「異郷のモダニズム」ギャラリー・トーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「異郷のモダニズム 満洲写真全史」(以下「本展」)のギャラリー・トークに参加しました。参加者は45名。担当学芸員の竹葉丈さん(以下「竹葉さん」)は、参加者の多さに興奮気味でした。

◆本展について
 最初に、竹葉さんから「1994年にも同じ『異郷のモダニズム』というタイトルで、本展の第Ⅱ章に相当する内容の展覧会を開催。前回との大きな違いは、内地(当時の用語で、日本本土のこと)に満洲を紹介した写真を展示する第Ⅰ章と、戦後の満洲の映像記録である第Ⅴ章を追加したこと。」という話がありました。

◆第Ⅰ章:大陸の風貌 ― 櫻井一郎と〈亜東印画協会〉
第Ⅰ章で展示されている写真について、竹葉さんから「何で博物館のような写真を美術館で展示するのかとの質問を来館者から受けた。『記録』は満洲の写真の原点だから、満洲を舞台にした写真の変遷の全貌を見るため第Ⅰ章を追加。」という解説がありました。以下は、その続きです。
第Ⅰ章の写真は、櫻井一郎という写真家が南満洲鐡道株式会社(以下「満鉄」)に持ちかけて、写真による満蒙(満洲と東モンゴル)紹介のために作った「満蒙印画輯」に掲載されたもの。「満蒙印画輯」は、後に、アジア東部まで撮影範囲を広げ「亞東印画輯」となる。印画輯は、「写真頒布会」という方式で作成・配布された。これは、購入者を募集し、毎月5枚の台紙に手札判(注1)の密着写真(注2)と解説を貼って配布、1年後にはアルバムの表紙が送られ写真集が完成するというシステムで、7千人の会員がいた。大学の経済学部や高等商業学校、京都大学の建築科、東洋文庫などが、中国大陸経営の参考資料として購入したようで、印画輯の写真が内地における満蒙のイメージ、即ち「赤い夕陽の満洲」や「曠野を行く隊商」などの原型になった。
第Ⅰ章で展示しているのは、ヴィンテージ・プリント(注3)から複写し、四ツ切サイズ(注4)に拡大したもの。ヴィンテージ・プリントも展示しているが、台紙の両面に貼ってあるので、現在、裏面は見えない。後期には裏返して裏面が見えるようになるので、ぜひ見に来て欲しい。
櫻井一郎は、宮城県多賀城生まれ。ベーリング海のラッコ猟で大儲けしたおじさんが応援していた。満洲には二回渡っており、最初は奥地まで行ったものの失敗。二回目の渡航が1921年。土地勘を活かし、乾板で撮影するカメラで満洲各地を撮影。1927年には、亞東印画協会を設立した。半年から一年の間、写真撮影と取材を続け、印画輯はロード・ムービー(注5)のような構成になっている。取材というが、乾板など重い荷物を持って砂漠や山岳地帯を行くので、探検と同じ。
当時の一番人気は雲崗の石窟。雲崗はギリシアのエンタシスを法隆寺に伝えたシルクロードの中継点であり、日本文化の源流ということから人気が出た。これらの写真は今も貴重な記録。
櫻井一郎の印画輯は、第53回まで続いた。ガラス乾板で撮影した原版をデュープ(注6)した上で、手分けして毎月7千人×5枚という大量の写真をプリントした。満鉄には解説を書く人もいた。当時の満鉄は「弘報」{パブリシティー publicity(英)=万人に知らせること}に重きを置き、プロパガンダ{propaganda(露)=(政治的意図を持つ)宣伝)}は目指していなかった。
残念ながら櫻井一郎は、山西省・雲南省を取材中、1928年11月に腸チフスで死亡。
注1:写真のサイズで3.25inch×4.25inch=83mm×108mm。現在のサービスLサイズ3.5inch×5inch=89mm×127mmよりも、やや小さい
注2:ネガを印画紙に密着させ、ネガと同じサイズにプリントした写真
注3:vintage print(英):写真家が自分の作品として認めたプリント(オリジナル・プリント:original print)のうち、元になるフィルムやデータが撮影されてから間もないうちに制作されたもの
注4:印画紙のサイズで 10inch×12inch=254mm×305mmのもの。展覧会のように、額に入れて壁に飾り少し離れて見る場合の標準サイズ。
注5:主人公が車などで旅行・放浪を続け、その間に出会った出来事や主人公の成長・変化などを描く映画。「道」(イタリア)、「イージー・ライダー」(米)、「幸せの黄色いハンカチ」(日本)等
注6:duplicate(英)から派生した写真用語。 複製、複写

