「至上の印象派」ギャラリートーク(後編)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

ギャラリートークの様子

ギャラリートークの様子


◆2階展示室における深谷副館長の解説
◎第1章 肖像画
本展の壁の色、章立てはビュールレ財団からの指示に従っています。2021年に公開予定のビュールレ・コレクションも本展の章立てをなぞるようです。第1章の壁の色は赤で、最初の作品はアンリ・フォンタン=ラトゥール《パレットを持つ自画像》。年代順に並べるなら、ハルス《男の肖像》が最初の作品になるはずなのですが、そうではありません。なぜか、それはビュールレ財団からの指示に従ったからです。指示は「左右対称が重要。年代順にはこだわらない」というものでした。
アングルの作品が並んでいます。《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》は細部まで克明に描かれていますが隣の《アングル夫人の肖像》は質感表現が十分ではありません。未完成のような絵ですが、それが、むしろ《アングル夫人の肖像》を生き生きとした作品にしています。

◎第2章 ヨーロッパの都市
第2章と第3章の壁の色は濃い緑色。ヨーロッパの都市、ヴェニス、ロンドンとパリの風景を描いた作品です。室内の真ん中の2点、カナレット《カナル・グランデ、ヴェネツィア》と《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》はビュールレ美術館の写真と同じように並んでいます。
グランドツアーは貴族の子弟が行った、長期間をかけてヨーロッパの名所旧跡を回り見分を広めた大旅行で、その記念品・お土産として克明かつ緻密に描かれた風景画が描かれました。

◎第3章 19世紀のフランス絵画
第3章には1870年代のマネの作品が3点並んでいます。マネは印象派展には参加しませんでしたが、印象画風のテーマ・タッチに変わっていくのが分かります。

◎自由観覧 18:10頃~30
第4章の壁の色は薄い緑色。
縦長のマネ《ベルヴュの庭の隅》と横長のモネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》《ジヴェルニーのモネの庭》の3作が並んでいるのを見ると、一瞬、「同じ作者の作品か」と感じました。よく見ると、何か違っています。しかし、違いをうまく指摘するのは難しい。……

◆1階展示室における深谷副館長の解説
◎第5章 印象派の人物-ドガとルノワール
 第5章も壁の色は薄い緑色。
ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》を見てください。顔は滑らかで筆跡がありません。一方、衣装には筆跡が残っています。
この絵はダンヴェール家の庭=屋外で描いたにしては光が均一に回っています。この絵では、ルノワールの作品によくある「木洩れ日表現」はしていません。光が良く回っており、古典的な表現がされています。

◎ドガ《14歳の小さな踊り子》
この彫刻、オリジナルはワックス=蝋。ワシントン・ナショナルギャラリーが所蔵しています。展示しているのはブロンズ像で、10点ほど制作されたうちの1点です。
オリジナルの彫刻は、1881年、第6回の印象派展に出品されました。出品時、ワックスで制作した本体は胴衣、スカート、トゥシューズ、ソックスを身に着けていました。この試みに対し、当時の評価は二分。「彫刻の基本から外れる」として反対する意見とドガの意図に賛成する意見に分かれました。

◎第6章 ポール・セザンヌ / 第7章 フィンセント・ファン・ゴッホ
第6章と第7章の壁の色は黄土色。
セザンヌとゴッホはそれぞれ、一人に1章が配分されています。これは、ビュールレ・コレクションがこの二人を大切にしていることの現れです。各章とも6点の作品だけで、それぞれの作家の変化が分かるようになっています。

◎セザンヌ《赤いチョッキの少年》
国立新美術館で好きな作品のアンケートを取ったところ、第1位はルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》、第2位はカナレット《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》で《赤いチョッキの少年》がベスト10にも入っていないのは意外でした。
作品をよく見ると、右腕は白を塗り重ねて前に出てくる感じです。一方、左腕は暗く奥まって見えます。立体感がよく出ています。

◎ゴッホ《日没を背に種まく人》
本日、午後2時からの特別講演会で大原美術館・高階館長が「ゴッホの《日没を背に種まく人》はミレーの宗教的主題を引き継ぐ「聖なるもの」を描いた作品で、黄色い太陽は光背を表す」と話されましたが、私もゴッホの作品は宗教絵画だったと思っています。彼の作品は信仰告白につながっています。

◎第10章 新たなる絵画の地平
第9章と第10章の壁の色は白。第10章はモネ《睡蓮の池、緑の反映》だけを展示しています。大作であること、その後の絵画につながる作品であることから最後に置かれています。

◎自由観覧 18:40頃~19:00
セザンヌの作品の前で、ある参加者が「昔、セザンヌのどこが良いのか分からなかったけれど、最近、セザンヌはすごい、と思うようになってきた」と話しているのを聞いて、深谷副館長が「よかったですね」と声をかけてくれました。
ルノワールの絵にはサービス精神があるので万人向きですが、セザンヌの絵は求道者のようで、玄人受けはしますが初心者にはとっつきにくいですね。《扇子を持つセザンヌ夫人の肖像》も存在感はあるのですが「もう少し美人に描いてあげたら」と同情します。ただ、セザンヌ本人は「万人受け」することを微塵も考えていなかったことは確かです。
ゴッホ《アニエールのセーヌ川にかかる橋》の前で、ある参加者が「汽車の動き、川面の青がきれいで、紅一点の女性が画面を引き締めていますね」と感想を漏らしていました。私もこの感想に同調、作品を眺め直しました。仲間内の鑑賞会なので、あまり気兼ねせずにおしゃべりできるのもギャラリートークの魅力です。

深谷副館長

深谷副館長


 
◆最後に
 ギャラリートークを終えて名古屋市美術館を後にする参加者は、どなたも笑顔でした。また、「どの作品も質が高くて、満足しました」という声も聞かれました。参加者数が多いので解説の声が届かなかったらどうしようかと心配しましたが、ポータブル・アンプのおかげで参加者が多くても参加者の隅々にまで声が届き、杞憂に終わりました。
2時間もの長時間にわたりギャラリートークに協力していただいた深谷副館長はじめ名古屋市美術館のスタッフの皆さま、ありがとうございました。
本展で気がかりなのは猛暑。熱中症の予防はもちろんですが、外気の気温と美術館展示室内の室温との差が大きいので「寒さ対策」もお忘れなく。
Ron

「至上の印象派」ギャラリートーク(前編)

