「クマのプーさん」展 協力会向け解説会

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開幕したばかりの「クマのプーさん」展(以下「本展」)の協力会向け解説会に参加しました。参加者は29名。講師は、井口智子学芸課長(以下「井口さん」)。知っているようで、実はほとんど知らなかった「クマのプーさん」についての解説を2階講堂で聞いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆井口さんの解説の要点(16:00~16:45)

 以下、井口さんの話を、ざっくりと記します。

〇「クマのプーさん」(Winnie-the-Pooh)について

解説会の冒頭、井口さんから二つの質問がありました。一番目の「プーさんを知っている人」という質問には、ほとんどの参加者が挙手。しかし、二番目の「プーさんの本を読んだことがある人」という質問に挙手したのは、ほんの数人。じつは私も、プーさんは「ディズニー・アニメのキャラクター」という認識しかなく、「プーさんの本」どころか、アニメ映画も見たことはありません。プーさんについて知っているようで、実はほとんど知らなかったことを、改めて知りました。

井口さんによれば、プーさんは、物語「クマのプーさん」(原題:Winnie-the-Pooh、1926)のキャラクター。挿絵を描いたのはE.H.シェパード(Ernest Howard Shepard。以下「シェパード」)。最初の挿絵は「ペン画」ですが、本展では1950~1960年代にカラーで描き直したものを展示している、とのことでした。

〇「クマのプーさん」展について

井口さんによれば、本展は東京・立川市のプレイミュージアム(PLAY! MUSEUM)が企画した展覧会で、展示デザイン・コンセプトもPLAY! MUSEUMによるもの、とのこと。展覧会の構成等は下記のとおりです。

① プーさん A to Z

 挿絵原画を鑑賞する予習として、「プーさんの物語」に関するキーワードを整理、解説したもの

② アッシュダウンの森

 映像のインスタレーション。井口さんは「小さな巣箱の中も覗いてみてください」と、付け加えました。なお、吹き抜けでもアッシュダウンの森をドローンで撮影した動画を投影

③ 1950-60年代に描かれた挿絵の原画

 100点ほどの原画を展示。原画は、岩波書店の「プーさん」シリーズの表紙や口絵にも使われているものです

〇「クマのプーさん」の本について

井口さんによれば、原作者はA.A.ミルン(Alan Alexander Milne)。彼は第一次世界大戦に通信将校として参戦。1920年に、長男のクリストファー・ロビンが生まれ、子ども向け詩集を皮切りに4冊の本を発行。プーさんのモデルは、子どもが一歳の時に買い与えたテディ・ベアのぬいぐるみ。灰色のロバのぬいぐるみやコブタのぬいぐるみも子どものためのもの、とのことです。

シェパードは、第一詩集「クリストファー・ロビンのうた」(原題:When We Were Very Young、1924)にもプーさんの姿を描いています。ただし、プーさんという名前は、まだ付いていません。

プーさんの物語の舞台は、百町森(Hundred Acre Wood)。ロンドンの南にあるミルンの田園の家のそばのアッシュダウンの森をモデルにしている、とのことでした。

〇「プーさん A to Z」のみどころ

A America 本展の原画は、シェパードが1950-60年代にアメリカの出版社E.P.ダットンのために描いたもので、アメリカのエリック・カール絵本美術館の収蔵品

I Ishii Momoko 「プー横丁に建った家」(原題:The House at Pooh Corner、1928)の朗読(注:日本語版は、1942年初版)の声が流れています。カーペットが敷かれており、座ることができます

H Hundred Acre Wood 百町森のイラスト(チラシにも掲載)を展示。「スペルミス」を探してください

V Four Volume ミルンが書いた4冊の本を展示。英語版は横書きで右開きですが、日本語版は縦書きで左開きになります。そのため、進行方向が自然に見えるよう、左右を逆転したものもあります。

 本展とのコラボ企画として、名古屋市の図書館にも「クマのプーさん」コーナーがあるのでご覧ください。

◆自由観覧(16:45~18:00)