◆第Ⅱ章:移植された絵画主義 ― 淵上白陽と〈満洲写真作家協会〉
櫻井一郎の死後、亞東印画協会を引き継いだのが、神戸市出身で1928年9月に大連に渡ってきた淵上白陽。彼は、満鉄の嘱託となり、「満洲グラフ」の創刊に携わる一方で、アマチュア写真家の団体「満洲写真作家協会」を結成し、ピクトリアリズム(注7)の芸術写真を指導した。第Ⅱ章で展示されている写真は、主にコロタイプ印刷(注8)やブロム・オイル・プリント(注9)のもの。多くは大陸における日本人の活躍を撮影した作品。人物の場合、初期は絵になるポーズをとらせて撮影した演出写真が多いが、後には隠し撮りでスラム街を撮影した写真や組み写真によるフォトエッセイなども出てくる。
苦力や子どもの写真を撮影した米城善右衛門は三共製薬大連工場の初代工場長で、写真は趣味だった。岡田中治はプリント技術が高く、《若者》《男》は光と影のコントラストを巧みに表現している。淵上白陽《松岡洋右》は当時の満鉄総裁(注10)。なお、1938年に松岡洋右の息子・松岡謙一郎が東京帝大の夏休みを利用して満洲に来た時、一色辰夫が案内して映画女優・李香蘭との出会いも演出している。(注11)一色辰夫《時の人》は、徳王(注12)を撮ったもの。田中靖望《機関車》は、大連・ハルピン間の943kmを12時間30分で運行していた特急「あじあ」。工業をテーマにした作品も多く、淵上白陽《熱B》は、全紙判(注13)の印画紙に自分でプリントしたヴィンテージ・プリント。一色辰夫《大連》は、豆カスを運ぶ苦力の写真のネガと昭和製鋼所(注14)の写真のネガとを重ね焼きしたもの。
注7: pictorealism(英):絵画主義。絵画的な構図による芸術写真を撮影すること
注8:写真製版法によってゼラチン上につくった版で印刷する方法。写真の微妙な調子を再現するのにもっとも適しているが、印刷速度は遅く、耐刷力(何枚印刷できるかの能力)も小さい。(出典:ニッポニカ) 竹葉さんによれば、印刷枚数は70~80枚が限度とのことです
注9:竹葉さんによれば、先ず写真の銀粒子を漂白し、拓本で使うタンポでゼラチンの表面に油性インクを載せる手法。漂白前の銀粒子の量によってインクの載り方に差が出る性質を利用して像の陰影を再現。インクの載せ方によって最終的なイメージをコントロールすることが出来るため、多くの絵画主義的写真家に使われた、とのことです
注10:松岡洋右:(1880-1945)政治家。山口県生まれ。オレゴン大卒。外交官を経て代議士。1933年、国際連盟首席全権として連盟脱退を宣言。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外相として日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結。戦後A級戦犯として裁判中病死。(スーパー大辞林)なお、実妹の長女・佐藤寛子の夫は元首相の佐藤栄作
注11:名古屋市美術館ブログ 2012年09月11日(投稿者:J.T.)を読むと詳細がわかります
注12:徳王:(1902-?)内モンゴルの政治家。日中戦争開始後の1937年、日本軍の援助下に蒙古聯合自治政府をつくり、主席となった。49年モンゴル人民共和国に逃亡し逮捕された。モンゴル名、デムチュドンブロ(スーパー大辞林)
注13:印画紙のサイズで、18inch×22inch=457mm×560mmのもの。標準的な四ツ切の四倍近いサイズ。当時の淵上白陽は、高いプリント技術・優秀な機材・潤沢な資金の三拍子揃った、恵まれた環境で活躍していたと思われます。
注14:第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満州で活動していた鉄鋼メーカー。私企業ではあるが政府・軍に統制され、国策会社の色合いが強かった。本社および工場は鞍山に置かれた。(Wikipedia)

