「至上の印象派」ギャラリートーク(後編)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

ギャラリートークの様子

ギャラリートークの様子


◆2階展示室における深谷副館長の解説
◎第1章 肖像画
本展の壁の色、章立てはビュールレ財団からの指示に従っています。2021年に公開予定のビュールレ・コレクションも本展の章立てをなぞるようです。第1章の壁の色は赤で、最初の作品はアンリ・フォンタン=ラトゥール《パレットを持つ自画像》。年代順に並べるなら、ハルス《男の肖像》が最初の作品になるはずなのですが、そうではありません。なぜか、それはビュールレ財団からの指示に従ったからです。指示は「左右対称が重要。年代順にはこだわらない」というものでした。
アングルの作品が並んでいます。《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》は細部まで克明に描かれていますが隣の《アングル夫人の肖像》は質感表現が十分ではありません。未完成のような絵ですが、それが、むしろ《アングル夫人の肖像》を生き生きとした作品にしています。

◎第2章 ヨーロッパの都市
第2章と第3章の壁の色は濃い緑色。ヨーロッパの都市、ヴェニス、ロンドンとパリの風景を描いた作品です。室内の真ん中の2点、カナレット《カナル・グランデ、ヴェネツィア》と《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》はビュールレ美術館の写真と同じように並んでいます。
グランドツアーは貴族の子弟が行った、長期間をかけてヨーロッパの名所旧跡を回り見分を広めた大旅行で、その記念品・お土産として克明かつ緻密に描かれた風景画が描かれました。

◎第3章 19世紀のフランス絵画
第3章には1870年代のマネの作品が3点並んでいます。マネは印象派展には参加しませんでしたが、印象画風のテーマ・タッチに変わっていくのが分かります。

◎自由観覧 18:10頃~30
第4章の壁の色は薄い緑色。
縦長のマネ《ベルヴュの庭の隅》と横長のモネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》《ジヴェルニーのモネの庭》の3作が並んでいるのを見ると、一瞬、「同じ作者の作品か」と感じました。よく見ると、何か違っています。しかし、違いをうまく指摘するのは難しい。……

◆1階展示室における深谷副館長の解説
◎第5章 印象派の人物-ドガとルノワール
 第5章も壁の色は薄い緑色。
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》を見てください。顔は滑らかで筆跡がありません。一方、衣装には筆跡が残っています。
この絵はダンヴェール家の庭=屋外で描いたにしては光が均一に回っています。この絵では、ルノワールの作品によくある「木洩れ日表現」はしていません。光が良く回っており、古典的な表現がされています。

◎ドガ《14歳の小さな踊り子》
この彫刻、オリジナルはワックス=蝋。ワシントン・ナショナルギャラリーが所蔵しています。展示しているのはブロンズ像で、10点ほど制作されたうちの1点です。
オリジナルの彫刻は、1881年、第6回の印象派展に出品されました。出品時、ワックスで制作した本体は胴衣、スカート、トゥシューズ、ソックスを身に着けていました。この試みに対し、当時の評価は二分。「彫刻の基本から外れる」として反対する意見とドガの意図に賛成する意見に分かれました。

◎第6章 ポール・セザンヌ / 第7章 フィンセント・ファン・ゴッホ
第6章と第7章の壁の色は黄土色。
セザンヌとゴッホはそれぞれ、一人に1章が配分されています。これは、ビュールレ・コレクションがこの二人を大切にしていることの現れです。各章とも6点の作品だけで、それぞれの作家の変化が分かるようになっています。

◎セザンヌ《赤いチョッキの少年》
国立新美術館で好きな作品のアンケートを取ったところ、第1位はルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》、第2位はカナレット《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》で《赤いチョッキの少年》がベスト10にも入っていないのは意外でした。
作品をよく見ると、右腕は白を塗り重ねて前に出てくる感じです。一方、左腕は暗く奥まって見えます。立体感がよく出ています。