本展の会場入口は、2階でした。

〇プーさん A to Z (2階)

井口さんのお話どおり、予習のための展示でした。印象的だったのは、G Gloomy Place 灰色のロバのぬいぐるみ「イーヨー Eeyore」の家と、J Jars ハチミツの入れ物、N North Pole プーがつかんだ棒でした。二次元の挿絵ではなく、三次元の「物体そのもの」を展示しているので印象が強かったのでしょう。

〇アッシュダウンの森(2階)

 鳥の鳴き声やせせらぎの音などが聞こえてきて、森の中にいるような感じがします。座るところもあります。都会の喧騒から解放される、とても居心地の良い空間でした。

〇1950-60年代に描かれた挿絵の原画(1階)

・展示空間

展示室に円形の壁を設置して、中央に緑、青、黄、赤色の大きな布が垂れています。円形の壁には挿絵の原画が展示され、中央の広場には、①コブタが、ぜんぜん、水にかこまれるお話、②プー横丁にイーヨーの家がたつお話、③プーがあたらしい遊戯を発明して、イーヨーが仲間に入るお話、の原画をケースに入れて展示。ケースには絵本の「おはなし」が書かれているので、絵本を読んでいるような気分です。ケースの周りには、カーブした長い箱。箱の上面には緩やか起伏があります。最初「大人も子どもも座れるように、座面の高さを変えたのかな?」と思ったのですが、「物語の舞台となる百町森(Hundred Acre Wood)の地面の緩やかな起伏を表現したのではないか?」と思い直しました。井口さんによれば、円形の壁、緩やかな起伏など、展覧会の展示デザインは、PLAY! MUSEUMのオリジナル、とのこと。今までに体験したことのない展示空間でした。

・展示作品

展示作品は、シェパードのオリジナル。印刷用の挿絵の原画ですから観賞用の絵画とは違い、「小さな作品」ばかりですが、細かい所まで克明な線で描いているだけでなく、色彩が鮮やかで見ごたえがあります。本展にはあまり期待していなかったのですが、そのような先入観を持って解説会に来たことを反省するばかりです。

◆東京・立川のプレイミュージアム(PLAY! MUSEUM)について

「円形の壁の展示室」が気になり、家に帰ってからPLAY! MUSEUMについて調べてみました。ネット上にある2020年の記事(https://mag.tecture.jp/culture/20200609-988/)によれば、PLAY! MUSEUMは、2020年6月10日、東京・立川駅北側の旧飛行場跡地に誕生した新街区「GREEN SPRINGS(グリーンスプリングス)」の施設の一つです。新街区のコンセプトは「空と大地と人がつながるウェルビーイングタウン」。38,900.20平方メートルの敷地内に、多摩地区では最大規模となるホール、ホテル〈SORANO HOTEL〉、各種ショップ、保育園、複合文化施設〈PLAY!〉などがあります。PLAY! MUSEUMはPLAY!の2階で、その名物は「楕円形の展示室」とのことでした。模型写真を見ると、本展1階展示室を楕円形にしたものです。

そうすると、本展の1階展示室はPLAY! MUSEUMの壁を持ってきたのではなく「PLAY! MUSEUMの壁と同じようなものを名古屋市美術館で一から組み立てた」ということになりますね。本展の内装工事は、相当に大掛かりなものだったと思われます。

なお、PLAY! MUSEUMについては(MUSEUM|PLAY! MUSEUMとPARK (play2020.jp))もご覧ください。

内装設計をした「手塚建築研究所」についても調べると、500人の子どものために作られた外周183mの楕円形の「ふじようちえん」を設計していました(ふじようちえん|教育施設実績|手塚建築研究所 (tezuka-arch.com))。楕円が好きなのですね。「ふじようちえん」の屋上デッキでは、園児が遊ぶこともできます。

◆最後に

 井口さんによれば、「展覧会はスタートから好調」とのこと。挿絵の原画はもちろんですが、美術館1階の展示空間も見ものです。「プーさんA to Z」の展示や「アッシュダウンの森」のインスタレーションも、本展独自のもの。「スタートから好調」というのは、確かに頷けます。お勧めですよ。