◆第Ⅱ章 つづき
(2階の企画展示室2に移動)
展示室入口に貼られているのは、淵上白陽が撮影した満洲国国務院資政局弘報処発行の対外宣伝ポスター「MANCHOUKUO THE SUN OF A NEW NATION」。(注15)
ピクトリアリズムの特徴がよくわかるのが、写真画集「光る丘」。光と影、太陽の低さ、土の質感、肌合いが表現されている。写真集をコロタイプで印刷するために大阪の「細谷印刷」を呼び寄せる凝りようだった。満洲写真作家協会の写真家は、弘報媒体の「満洲グラフ」と作品発表の場である「光る丘」を巧みに使い分けたが、「満洲グラフ」には芸術写真の「ゆるさ」がある。
注15:“MANCHOUKUO”は満洲国の中国語読みをローマ字表記したもの。英語ではない

◆第Ⅱ章のうち ロマノフカ村
 ロシア革命で、ロシアを逃れて亡命した人々を「白系ロシア人」という。淵上白陽は、満洲にも白系ロシア人の村があることを発見してロマノフ王朝にちなみ「ロマノフカ村」と名付けた。満洲写真作家協会の会員はロマノフカ村にバルビゾン派の世界に通ずるモチーフを見出し、幾度も撮影。ロマノフカ村の写真は、日本から来る開拓民のお手本、反ソ連のプロパガンダだった。
 1938年から1939年の間までが、満洲における淵上白陽の活躍のピークでした。(注16)
注16:淵上白陽は妻の死を契機に、1941年満鉄を退社、満洲を離れた。なお、戦後も日本で活動している

◆第Ⅲ章:宣伝と統制 ― 満洲国国務院弘報処と写真登録制度
 1940年になると、満洲国国務院弘報処長の武藤富男(注17)が、「登録写真制度」を制定。満洲国の弘報に写真家の活動を動員するため、写真を公募。「国家のために有用」と認めた作品を登録。入賞・登録した作品には天・地・人という賞を与えたが、絵画主義的な作品は否定され、日本人は「成功者」、中国人は「かわいらしいおばあさん」か「無邪気な子ども」が評価された。しかし、内田稲夫《驀進あじあ号》は、第Ⅱ章の《機関車》に比べると面白味がない。
注17:武藤富男(1904-1998):日本の官僚、教育者、キリスト教牧師、1943年に帰国し情報局第一部長就任。1962年に第7代明治学院院長。息子・武藤一羊は、ベ平連出身の社会運動家

◆第Ⅳ章:プロパガンダとグラフィズムの諸相 ― 1930年代写真表現の行方
 1940年以降は、満洲でもドイツからもたらされた新即物主義(注18)の写真が主流となる。1943年に発行された対外宣伝誌「FRONT」No.5-6「偉大なる建設 満洲国」は、その代表的なもの。(注19) 白系ロシア人も、ロマノフ村ではなくハルピンなどの都市生活者や兵隊が被写体になった。
注18:Neue Sachlichkeit(独)ノイエザッハリッヒカイト。表現主義に対する反動として、1920年代にドイツに興った芸術運動。主観的・幻想的傾向を排し、現実を明確に、客観的・合理的にとらえようとする立場。美術ではグロッスなどに代表される。(スーパー大辞林)
注19:発行、満洲書籍配給株式会社。製作、東方社。雑誌名「FRONT」は「戦線」を意味する。ソ連の対外宣伝誌『CCCP НА СТРОЙКЕ』(「ソ連邦建設」)に刺激された帝国陸軍の参謀本部が日本の対外宣伝グラフ誌刊行を計画、研究。1941年、参謀本部および内閣情報部の強力な後ろ盾によって東方社が設立され翌年から出版開始。No.1-2は海軍号、No.3-4は陸軍号
  なお、豊田市美術館で開催中の常設特別展「岡﨑乾二郎の認識 ― 抽象の力」(6/11まで)でも、「FRONT」が展示されています。見どころは「東山魁夷 唐招提寺障壁画展」だけではありません。