◎ゴッホ《日没を背に種まく人》
本日、午後2時からの特別講演会で大原美術館・高階館長が「ゴッホの《日没を背に種まく人》はミレーの宗教的主題を引き継ぐ「聖なるもの」を描いた作品で、黄色い太陽は光背を表す」と話されましたが、私もゴッホの作品は宗教絵画だったと思っています。彼の作品は信仰告白につながっています。

◎第10章 新たなる絵画の地平
第9章と第10章の壁の色は白。第10章はモネ《睡蓮の池、緑の反映》だけを展示しています。大作であること、その後の絵画につながる作品であることから最後に置かれています。

◎自由観覧 18:40頃~19:00
セザンヌの作品の前で、ある参加者が「昔、セザンヌのどこが良いのか分からなかったけれど、最近、セザンヌはすごい、と思うようになってきた」と話しているのを聞いて、深谷副館長が「よかったですね」と声をかけてくれました。
ルノワールの絵にはサービス精神があるので万人向きですが、セザンヌの絵は求道者のようで、玄人受けはしますが初心者にはとっつきにくいですね。《扇子を持つセザンヌ夫人の肖像》も存在感はあるのですが「もう少し美人に描いてあげたら」と同情します。ただ、セザンヌ本人は「万人受け」することを微塵も考えていなかったことは確かです。
ゴッホ《アニエールのセーヌ川にかかる橋》の前で、ある参加者が「汽車の動き、川面の青がきれいで、紅一点の女性が画面を引き締めていますね」と感想を漏らしていました。私もこの感想に同調、作品を眺め直しました。仲間内の鑑賞会なので、あまり気兼ねせずにおしゃべりできるのもギャラリートークの魅力です。

深谷副館長

深谷副館長


 
◆最後に
 ギャラリートークを終えて名古屋市美術館を後にする参加者は、どなたも笑顔でした。また、「どの作品も質が高くて、満足しました」という声も聞かれました。参加者数が多いので解説の声が届かなかったらどうしようかと心配しましたが、ポータブル・アンプのおかげで参加者が多くても参加者の隅々にまで声が届き、杞憂に終わりました。
2時間もの長時間にわたりギャラリートークに協力していただいた深谷副館長はじめ名古屋市美術館のスタッフの皆さま、ありがとうございました。
本展で気がかりなのは猛暑。熱中症の予防はもちろんですが、外気の気温と美術館展示室内の室温との差が大きいので「寒さ対策」もお忘れなく。
Ron

「至上の印象派」ギャラリートーク(前編)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

展示会場で話をきく会員たち

展示会場で話をきく会員たち


名古屋美術館で開催中の「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下、「本展」)の名古屋市美術館協力会員向けギャラリートークに参加しました。担当は深谷副館長。応募が90人を超えたため美術館2階講堂で展覧会の概要を解説。展示室におけるギャラリートークは主要な作品に絞るという方式になりました。当日、名古屋市の最高気温は39.9度。「危険な暑さ」のため屋外での活動や日中の外出を控えたためか欠席者があり、講堂に集まったのは81人。減ったとはいえ、人気の高さを感じました。
レクチャーの始めに深谷副館長から「連日、大勢のお客が来館していますが40度超えの気温で来館者の行動に変化があります。いつもなら午後2時から3時が来館者のピークですが、本展は開館前から行列が出来て午前中が来館者のピーク。午後になると来館者が減っていきます」という話がありました。連日の猛暑は、こんなところにも影響しているのですね。
以下は講堂における展覧会の概要解説と展示室のギャラリートークを要約したものです。