ていねいに展示の工夫などにも言及してくださいました。
井口課長さん、ありがとうございました。

Ron

「ボテロ展 ふくよかな魔法」 協力会向け解説会

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館(以下「美術館」)で開催中の「ボテロ展 ふくよかな魔法」(以下「本展」)の協力会向け解説会に参加しました。参加者は49名、猛暑とコロナ禍での開催としては、予想以上に多い人数です。講師は、本展担当学芸員の久保田舞美さん(以下「久保田さん」)。解説会では初めてお目にかかる学芸員さんです。2階講堂で本展の解説を聞いた後、自由観覧・自由解散となりました。

◆久保田さんの解説の要点 (16:03~45)

 以下、久保田さんの解説の要点をかいつまんで記します。

〇ボテロの略歴

1932年、南米コロンビアのメデジン生まれ。現在90歳で、現役の世界的作家。ゲルハルト・リヒターと同じ年の生まれ。「現在も現役の世界的作家」という点も共通。絵画だけでなく、彫刻も制作。1949年、ピカソの評論を地元の新聞に投稿し、高校から退学処分を受ける(17歳)。1956年、マンドリンの穴を小さく描いたら、マンドリンのボリューム感が増すことを発見(24歳)。1959年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに、コロンビア代表として《12歳のモナリザ》を出品(27歳)。1961年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が《12歳のモナリザ》(1959)を購入(29歳)。1963年、メトロポリタン美術館がレオナルドダヴィンチ《モナリザ》を展示しているときに、MoMAが《12歳のモナリザ》を展示して、注目を集める(31歳)。

〇本展について

日本では26年ぶりの大規模展。愛知県では初めての展覧会。ボテロ本人が監修した70点の絵画を出品(彫刻はない)。展示作品のほとんどが、日本初公開。なかでも《モナリザの横顔》(2020)は、世界初公開。

〇出品作品について

出品作品に関する久保田さんの解説については、次の「自由観覧」の中で触れます。

◆自由観覧(16:45~18:00)

〇第1章 初期作品

《泣く女》(1949)は、17歳の時の作品。久保田さんによれば「ピカソの『青の時代』の影響を受けているほか、オロスコなどのメキシコ・ルネサンスの壁画の影響も受けている」とのことです。ボテロは、17歳の時から「ボリュームのある人物」を描いていますが、この時代は手や足など「体の末端が肥大」しているように見えます。また、久保田さんの解説によれば《バリェーカスの少年(ベラスケスにならって)》(1959)は「《12歳のモナリザ》に似ている作品」です。《庭で迷う少女》(1959)も《馬に乗る少女》(1961)も、この時代の作品は「ふくよかな人物」というよりも「二頭身の人物」を描いているように見えます。

〇第2章 静物

《楽器》(1998)に描かれているギターは穴がとても小さく「ボテロが1956年に描いたマンドリンも、こんな姿をしていたのかな?」と思わせる作品でした。ピンク色の布(ふとん?)の質感描写も素晴らしいと思います。《洋梨》(1976)について、久保田さんは「伝統的な静物画のジャンル=ヴェニタス(人生のむなしさの寓意)を踏まえて、腐りかけの果物を描いたもの。果物をかじった跡や、穴、果物を食べている虫を描いているのは、そのため」という趣旨の解説をされました。「虫は目も描かれていて、かわいい」と、付け加えています。「腐りかけ」というなら「萎れて崩れかけた果物を描く」という手もあると思いますが、さすがはボテロ。腐りかけの果物であっても、みずみずしさにあふれています。一方、果物のヘタだけでなく、誰かが齧った跡、虫、どれをとっても小さいので、洋梨のボリューム感は半端ないものでした。