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor
展示会場で話をきく会員たち

展示会場で話をきく会員たち


名古屋美術館で開催中の「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下、「本展」)の名古屋市美術館協力会員向けギャラリートークに参加しました。担当は深谷副館長。応募が90人を超えたため美術館2階講堂で展覧会の概要を解説。展示室におけるギャラリートークは主要な作品に絞るという方式になりました。当日、名古屋市の最高気温は39.9度。「危険な暑さ」のため屋外での活動や日中の外出を控えたためか欠席者があり、講堂に集まったのは81人。減ったとはいえ、人気の高さを感じました。
レクチャーの始めに深谷副館長から「連日、大勢のお客が来館していますが40度超えの気温で来館者の行動に変化があります。いつもなら午後2時から3時が来館者のピークですが、本展は開館前から行列が出来て午前中が来館者のピーク。午後になると来館者が減っていきます」という話がありました。連日の猛暑は、こんなところにも影響しているのですね。
以下は講堂における展覧会の概要解説と展示室のギャラリートークを要約したものです。

<展覧会の概要=講堂における深谷副館長の解説>
◆エミール.ゲオルク.ビュールレ氏と彼のコレクションについて
TV等の広報でご存知の方も多いと思いますが、本展はスイス・チューリッヒの個人コレクター=エミール・ゲオルク・ビュールレ氏(以下「ビュールレ」)のコレクションを展示しています。
ビュールレはドイツ人ですが、妻の父親が工作機械の会社を経営しており、その後を引き継ぎました。スイスの会社を買収し、機関砲等の兵器製造で巨万の富を築いて美術品の収集に振り向けました。来館者から「そのような人物のコレクションを展示することに問題はないのか」という質問がありました。しかし、作品に罪はないのでコレクターとは切り離して展覧会を企画しています。
ビュールレは大学で文学、美術史を学んでおり、単なる愛好家ではありません。彼は1936年・46歳の時からコレクションを始め、66歳で死去するまでの20年間に600点を収集しました。本日、午後2時からの特別講演会で大原美術館・高階館長が「優れたコレクションに必要な3条件は、タイミング・鑑識眼・資金」と話されましたが、ビュールレ・コレクションの「タイミング」は収集した時期が第二次世界大戦をはさんでいたことです。戦争の際には多くの美術品が動くので作品が集まりました。
ビュールレは若い頃から美術館に出入りし、学生の時、ベルリンの美術館で印象派の作品に出会っています。
1948年には戦時中に収集した13点がナチスの略奪品と判明。うち9点は元の所有者と話をして再度代金を支払い買い取りましたが、残り4点は元の持ち主に返しています。ナチスの略奪品には、いまだに行方の分からないものが多数あります。国外の美術館、特にアメリカの美術館に作品を貸し出すのを嫌がるコレクターがいます。来歴が良く分からない作品が「略奪品」だと分かると「差し押さえ」になるおそれがあるからです。
ビュールレは1956年、心臓病で死去。遺言はありませんでした。ビュールレ美術館は自宅の隣の家を改築して美術館としてオープンしたものです。1958年から2015年まで開館し、現在は閉鎖しています。スクリーンに映しているのは展示室を撮影した写真です。正面の壁に掛かっているのは本展展示のカナレット《カナル・グランデ、ヴェネツィア》と《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》。まさに個人の邸宅に作品を展示していました。
スクリーンに映したのは、現在建設中のチューリッヒ美術館新館の完成予想図。新館の完成は2020年。ビュールレ・コレクションは新館の1フロア・約1,000平方メートルに展示。名古屋市美術館の常設展ぐらいの規模です。
なお、「ビュールレ・コレクションは600点」といいましたが、一部は売却され、ビュールレのファミリーが保有している作品もあるため財団に移管したのは200点ほどです。

講堂でレクチャを聴く会員一同

講堂でレクチャを聴く会員一同

◆本展の展示内容
◎第1章
本展は10のセクションで構成。第1章は肖像画。ビュールレ・コレクションの中核は印象派ですが、第1章は肖像画の歴史的な流れを印象派以前にまで遡って示したものです。ビュールレは美術史を学んでおり美術史を踏まえています。本展では印象派がどういう文脈の中で生まれ来たのか、印象派がその後にどんな影響を与えたのかを見てほしいと思います。
本展展示のフランス・ハルス《男の肖像》とアングル《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》を比べると、ハルスの方が新しく感じます。ハルスの描写は印象派につながるものだと思います。
印象派は絵画の革新を行ったといわれますが、印象派の作家たちに「新古典派に反旗を翻す」という意図はありませんでした。サロンの審査ではねられたから自分たちの展覧会を開いたということです。
第1章の最後にドガ《ピアノの前のカミュ夫人》を展示しています。スクリーンに映したのはアメリカの雑誌「LIFE」が1954年にビュールレ・コレクションを紹介した時の写真です。ビュールレの本宅で撮影したもので前列に並ぶ作品は別の場所から持ってきました。椅子に腰かけるビュールレの後方にドガ《ピアノの前のカミュ夫人》が写っています。ドガの肖像画はビュールレ邸の訪問客を最初にお迎えするために飾られていた作品でした。

◎ドガの彫刻《14歳の小さな踊り子》
ドガは後半生に彫刻を制作しています。彼は動いている人や馬の瞬間の姿を描いているので絵を描くときの参考にするため、色々な方向から自由に観察できる彫刻を作りました。ただし、展覧会に彫刻を出品したのは一回だけ。ドガの彫刻に関してはギャラリートークでお話しします。

