「特別展 画僧 月僊」ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

平成31年最初のミニツアー、目的地は名古屋市博物館(以下「市博」)です。参加者22名で、現在開催中の「特別展 画僧 月僊」(以下「本展」)を鑑賞。学芸員の横尾拓真さん(以下「横尾さん」)のレクチャー「月僊作品の見どころ」を聴講してから自由観覧となりました。

◆「月僊作品の見どころ」(概要)
以下は横尾さんのレクチャーを要約筆記したもので、見出しと(注)は私の補足です。

◎月僊の生涯
本展で紹介する月僊(注:げっせん 1741-1809)は、名古屋城下で生誕した画僧です。7歳で仏門に入り、江戸・増上寺(注:山号は三縁山。徳川幕府の庇護を受け、一時は浄土宗を統括した大本山)で修業しました。江戸では桜井雪館に弟子入りして絵を学び、30歳を過ぎて上洛。京都・知恩院(注:山号は華頂山。法然が入滅した場所に建立された浄土宗の総本山。三門は国宝に指定されている)で修業を続け、絵では円山応挙の影響を強く受けます。ただ、月僊が応挙に弟子入りしたかどうかについては不明です。
月僊は34歳の時に伊勢の寂照寺の住職となり、69歳で他界するまで30年以上にわたり僧侶・画家として活躍しました。なお、「奇想の画家」といわれる伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白は月僊の同時代人です。
寂照寺は、伊勢神宮の下宮と上宮の真ん中あたりにある「間の山」(あいのやま)の上にあり、周りは遊郭街の「古市」(ふるいち)でした。月僊は絵を描いてお金を稼ぎ、そのお金で、寂れていた寂照寺を再興しました。月僊が建てた建物のうち現在まで残っているものは寂照寺の山門と経蔵です。
当時の月僊は、人気があって金を稼いだ画僧でした。彼はまた、「社会福祉事業家」の顔も持っており、貧しい人、恵まれない人を援助したと伝わっています。少なくとも、月僊が貧民救済のためにお金を出したことは事実で、伊勢では今でも敬われています。
◎本展の構成
本展は5章で構成されています。第1章「画業のはじまり」は、月僊と桜井雪館・円山応挙との関係に焦点を当て、第2章から第4章までは「信仰」「神仙」「山水と花鳥」と、ジャンル別に展示、第5章は「寂照寺の月僊」です。
◎雪館風のユーモラスなキャラクターを応挙に学んだ写実的表現が下支え(第1章)
桜井雪館という名前、現在では知らない方も多いと思いますが、当時は人気があり「雪舟の弟子」を標榜していました。中国風の人物をアクの強い画風で描く絵師で、絵にインパクトがあります。対する円山応挙は、雪館とは真逆の画風で、穏やかで写実的な画風です。
月僊の人物画は、漫画のように誇張と歪曲を加えたユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています。つまり、月僊の人物画の基本は円山応挙の写実ですが、それに雪館の画風(気持ち悪さやアクの強さ)が加味され、分かりやすい絵になっています。
私(注:横尾さん)は「円山応挙+オリジナリティー」という点で、月僊と長沢芦雪はよく似ていると思っています。オリジナリティーでは長沢芦雪が応挙の弟子中ナンバーワンですが、月僊は芦雪に次ぐと考えます。
◎仏画について(第2章)
チラシやポスターの図版として使った《朱衣達磨図》も「誇張した姿で分かりやすく表現した絵」です。この絵で「写実的表現が下支え」しているのは、先ず「目」です。瞳と虹彩を描き分け、目尻に赤い絵の具で充血を表現しています。白目の上下に薄く墨をさして、まつ毛の影と目が球体であることをあらわしています。また、月僊は、おでこの盛り上がり具合を、輪郭線は使わずに色彩で表現しています。
市博所蔵の《仏涅槃図》は伝統的な図柄を引き継いでいます。釈迦の上の方に描かれている金色の人物は菩薩さまですが、この絵では、ご覧のとおり、敢えて漫画のように人間臭く描いています。
《釈尊図》の台の下を見ると、邪鬼が釈尊の台を支えていることがわかります。本来、邪鬼は懲らしめられる存在ですが、この絵の邪鬼は愛らしく描かれています。三福図の《布薩本尊》では、上空から諸衆が来襲していますが、誰もが「ゆるキャラ」のような人物に描かれています。
◎神様と仙人(第3章)
月僊はクセのある人物を描くことを得意としており、仙人を多く描きました。《人物図衝立(鍾離権・呂洞賓)》が描くのは道教の仙人。二人は師弟ですが、見つめ合う姿は愛し合っているようにも見えます。このようにスターを面白おかしく、ふざけて描くことや人物のアクの強さは雪館風です。一方、手のひらや足の指先の写実的表現はうまく、破綻のない造形力を見ることができます。《恵比寿図》の顔は目が離れて鼻が大きく、神様というよりは漁師のような生々しさがあります。ご覧のように、ぱっと見は漫画チックな「面白いおじさん」ですが、その一方で、烏帽子を透かして髷が見えたり、活きているような鯛を抱えていたりと、写実的な表現がされているとわかります。
《張公図》は医者の像です。月僊の肖像画は、同時代の曾我蕭白よりも上品です。それは「月僊は蕭白ほどに突き抜けることは無かった」ということでもあります。月僊は、生々しさを残しながらも円山応挙のような上品さを保った画僧でした。そのため、月僊は上流階級の人々にも愛されました。皇族の京都・妙法院門跡もその一人で、月僊は多くの襖絵を妙法院のために描きました。本展では《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》を展示しています。淡白で美しい襖絵ですが、妙な生々しさが感じられます。
◎《百盲図巻》について(第5章)
《百盲図巻》(京都・知恩院所蔵)は、本展の最後に展示している作品です。描かれている人たちはふざけて合っているようにも見えますが、月僊は信仰心が無く六道をさまよう人々に対して「宗教的な戒め(いましめ)」を説くためにこの絵を描いています。ただ、この絵を描いたのは「戒め」のためというだけではありません。この絵の登場人物にはリアリティーがあり、楽しそうにみえます。この図巻の最後には漢文が書かれていますが、その大意は「盲人は目が見えないといっても、琵琶や鍼灸などの技術を持ち、他の人と変わるところはない」というものです。この言葉に、月僊の愛、社会福祉事業家としての姿を見ることができます。