解説の最後に、参加者からの「ボテロにとって、青はテーマカラーですか?」という質問に対し、久保田さんは「青、赤、緑のバランスを取っている。大小のバランスも取っている。青が特別な色という訳ではない」と回答していましたが、《黄色の花(3点組)》《青の花(3点組)》《赤の花(3点組)》(いずれも2006)の三点は、久保田さんの回答のとおり、色のバランスを取った作品でした。特に《青の花》《赤の花》は、花と花瓶の色が補色関係になっており、色の対比とバランスを考えた作品だと思います。

〇第3章 信仰の世界

《キリスト》(2000)を見て、特定の年代の参加者は「俺たちひょうきん族の神様にそっくり」と言っていました。若い人には何を言っているのか分からないと思いますが、とにかく似ています。《コロンビアの聖母》(1992)について解説の最後に、参加者から「幼いキリストと思われる子どもが現代風の服を着ているのは、何故ですか?聖母がつまんでいるのは果物ですか?」という質問がありました。久保田さんの答えは「ボテロに聞けば、ピンクが欲しかったから、と答えるかもしれません。聖母がつまんでいるのは果物です。子どもがつまんでいる小さなものは、コロンビアの国旗。ボテロが、この作品を描いたのは1992年当時のコロンビアの暴力的な環境にあるのでは、とも思いますが、答えは不明です」というものでした。1992年といえば、1984年から続いた、麻薬組織メデジン・カルテルとコロンビア政府との「麻薬戦争」が終結した年です(Wikipediaによる)。久保田さんによれば、《守護天使》(2015)は「ボテロの自画像」です。

〇第4-1章 ラテンアメリカの世界

最初に展示されているのが《バルコニーから落ちる女》(1994)。何が起きたのか、よくわかりませんが、説明書きには「陰謀の犠牲者か?」と書かれています。《ピクニック》(2001)に説明書きはありませんが、「芸術新潮」2021年12月号は「草原でくつろぐ男女は、マネの《草上の昼食》が元ネタ」と書いています。言われてみれば、そんな雰囲気が漂っています。元ネタそのままではなく、一度自分の中に取り込んでから「ボテロ流」に再構成した作品ですね。ボテロの作風には、揺らぎがありません。《通り》(2000)に違和感を覚えたので説明書きを見ると「現実にはあり得ない空間。(略)絵画とは現実を表したものではなく、個人的な現実を独自の視点と体験をもとに創り上げたもの」と書かれていました。

〇第4-2章 ドローイングと水彩

4-2章からは2階に展示。キャンバスに青鉛筆で描き、水彩絵の具で彩色した作品が並んでいます。いずれも、2019年に制作したもの。思わず「うまい」と、声を出してしまいました。描かれているのは、どれも「ふくよかな」人物ですが、油絵と違って「凛々(りり)しく」、違和感がありません。とはいえ、作風そのものは、まったく変わっていませんでした。

〇第5章 サーカス

「サーカス」で一つの章を構成するのですから、サーカスは、ボテロにとって「欠かせないもの」だったのでしょうね。どの作品にも、補色関係である緑と赤の対比が使われていました。「現実にはあり得ない遠近感」も、楽しめます。

〇第6章 変容する名画

名画がどのようにデフォルメされたか分かるように、元ネタとボテロの作品を並べて展示しています。なかでも、久保田さんが力を入れて解説したのは《ピエロ・デラ・フランチェスカにならって(2枚組)》(1998)でした。キーワードは「この作品には、フランチェスカに対する尊敬があらわれている。陰影を強くつけることなく、線と色彩でボリューム感を出している。フランチャスカを思わせるのは、無表情ではなく、口角を挙げて少し微笑んでいること。ボテロの様式で描いた、気分の上がる作品」等です。展示室で見ると、とても大きな作品でした。画面の上下を縮めて「ふくよか」な感じを強調していますが、他の作品に比べるとデフォルメの程度は小さく感じます。この作品で見入ったのは、服や帽子、髪飾りなどの質感描写です。イタリアで基礎を学んだだけあって、久保田さんの解説どおり「線と色彩でボリューム感」を出していました。質感も出ています。ボテロなら、元ネタそっくりに描くことも出来るでしょうが、それでは「模写」であって彼の「作品」にはならないので、デフォルメした作品を制作したのでしょう。絵の向きも、元ネタの逆です。他に目を引かれた作品が《フォルナリーナ(ラファエロにならって)》(2008)でした。ボテロの描く人物の多くは無表情ですが、このフォルナリーナの眼差しや唇は、妙に色っぽいのです。《モナリザの横顔》(2020)にも表情があります。このことを久保田さんに質問したところ、「微笑や眼差しは、作品を特徴づけるもので、不可欠な要素。なので、デフォルメしても、残したのではないか」という趣旨の回答をいただきました。上記以外の作品も「元ネタそのまま」ではなく、人物の向きや、服装などを変化させています。それを発見するのも、鑑賞の醍醐味だと思いました。