<展覧会の概要=講堂における深谷副館長の解説>
◆エミール.ゲオルク.ビュールレ氏と彼のコレクションについて
TV等の広報でご存知の方も多いと思いますが、本展はスイス・チューリッヒの個人コレクター=エミール・ゲオルク・ビュールレ氏(以下「ビュールレ」)のコレクションを展示しています。
ビュールレはドイツ人ですが、妻の父親が工作機械の会社を経営しており、その後を引き継ぎました。スイスの会社を買収し、機関砲等の兵器製造で巨万の富を築いて美術品の収集に振り向けました。来館者から「そのような人物のコレクションを展示することに問題はないのか」という質問がありました。しかし、作品に罪はないのでコレクターとは切り離して展覧会を企画しています。
ビュールレは大学で文学、美術史を学んでおり、単なる愛好家ではありません。彼は1936年・46歳の時からコレクションを始め、66歳で死去するまでの20年間に600点を収集しました。本日、午後2時からの特別講演会で大原美術館・高階館長が「優れたコレクションに必要な3条件は、タイミング・鑑識眼・資金」と話されましたが、ビュールレ・コレクションの「タイミング」は収集した時期が第二次世界大戦をはさんでいたことです。戦争の際には多くの美術品が動くので作品が集まりました。
ビュールレは若い頃から美術館に出入りし、学生の時、ベルリンの美術館で印象派の作品に出会っています。
1948年には戦時中に収集した13点がナチスの略奪品と判明。うち9点は元の所有者と話をして再度代金を支払い買い取りましたが、残り4点は元の持ち主に返しています。ナチスの略奪品には、いまだに行方の分からないものが多数あります。国外の美術館、特にアメリカの美術館に作品を貸し出すのを嫌がるコレクターがいます。来歴が良く分からない作品が「略奪品」だと分かると「差し押さえ」になるおそれがあるからです。
ビュールレは1956年、心臓病で死去。遺言はありませんでした。ビュールレ美術館は自宅の隣の家を改築して美術館としてオープンしたものです。1958年から2015年まで開館し、現在は閉鎖しています。スクリーンに映しているのは展示室を撮影した写真です。正面の壁に掛かっているのは本展展示のカナレット《カナル・グランデ、ヴェネツィア》と《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》。まさに個人の邸宅に作品を展示していました。
スクリーンに映したのは、現在建設中のチューリッヒ美術館新館の完成予想図。新館の完成は2020年。ビュールレ・コレクションは新館の1フロア・約1,000平方メートルに展示。名古屋市美術館の常設展ぐらいの規模です。
なお、「ビュールレ・コレクションは600点」といいましたが、一部は売却され、ビュールレのファミリーが保有している作品もあるため財団に移管したのは200点ほどです。

講堂でレクチャを聴く会員一同

講堂でレクチャを聴く会員一同

◆本展の展示内容
◎第1章
本展は10のセクションで構成。第1章は肖像画。ビュールレ・コレクションの中核は印象派ですが、第1章は肖像画の歴史的な流れを印象派以前にまで遡って示したものです。ビュールレは美術史を学んでおり美術史を踏まえています。本展では印象派がどういう文脈の中で生まれ来たのか、印象派がその後にどんな影響を与えたのかを見てほしいと思います。
本展展示のフランス・ハルス《男の肖像》とアングル《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》を比べると、ハルスの方が新しく感じます。ハルスの描写は印象派につながるものだと思います。
印象派は絵画の革新を行ったといわれますが、印象派の作家たちに「新古典派に反旗を翻す」という意図はありませんでした。サロンの審査ではねられたから自分たちの展覧会を開いたということです。
第1章の最後にドガ《ピアノの前のカミュ夫人》を展示しています。スクリーンに映したのはアメリカの雑誌「LIFE」が1954年にビュールレ・コレクションを紹介した時の写真です。ビュールレの本宅で撮影したもので前列に並ぶ作品は別の場所から持ってきました。椅子に腰かけるビュールレの後方にドガ《ピアノの前のカミュ夫人》が写っています。ドガの肖像画はビュールレ邸の訪問客を最初にお迎えするために飾られていた作品でした。

◎ドガの彫刻《14歳の小さな踊り子》
ドガは後半生に彫刻を制作しています。彼は動いている人や馬の瞬間の姿を描いているので絵を描くときの参考にするため、色々な方向から自由に観察できる彫刻を作りました。ただし、展覧会に彫刻を出品したのは一回だけ。ドガの彫刻に関してはギャラリートークでお話しします。