◎ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
 これは、とても有名な作品で「目にしたことがある」という人が多いと思います。この作品を制作した1880年はルノワールの転換期でした。1870年からの10年間は作品が売れないため、画家としての方向性に疑問を感じていました。今までのやり方を続けるのか、アカデミックな方向に移ったほうがいいのか迷い始めた頃です。
この作品の描写は1870年代に比べるとアカデミックなものです。アカデミックな描写と印象派の描写のバランスが取れているのが好かれる理由でしょう。イレーヌは銀行家カーン・ダンヴェール氏の三人姉妹の長女で当時8歳。次女のエリザベスは6歳、三女のアリスは4歳。次女と三女の二人を描いた肖像画はサンパウロ美術館が所蔵しています。イレーヌの絵と妹たちの絵を比べるとイレーヌは大人びた感じで二人の妹たちは子どもらしさを前面に出していますね。
 イレーヌの肖像は、ほぼ真横から描いた作品。ルノワールの肖像画は4分の3、スリー・クォーターの方向から描いた作品が圧倒的に多く真横の肖像は少ない。どうして真横に近いにポーズをとらせたのか良く分かっていません。真横に近いポーズが、多くの人をこの絵に惹き付ける理由でしょう。
スクリーンに映したのはイレーヌが8歳の時の写真です。イレーヌの死亡記事に掲載されたものです。8歳の時の写真といいましたが、写真の説明には「イレーヌの肖像と同じ時代に、同じポーズ・髪型、同じ衣装で撮影した写真」とあるだけです。イレーヌ本人を撮ったという確証はありません。ただ、1880年当時、イレーヌの肖像画の存在は現在ほど知られていないはずなので、別人をイレーヌと「同じポーズ・髪型、同じ衣装」で撮るということは考えられません。ですからイレーヌを撮ったのだと思いますが、確証はないのです。
イレーヌの肖像画は1881年にサロンに出品され評判は良かったのですが、家族には気に入られませんでした。使用人の部屋に飾られていたということですから、ダンヴェール家を訪問した人はイレーヌの肖像画を見ていないと思います。
スクリーンに映したのはルノワールが1879年のサロンに出品した《シャルパンティエ夫人と子どもたち》です。夫人の写真と絵を比べると本物よりも少し美人に描いています。2割増しくらいですね。2013年に愛知県美術館で開催された「プーシキン美術館展」に出品された《ジャンヌ・サマリーの肖像》も本人の写真と比べると、ご覧のとおりです。
イレーヌの肖像画が家族に気に入られなかった理由は何か。スクリーンに映したのは、カロリス・デュランの描いたダンヴェール夫人=イレーヌの母の肖像画です。カロリス・デュランはアカデミズムの有名な画家でした。イレーヌの父親もアカデミズムの画家レオン・ゴナに肖像画を描かせています。
当時、ルノワールはまだ駆け出しでした。ルノワールに肖像画を描かせたのは、イレーヌの母の友人の美術評論家から頼まれたからです。当時の人々にとって、ルノワールの絵は前衛的でアカデミックな古典的作品では無いことから気に入らなかったと思われます。今から見るとアカデミックな肖像画は冷たくて固いという印象を受けますが、それは時代による感性の違いというものです。

◎贋作事件
スクリーンに映したのは1939年6月にスイスのルツェルンで開催されたオークションを撮影した写真です。オークションにかけられているのはゴッホ《坊主としての自画像》で現在はハーバード大学フォッグ美術館が所蔵しています。
当時、ナチスは略奪した美術品をスイスでオークションにかけ、戦費につぎ込んでいました。オークションにはヨーロッパだけでなく米国からも参加があり、ビュールレもオークションに出かけています。ビュールレは《坊主としての自画像》を買おうとしたのですが落札できませんでした。《坊主としての自画像》の代わりにビュールレが買ったのはゴッホの贋作でした。
スクリーンに映したのは《坊主としての自画像》とビュールレが買った作品です。ビュールレが買ったのはイギリス人の絵描きがゴッホの模写をした作品で、本物と間違えられないように背景に花が描いたものです。今、こうして二つを比べると「ビュールレが買った作品は怪しいのでは?」と思う人が多いと思います。
実は、ビュールレが「本物だ」と思ってしまったのには理由があります。スクリーンに映したのはクレラーミューラー美術館所蔵のゴッホ《郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像》です。ご覧のように背景に花が描かれています。ビュールレはこの絵の存在を知っていました。美術の知識があったことが災いして贋作を本物だと思ったのでした。

◎ナチスが開催した「退廃美術展」と「大美術展」
スクリーンに映したのはナチスが開催した「退廃芸術展」の写真です。ヒトラーには画家を目指していた時期があり、モダン・アートを目の敵にしていました。ポスト印象派や表現主義、ピカソなどのほかユダヤ人画家の作品も精神の退廃を招く「退廃芸術」としてドイツ国内の美術館から撤去。見せしめのために、撤去した作品を展示したのが「退廃芸術展」です。展覧会で「笑いもの」にしたのです。一方、ヒトラーが好んだのは古典主義的な芸術。「人間の健全な精神を養う」として「大ドイツ芸術展」を開催しました。

◎セザンヌ《赤いチョッキの少年》
2008年にビュールレ美術館では作品4点が盗まれるという事件が発生しました。盗まれたのはセザンヌ《赤いチョッキの少年》、ゴッホ《花咲くマロニエの枝》、ドガ《リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち》とモネ《ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑》です。
このうち、セザンヌ《赤いチョッキの少年》はビュールレ・コレクションの中で一番有名で重要な作品です。セザンヌは同じモデルの作品を4点残していますが、ビュールレ・コレクションのものが一番の出来です。
《赤いチョッキの少年》の表現は、右腕が長くて左腕は短いなど不自然なところが様々あるのですが、絵画としては調和がとれています。スクリーンに映したのは試しに普通の人体のサイズに直してみたものです。ご覧の通り絵画としてのバランスは悪いのです。
私は、セザンヌはアングルをものすごく研究していたのではないかと推測しています。スクリーンに映したのはアングル《オダリスク》です。残されたデッサンでは人体を正確に描いていますが、完成した作品では、あえて胴体を伸ばして描いています。
左腕の袖をまくっているのもアングルを参考にしているのではないかと思います。スクリーンに映したアングル《ヴァルパンソンの浴女 》では左腕にシーツを巻き付けることで、右腕とのバランスをとっています。《赤いチョッキの少年》も同じですね。
ただ、《ヴァルパンソンの浴女 》のシーツは何のために巻き付けているのか不明な「謎のシーツ」です。肘から下をどう描いたらいいかわからないのでシーツをまいたのかもしれません。

◎ゴッホ《日没を背に種まく人》
スクリーンに映したのは歌川広重《名所江戸百景・亀戸梅家鋪》、ゴッホが油絵で模写したことで有名な絵です。《日没を背に種まく人》は、この絵の構図を取り入れています。

◎ピカソ《花とレモンのある静物》
これは1941年の制作で、ビュールレ・コレクションの中では一番新しい作品です。ピカソは第二次世界大戦中パリにとどまり、何枚も静物画を描いています。この作品は人間の五感を表したもので画面下に描かれた巻貝は「聴覚」の象徴です。巻貝を耳にあてると海の音が聞こえるといわれることから「聴覚」のシンボルとなっています。
日本人は風景や静物に「意味」を求めることはありませんが、ヨーロッパの画家は「意味」を持たない絵画を描くことができません。描いたものは、何かを象徴しているのです。