◆ボテロとゲルハルト・リヒターは、共通点があるものの、対照的な作家

ボテロもゲルハルト・リヒターも1932年生れで、世界的な作家、日本で大規模な巡回展が開催されている、という共通点があるものの、素人ながら対照的な作家だと思います。ボテロは20歳の時に描いた作品が第9回コロンビア・サロンで二等賞を獲得。その賞金でヨーロッパに渡り、プラド美術館でゴヤやベラスケスを模写。その後パリに移り、ルーブル美術館で巨匠の作品を模写。更にフィレンツェに移り、サン・マルコ・アカデミーに入学。フレスコ画の技法を学び、フィレンツェ大学美術学科でロベルト・ロンギの講義を受けています。抽象絵画が主流の時、古典絵画をデフォルメするという作風を確立してからは、作風を変えていません。一方、リヒターは東ドイツで描いていた「社会主義リアリズムの壁画」に疑問を持ち、西ドイツに出国。デュッセルドルフで抽象絵画の洪水に出会い、模索の後、フォト・ペインティングで評価されます。その後、カラーチャートやアブストラクト・ペインディングなど、具象と抽象の間で作風は変遷しています。「どちらが良いか」というのではなく、今年は対照的な二人の作家の展覧会を続けて鑑賞することができる、又とない機会だということです。

◆最後に

 正直に言うと、あまり期待せずに来たのですが、良い意味で裏切られました。いずれの作品も「ふざけて、ふくよかな人物を描いたのではなく、元になった名画に敬意を表して、まじめに描いたもの」でした。大きな作品が多く、見応えがあります。解説会にも予想以上の数の参加者がありました。お薦めですよ。

Ron

布の庭にあそぶ 庄司達展 解説会

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

5月15日日曜日、4月29日から名古屋市美術館にて開催されている「布の庭にあそぶ 庄司達展」の協力会会員向け解説会が行われました。当日は2時間ほど前に作家自身によるアーティスト・トークも開催され、大勢の観客が訪れており、その余韻残るなかで解説会が始まりました。

今回展示は2階の展示室から始まっています。まずは作品のマケット(模型)が並んでいるところから。今回作品が展示されているものもありますが、マケットのみで実際の作品はまだ制作されていないものもありました。

今回、2階の展示室は移動壁を一枚も出していないそうです。そのような使い方をしてみると、2階展示スペースが非常に明るく、インスタレーション作品向けであると実感されたとのこと。なるほど、かなり前ですが、トリエンナーレでインスタレーション作品が展示されたときも、非常に面白い展示になっていたなと思い出しました。

庄司さんの作品は、体を使って体感するものが多く、作品の中に人が入ることが、作品にとって非常に大切であるとのこと。後に展示室でそれを十分に実感しました。

簡単なレクチャを聞いたあとに展示室をゆっくり堪能。会員は、作品の間を抜けて移動したり、なかには作品のなかで寝転んだりしてこの時間を楽しんでいました。実際に布を触ってみることが出来る作品もあり、触ったり、作品の中に迷い込んだり、それぞれが思い思いの楽しみ方をして過ごしました。

「ゴッホ展」 会員向け解説会(B日程)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開幕した「ゴッホ展 ― 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」(以下「本展」)の名古屋市美術館協力会・会員向け解説会(B日程)に参加しました。気温の変化が激しいためか、6人の欠席があり、参加者は30人。2階講堂で森本陽香学芸員(以下「森本さん」)の解説を聴き、その後、自由観覧・自由解散となりました。

◆2階講堂・森本さんの解説(16:30~17:20)の概要 

メモと記憶で書いていますので、不正確な点はご容赦ください。

・「ヘレーネ」とは?