◆自由観覧
横尾さんのレクチャーは10時40分に終了。その後、各自、自由観覧となりました。
◎《仏涅槃図》
今回のミニツアーでは市博所蔵《仏涅槃図》を始め4点の「仏涅槃図」を見ることができました。4点いずれも基本的な構図は同じですが、細かい点は少しずつ違っています。なかでも面白かったのは市博所蔵のもので、獣や鳥だけでなくカエル、セミ、トンボ、カマキリ、ナメクジなども描いており、図鑑を見ているような気がしました。他の3点はいずれもお寺の所蔵品で、全て文化財指定(菰野町、愛知県、伊勢市)を受けています。寺宝だったのですね。
◎ユーモラスなキャラクターとは無縁の肖像画
横尾さんはレクチャーで「ユーモラスなキャラクターを写実的表現が下支えしています」と解説されましたが、さすがに知恩院御影堂の肖像画を写した《円光大師座像》や岡崎・隨念寺15世倫誉達源の正装と墨染姿を描いた《倫誉上人像》におふざけは無く、写実に徹した上品な絵でした。
◎顔は緻密に、衣は一筆で描く
横尾さんがレクチャーで解説した《朱衣達磨図》と《恵比寿図》ですが、顔や手足は細筆で緻密に描写している一方、衣は襞を一筆でサラリと描いており、描写方法の対比と月僊の筆さばきに舌を巻きました。
◎床の間だけは写真パネルの《群仙観月図襖絵(妙法院白書院二之間障壁画)》
横尾さんがレクチャーで解説した襖絵は、満月を鑑賞する仙人と山水を描いたものでした。仙人が見ているのは、床の間の壁を撮った写真パネル。襖は取り外して運ぶことができますが、床の間の壁を取り外して運ぶことは難しいので写真パネルになったのでしょうね。この写真パネル、ぱっと見には「シミのある鼠色の壁」で、絵が描いてあるようには見えません。それでも目を凝らしてみると、「観月」という作品名が示すように、丸い形と樹影がかすかに見えました。
◎《富士の図》三重・寂照寺(伊勢市指定文化財)
第4章には「人気絵師の多様な題材」というサブタイトルが付いており、山水画・花鳥画が出品されています。ミニツアーに参加したメンバーと「いかにも売れそうな絵ですね」とか「収集家は、自分の教養の高さを示すためにこの絵を買ったのでしょうね」とか、勝手な話をしながら鑑賞。《富士の図》では「帆掛け船・三保の松原と富士山・愛鷹山ですね。薄墨でシンプルな構図。控えめな表現で、横山大観の富士とは対極」などと話が弾みました。
◎ネズミ・唐辛子と猫の組み合わせとは?
第5章には《鼠と唐辛子図》《猫図》の2幅が並べてされています。説明には「大津絵に描かれた教訓をもとにしている」と書いてありましたが、唐辛子が鼠の好物とは思われず、モヤモヤが残った作品でした。
家に帰って調べてみると、元になった大津絵の題名は「猫と鼠の酒盛り」。うまそうに酒を飲んでいる猫、その横で鼠は猫に唐辛子を勧めてご機嫌を取っており、画面には「聖人の教えを聞かず 終に身を滅ぼす人のしわざなり」という説明が書いてありました。
解釈としては「猫に食われることも知らずに呑気に酌をしている鼠」というものと「鼠は猫をだまして酒を飲ませ、肴に唐辛子をやろうとしているが、猫のエサは鼠。策に溺れると自滅する意」というものがあります。どちらの解釈が正しいのか良く分かりませんが、わざわざ赤い唐辛子を描いているので、私としては後者の解釈の方が腑に落ちました。
◎まるや八丁味噌の大田家との交流も
第5章には資料として、まるや八丁味噌の大田家当主・弥次右衛門宛書翰巻も出品されており、ショップでは八丁味噌の販売もありました。