◎モネ《睡蓮の池、緑の反映》
本展は2階が入口になっています。その理由は、この作品が大きすぎて2階に持って行くことができないからです。最後に置く作品が1階にあるので入口が2階になりました。
マネはオランジュリー美術館に飾っている22枚の《睡蓮》の倍の数の作品を描いています。たくさん描いた作品の中から22枚を選んでオランジュリー美術館に展示しました。
オランジュリー美術館を飾らなかった《睡蓮》。そのうちの1枚がビュールレ・コレクションになりました。「モネ、それからの100年」のギャラリートークでも話したとおり《睡蓮》が注目されたのは第二次世界大戦後です。1番始めにモネのアトリエに残された《睡蓮》を購入したのは米国人のウォーター・プライスラー、ビュールレが購入したのは2番目です。先ず、2枚買ってチューリッヒ美術館に寄贈。もう1枚買って手元に残したのが本展の作品です。

<ギャラリートーク=展示室における解説>
講堂での解説は午後6時に終了。2階の展示室に移動して深谷副館長から主要作品の解説を聴いた後、各自、2階展示室の中を自由観覧することとなりました。
(つづく)

「モネ それからの100年」第2回ギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor
まずは講堂でレクチャを聴く会員たち

まずは講堂でレクチャを聴く会員たち


名古屋市美術館協力会総会後に開催された「モネ それからの100年」(以下、「本展」)の第2回ギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)、参加者は50人。展示室に多数の来館者が残っていたので、最初は講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。その後、ギャラリートークとなりました。
以下は、展覧会の概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものですが、5月13日に開催された第1回ギャラリートークと重複する内容は省いていますので、ご了承ください。なお、表題と(注)は私が補記したものです。

◆本展の概要
◎オランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」について
モネは1897~1898年頃から睡蓮を描くというアイデアを持っていたが、本格的に縦2メートルの壁画を描きはじめたのは1914年から。直前に妻アリス(注:1911年5月死去)、長男ジャン(注:1914年2月死去)の死去という不幸に見舞われたのが、壁画を作る契機になった。(注:1914年に大画面の絵画を描くためのアトリエを建て、壁画の制作を開始)
本展展示の睡蓮では1906年の《睡蓮》と1907年の《睡蓮の池》が、モネが睡蓮を描いたピークの頃の作品。1914-17年の《睡蓮の池》は、壁画を意識した下絵。(注:この2行は、概要説明の最後で深谷さんが話された内容です。)
オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は1927年5月に開館したが、お客は少なかった。今の人気から考えると不思議だが、それは時代背景が理由。
モネは40歳(1880年)までは人気が無く、40歳を過ぎてから人気が出た。60歳(1900年)には国民的画家になったものの、70歳(1910年)になると人気は下降線をたどった。
パリでフォーヴィスム、キュビスムなどの前衛的美術が主流になると、モネは「過去の人」となった。そして、1926年頃には評価が下がっていた。

◎第1次世界大戦と第2次世界大戦が美術に与えた影響について
1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦が終わると、それまで主流だった前衛芸術運動が止まり、1920年からは復古調の古典主義が主流となる。エコール・ド・パリは1920年代にパリで活躍した画家たちの総称だが、どの画家の作品も写実的・復古的なものだった。一方、1920年代のモネは大胆な表現に突き進んでおり、フランス全体の機運とは逆の方向だった。
モネのリバイバルは第2次世界大戦後、1940年代後半に始まる。ジャクソン・ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコなどの抽象表現主義の画家たちがモネの作品に注目し、ポロック達を支援していた評論家、学芸員、美術館館長もモネを見直すようになった。
第1次世界大戦後の1920年代に復古的なものが主流となったのは、戦争に対する反動。つまり、直前の時代の前衛運動がいけなかったのではないかという発想。前衛運動の前の古典的時代に戻るということで、復古的になった。
第2次大戦後は「復古的運動にもかかわらず戦争が起きた」ということで、復古調には戻らず抽象芸術に進み、モネが見直された。
マーク・ロスコ、デ・クーニングの作品は一見すると何を描いているのかわからない抽象的な絵画だが、全て精神的なものを描いている。到達点は抽象だが、出発点は自然であり、人間である。それで、彼らはモネを手掛かりにした。モネの《睡蓮》に「肉親に対する鎮魂の気持ち」を読み取ったのではないかと、私(深谷さん)は思っている。
デ・クーニング、マーク・ロスコのいずれも出発点は人間や自然であり、作家の祈りが作品に込められている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術
1960年代にアンディ・ウォーホルが制作した《マリリン・モンロー》や《花》の連作は、当時、批評家から「現代風のモネ」と呼ばれた。
1942年にアンリ・マチスの次男=ピエール・マチスが経営していた画廊で開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品した14人のヨーロッパの芸術家たち、イヴ・タンギー、フェルナルド・レジェ、マルク・シャガール、アンドレ・ブルトン、マックス・エルンスト、オシップ・ザッキン、ピエト・モンドリアン、アンドレ・マッソンらは、アメリカの若手、中堅作家と交流して彼らに影響を与え、戦後アメリカ美術の発展を促した。
第2次世界大戦前、世界の美術の中心は言うまでもなくパリだったが、戦後の中心はニューヨークに移った。
本展2点の作品を展示しているモーリス・ルイスはニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York) の館長に「モダン・アートという名称の美術館ならば、印象派の作品コレクションを持つべきだ」という手紙を送っている。

◎戦後アメリカ美術応援のテクニック
戦後アメリカ美術を応援していた評論家、学芸員、美術館館長は「応援のテクニック」として、「モネがルーツだ」という言い方をすることにより、「戦後アメリカ美術はヨーロッパの正統性を受け継ぐものだ」と強調した。
モネの《積みわら》について、有名な逸話がある。カンディンスキーはモスクワの美術館でモネの《積みわら》を見てびっくりした。何が描いてあるかわからなかったのだ。題名を見てようやく「積みわら」を描いた絵だと分かった。「積みわら」だと分かってみると、「何が描いてあるか分からないときのほうが美しかった」と感じた。これが、カンディンスキーが「何が描いてあるか分からない」抽象絵画を描くようになったきっかけだという逸話である。
私(深谷さん)は、この逸話はマユツバものだと思う。この逸話は、1913年にカンディンスキーが《小さな喜び》という作品を発表した時に書いた話。カンディンスキーがモネの《積みわら》を見てから十数年も経ったあとで書いた話なので、「自分のやっていることに対して正統性を持たせるために文章化した」のではないかと思う。
ニューヨーク近代美術館の館長だったアルフレッド・バーは、抽象表現の芸術家たちを持ち上げるときには、モネを持ち出し、カンディンスキーの話をする。歴史的な文脈の中でモネに言及する。モネは踏み台(注:抽象表現の芸術家たちを持ち上げるための踏み台)になっている。