 本展のサブタイトルは「響きあう魂 へレートフィンセント」。皆さんご存じの通り「フィンセント」はフィンセント・ファン・ゴッホのことですが、「ヘレーネ」は、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(以下「ヘレーネ」)。彼女は、今回出展のクレラー=ミュラー美術館の基礎を築きました。今回、オランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館からも4点出展。ファン・ゴッホ美術館はファン・ゴッホ家のコレクションを元にしており、クレラー=ミュラー美術館はヘレーネが収集したコレクションを元にしています。いずれのコレクションも、重要性が高く、規模の大きいものです。

・ヘレーネが結婚するまで

 ヘレーネはドイツ人で1869年に、ドイツ中西部・エッセン郊外のホルストで生まれました。まじめで勉強熱心な少女で、父親は鉄鉱石と石炭を扱うミュラー社を設立し、海運業にも進出します。少女時代の名前はクレラー・ミュラー。「教師になりたい」と思っていましたが、19歳の時、アントン・クレラー(以下「アントン」)と結婚し、ヘレーネ・クレラー=ミュラーとなります。「クレラー=ミュラー」は、夫妻の名字を合わせたもので「二重名字」と呼ばれ、ヨーロッパでは良くあることです。

少女の頃、ヘレーネはレッシング、ゲーテ、シラーの著作を熱心に読みました。また、哲学者スピノザの汎神論に興味を示し、教会に対する疑いを抱きました。「宗教によって救われることはありえない」として、心のよりどころを他のものに追い求め、美術作品が心の支えとなりました。

 アントンはミュラー社の社員で、いわば「婿養子」です。会社の都合でヘレーネ夫妻はオランダに引っ越します。父親が死亡するとアントンはミュラー社の取締役となり、彼の商才で会社を成功させます。

・美術教師ブレマーとの出会い、ヘレーネの審美眼

 ヘレーネは、美術教師のヘンドリクス・ペトルス・ブレマー(以下「ブレマー」)と出会い、美術に対する興味を増します。裕福な家庭では、専門家を家庭教師とすることがあり、ヘレーネも1927年、38歳の頃からブレマーのレクチャーを受け始めます。ブレマーは主に図版を使って、美術教育をしましたが、可能な場合には本物の作品を使い、「作品の収集が一番の勉強」とも教えました。ヘレーネの審美眼は、ブレマーから教わったものです。ヘレーネが作品を収集するとき、ブレマーの助言は受けたものの、最後は自分で「これは良い」と思ったものをコレクションする、という姿勢を貫きました。

・所蔵作品の展示

 クレラー=ミュラー美術館本館の展示室は、ヘレーネが館長の頃と変わっていません。しかし、開館後、増築され、野外彫刻も充実しました。開館当時との大きな違いは、作品の展示の仕方です。ヘレーネは作品と作品の間隔を空け、目線の位置に合わせて展示しましたが、展示室の中に家具や椅子も置いています。現在、家具などは置いていません。なお、当時は、二段掛け、三段掛けで天井近くまで使い、壁一面に作品を並べる展示方法が一般的でした。一方、現代の美術館では、ホワイトキューブ(白くて四角い建物)の中に、横一列に間隔を空けて展示するのが一般的です。

・ヘレーネが収集した作品

 ヘレーネが収集した第一号の作品は、パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル《それは遠くからやって来る》(1887)です。作者は、オランダの印象派と言われるハーグ派の画家。フランスとオランダとでは、光が違います。オランダは、グレイがかった灰色の光が多いのです。コレクション第一号なので、堅実な作品を選んでいます。