◆第Ⅴ章:廃墟への「査察」 ― ポーレー・ミッション・レポート
(地下1階の常設展示室3に移動)
 1945年8月9日、ソ連の満洲侵攻により満洲国は消滅。戦後、日本の賠償能力を調査するために1945年11月から46年7月まで、ポーレーの対日賠償調査団(Pauley Reparation Mission)が、日本、満洲、朝鮮半島北部を調査するが、旅順・大連はソ連軍が駐留しているため入ることが出来ず、鞍山、奉天(現在の瀋陽)、撫順に入った。
 展示している写真は、アメリカの国立公文書館が保管している資料に貼ってある写真を読み取り、インクジェットプリンターを使って拡大印刷したもの。
最初の写真は、新京(現在の長春)の関東軍司令部庁舎。帝冠様式(注20)の建物だが、無残に破壊されている。
最後に展示してある2枚の写真は、保管資料に貼ってあったものだが、撮影したのは調査団ではなくソ連兵か中国共産党軍であろう。工場の機械を、やぐらを組んで接収した時に撮った記念写真と思われる。笑顔で写っているのはソ連兵。この写真を見ると、戦後の東ドイツと同様に、満洲でもソ連軍による製造機械の略奪が行われたことが分かる。
注20:昭和初期、主に国内や満州国などの公共機関の庁舎に多く用いられた建築様式。近代的な鉄筋コンクリートビルの頂部に、中世の城のような瓦屋根を配す。神奈川県庁や愛知県庁、関東軍司令部庁舎など(デジタル大辞泉)なお、関東軍司令部庁舎は、現在、中国共産党吉林省党委員会本館として使われています。また、名古屋市役所本庁舎も帝冠様式の建物といわれています

◆竹葉さんからの案内
 「おかげさまで、展覧会は好評。多数の写真愛好家が来館しています。後期には展示替えがあるので、是非もう一度、来館してください。それから、ギャラリー・トークで李香蘭のエピソードを話しましたが、彼女が出演している映画の上映会を現在企画中。6月になったら実施する予定。決まったらお知らせするので、お待ちください。」とのことでした。

◆最後に
第Ⅰ章に展示されている櫻井一郎の写真は初めて見ましたが、昨年秋の協力会ツアーで行ったポーラ美術館「ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線」で展示されていたアジェの写真を思い出しました。どちらも、乾板を使うカメラで撮った「記録」であり、芸術作品とは言えないかもしれませんが、美術館で鑑賞する価値は十分あると思いました。また、第Ⅴ章の写真では、最新のスキャナー・プリンターの性能の高さに驚きました。
たっぷり2時間のギャラリー・トークで参加者は大満足。竹葉さん、ありがとうございました。
Ron.

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

熱く語ってくださった竹葉学芸員、ありがとうございました

「アドルフ・ヴェルフリ展」ギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「アドルフ・ヴェルフリ展」のギャラリートークに参加しました。担当は笠木日南子学芸員(以下「笠木さん」)、参加者は34人でした。