◆1階展示作品のギャラリートーク
 30分ほどで展覧会の概要説明は終わり、1階展示室に移動後、17:40からギャラリートークが始まりました。
◎つまり、モネは印象派ではなく、あらゆる現代美術の生みの親ではないのか
展覧会入口にあるパネルの前で、深谷さんは「このようにインタビューで答えたアンドレ・マッソンはフランスのシュールレアリストで、1942年の『亡命の芸術家たち』という展覧会に出品した14人のヨーロッパの芸術家たちの一人。本展はモネの展覧会だが『モネを通して現代美術を見る。現代美術の再発見』をねらった展覧会でもある」と解説。
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》と丸山直文《puddle in the wood2 5》について
《ヴィレの風景》はポプラ、セーヌ川、土手などを描いているが未完成の作品。隣の丸山直文の作品と共通点があるというと「こじつけではないか」という声もある。確かに、恣意的なところはある。
・モネ《サン=タドレスの断崖》について
《サン=タドレスの断崖》は、名古屋市美術館で今回も入れて4回開催したモネ展のうち3回に展示している作品。今朝放送されたNHKEテレ日曜美術館「もうひとつのモネ ~現代アーティストが語るモネの革新~」(以下、「Eテレ」)では、版画家の湯浅克俊さんが「モネはパレットで色を混ぜない、画面上で色が混ざって見える」と話していたが、実際には原色のままの絵の具を置いている例は少ない。この作品は「風景について、自分の感じた感覚を画面に残した」もの。
・ルイ・カーヌについて
ルイ・カーヌはモネに心酔し、敬愛した作家。
◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
この章の作品について深谷さんは「揺れ動くものを表現しようとした作品」と解説。
・マーク・ロスコについて
マーク・ロスコの作品は閉じられた静かな空間で心を落ち着けて鑑賞するのが望ましいので、他の作家の作品と混ぜたのでは「損をしている」のではないかと思う。
・ゲルハルト・リヒターについて
ゲルハルト・リヒターの作品は強くて引き立つ。平面なのに奥行がある。
・松本陽子《振動する風景的画面Ⅲ》について
松本さんはこの作品を「キャンバスを床に置き、絵の具で描いては拭いて消すという作業を繰り返しながら、1日で完成させた」と、話していた。
・「額縁あり」と「額縁なし」
Eテレでは、画家の児玉靖枝さんが「モネの作品はフレームに区切られた向こうの世界。ここと場つづきでありながら別の世界を描いているのが現代の絵画」と話したのを受けて、湯浅克俊さんが「額縁を外して、ホワイトキューブ(注:「白い立方体」。1929年に開館したニューヨーク近代美術館が導入。展示空間の代名詞)に置くと、違って見えるかも」と返していた。モネの絵は額縁に入っているが、この展示室でも現代美術は額縁が無いか、細いフレームが付いているだけの作品。確かに「額縁なし」だと、絵と世界の境が無い。
・ぼんやり感・空気感
第2章では、ぼんやり感・空気感がテーマ。
◎自由観覧(18:05~18:20)
Eテレ効果により、1階の展示では湯浅克俊《Quadrichromie》(2018:水性木版(4版4色)/和紙)に見入ってしまいました。

◆Eテレの放送内容から
 Eテレでは湯浅克俊さんの版画制作について、以下の通り手順を紹介していました。
①デジタルカメラで身近な素材を撮影、②写真のプリントを版木に転写、③伝統的な技法で版木を彫る、④使う色は、黄・赤・青・黒の4色、⑤色ごとに彫った版木に色をのせて印刷、⑥最初は黄色、黄色が乾く前に赤を重ね、赤が乾く前に青を重ね、青が乾く前に黒を重ねて完成。「完成するまで、どうなるか分からない」とのことでした。
 手順が紹介されると、美術家の小野耕石さんが「細かい線を彫るの、飽きないですか」と質問。湯浅さんは「飽きてますね。飽きない工夫をしながら制作してます。」と回答。
 湯浅さんは、続いて「モネは時間を描きたかったんじゃないかな。睡蓮は、実際にはゆらゆら動いている。しかし、絵画は描き終わった途端に止まる。モネの睡蓮は描き終わったあともゆらゆら揺れるように見える」と、話すと児玉さんが受けて「はっきりと図を結ぶ、その手前のゆらぎの状態で止まっている」と話し、小野さんは「児玉さんの作品、死ぬ瞬間に見える映像のような感じがする」と返しました。児玉さんは「『白(びゃく)』という副題。雪によって視界が閉ざされるように、絵の具で塞いで物理的に見えないようにして、逆に見たくなるようにした。霧でぼやけさせる。必要以上に描かない」と回答。
「深韻(しんいん)」制作のためにデジタルカメラで取材する児玉さんの姿が紹介され「光の当たり具合で見えていたものが変わる。狙わずして出会ったものに美しいと感じる。作品はこの世界を自分自身がどう捉えているか、鑑賞者と自分自身を繋ぐもの」など、児玉さんの言葉が紹介されました。

◆2階展示作品のギャラリートーク
◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
・ルイ・カーヌ《睡蓮》について
ルイ・カーヌは《睡蓮》も描いている。展示しているのは紫色と緑色の2色で描いた9枚の連作。作家が指示したように並べて展示した。
・平松礼二《夏の気流(モネの池)》について
平松礼二はオランジュリー美術館の《睡蓮の壁画》に衝撃を受け、日本画の様式で睡蓮を描いている。今年の11月4日までジヴェルニー美術館で展覧会を開催しているので、フランスに行く予定があれば、展覧会もご覧ください。
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネの《睡蓮》について
モネは睡蓮を描き始めたころ、水面に映った木や雲の影は描くものではないと考えていたが、やがて水面に映った影と睡蓮の実像を同等に描くようになり、画面に奥行きが出た。
◎自由観覧(18:37~19:00)
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。Eテレ効果により、児玉靖枝さんの真っ白な作品と小野耕石さんのスクリーン・プリントの技法で制作した作品に見入る人が多数いました。参加者は少しずつ帰り始め、午後7時には全員が帰路に着きました。

◆NHKEテレ「もうひとつのモネ ~現代アーティストが語るモネの革新~」の再放送
 再放送は2018年6月17日(日)午後8時~8時45分
【ゲスト】画家…児玉靖枝(1961年生まれ)、版画家…湯浅克俊(1978年生まれ)、
美術家…小野耕石(1979年生まれ)
【司会】 小野正嗣 (今回、高橋美鈴アナウンサーは出演せず)
URL=http://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2018-06-10/31/29456/1902764/
Ron.

