山田諭さんの「記念講演会」と「囲む会」

カテゴリ:作家を囲む会 投稿者:editor

現在、名古屋市美術館では「没後90年記念 岸田劉生展」(以下「本展」)が開催中ですが、2月2日(日)午後2時から記念講演会が開催されました。講師は、本展監修者の京都市美術館(通称:京都市京セラ美術館)山田諭・学芸課長(以下「山田さん」)でした。山田さんは2017年まで名古屋市美術館に勤め、名古屋市美術館協力会(以下「協力会」)との交流が長かったことから、同日午後5時から協力会員向けに「山田さんを囲む会」も開催されました。以下は、その概要です。

◆記念講演会

会場は、名古屋市美術館2階の講堂。定員180人の会場は満席でした。演壇の壁に投影されていた講演会タイトルは「岸田劉生の道」でしたが、講演会開始時のアナウンスでは「岸田劉生 孤独なる者の道」との紹介を受けました。

山田さんは冒頭で「岸田劉生は、日本の近代洋画の歴史のなかで唯一人、自分自身の眼と頭で自分の芸術を作り上げていった作家。他の作家たちは、主にフランス近代美術を追いかけていた。岸田劉生は、フランスの近代美術から始まり、西欧の古典絵画、東洋の美と追い続け、「その次」というところで死去。講演では38年の画業を順番に見ていく。彼は、作品を描いた順番がほとんどわかる画家。本展でも描いた順番に並べることを心がけた。彼が西欧の古典絵画に戻っていったときは「時代錯誤」と批判され、日本画を描き始めたときには、全然評価されなかった」と語り、作品の画像を投影しながら、岸田劉生の画風が変遷していく様子が次々と紹介されました。

講演を聴いて、岸田劉生は大下藤次郎の本を頼りに独学で水彩画を描いて以来、黒田清輝の画塾で学んだことを除いては、山田さんが話されたとおり「自分自身の眼と頭で自分の芸術を作り上げていった」ということが良く分かりました。岸田劉生が自分自身に取り込んでいった画家についても、ゴッホ、マティス、レンブラント、デューラー、ヤン・ファン・アイク、顔輝、南画、彦根屏風、肉筆浮世絵など、多数紹介されました。1921年制作の《麗子洋装之像》については「ゴヤ《白衣のアルバ女公爵》の妖しげな雰囲気を学んだ」との解説でした。最後に、1929.11制作の《満鉄総裁邸の庭》について「印象派風の作品に戻る」との解説があり、予定を20分ほど超えて講演は終わりました。

「その次」の変化が期待されただけに、岸田劉生が38歳で死去したのは残念ですね。記念講演会も、予定時間というものがあるので仕方ないのですが、用意した画像はまだ残っていたようですので「もう少し聴きたかった」と思いました。

◆山田さんを囲む会

会場は名古屋市美術館1階のスギヤマコーヒー。参加者は山田さんを入れて26名でした。最初にビールやソフトドリンクで乾杯。キッシュなどの手料理のほか、鱧天の差し入れもあり、近況報告や思い出話などに花が咲きました。囲む会の最後、山田さんの挨拶の中に「私も歳をとりましたが、皆さんも歳をとりましたねえ。安心しました」という言葉があり、一同大爆笑。

本当に楽しいひと時を過ごすことができました。山田さん、ありがとうございました。

Ron.

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