「藤田嗣治とは誰か 作品と手紙から読み解く、美の闘争史」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

「藤田嗣治とは誰か 作品と手紙から読み解く、美の闘争史」
矢内みどり(やないみどり)著  求龍堂 2015.2.18 発行

地元の図書館で見つけた本です。
先日参加した協力会の「小さな藤田嗣治展」ミニツアーで聞いた岐阜県美・廣江康孝学芸員のギャラリートークと響きあうところが多かったので、本の抜書きにミニツアーの感想などを加えたノートを作ってみました。
ページ数の表示があるのは本の抜書き、<注>は注釈、ミニツアーの感想などです。

◆ 筆者の意図
序にかえて
p.7 藤田嗣治とはどのような画家かと問われた時、如何なる答えがあるのだろう。
「エコール・ド・パリの寵児」、「猫と裸婦の画家」「戦争画の画家」などとよく言われてきたが、どれもある一時期の姿である。(略)
p.8 そして、「藤田は日本を捨てた」または「日本が藤田を捨てた」とも言われ続けてきた。
晩年フランスに帰化して日本国籍を抹消し、カトリックの洗礼を授かって自らを葬るべき礼拝堂を制作し、二度と日本の土を踏まなかったのを指してのことだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。(略)
 本書を、筆者が美術館を離れたのを機にしたこの問いに対するひとつの答えとして、また、画家の真実の姿に近付く一歩として、藤田嗣治についての謎解きの書としたい。
<注>
 奥付を見ると、筆者は目黒区美術館で約30年間学芸員として「レオナール・フジタ 絵と言葉展」などを実施、とあります。大学卒業が1975年ですから定年退職でしょう。
 なお、「どのような画家か」ということに関して、先日行った岐阜県美「小さな藤田嗣治展」(会期は11月1日まで)も「エコール・ド・パリの寵児」「猫と裸婦の画家」「戦争画の画家」とは違う、1950年代の藤田と君代夫人のプライベートな空間を彩った「小さな絵」を中心にした展覧会でした。

◆ アメリカ経由でフランスへ
第四章 フランク・エドワード・シャーマンと戦後
p.79 第二次世界大戦の終結直後、藤田を取り巻く環境は一変した。
 この時期に出合ったアメリカ人フランク・エドワード・シャーマンは、藤田の命運に大きくかかわっていく。
<藤田を訪問する>
p.85 シャーマンがハイスクール時代から雑誌などで知り、憧れていた著名な画家、藤田嗣治に出合うまでに、それほど時間はかからなかった。
(略)アメリカ本土から送られてくる雑誌などを、日本で再編集して印刷するのがシャーマンの仕事のひとつで、板橋の凸版印刷によく通った。この凸版印刷の知人から洋画家向井潤吉を紹介してもらい、藤田宛ての紹介状を入手して訪問したのだ。(略)
<深まる交流>
p.87 シャーマンと藤田との交流は、次第に深まっていった。
「私は、フジタが本当に好きだった。初めて会った時は、助けを求めていたし、またそうしても相応しいような人だった。(中略)周りの人は彼に冷たかったし、彼は危険にさらされていたと思う。だから、私が助けてあげようというつもりで付き合ったのだ。」
<注>
 「小さな藤田嗣治展」では岐阜県美所蔵の、仰向けで腹を出し気持ちよさそうに寝ている《猫》(1949年 油彩)を展示しています。廣江学芸員は「この絵は、君代夫人に贈られたもの。猫が無防備な格好で寝るのは居心地が良いから。藤田はこの絵で、君代夫人に“私の居場所はあなたの所”と伝えた。実は、これと同じような絵がもう一枚ある。それには背景が描かれていない。シャーマンに贈ったもので、背景がないのは“私には居場所がない。助けて欲しい。”と、伝えたかったから。」と解説していました。