 また、最初期に集めたゴッホの作品は《森のはずれ》(1883)です。彼がハーグ派やバルビゾン派にあこがれていた頃の作品で、後期のゴッホらしい作品とは趣が異なります。《レモンの籠・瓶》(1885)は、アルル時代の作品です。1909年に購入したもので、レモンが「じゃがいも」のように見えますが、力強い、生命力のある作品です。ゴッホはこの作品で、色彩の使い方、補色の対比を研究しています。激しい色使いではありませんが、黄色いモチーフに赤い輪郭線を描くことで画面を引き締めています。補色関係というと、青と黄色の対比がイメージされますが、この作品ではレモンの黄色とテーブルクロスの黄色という類似色の使い方についても研究しています。ヘレーネは、この作品気に入り、手元に置いて、この作品に対する思いを手紙に残しています。ヘレーネの手紙〈ゴッホが描いたレモンを理解しようとするとき、私は頭の中で数個のレモンをゴッホのレモンの隣に並べてみます。そして、現実のレモンと、ゴッホのレモンがどれほど異なっているかを感じるのです〉(1909.03.26)

この手紙の内容を解釈すると、この作品は「果物としてのレモン」ではなく、「レモンの持っている存在感」を現わしている。現実以上のものを表現していることが大きい、ということだと思います。ヘレーネは「その作品に精神性のようなものを感じられるか」を収集の判断基準にしていました。

・収集した作品の保管場所

収集した作品が増えると自宅では収まらず、ハーグにあったミュラー社の隣のビルを作品の保管場所にしました。1階ホールの写真を見ると、キャビネットの上にも作品が並んでいます。真ん中に写っているのは、今回出展の素描《コーヒーを飲む老人》(1882)です。オランダ時代の油彩を保管している部屋の写真を見ると、二段掛け、三段掛けは当たり前で、作品が壁一面に並んでいます。当初、保管場所は「鑑賞の場」ではありませんでした。収蔵作品を一般に公開するのは1913年以降のことです。

ゴッホの作品を一般公開した当時、ゴッホを常設展示する場所はありませんでした。ヘレーネが一般公開したコレクションは「ゴッホの作品をまとめて見ることができる場所」として重宝されました。

・「展示方法」に対するヘレーネのこだわり

写真をご覧ください。6点の作品を3点ずつ二段掛けで並べています。上段、下段とも中央が縦長の作品、両脇が横長の作品です。上段の左右はどんな作品か判別できませんが、中央は今回出展の《夕暮れの松の木》(1889)、下段中央は《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)です。下段、向かって右は今回出展の《麦束のある月の出の風景》(1889)、向かって左は日の出を描いた作品です。縦長の樹木の絵2点を中央に置き、下段は左右に日の出と月の出を対比して配置するなど、ヘレーネは「どんなふうに見せるか」という点にもこだわりを持っていました。

・クレラー=ミュラー美術館の建設

クレラー=ミュラー美術館はオランダの東南部、オッテルローの町はずれの広大な農地の中にあります。ヘレーネが「美術館は自然豊かなところにあるのが望ましい」と考えたからです。

美術館建設の最初の案は宮殿のようなものでした。しかし、ヘレーネは却下。「シンプルで機能的なものがよい」というヘレーネの考えに基づいてアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドが設計したシンプルな案を採用して建設が始まったのですが、1921年に会社が財政危機に陥り、全ての事業がストップしてしまいました。

 アンリ・ヴァン・ド・ヴェルドはベルギー出身の、アール・ヌーボー調の建物を設計した建築家です。美術館を設計したのは彼の晩年に当たります。彼が設計した美術館は装飾が少なく、シンプルなものです。また、彼は絵も描き、今回出展の《黄昏》(1889)は、点描による彼の作品です。