モネが現代アートに与えた影響について、語ってくれた深谷副館長

モネが現代アートに与えた影響について、語ってくれた深谷副館長

「モネ それからの100年」 ギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「モネ それからの100年」(以下、「本展」)のギャラリートークに参加しました。担当は深谷克典副館長(以下「深谷さん」)と保崎裕徳学芸係長(以下「保崎さん」)、参加者は80人。参加人数が多かったので、先ず、講堂で深谷さんが展覧会の概要を説明。ギャラリートークは、1階から始めるグループと2階から始めるグループに分かれて開始。1階の担当は深谷さん、2階の担当は保崎さんでした。
以下は、概要説明とギャラリートークの内容を要点筆記したものです。

◆本展の概要について(深谷さん)
◎名古屋市美術館で開催するモネ展は、30年間で4回
本展は名古屋市美術館で開催する4回目のモネ展。第1回は1994年で、内容は回顧展。第2回は2002年で「睡蓮の世界」=睡蓮を描いた作品だけの展覧会。第3回は2008年で、マルモッタン美術館所蔵の《印象 日の出》中心にした展覧会。第4回が本展で、「それからの100年」をテーマにした展覧会。
印象派のコレクションを持たない美術館で、30年の間に4回のモネ展を開催するというのは珍しいケース。なお、4回の展覧会は、全て私が担当しました。

◎「それからの100年」というテーマについて
「それから」とは、モネがオランジュリー美術館所蔵の「睡蓮の壁画」を描いた1914年頃を指す。本展のテーマは「睡蓮の壁画が描かれてからほぼ100年経ち、モネの作品が後世の作家にどのような影響を及ぼしているか」を示そうというもの。
本展は89点の作品を展示しているが、モネは26点で、残り63点は現代美術。現代美術のうち、スティーグリッツとスタイケンの写真は19世紀の終わりから20世紀初めのものだが、大半は1950年代以降のもの。
昨日、閉館後に51名の参加で「名画の夕べ」というイベントを開催したところ、1名の参加者から「モネが26点では、モネ展ではない。」という意見があった。チラシ等には「モネと、彼に影響を受けた現代の作家たちとを比較検討」という断りが入っているが、「全部がモネの作品」だと思って来場する人が出るのは止むを得ないと思う。ただ、残り50名の参加者からは「モネ展ではない。」という声は聞かれず、一安心した。

◎モダン・アートの原点はセザンヌからモネへ
かつては「モダン・アートの原点はセザンヌ」という考えが一般的で、モネをモダン・アートの原点に置く人は少なかった。しかし、最近「セザンヌもモダン・アートに影響を与えているが、モネはそれ以上に大きな影響を与えているのではないか。」という考えの人が増えている。
 美術館の展示室に作品が並んでいるのを見ると、事前に思い描いたイメージとは違っていることがある。本展の展示も事前のイメージとは違っていた。それは「いい方」への変化だった。つまり、展示室の作品を見て「モネと現代美術はシンクロしている、つながっている。」という思いを強くした。本展に来場した大半の人も、感覚的に「つながっている」と感じてくれたのではないかと思う。
 モネが好きな人はたくさんいる。本展で、現代アートにアレルギーを持つ人が少なくなると、うれしい。

◎「睡蓮の部屋」オープン時、モネは「過去の人」だった
モネは1926年12月に死去。その半年後の1927年5月にオランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」がオープン。しかし、1910~20年代「モネは過去の人」という評価で、オープン時の「睡蓮の部屋」は閑古鳥が鳴いていた。
それが、1940年代後半から1950年代になって、アメリカ現代美術の作家を中心に「モネは先駆的な活動をしているのではないか。」と、モネの作品全体に対する評価が上がり、現代に至っている。
なお、オランジュリー美術館の「睡蓮の部屋」は楕円形の部屋二つで構成されており、睡蓮の大壁画22枚が展示されている。

◎晩年のモネと抽象画
本展に展示の《バラの小道の家》(1925)はモネの絶筆(最後の作品)だが、タイトルがなければほとんど抽象画。モネ晩年の10年間は、白内障のため視力が低下。画商のデュラン・リュエルは「今のモネは、ほとんど目が見えないのでは。」という言葉を残しているが、モネがどこまで見えていたのかは、よくわからない。
ただ、睡蓮の池と太鼓橋を描いた1899年の作品と1919年の作品を比べると、1919年の作品はほとんど抽象画。(注:いずれの作品も、本展では展示していない)
ヨーロッパの美術の歴史をたどると、1910年代はモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの前衛美術や抽象画が勢いを持っていたが、第一次世界大戦後の1910年代終わりから1920年代にかけては流行が古典的なものに戻り、エコール・ド・パリなどが勢いを持った。
1910年代のモンドリアン、ピカソ、カンディンスキーなどの抽象画と比べたら「睡蓮の部屋」は、少しもおかしくない。しかし、モネが「睡蓮の部屋」を描いた1920年代は、復古的風潮が主流であったため、理解されなくても不思議ではなかった。

