長谷川利行展 食事会とミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor


名古屋市美術館協力会主催の食事会とミニツアーが開催され碧南市の大濱旬彩大正館(以下「大正館」)と碧南市藤井達吉現代美術館(以下「美術館」)に行ってきました。以下は、そのレポートです。
◆食事会
名鉄碧南駅前の大正館で開催された食事会は正午の開始。早めに大正館に到着した参加者は大広間に案内され、食事会の開始まで涼しく過ごすことができました。参加者は26名。予定通り正午に始まった食事会は、おしゃべりを交えながら前菜のゆでた落花生やメイン・ディッシュのメバルの煮魚などを楽しみ、午後1時過ぎにお開きとなりました。
ミニツアー開始まで、まだ一時間近くあるので、参加者は美術館の近所の見どころを求め二手に分かれて散策。一手が向かったのは清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)。清澤満之は真宗大学(現大谷大学)初代学長を務めた宗教哲学者。清澤満之が暮らした西方寺(さいほうじ)に併設(観覧料300円)されています。
もう一手は今年7月にオープンしたレストラン・カフェのK庵(九重味淋株式会社内)に向かいました。美術館西の横断歩道を渡り土塀に挟まれた路地を20メートルほど歩くと右に門があります。門の向こうにはお目当てのK庵。中に入ると、残念ながら満員。順番待ちをしないと席につけません。仕方がないのでK庵の隣にある「石川八郎治商店」を覗くと、本みりんや本みりんを使った芋けんぴ等の「本みりん関連商品」を売っていました。本みりん使用のジャムを買った参加者もいました。人気があったのは本みりん使用のソフトクリームとロールケーキ。350円のソフトクリームは本みりんの上品な甘さが素敵でした。

◆長谷川利行展ミニツアー
ミニツアーの参加者は35名と、多め。集合時刻の午後2時少し前に美術館の特任学芸員・北川智昭さん(以下「北川さん」)の案内で美術館の2階ロビーに向かいました。
北川さんは先ず美術館について紹介。美術館は商工会議所の建物を増改築したものであるため、天井高が低い、展示室が狭いなどの制約があるとのことでした。
北川さんは続いて長谷川利行(以下「長谷川」)について解説。概要は以下の通りです。なお、「注」は私の補記。

◎2階ロビーでの説明
長谷川は1891年7月9日に5人兄弟の3男として生まれる。本名は「はせがわ・としゆき」。歌人の出た家柄であり、本人も最初は歌人を目指して上京。1923年9月1日に関東大震災に遭遇。震災の経験を契機に「文字」から「絵」に方向転換した。当初から「専業の絵描き」を目指し「絵で食う」という覚悟だった。長谷川は美術学校で絵を学ぶことはなかったが、作品を二科会に出品。しかし、応援してくれる人は熊谷守一など数人に限られた。父の逝去で仕送りが途絶えたことなどから、ドヤ街暮らしとなる。アトリエを持っていないので、じっくり描くことはできない。そのため、30分以内に描く、その場で描いて絵を完成させる、というスタイルで絵を描き続けた。1940年、49歳で死去。胃癌だった。