 財政破綻の危機に陥ると、多くの場合「コレクションを売却して危機を乗り越える」ということになりますが、ヘレーネはコレクションを売却せず、クレラー=ミュラー財団に移管して作品を守りました。それだけでなく、コレクションの価値を国にアピールし、文部大臣と交渉。その結果、オランダ政府が美術館建設を認めたのですが、1929年に世界恐慌が起きます。紆余曲折を経て、1930年代に、国がクレラー=ミュラー財団のコレクションを元にした美術館の建設を決定。1938年になってクレラー=ミュラー美術館が開館し、ヘレーネは初代館長に就任します。

・ゴッホ作品の評価向上に対するヘレーネの貢献

 1930年代になると生前に比べて、ゴッホの評価はかなり上がりました。収集家の力で、作品の評価が上がったのです。ゴッホの死後、展覧会を開いて徐々に評価が上がり、多額の資金を使った収集によって、ゴッホ作品に世間の関心が集まりました。ヘレーネ以外にもコレクターがいました。また、ファン・ゴッホンの遺族の努力で書簡集が発行されたこともあり、1930年代にはゴッホの評価が確立したのです。

・主なゴッホ作品について

《悲しむ老人(「永遠の門にて」)》(1890)

このモチーフは、オランダ時代にゴッホがリトグラフで制作したものです。当時、このような姿勢は、よく制作されたモチーフです。この作品はサン・レミ時代に、リトグラフを油彩でコピーしたものです。補色関係の黄色と青の対比が目を引きます。かつて制作したリトグラフと同じモチーフを描いたのは、当時、精神疾患でつらい生活をしていたためです。

 この作品は、夫のアントンが結婚25年の記念として、ヘレーネにプレゼントしたものです。アンリ・ファンタン=ラトゥールの女性像《エヴァ・カリマキ=カタルジの肖像》(1881)と一緒に贈られました。ヘレーネは、アントン宛の手紙(1913.5.17)に〈大きくて、高価な真珠のネックレスをもらったとしても、これほど喜ぶことはなかったでしょう〉と書いています。なお、今回出展作の中に、アンリ・ファンタン=ラトゥール《静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ》(1966)があります。ヘレーネはファン・ゴッホと同じくらい、この作家を評価していました。

《種まく人》(1888)

 ヘレーネは、サン・レミ時代の作品から収集を始め、その後、他の時代の作品も収集するようになります。《種まく人》はアルル時代の作品で、今回の目玉の一つです。ミレーの絵を元にして、色彩豊かに、大きなサイズで現代風に描いたものです。この作品では「太陽」が大きな意味を持っています。ゴッホは、パリ・アルル時代から「教会」のイメージを太陽に置き換えています。オランダ時代にも教会を描いていましたが、パリ・アルル時代から、太陽(自然)を教会(宗教)に置き換えることを意図しています。ヘレーネがどこまで理解していたかは分かりませんが、自分の考えとの親和性を感じていたと思います。

《夜のプロヴァンスの田舎道》(1890)

 ゴーギャンの影響を受け、目の前の景色を見たまま描くのではなく、記憶を再構成して描いています。ベックリン《死の島》に糸杉が描かれているように、糸杉は「死」のイメージを持っています。また、糸杉は南フランスに特徴的なもので、オランダを代表する樹木は柳です。オリーブの樹も南フランスを代表するものです。糸杉はエネルギッシュで、力強いものでもあります。この作品は、世界中で好まれています。

《黄色い家》(1888)

 テオの妻ヨーが尽力して守ったコレクションを所蔵するファン・ゴッホ美術館から出展されました。描かれているのはゴーギャンと共同生活をするために借りた家です。ゴッホとその弟テオも素晴らしいですが、彼らの死後に奔走したヘレーネとヨーの功績も素晴らしいと思います。これまで、さまざまに語られたゴッホの作品ですが、新しい切り口は残っています。

◆最後に

 森本さんは「フィンセント」だけでなく、「ヘレーネ」についても時間を割いて解説してくださいました。クレラー=ミュラー美術館の設計者が点描の画家だったことや、美術館の建設に立ちはだかった様々な障害など、興味深い話をいくつも聞くことができました。森本さん、

ありがとうございました。

Ron