◎睡蓮を描くまでの、モネの遍歴
本展に展示の《サン=シメオン農園前の道》(1864)は、ノルマンディーの風景を描いたもの。モネは1840年にパリで生まれたが、5歳の時にノルマンディーに移る。若い頃のモネは、コロー、テオドール=ルソーなどのバルビゾン派の作品をお手本にして絵を描いていた。
ノルマンディーの風景を描いた《ヴァランジュヴィルの風景》は日本美術の影響を受けた作品で、葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1831-34)(注:本展では展示していない)と構図が似ている。北斎の絵の左下に逆三角形の部分があるが、モネの絵の海面も同じように逆三角形。ただし、実際の海岸線はモネの絵と違って、湾曲していない。湾曲した海岸線はモネの創作と思われる。実は、北斎の逆三角形の部分も創作らしい。
1880年代の終わりから、積みわら、ルーアン大聖堂、チャリング・クロス橋などの連作が始まる。睡蓮の連作が始まったのは1906年。最初は、睡蓮だけを描いていたが、だんだんと水面に映っているものも描きはじめ、睡蓮の実体と水面に映っている空や木々の影を等価で描くようになる。ジヴェルニーの睡蓮の庭の写真を見ると、水面に映っている空や木々の影の存在が強い。睡蓮と水面は一体のものに見える。
1914年から、モネは「睡蓮の壁画」のための下絵を描きはじめる。「睡蓮の壁画」の本画に使われた下絵は少ないが、本展に展示の《睡蓮、水草の反映》(1914-17)は本画に使われている。

◎第2次世界大戦後のアメリカ美術とモネ
モネの睡蓮は、制作当時なかなか評価してもらえなかったが、第2次世界大戦後のアメリカで、ポロック、デ・クーニング、マーク・ロスコといった作家がモネの晩年を見直すようになる。
これには、アメリカの戦略的側面もある。ポロックなどの抽象美術はアメリカ独自の表現として誕生したが、これを世界にアピールするためには「突然変異ではなく、ヨーロッパ絵画の伝統とつながっている。」という正統性が必要だった。モネにつなげることで、アメリカ抽象芸術の正統性を強調したのである。
このような流れを踏まえると、本展では是非ともポロックの作品を展示したいと思ったが、保険金が高すぎて断念した。モネの睡蓮は「身体性」と「中心が無い表現」がポロックの作品と共通している。
スライドで写しているのは、アメリカで開催された「亡命の芸術家たち」という展覧会に出品したヨーロッパの画家たち。第2次世界大戦中、戦火を逃れてシャガールやモンドリアンなどがアメリカに亡命した。彼らの存在はアメリカの作家に影響を与え、戦後の抽象表現主義の誕生につながった。

◎本展に展示の現代アートについて
本展に展示のモーリス・ルイス《ワイン》(1958)は、色の感じや全体の雰囲気がモネの作品に似ている。福田美蘭の新作《睡蓮の池》(2018)については、保崎さんのギャラリートークを聞いて下さい。

◎7月から開催する「ビュールレ・コレクション」でも睡蓮が
本年7月28日から名古屋市美術館で開催する「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」では、高さ2m、横4.25mの《睡蓮の池、緑の反映》が展示される。スイスから出るのは初めての作品なので、是非、来場を。また、8月5日(日)午後2時から大原美術館館長・高階秀爾氏の講演が開催されるので、興味のある人は参加を。
(注:以下は補足)
高階秀爾氏の講演だけでなく、8月18日(日)及び9月15日(日)午後2時からは深谷副館長の作品解説会があります。事前申し込み制で、申込締め切りは7月22日(必着)。申込方法は、名古屋市電子申請又は往復はがき。往復はがきの場合は、郵便番号・住所・氏名・電話番号・聴講希望日(1つまで)・聴講人数(2名まで)を記入し、〒460-0008 名古屋市中区栄2‐17-25 名古屋市美術館「講演会/解説会」係まで 応募者多数の場合は抽選。詳細は名古屋市美術館HPで。

1階で深谷副館長の解説をきく会員

1階で深谷副館長の解説をきく会員


◆1階の展示について(深谷さん)
◎第1章 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
・モネ《ヴィレの風景》など
展覧会の概要解説を聴いた後、1階展示室に移動すると、モネ《ヴィレの風景》(1883)と丸山直文《puddle in the wood2 5》(2010)の前に集合して、「立ちあがる色彩と筆触」という副題について、「モネは何を描くかというだけでなく、色彩それ自体の魅力や筆致を楽しんでいる。」などと解説を聴きました。
続いて、深谷さんから「二つの絵を比べて、どんな点が似ていると思いますか。」という質問。参加者が「どちらも、森の木々と水面を描いている。」「色の感じが似ている。」などと回答すると、深谷さんは「昨日の『名画の夕べ』では、『この二つの絵のどこに共通点があるのか具体的に説明して下さい。第一、丸山直文の絵は筆で描いたものではなく、絵の具を沁み込ませて描いていますよね。』という質問があり、答えに窮しました。」とのお話。「この二つの絵は、厳密に一対一で対応しているわけではなく、ゆるい対応です。本展には26人の作家の現代アートを展示していますが、モネの影響を受けていると表明している作家は半数。残りの作家はモネの影響について本人が言ったわけではなく、影響があるのではないかと推測しているにすぎません。」と、話は続きました。

・ジョアンミッチェル《湖》・《紫色の木》
ジョアンミッチェルはアメリカ出身の女性画家で、モネを敬愛し、モネの影響をはっきりと表明しています。《湖》(1954)はミシガン湖のイメージを描いたもの、《紫色の木》(1964)は、フランスにわたってからの作品。
なお、赤い壁に展示されているのはモネの作品。現代アートは白い壁に展示。

・モネの作品の変遷
最初の2点はバルビゾン派の影響を受けた作品。《サン=タドレスの断崖》(1867)は印象派の先駆的作品。典型的な印象派の活動があったのは1870年代で、1880年代になると印象派の作家たちはそれぞれの道を歩むようになる。7月28日から始まる「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」で展示されるルノワール《イレーヌ・カーン・ダヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》(1880)は、古典的な絵画に回帰した作品。
モネも1880年代に方向転換をしている。1880年代は試行錯誤を続けていたが、1880年代の終わりから積みわらやチャリング・クロス橋などの連作を始めた。

・ルイ・カーヌ、岡﨑乾二郎、中西夏之
ルイ・カーヌはモネを敬愛した作家。本展では《彩られた空気》(2008)が話題になっている。金網の表面に絵の具を塗った作品で、展示室の白い壁に絵の具の影が映り、絵の具とその影が重なって見える美しい作品。
岡﨑乾二郎の作品(注:題名が長すぎて書ききれません)は2点が対になっており、左右の作品は同じようなモチーフを描いているが、色彩と形が少し違っており見比べると面白い。また、絵の具の「塗り残し」をうまく生かしている。
中西夏之《G/Z 夏至・橋の上 To May Ⅶ》(1992)と《G/Z 夏至・橋の上 3ZⅡ》(1992)については、深谷さんから「この絵については、第2章 形なきものの眼差し 光、大気、水 に展示する方が適切だと思われるが、なぜ第1章に展示しているのか、という質問があり、回答に窮した。確かに、第2章でもおかしくない。ただ、第1章・第2章の展示作品は厳密に分けているわけではなく、アバウトな要素もある。」との話がありました。