◎ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
 これは、とても有名な作品で「目にしたことがある」という人が多いと思います。この作品を制作した1880年はルノワールの転換期でした。1870年からの10年間は作品が売れないため、画家としての方向性に疑問を感じていました。今までのやり方を続けるのか、アカデミックな方向に移ったほうがいいのか迷い始めた頃です。
この作品の描写は1870年代に比べるとアカデミックなものです。アカデミックな描写と印象派の描写のバランスが取れているのが好かれる理由でしょう。イレーヌは銀行家カーン・ダンヴェール氏の三人姉妹の長女で当時8歳。次女のエリザベスは6歳、三女のアリスは4歳。次女と三女の二人を描いた肖像画はサンパウロ美術館が所蔵しています。イレーヌの絵と妹たちの絵を比べるとイレーヌは大人びた感じで二人の妹たちは子どもらしさを前面に出していますね。
 イレーヌの肖像は、ほぼ真横から描いた作品。ルノワールの肖像画は4分の3、スリー・クォーターの方向から描いた作品が圧倒的に多く真横の肖像は少ない。どうして真横に近いにポーズをとらせたのか良く分かっていません。真横に近いポーズが、多くの人をこの絵に惹き付ける理由でしょう。
スクリーンに映したのはイレーヌが8歳の時の写真です。イレーヌの死亡記事に掲載されたものです。8歳の時の写真といいましたが、写真の説明には「イレーヌの肖像と同じ時代に、同じポーズ・髪型、同じ衣装で撮影した写真」とあるだけです。イレーヌ本人を撮ったという確証はありません。ただ、1880年当時、イレーヌの肖像画の存在は現在ほど知られていないはずなので、別人をイレーヌと「同じポーズ・髪型、同じ衣装」で撮るということは考えられません。ですからイレーヌを撮ったのだと思いますが、確証はないのです。
イレーヌの肖像画は1881年にサロンに出品され評判は良かったのですが、家族には気に入られませんでした。使用人の部屋に飾られていたということですから、ダンヴェール家を訪問した人はイレーヌの肖像画を見ていないと思います。
スクリーンに映したのはルノワールが1879年のサロンに出品した《シャルパンティエ夫人と子どもたち》です。夫人の写真と絵を比べると本物よりも少し美人に描いています。2割増しくらいですね。2013年に愛知県美術館で開催された「プーシキン美術館展」に出品された《ジャンヌ・サマリーの肖像》も本人の写真と比べると、ご覧のとおりです。
イレーヌの肖像画が家族に気に入られなかった理由は何か。スクリーンに映したのは、カロリス・デュランの描いたダンヴェール夫人=イレーヌの母の肖像画です。カロリス・デュランはアカデミズムの有名な画家でした。イレーヌの父親もアカデミズムの画家レオン・ゴナに肖像画を描かせています。
当時、ルノワールはまだ駆け出しでした。ルノワールに肖像画を描かせたのは、イレーヌの母の友人の美術評論家から頼まれたからです。当時の人々にとって、ルノワールの絵は前衛的でアカデミックな古典的作品では無いことから気に入らなかったと思われます。今から見るとアカデミックな肖像画は冷たくて固いという印象を受けますが、それは時代による感性の違いというものです。

◎贋作事件
スクリーンに映したのは1939年6月にスイスのルツェルンで開催されたオークションを撮影した写真です。オークションにかけられているのはゴッホ《坊主としての自画像》で現在はハーバード大学フォッグ美術館が所蔵しています。
当時、ナチスは略奪した美術品をスイスでオークションにかけ、戦費につぎ込んでいました。オークションにはヨーロッパだけでなく米国からも参加があり、ビュールレもオークションに出かけています。ビュールレは《坊主としての自画像》を買おうとしたのですが落札できませんでした。《坊主としての自画像》の代わりにビュールレが買ったのはゴッホの贋作でした。
スクリーンに映したのは《坊主としての自画像》とビュールレが買った作品です。ビュールレが買ったのはイギリス人の絵描きがゴッホの模写をした作品で、本物と間違えられないように背景に花が描いたものです。今、こうして二つを比べると「ビュールレが買った作品は怪しいのでは?」と思う人が多いと思います。
実は、ビュールレが「本物だ」と思ってしまったのには理由があります。スクリーンに映したのはクレラーミューラー美術館所蔵のゴッホ《郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像》です。ご覧のように背景に花が描かれています。ビュールレはこの絵の存在を知っていました。美術の知識があったことが災いして贋作を本物だと思ったのでした。