<画家としての復活>
p.89 「私はまず、フジタを敗戦による絶望や、戦争画を描いたことによる負の気持ちから早く抜け出させて、社会的にも復活させ、かつての誇り高きボヘミアン・フジタとして甦らせようと努めた。」
<日本脱出>
p.94 シャーマンによれば、戦勝国側には多くの日本人を戦犯として挙げたい過激な者もいたため、当時の藤田の立場は、多少危険な水域に入っていたが、シャーマンの根回しも功を奏し、最終的には、GHQから戦争犯罪人として指名されることはなかったという。
p.95 その上、米国のビザをとるには、藤田がアメリカに親しみをもっているという印象を強めなければならず、シャーマンは「私も若かったのだが、今になって思い返してみると、随分向う見ずなことをやったのだと思う。」という。(略)
シャーマンは関係のありそうな団体を訪ねて調べたところ、例えば原子物理学者など優秀な研究者に与えられる「功労者向けビザ」があることが分かり、藤田にもあてはまる条件を引き出したという。そして、「諸々の規則に応えて、教師であること、教職のきちんとした履歴があることを証明」する資料を入手して、ようやく申請できることになった。その後ビザは下りたが、藤田ひとりだけで、妻君代は日本に取り残されることになる。
<日本からニューヨーク、そしてパリへ>
p.97~98 シャーマンは、ニューヨークの藤田から「古い馴染のアーティスト達が皆パリに戻っていく。私もパリに戻りたいと思った。」というような手紙を受け取ったという。(略)シャーマンはあくまで「フジタは当初アメリカに落ち着く気だった訳で、パリに戻ったのは第二次的なもので、最初からの計画ではない。」としている。
待ちに待った君代夫人が着いてから約11ヵ月後に、ニューヨークに別れを告げ、ともにフランスに渡った藤田は、ようやく念願のパリの街に着いた。
<注>
 「小さな藤田嗣治展」では《二人の思い出》という20.3cm×15.2cmのガラス絵がありました。内容は、藤田と君代夫人が結婚してから、アメリカ経由で渡仏するまでの思い出を描いたもので、ガラス絵に基づいた年表も併せて展示していました。
 
◆ フランスでの生活
第五章 最後のフランス暮らし
一、 すべてを絵画制作のために
p.107 パリに戻った藤田は、水を得た魚のように絵画制作に取り組み始めた。フランスだけでなくヨーロッパ各地で個展が開催され、作品は着実に評価を得ていった。
p.111 この頃に描かれた《夢》(油彩、一九五四年)では、天蓋付きのベッドに眠る裸婦の向こう側に、狸、狐、猫、鳩などの動物が描かれている。黒い背景に黒っぽい動物たち、手前の白い裸婦、フランスの伝統的な布など、色彩を抑えた作品である。
<注>
 「小さな藤田嗣治展」で、制作年、絵の内容がp.111と同じ《夢》という作品を展示していました。同じものなのでしょうか?廣江さんは「黒を背景にした乳白色。黒がアクセントになっている。」と解説していました。

p.114 ただ、この頃は、親しい人たちとの交流はあったようだ。
 一九五六年十一月三〇日付の手紙で、同二七日の誕生日には田村泰次郎夫妻と洋画家伊原卯三郎とともに、お赤飯と煮しめ、鯛、海老などの料理を大量に作って、シャンペンで祝ったと記している。(略)
 こうした交流を見れば、藤田は決して人嫌いではなく人を選んで親しくしていたという普通のことだろう。

三、 作品 ― 都市パリからキリスト教へ
p.148 一九六五年、藤田は七九歳。「この頃礼拝堂を建立し、室内をフレスコ画で装飾する計画をたてる。当初、ヴィリエ・ル・バルクに場所を探していたが、洗礼式の代父をつとめ、ランスのシャンパーニュ会社G・H・マムの経営者であったルネ・ラルーのすすめでランスに建立することになる。」礼拝堂はこの翌年完成する。
 一九六八年、藤田が逝去。現在は、自ら建てた礼拝堂に葬られている。別邸はその後、藤田の美術館ラ・メゾン=アトリエ・フジタとなった。
<注>
 今年2月7日(土)に開催された、ランス(Reims)美術館館長の講演では「礼拝堂の完成式に、フジタは200人のジャーナリストを集めた。」と言ってました。
また、「マム(Mumm)社の社長はフジタの友人で、マム社のバラの絵はフジタが描いたもの。」、「フジタの礼拝堂で結婚式を挙げる若い日本人のカップルが増えている。」とも。
 
十一、 パリでの社交生活
p.199 一九五七年一月二九日付の手紙で、クリスマスには大統領から毎年のように「雉の雌雄二羽」を贈られ、それを焼いてお祝いしたことを記している。
p.202 藤田は、文化人タレント並みに一般的な人気があったようである。
<注>
 廣江さんは「観劇などに藤田が行くと、VIPということで主催者が藤田を紹介することが多い。そうすると、子どもが寄ってくるので、藤田はポケットにお菓子を用意しておき、プレゼントした。」と語ってくれました。