◆アドルフ・ヴェルフリ(以下「ヴェルフリ」)って、どんな人?
笠木さんによると「ヴェルフリ(1864-1930)は、日本でいえば江戸時代(幕末)生れの人。父は石工で、彼は7人兄弟の末子。家は貧しく、ヴェルフリが8歳の時に一家離散。ヴェルフリは里子に出されて里親の下で働かされた後、各地を転々とし、1885年、31歳の時に精神病院に収容された。今回の展示は、病院の中で描かれた作品。」とのことでした。
ヴェルフリは、とても悲惨な境遇の人だったのですね。
◆第1章 初期の作品
笠木さんによると「ヴェルフリは、自分を作曲家だと思っており、作品を楽譜と呼んだ。ただし、楽譜は五線譜ではなく六線譜で、初期の作品には音符がなかった。ヴェルフリの特徴は、初期から晩年までスタイルが不変であること。」とのことでした。
確かに、画面を隙間なく直線や曲線、人の顔、丸、ナメクジのような形、文字、数字などで埋め尽くすというスタイルはどの作品にも共通していますね。それにしても、下書き無しで大画面を破綻なく描き切るヴェルフリの才能は大したものだと思います。
◆第2章 揺りかごから墓場まで(1908-1912)
 笠木さんによると「第2章の作品が最も色鮮やか。1908年に研修医のモルゲンターラーが赴任して、ヴェルフリの作品を価値あるものと認め、色鉛筆を与えたことによりカラフルな作品が生まれた。ヴェルフリは色彩感覚に優れており、描いているうちに色鉛筆がどんどん短くなって使える色鉛筆が減っていっても、残った色をうまく使い、色彩のバランスが崩れない。”揺りかごから墓場まで“は、世界各地を旅して、お金を稼ぎ、自分の領地を広げるという冒険物語。ただし、文章と絵の内容は一致していない。また、稼いだお金の1973年から2000年までの利息を計算した表もある。」とのことでした。
 「物語を書いて、絵も描く。」という行為は、想像の世界に羽ばたき、ヴェルフリの過酷な境遇を忘れさせるもので、彼の生活に欠かせないものであったと分かりました。
◆第3章 地理と代数の書(1912-1916)
笠木さんによると「第3章でヴェルフリは、自分が得た資本財産の利子計算をして、画面を膨大な桁数の数字で埋め尽くすとともに、多くの楽譜を描いている。楽譜のもとになっているのは、教会で聞いた音楽や、教会で見た楽譜、軍隊で聞いた音楽、フォークダンスの曲など。」とのことでした。
たとえ、机上の計算であっても、自分の資産がどんどん増えていくことは楽しいものです。膨大な桁数の数字を書き続けることは、ヴェルフリの生き甲斐だったのでしょう。
◆第4章 歌と舞曲の書(1917-1922)、歌と行進のアルバム(1928-1924)
笠木さんによると「第4章では、絵が減ってコラージュが増えていく。また、神の名の頭文字のアルファベットを装飾的に描き、人の顔や丸、曲線などのモチーフで埋め尽くした作品もある。」とのことでした。
笠木さんは、芸者の写真のコラージュやキャンベル・スープの缶詰のイラストのコラージュがある作品などについて解説。ヴェルフリの美的センスを実感しました。
◆第5章 葬送行進曲(1928-1930)
笠木さんによると「第5章は、言葉と数字の繰り返しで、“16.シェアー.1.ヴィーガ,16.シェアー:1.ギーイガ.16.シェアー:1.シュティーガ,16.シェアー.1.シーイガ,……”というように、ヴィーガ(Wiiiga:方言で「揺りかご」)を、韻を踏んで少しずつ変形させながら、ラップのように繰り返し書いている。」とのことでした。
ヴェルフリは、語呂合わせ等の言葉遊びが好きな人だったのですね。
◆第6章 ブロートクンスト―日々の糧のための作品(1916-1930)
笠木さんによると「“揺りかごから墓場まで”等は自分のための作品で売りに出すことは無かったが、当時、ヴェルフリは売れっ子で、作品を買う人がいた。ブロートクンストは販売用のもので、色鮮やかで分かりやすく、画用紙に描いた作品。額装のような装飾が施され、作家のリルケや精神科医のユングも所蔵していた。」とのことでした。
自分の作品が売れて小遣い稼ぎができたことで、ヴェルフリは大きな自信を得たことでしょう。今見ても、ブロートクンストは可愛いと思います。
◆アドルフ・ヴェルフリの再評価
笠木さんによると「ヴェルフリの死後、1945年にジャン・デュビュッフェが病院を訪れて、ヴェルフリの作品を発見し、Art Brut (アール・ブリュット=生の/未加工の芸術)と名付けて高く評価した。1950年代には、シュルレアリストのアンドレ・ブルトンもヴェルフリを評価。1970年代には、スイス出身のキュレーターのハラルト・ゼーマンがベネチア・ビエンナーレやドクメンタで紹介。ヴェルフリの作品はモダン・アートのアーティストたちを刺激した。」とのことでした。「モルゲンターラーが赴任するまで、ヴェルフリの作品は「価値がない」として捨てられていた。」との解説もありました。
現在、日本経済新聞に、伊藤若冲をはじめとする江戸美術の収集家、ジョー・プライスが「私の履歴書」を書いています。連載の第1回は、若い頃に一目見て思わず買った絵が若冲の作品だったという話でした。江戸美術の収集を進めるうちに、辻惟雄や小林忠といった研究者と知り合い、コレクションの輸送費や保険料をプライスが負担して、江戸美術の展覧会開催に協力したという話もありました。ヴェルフリや若冲の例を見ると、芸術作品が評価されるには審美眼を持った人物との出会いが必要なのだな、と思いますね。
◆最後に
 この展覧会が始まるまで、アドルフ・ヴェルフリという人の名前すら知らなかったので、ギャラリートークも参加者は少ないだろうと思っていたのですが、意外に人数が多かったのでびっくりです。ギャラリートークでは、不思議な魅力のある作品を数多く見ることが出来ました。