◎ナチスが開催した「退廃美術展」と「大美術展」
スクリーンに映したのはナチスが開催した「退廃芸術展」の写真です。ヒトラーには画家を目指していた時期があり、モダン・アートを目の敵にしていました。ポスト印象派や表現主義、ピカソなどのほかユダヤ人画家の作品も精神の退廃を招く「退廃芸術」としてドイツ国内の美術館から撤去。見せしめのために、撤去した作品を展示したのが「退廃芸術展」です。展覧会で「笑いもの」にしたのです。一方、ヒトラーが好んだのは古典主義的な芸術。「人間の健全な精神を養う」として「大ドイツ芸術展」を開催しました。

◎セザンヌ《赤いチョッキの少年》
2008年にビュールレ美術館では作品4点が盗まれるという事件が発生しました。盗まれたのはセザンヌ《赤いチョッキの少年》、ゴッホ《花咲くマロニエの枝》、ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》とモネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》です。
このうち、セザンヌ《赤いチョッキの少年》はビュールレ・コレクションの中で一番有名で重要な作品です。セザンヌは同じモデルの作品を4点残していますが、ビュールレ・コレクションのものが一番の出来です。
《赤いチョッキの少年》の表現は、右腕が長くて左腕は短いなど不自然なところが様々あるのですが、絵画としては調和がとれています。スクリーンに映したのは試しに普通の人体のサイズに直してみたものです。ご覧の通り絵画としてのバランスは悪いのです。
私は、セザンヌはアングルをものすごく研究していたのではないかと推測しています。スクリーンに映したのはアングル《オダリスク》です。残されたデッサンでは人体を正確に描いていますが、完成した作品では、あえて胴体を伸ばして描いています。
左腕の袖をまくっているのもアングルを参考にしているのではないかと思います。スクリーンに映したアングル《ヴァルパンソンの浴女 》では左腕にシーツを巻き付けることで、右腕とのバランスをとっています。《赤いチョッキの少年》も同じですね。
ただ、《ヴァルパンソンの浴女 》のシーツは何のために巻き付けているのか不明な「謎のシーツ」です。肘から下をどう描いたらいいかわからないのでシーツをまいたのかもしれません。

◎ゴッホ《日没を背に種まく人》
スクリーンに映したのは歌川広重《名所江戸百景・亀戸梅家鋪》、ゴッホが油絵で模写したことで有名な絵です。《日没を背に種まく人》は、この絵の構図を取り入れています。

◎ピカソ《花とレモンのある静物》
これは1941年の制作で、ビュールレ・コレクションの中では一番新しい作品です。ピカソは第二次世界大戦中パリにとどまり、何枚も静物画を描いています。この作品は人間の五感を表したもので画面下に描かれた巻貝は「聴覚」の象徴です。巻貝を耳にあてると海の音が聞こえるといわれることから「聴覚」のシンボルとなっています。
日本人は風景や静物に「意味」を求めることはありませんが、ヨーロッパの画家は「意味」を持たない絵画を描くことができません。描いたものは、何かを象徴しているのです。

◎モネ《睡蓮の池、緑の反映》
本展は2階が入口になっています。その理由は、この作品が大きすぎて2階に持って行くことができないからです。最後に置く作品が1階にあるので入口が2階になりました。
マネはオランジュリー美術館に飾っている22枚の《睡蓮》の倍の数の作品を描いています。たくさん描いた作品の中から22枚を選んでオランジュリー美術館に展示しました。
オランジュリー美術館を飾らなかった《睡蓮》。そのうちの1枚がビュールレ・コレクションになりました。「モネ、それからの100年」のギャラリートークでも話したとおり《睡蓮》が注目されたのは第二次世界大戦後です。1番始めにモネのアトリエに残された《睡蓮》を購入したのは米国人のウォーター・プライスラー、ビュールレが購入したのは2番目です。先ず、2枚買ってチューリッヒ美術館に寄贈。もう1枚買って手元に残したのが本展の作品です。