十三、 病との闘い
<命と引き換えた礼拝堂の壁画>
p.218 一九六七年一月六日付の手紙によると、一九六六年、十二月八日にパリの病院に入院し、手術の後、翌年一月三日に退院し、村の家に二七日もどった。入院や手術は生まれて初めてのことであったという。
p.219 病気の兆候はその一、二年前からあったが、一九六六年に、ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画制作の大仕事があり、六月三日から八月三一日まで約三ヵ月ほとんど休みなく、フレスコ壁画で水を多く使ったために、どうしても湿気が多くて、壁画の足場の上に座布団を敷いて、その上に座り日本式に描いて、日が照ると交代でその座布団を干したりしていたが、湿気は多く腰にきた。(略)
p.222 そしてこの後、藤田嗣治は、一九六八年一月二九日、スイスの病院で八一歳の生涯を閉じた。

◆ 答えとしての藤田嗣治
あとがき
p.232 今、藤田嗣治とは誰か、と問われたら、筆者は、「藤田嗣治は、一九世紀来のジャポニスムを二〇世紀の西洋美術の中で完成させた画家である」と答えるだろう。
<注>
ランス美術館館長の講演でも「ジャポニスムは20世紀のフジタに結実した。」と語っていました。

p.233 かつては、藤田の展覧会もあまり開かれず、戦争画の展示はほとんど控えられていた。
 近年は、いくつもの充実した大規模な回顧展や、藤田を含むエコール・ド・パリの展覧会が開催されている。
<注>
廣江さんも「数年前から、故君代夫人が長年所蔵してきた藤田の作品が市場に出回り始めている。藤田は再び注目され、2014年には藤田関連の展覧会が全国43か所で開催された。」という趣旨の話をしていました。

p.233 一方で、もし、戦争画そのものでなく相変わらず藤田の生き方の問題などで終始したり、藤田に五人の妻や女性がいたことなどを強調するとしたら、藤田の画家としての功績を検証するところまで行き着くのは難しいだろう。
p.234 筆者は<序にかえて>において、藤田をエコール・ド・パリの寵児と呼ぶことに疑問を呈したが、当然、この時代の藤田の作品には、全作品の中でも秀逸なものが多い、と考えている。(略)
 そして藤田は、フランス画壇で絶賛された「裸婦」に留まることなく、大画面に挑み、また次々と画境を展開するという天才的な力を発揮した。(略)
<注>
 廣江さんも「藤田はフランスで一番売れた日本人画家。そして、藤田は自分の作品を壁画として成り立つ大きなものへと発展させた。群像画家でもある。実力がないと、大画面や群像は描けない。」と、言ってましたね。

p.236 最晩年、藤田が達した境地を、筆者なりに考えれば、
 「桃源郷に遊ぶ魂」(宗教的・神話的世界)
 「具象と抽象の溶解」(平面性と立体性の両立)
 「未成熟なものへの傾倒」(子どもの世界を描く)
 といった日本伝統の美意識があふれている。それは、日本にいる時よりずっと強いものになっていただろう。(略)
<注>
 「小さな藤田嗣治展」では、子どもたちの絵があふれていました。廣江さんは「渡仏して藤田が見たものは荒廃したフランス。藤田は、目の前の子どもたちを描くことで“古き良き時代のフランス”を記憶に留めようとした。」と評していました。

p.237 藤田が最後まで大切にしていた人たちは日本人であり、大切にしていた国は日本であったと思う。
<注>
 廣江さんも「藤田は日本人を嫌っていたという話があるけれど、本当は好きだった。人を選んでいただけ。」と語ってました。

<最後に>
 先日、名古屋市美の「ラファエル前派展」に行って二階への階段を上がると、来春の4月29日から7月3日まで藤田嗣治展を開催することを告知する小さなプラカードが出ていました。
紹介される作品はフランスのランス美術館のコレクションが中心になるようですが、ランス美術館館長の講演では「ランス美術館はフジタの作品の寄贈を受けている。特に、デッサンが充実している。寄贈を受けたコレクションは2種類。ひとつはエコール・ド・パリの寵児のもの、もうひとつは洗礼を受けた敬虔な人のもの。」と言ってました。
 「エコール・ド・パリの寵児」「猫と裸婦の画家」「戦争画の画家」だけではない藤田に会うことが出来るのではないかと、今から楽しみにしています。
                                  Ron.

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