解説してくださった笠木学芸員、ありがとうございました!

解説してくださった笠木学芸員、ありがとうございました!


Ron.

「永青文庫展」後期展示作品のギャラリー・トーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor


名古屋市美術館で開催中の「永青文庫 日本画の名品」が2月7日から後期展示になったので、名古屋市美術館の保崎学芸員(以下「保崎さん」)に無理なお願いをして、後期展示作品のギャラリー・トークも開催されることとなりました。急遽の決定で周知期間が短かったにも関わらず、参加者は47名。1月15日のギャラリー・トークの参加者48人に迫る人数でした。
午後2時からの解説会に引き続いてのダブルヘッダーでしたが保崎さんは元気で、トークにも熱が入っていました。90分にわたって楽しく解説を聴いた後、参加者一同による保崎さんに対する感謝の拍手で、ギャラリー・トークは「お開き」。
◆後期展示の作品
 後期の展示となったのは10作品。解説のあった順に並べると、以下の通りです。
寺崎廣業(てらさき・こうぎょう)《月夜山水(げつやさんすい)》、横山大観《野の花》《柿紅葉(かきもみじ)》《山窓無月(さんそうむげつ)》、菱田春草《六歌仙(ろっかせん)》《黒き猫》、小林古径《髪》、堅山南風(かたやま・なんぷう)《霜月頃(しもつきころ)》、上村松園《月影(つきかげ)》、松岡映丘(まつおか・えいきゅう)《室君(むろぎみ)》
◆後期の主役は《黒き猫》………
保崎さんによれば、「前期の主役は菱田春草の《落葉》、後期の主役は同じ作者の《黒き猫》。それを念頭に置いて作品の配置を考えました。前期は《落葉》の枯れ葉と被らないよう、横山大観《柿紅葉》を後期に回し、同じ作者の《雲去来(くもきょらい)》を展示。紅葉つながりで、堅山南風《霜月頃》も後期展示となりました。その結果、『紅葉があるので、後期の方が華やか』という声が聞かれます。意図した訳ではありませんが、確かに声のとおりですね。」とのことでした。
後期の主役《黒猫》。一幅の掛け軸ですから、六曲一双の屏風《落葉》に比べると遥かにちっちゃいですが、迫力は十分。黒のぼかしだけで猫の身体つきがわかるという描写は、さすがです。
保崎さんは「焼き芋屋からネコを借りてきて、五日間で描いた。ネコがじっとしていないので苦労したようだ。展覧会で評判となり、注文に応じて何点も黒猫の絵を描いている。それらの作品を見ると、このネコは柏の木から地面に跳び降り、逃げて行ったらしい。」とも解説。
◆クールな描写の《髪》
《黒猫》の隣は、同じく重要文化財の小林古径《髪》。保崎さんによれば「線描中心のクールな描き方をしている、線描の美しさに目が行くようになった昭和初期の日本画を代表する作品。左側の半裸の女性は伝統的な女性美、腰巻の青緑色が爽やか。右の女性は妹とも女中ともいわれるが当世風のキリッとした姿。川端龍子は、この作品を『隙がない』と評価。また、落款が無いので『未完成では?』という声もあるが、落款が無いのは『落款に失敗して作品を台無しにすることを恐れたのではないか』という声もある。」とのことでした。
◆上村松園と鏑木清方、美人画の競演
上村松園《月影》とは2013年の「上村松園展」以来、四年ぶりの再会。保崎さんも懐かしそうに解説してくれました。2階に展示の鏑木清方《花吹雪》と同じ文化文政頃の風俗、母・若い娘・幼女という組み合わせも同じであり、《花吹雪》についての解説もありました。
◆最後に
今回のように会期の途中で主要作品の入れ替えがあるときは、名古屋市美術館には世話を掛けますが、後期にもギャラリー・トークがあると良いですね。 Ron.