<ギャラリートーク=展示室における解説>
講堂での解説は午後6時に終了。2階の展示室に移動して深谷副館長から主要作品の解説を聴いた後、各自、2階展示室の中を自由観覧することとなりました。
(つづく)

展覧会見てある記 「名古屋ボストン美術館 最終展 ハピネス」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋ボストン美術館の最終展「ハピネス ~明日の幸せを求めて」が開催されています。最終日は10月8日(祝)。展示は「明日の幸せを求めて」(英語表記は In Pursuit of Happiness)をテーマに5章で構成。馬場駿吉館長のコレクションと名古屋市博物館のコレクションの特別出品の外、3階ロビーにはシヴァ神のコスプレができるコーナーがあります。展示は4階から、概要は以下のとおりです。
◆第1章 愛から生まれる幸せ ~日常の情景から~
切り口は男女の愛、親子の愛、ペットとの愛から生まれる幸せ。ヒンドゥー教で最も人気のあるクリシュナが、いたずらをして恋人ラーダから懲らしめられる場面を描いた絵が面白かったですね。クリシュナの銅像もあります。外には、アダムとエヴァの銅版画、ミレーやルノワール、歌麿等が描いた母と子の姿の外、若い女性とペットの犬を描いた写真みたいな大画面の油絵など、古今東西の「愛から生まれる幸せ」が並びます。
◆第2章 日本美術にみる幸せ
目玉は、理想の高士像を描いた曾我蕭白の襖絵《琴棋書画図きんきしょがず》。解説によれば、展示作品は六曲一双の屏風として収蔵されてしたものを襖に復元したもの。襖を屏風にしたときに「棋」つまり囲碁を描いた襖の一面が失われたようです。外には、四季の遊び、舟遊び、お座敷遊びなど、江戸時代の日本美術が並びます。
◆第3章 ことほぎの美術
 切り口は「おめでたいもの」。見どころは糸で刺繍した豪華な打掛、振袖、袱紗。6点並ぶと壮観です。「壽」の文字や七福神の外、焼成していない鑑賞用の土器や貝殻、トルコ石、銀などを組み合わせたネックレスもあります。
特別展示は名古屋市博物館所蔵の宝船置物、花瓶、鐔、渡辺清《鯉図》(8/26まで、8/28からは白隠慧鶴《布袋図》)。見逃せないですよ。
◆第4章 アメリカ美術に見る幸せ
5階展示室では鞍を着けた豚が出迎えてくれます。第4章前半の「Ⅰ 幸せを彩った芸術 ~アメリカン・フォークアートの世界~」は素朴なアメリカ美術がテーマ。あまり可愛くないジョン・F・フランシス《3人のこども》などに加え、伝統的な手工業に携わる人々を撮影した記録写真も展示されています。
後半の「Ⅱ 東西の出会い ~心の平安を求めて~」は東洋美術と米国人の出会いがテーマ。米国人芸術家が描いた日本画や浮世絵風の油絵の外、踊るシヴァ神の銅像、仏壇のようなチベットの小祠、インドネシアの仏頭など東洋美術の展示があります。
◆第5章 アートの世界に包まれて ~現代における幸せの表現~
 ハートをかたどったジム・ダインの作品が11点も展示され、「小さなジム・ダイン展」になっています。特別展示は、河原温《百万年(過去・未来)》を始めとする馬場駿吉館長のコレクション。
◆最後に
 20年間続いた名古屋ボストン美術館の展覧会もこれが見納め。淋しくなりますね。
                            Ron.

