新聞で報道された殺人事件をもとに制作した作品で、犯人の「ほんのちょっと刺しただけです」という証言が題名の由来とのこと。映画は「ディエゴと別居したフリーダは、酒と恋人に助けを求めた。1937年にはソ連を追放されたトロツキーを匿い、一時的に恋人関係になった」と解説しています。

シュルレアリスムとの関係

1938年4月、メキシコを訪れたシュルレアリストのアンドレ・ブルトンはフリーダの絵に魅了されます。映画では、バスタブの中に両足の指や火山の火口からそびえる摩天楼、裸婦などが描かれた《水がくれたもの》(1938)が映され、「私はシュルレアリストではない」という、フリーダの言葉が紹介されました。シュルレアリスムは夢や幻覚を描いていますが、フリーダが描いたものは夢ではなくて「記憶」。彼女の作品には、描いたものの組み合わせによって、奇妙な状況が生まれています。しかし、彼女は現実とかけ離れたものではなく、「現実」を描いています。映画ではフリーダの作品を「幻想的写実画」と表現していました。

海外での個展成功、ディエゴとの離婚、そして再婚

1938年、ニューヨークで開催されたフリーダの個展は成功。翌年、パリでも個展を開催し、カンデインスキー、ピカソ、タンギーなどが来場。ルーブル美術館も彼女の作品を買い上げました。この頃のフリーダを撮影したカラー写真が「フリーダ・カーロに魅せられて」のチラシに使われています。撮影したのはニコラス・ムライ(Nickolas Muray)。二人は一緒に暮らしていましたが、フリーダがメキシコで生活するために二人は別れます。一方、フリーダとディエゴとの関係も最悪になり、1939年11月6日に二人は離婚。メキシコで開催された「シュルレアリスム展」に出品された《二人のフリーダ》(1939)は向って右にディエゴが愛したテワナを着たフリーダ、左に愛を失ったヨーロッパ風の衣装のフリーダを描いています。「背景の空はエル・グレコの絵に似ている」と映画は解説していました。《断髪の自画像》(1940)は、ディエゴから好まれた長い髪を切り、中性的な、自立した姿を描いた作品です。

映画では「私は人生で二つの事故に会いました。一つは交通事故、もう一つはディエゴとの結婚。なかでも最悪なのは、結婚」という言葉を紹介しています。ディエゴとの離婚以来、フリーダの病状は悪化。その治療には心の支えが要ることから、1940年12月、二人は再婚します。

晩年のフリーダ

ひび割れた背骨の《折れた柱》(1944)は、痛みに立ち向かう自分の気持ちを描いた作品で、背骨はイオニア式の柱。映画は「ベッドに寝たまま描いていた」と解説していました。《宇宙の愛の抱擁、大地(メキシコ)、自分、セニョール・ショロトル》(1949)の主題はディエゴへの愛。赤ん坊のようなディエゴを抱くフリーダ、それを更に大地の女神が抱き、女神の手の中では死の使いとされるショロトル犬も寝ている、という絵です。

1950年は、大半を病院で過ごし、痛み止めにモルヒネを投与します。1953年4月にはメキシコ国内で初の個展を開催。ベッドから動けない状態でしたが、ギャラリーにはベッドで寝たまま出席。1953年8月には壊死した右足を切断。彼女は1954年7月13日に逝去しますが、死の8日前に完成させたのが、スイカを描いた《人生万歳:Viva la vida》(1954)。生命力を感じさせる作品です。

最後に

映画では、上記で紹介した以外にも多数の作品が紹介されます。また、ニコラス・ムライだけでなく、フリーダの父親が撮影した写真や友人のアルバレス・ブラボが撮影した写真も出てきます。料金は2000円で割引は一切ありませんが、大画面でトークを聴きながらフリーダの作品を鑑賞できるので、一見の価値はあると思いますよ。

Ron.

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