保崎学芸員、2度の講演ありがとうございました!

保崎学芸員、2度の講演ありがとうございました!

「永青文庫展」ギャラリー・トーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「永青文庫 日本画の名品」(以下「本展」)のギャラリー・トークに参加しました。前日からの大雪で欠席者が続出したものの48名が参加。展覧会への期待の高さが伺えました。JR東海道線の運行停止で、保崎学芸員(以下「保崎さん」)が開始時刻に間に合わず、代わりに角田学芸員(以下「角田さん」)のレクチャーでスタート、中盤から保崎さんへバトンタッチとなり、「二人から話が聞けて、お得なギャラリー・トーク」となりました。

◆本展について
 角田さんによれば、「永青文庫は、熊本藩の藩主・細川家の家宝を所蔵する財団。明治維新、敗戦という二つの危機で多くの藩主がお宝を散逸させた中、細川家は財産を持ちこたえた稀有な存在。特に、永青文庫の現理事長である細川護熙氏(元総理大臣)の祖父、細川護立氏は「美術の殿様」と呼ばれるほどの審美眼があり、永青文庫のコレクションを充実。本展は、護立氏による収集作品のなかから、近代日本画の名品と江戸時代の禅画を展示。近代日本画は、作家が画壇で認められるきっかけとなった見どころの多い作品ばかりなので、じっくりと鑑賞して欲しい。白隠、仙厓の禅画は、今でこそ人気だが、つい先ごろまでは「知る人ぞ知る」見向きもされないものだった。それを、護立氏は白隠・約千点、仙厓・約百点所蔵。見る目の確かさが窺えます。本展では、日本画の技法を解説したパネルも用意したので、是非、見てください。照明にも凝っており、全て、外注。」とのこと。会場に入ってみると、その言葉どおりでした。
■第一部 近代の日本画
◆日本美術院の大家たち
展示の冒頭は、岡倉天心が日本美術院を茨城県五浦海岸へ移したときに同行した画家の作品。
角田さんによれば、「下村観山は「うまい」作家で、《女》は「技巧の極致」。帯にナデシコの花と「やまと」の文字。これで「大和撫子」を暗示。木村武山《祇王妓女》は平家物語のエピソードを絵にしたもので、やまと絵と狩野派の統合を図っている。横山大観《山路》は修復を終えており、復活した鮮やかな色彩を見てほしい。熊本県美所蔵の三幅対《焚火》は、禅画の画題として好まれた「寒山・拾得」を描いたもの。巻物を手にしているのが寒山、箒を持つのが拾得で、煩悩の塊である落ち葉を燃やしている図。《老子》は、先生である岡倉天心へのオマージュ。下村観山・横山大観合作の《寒山拾得》は観山が寒山を、大観が拾得を描いている。個性豊かな二人なのに調子を合わせて描いているのが面白い。なお、観山は「寒山」のもじり。菱田春草の《平重盛》は、清盛が上皇を討とうとするのを、息子の重盛が諫めようと駆け付けた場面を描いたもの。有職故実をしっかりと押さえて描いている。また、とても早描き。重要文化財の《落葉》は、日本画の技法「ぼかし」「たらしこみ」をうまく使って描いている。横に広がる「無限感」がこの絵の魅力。落ちる木の葉で時間を表現している。」とのことでした。
◆再興日本美術院展の画家たち
午後6時少し前に、ようやく保崎さんが到着。大観たちの次の世代、再興日本美術院展の作家から保崎さんの解説になりました。保崎さんによれば、「今村紅紫の三幅対《三蔵・悟空・八戒》は、南画風の自由奔放な作品。小林古径の二曲一双《鶴と七面鳥》は、琳派の《風神雷神》を意識している。川端龍子は、当初洋画を描いていたが日本画に転向し、再興日本美術院展で入賞。その後、「会場芸術」としての日本画を主張して青龍社を旗揚げした作家。本展では三面の《霊泉由来》を展示している。」とのことでした。
◆京都画壇の作家