展覧会みてある記「長谷川利行展 ―藝術に生き、雑踏に死すー」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「暑い日なら空いているだろう」と思い、先週の猛暑日に碧南市藤井達吉現代市美術館で開催中(9/9まで)の「長谷川利行展」(以下「本展」)を鑑賞。外気温が40度近くでも展示室内はひんやり。羽織るものを持ってこなかったことを後悔しました。
◆大盤振る舞いの展覧会
順路は2階の展示室から。作品リストの点数は144点ですが、うち6点は本展に出品されず、15点は後期展示(8/14~)なので前期の展示作品は122点。写真パネルや歌集「長谷川木葦(きよし)集」などもあるので、作品・資料が1階、2階の展示室4室にぎっしりと展示されています。しかし、入場料は900円と大盤振る舞い。お得感いっぱい、大サービスの展覧会です。英語の展覧会名は ”HASEKAWA Toshiyuki Retrospective”。「はせがわ りこう」ではないのですね。
◆Ⅰ 上京-1929 日暮里:震災復興の中を歩く
展示は年代順に3章で構成。第1章は《自画像》や二科展に初入選した《田端変電所》から始まっています。肖像画ではチラシに載っていた《靉光像》のほか《針金の上の少女》に目が留まりました。《夏の遊園地》《汽罐車庫》は大画面で迫力があります。TV番組の「開運!なんでも鑑定団」に出された《カフェ・パウリスタ》や神谷バーを描いた《酒売場》も目を惹きます。
 どれもフォーヴィスムの作家のような荒いタッチの描き方で、人により「好き・嫌い」がはっきりと分かれる作品です。「感想ノート」を開くと熱狂的な書き込みが目立ち、「好き」な人にとってはたまらない展覧会だと感じました。
◆Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる
 《岸田国士像》の解説に「4~5日かけて制作。小遣いをねだる。」と書いてあり「身近には居てほしくない」人に思えます。半面、写真パネルの解説を読むと麻生三郎などの後輩作家からは慕われていたようです。また、「へたも絵のうち」を読むと熊谷守一は長谷川利行の振舞いに呆れながらも、好意を持って接していたようです。
《酒祭・花島喜世子》は髪の毛が4本の角のように横に突き出たユニークな女性像。《水泳場》の解説には「隅田公園の屋外プールを田中陽の元で30分ぐらいかけて制作」と書いてあり、他人の家を転々としながら描いたことや早描きの作家だったことが分かりました。
なお、中日新聞に掲載されていた展覧会会場の写真には《女》《鉄道の見える風景》が写っていましたね。
◆Ⅲ 1936- 死 新宿・三河島:美はどん底から生じる
 第3章の解説には2年間に14回も長谷川利行展を開催した天城画廊の天城俊明(本名:高崎正男)のことが書いてありました。確かに1936年(昭和11)から1937年(昭和12)に制作された作品が「これでもか」というほど展示されています。「無理やり」だったかもしれませんが、天城俊明がいなかったらこれほど多数の作品は制作されなかったと思われます。この章の《白い背景の人物》は新たに発掘された作品。《ハーゲンベックの少女》は現代アートみたいです。千住火力発電所のお化け煙突絵を描いた《荒川風景》には「死」を感じました。
また、愛知県美術館・木村定三コレクションから《霊岸島の倉庫》《伊豆大島》《ノアノアの少女》《パンジー》などが出品されています。長谷川利行は「木村定三好み」の作家の一人だったのですね。
 《裸婦》(洲之内コレクション)など、ガラス板の裏から描いたガラス絵も多数展示されています。どれも小さなサイズですが、きれいな作品です。
◆おまけ=大正館で昼食
 昼食は名鉄・碧南駅前の「大濱旬彩 大正館」。大正3年創業、100年以上続く老舗ですが建物は平成28年完成の新店舗。カウンター席やテーブル席もありますが、大広間を区切った部屋に案内されました。食卓はテーブルと座卓の中間の高さで、椅子も机に合わせた低いもの。「畳にテーブル」の違和感がなく、椅子なので座りやすくて快適です。天井が高く、ゆったりできました。お味にも満足です。
◆最後に
協力会から「鑑賞ミニツアーおよび『大正館』お食事会の実施について」というお知らせが届いています。
お食事会は、8月26日正午から 旬彩御膳「碧」(2,000円・当日支払)
ミニツアーは、8月26日午後2時 碧南市藤井達吉現代美術館1階ロビー集合 です。
是非、ご参加ください。
                            Ron.