◎第2章 形なきものへの眼差し―光、大気、水 
・スティーグリッツとスタイケンの写真
第2章には19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて撮影された、スティーグリッツとスタイケンの写真が展示されています。深谷さんに聞いたら「横浜美術館からの提案で展示」とのこと。確かに、うち3点は横浜美術館の所蔵品です。第2次世界大戦後の作品ではありませんが、「光、大気、水」という副題にふさわしい展示でした。

・ゲルハルト・リヒター
深谷さんのお話では、個人的な好みを言うと、ゲルハルト・リヒターの2つの作品と岡﨑乾二郎の作品が本展の現代アートでは「イチオシ」とのことでした。なお、ゲルハルト・リヒターの2つの作品は金属板に描かれているため絵の具が完全には定着しておらず、作品を運搬する際は「平らにして運ぶ」よう気を付けているとのことです。

・モネの作品
第2章では、青色の壁にモネの作品を展示。青い壁の一番右に空白があるが、この空白部分には5月22日から作品(注:《雪中の家とコルサース山》(1895))が展示される。
チャリング・クロス橋はテムズ河にかかる鉄道橋で、霧のロンドン(実は石炭を燃料として使うことにより発生したスモッグ)がテーマ。モネは二十数点を連作した。

◎自由観覧のなかで
「睡蓮の壁画」について深谷さんから話がありました。「モネはオランジュリー美術館所蔵の22点以外にも睡蓮を描いている。22点以外の作品は長い間忘れ去られていたが、1940年代に巻かれたキャンバスの状態で保管されているのが発見され、その多くはアメリカのコレクターが買い取り、一部はヨーロッパのコレクターも買った。再発見された当時、睡蓮の評価は高くなかったので値段は低かった。その時に買い取られた作品のうち1点が巡り巡って、今、直島にある。」とのことでした。
また、6月10日(日)AM9:00からのNHK・Eテレ「日曜美術館」の本編で「モネ それからの100年」が紹介され、深谷さんも出演するとのことです。お見逃しなきよう。

2階で保崎学芸員の話をきく会員

2階で保崎学芸員の話をきく会員


◆2階の展示について(保崎さん)
◎第4章 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
・モネ《睡蓮》のうち、1897-98年制作の作品2点
2階のギャラリートークは、第4章のうち、モネの作品が展示してある小部屋に集合してスタート。保崎さんによれば「モネ・睡蓮の連作の締めくくりは、オランジュリー美術館・「睡蓮の部屋」の壁画22枚。高さ2m、横6m又は高さ2m、横4.5mの作品。皆さんが向かっている壁には《睡蓮》というタイトルの作品が3点されているが、そのうち真ん中の作品は1906年制作、左右が1897-98年制作。3点を比べると、睡蓮を描きはじめた1897-98年制作の2点は、いずれも睡蓮の花・葉が大きい。クローズアップした画面で、水面の面積はそれほど広くない。2点を比べると、向かって左の作品の方が光を強く描いている。」とのことでした。

・モネ《睡蓮》のうち、1906年制作の作品
モネが睡蓮を描きはじめたのは1897年で、57歳の時。モネは86歳まで生きたので、人生の半分は睡蓮を描いていたことになる。モネがジヴェルニーに転居したのは1883年。最初は借家だったが、1890年に家と土地(注:9,200㎡)を買い取り、1893年には周辺の土地を購入し小さな池を作った。1897年には睡蓮の連作を始め、1901年に隣地を買い取り、池を拡張。(注:現在、モネの家の土地は2万㎡を越える)1902年から1908年までが睡蓮の連作のピーク。3点並ぶ《睡蓮》のうち真ん中の作品は、連作のピークである1906年に制作されたもの。水面が広く、画面の真ん中を水面が占めている。画面の外には太鼓橋、左にポプラ、右には柳が植えられている。

・モネ《睡蓮の池》
この小部屋の入口横に展示されている縦長の作品《睡蓮の池》(1907)は、ベスト・ポジションから夕陽が沈む睡蓮の池を描いた作品。屋外の自然光と水面の反射による一瞬の色彩を素早い筆致で描いている。画面の外に向かって絵の広がりを感じさせる描き方で、モネの特徴が一番よくわかる作品。風景なのに、縦長の画面に描いているのが面白い。水面に映る夕陽の反射が縦方向の流れを作っている。

・福田美蘭《睡蓮の池》
福田美蘭《睡蓮の池》(2018)は、高層ビルのレストランを描いた作品。テーブルを葉、キャンドルを花と、睡蓮に見立て、マネの大胆な筆致をまるまる真似ている。福田美蘭の作品はいつでもウイット(機知)に富んでいるが、この作品でもモネの屋外・自然光という組み合わせに対し、室内・人工光という組み合わせにするなど、モネの逆を行っている。外にも、モネの水面に対し高層ビルを、水面への(下への)映り込みに対し窓ガラスへの(上への)映り込みを配すことにより、モネの「睡蓮の池」を自分のスタイルで描き、モネへのオマージュとしている。

◎第3章 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」のかたち
第3章は、全て現代アート。モネを再評価して、継承した作品が並ぶ。抽象表現やポップ・アートはモネと同じ視点に立った作品。例えば、アンディ・ウォーホル《花》(1970)は、雑誌に載っていた花の絵をコピーし、様々な色でシルクスクリーンのプリントをした作品。「複製がオリジナルを越えた」もの。

◆お開き
 ギャラリートーク終了後は、各自、自由観覧。参加者は、三々五々と美術館を後にして、午後7時には全員が帰路に着きました。
Ron.

音のアーキテクチャ トンネルでピクニック 佐川美術館 ギャラリートークの様子 展示会場で話をきく会員たち 泉屋博古館にて まずは講堂でレクチャを聴く会員たち 会長の乾杯の音頭に合わせて、いただきます! 「回生の苗床」 光内惟奈 燃やせないもの 夢見たものは 展示室で解説を受ける会員たち プティパレ まずはエントランスホールでの解説