解説は続きます。「円山応挙の系譜に連なる竹内栖鳳は、写実と筆の技術に西洋風の色使いや写真の構図も取り入れた作家。三幅対《松竹梅》のなかの《梅》は、モネの睡蓮に近い描写が見られる。西村五雲の六曲一双《林泉群鶴図》は、非常にうまい。堂本印象《調鞠図》は彼の出世作。」とのことです。鍋鶴と丹頂鶴を描いた《林泉群鶴図》は、まさに「酉年のお正月」の絵です。
本展では向かい側に作品が無く、ただの壁になっているという展示が多いと感じました。おかげで、大きな作品を見るために後ろへ下がっても支障がなく、ガラス面の写り込みも目立ちません。とても快適です。保崎さんも「展示方法には、こだわった。」と言っていました。
◆2階には
2階にも近代日本画の展示が続きます。保崎さんは鏑木清方の双幅《花吹雪・落葉時雨》について、「この作品は、文展に対抗して開催された国画玉成会主催の展覧会で三等賞第三席を受賞。因みに一等賞、二等賞は該当作がなく、三等賞は、外に前田青邨、今村紫紅が受賞。また、上村松園が文展で三等賞を受賞。なお、描かれた女性の衣装は文化文政頃のもので、花吹雪は京都、落葉時雨は江戸の風俗。」と解説。平福百穂《「豫譲(よじょう)》については「『史記列伝』の『刺客列伝』に登場する人物を題材にしたもの。文展で特選となり、千五百円の値が付きました。ただ、現在に換算した値段は見当がつきません。」という話になり、角田さんが「家が一軒建つ値段です。」と補足してくれました。
■第二部 白隠と仙厓の禅画
◆白隠
 保崎さんの解説では「護立氏は若い頃、大病を患ったときに知人の阿部無仏氏から白隠の「夜船閑話」を読むよう勧められ、その教えを実践して回復。それがきっかけとなり、十代の頃から白隠の禅画収集を開始。当時は、禅画を収集する人は少なく、比較的容易に収集できたようだ。白隠は沼津の禅僧で絵はアマチュア、禅の教えを広めるための手段として禅画を描き、人々に与えた。絵と画賛(絵に添えられた文章、詩句)を、ともに味わうのが禅画の楽しみ方。」とのことでした。
◆仙厓
保崎さんの解説では「仙厓は岐阜県関市の生まれで、博多の聖福寺(しょうふくじ)の住職の住職を務めている。《寒山拾得》のような伝統的な禅画も描いているが、最近は「ゆるキャラ」というか子どもが描いたようなユーモラスな絵が人気。《朧月夜》は画賛に「切れ縄に口ハなけれど朧月」とあり『暗いところでは縄を蛇と勘違いすることがある、先入感を捨て真実をとらえる必要がある』という教えを説いている。《絶筆》は、あまりに絵の注文が多いので「今後、絵は描きません。」と知らせるもの。ただ、この《絶筆》、実は何枚も描いている。」とのことでした。
◆最後に
見て回った点数は多くないのに、終わってみればタップリ2時間あまり。角田さん、保崎さんの展覧会にかける意気込みが伝わりました。ありがとうございます。参加者一同、大満足でした。
近代日本画はお殿様の収集品らしく、大広間で見たくなる豪華なものが多くて、お正月らしい展覧会です。一方、禅画は、絵はへたウマでも画賛は禅の教えに裏打ちされており、味わい深いものばかりです。どちらも、もう一度、じっくり鑑賞する必要がありますね。
後期のみの展示が菱田春草《黒き猫》や上村松園《月影》な十点もあるので、後期(2月7日(火)~26日(日))も見逃せませんね。
Ron.

富山県立美術館にて BankART_大霊廟Ⅱ プライウッド新地 ヨコトリ_パオラ・ピヴィ_まだ誰も来ない MOTサテライト 目印はこれ! 河村るみさんをお迎えして 急遽解説してくださった角田学芸員 アルテピナコテーク さいたまトリエンナーレ 交流会にて 240の棺/Arigatou Sayounara 《帰ってきたJ.L.》は扉の向こう アンタイトルド・ドローイング・プロジェクト