◆最後に
年表によれば、月僊の没年には、貧民救済のための基金が1500両まで積み上がったと書いてありました。1月14日に放送されたEテレ「趣味・猫世界」という番組で「天璋院篤姫が飼い猫の世話をするために使った費用は年25両、現在のお金で250万円でした」というエピソードが紹介されていましたが、Eテレが使ったレート・一両=10万円で換算すると1500両は1億5千万円という大金になります。貧民救済のための基金だけでなく寂照寺再建の資金も画業で稼ぎ出したことを考えると、まさに月僊は「売れっ子の画僧」だったのですね。年表には「江戸の絵師・谷文晁が月僊を訪問」という記載もあったので、当時は有名人だったのでしょう。
そのため、ミニツアー参加者からは「いい絵を描いたのに、なんで現在は広く知られていないの?」と、疑問の声が数多く聞かれました。県や市の指定文化財に指定されている作品が多いので、月僊の作品の価値はそれなりに評価されていると思います。寺のお宝で一般の人が目にする機会が少なかったために「現在は広く知られていない」という結果になったのでしょうか。
ミニツアー参加者は帰り際、「楽しかったね」と口々に感想を述べていました。この感想のとおり、今回のミニツアーで月僊の作品に出会えたことは幸運でした。名古屋市博物館の皆さんに感謝します。
Ron.

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