◎Ⅰ 上京―1929 日暮里:震災復興の中を歩く
(注:展示室に移動し、主な作品を取り上げたギャラリートークが始まりました)
 長谷川は「あたらしもの好き」で最先端の東京を描いた。当時の最先端は電化。変電所や電線などを描いている。また、《地下鉄道》は当時最先端の地下鉄駅を描いたもの。「カフェ」も最先端の風俗。現在の喫茶店とは違いコーヒーだけでなくお酒も提供し、店によっては女給さんによるサービスもあった。最盛期には東京に1000軒ほどのカフェがあったという。《カフェ・パウリスタ》は「開運 なんでも鑑定団」で鑑定された作品。30分ほどで描いたと思われるが、エプロン姿の女給さんを活き活きと描いている。
長谷川は国産品ではなく、フランス製の絵の具を愛用していた。《汽罐車庫》はカドミウム・レッドというフランス製の絵の具をたっぷりと使った大作。《靉光像》に描かれた画家・靉光は長谷川を画家の先輩として尊敬していた。こうして見ると長谷川は似顔絵の才能が高いと思う。追加出品の《子供》は元「安藤組の組長」で映画俳優の安藤昇がモデル。安藤が子供の時に長谷川利行が絵を描いたということが確認されている。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その1)
長谷川の生き方を見ていると「お金がなかったからドヤ街を転々とした」というよりも、「都会のなかで異邦人、自由人として暮らす」という生き方をしたのだと思う。
第2章の絵からは「線」が出てくる。《女》は二科展の出品作。長谷川利行展の出品作品のなかで大きいサイズの絵は展覧会の出品作品。
長谷川は戸籍上「はせがわ・としゆき」だが、絵のサインは「TOSHIUKI HASEKAWA」と書いており、仲間内では「ハセガワ・リコウ」と呼ばれていた。
《熊谷守一像》はお世話になった熊谷守一を描いたものだが、あまり尊敬の念が感じられないように思う。熊谷守一の次女の熊谷榧(くまがい・かや)さんから「あるとき、長谷川利行が着物を濡らして熊谷の家を訪ねてきたので代わりの着物を貸してやったところ、いつまでたっても返しに来なかった。」というお話を聞いた。
《水泳場》は、震災復興の象徴で飛び込み台付きのプールを描いたもの。この絵に飛び込み台は描かれていないが、画面右に頭を下にして斜めに空中を飛んでいる人が描かれているので、飛び込み台の存在が分かる。
《カフェ・オリエント》は第1章の《カフェ・パウリスタ》とは作風が変わり、白いバックに色鮮やかな線で描いた作品。これ以降、長谷川の作品は明るいものになる。

◎Ⅱ 1930-1935 山谷・浅草:街がアトリエになる(その2)
(注:まだ美術館の2階ですが、ここから展示室が変わります)
写真は天城画廊で撮ったもの。天城画廊では2年間に何回も長谷川の個展を開催して多くの絵を売った。長谷川と画商の天城俊彦が一緒に写っており、壁に掛けられている絵は《浅草の女》。《花》《百合の花》は、花が活き活きしている。長谷川利行の描く花は一点一点違う。「一期一会」で描いているので、同じ絵は二度と描けないのだろう。(注:この部屋に展示されている《大根の花》の説明版に「名古屋市美術館蔵」と記されていました)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その1)
ガラスケースの中にヌードをまとめて展示。長谷川は会話をしながら絵を描いたのではないかと思う。真ん中の《青布の裸婦》をはじめ、どのヌードもモデルがリラックスしており、素直に描いている。《足を組む裸婦》は賛否が分かれる問題作。左脚を膝から曲げて右脚の上で組んでいる姿だが、右脚が体の真ん中から突き出ているように見える「解剖学的にありえない」作品。「解剖学的な正しさ」にとらわれずに見た印象を表現しようとしたので、こうなったと思う。《三河島風景》は「その場で描いた」というより「記憶に残っている所を描いた」のではないかと思う。

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その2)
(注:美術館1階北側の小部屋におけるギャラリートークです)
 この部屋には「かわいい絵」を集めた。入口を入って直ぐのところに展示の《ノアノアの少女》《ノアノアの少女図》《モナミの少女》は、いずれもカフェの女性を描いたもの。(注:ノアノア ”noa noa” はタヒチ語で「芳しい香り」。モナミ ”mon ami” はフランス語で「私の友達、私の恋人」)《ノアノアの少女》は異様に首が長いが、違和感はない。《ノアノアの少女》と反対側の壁に展示の《トルソーの女》は表情をうまくとらえている。
 長谷川の描く女性像は可愛くて魅力的だが、男性像は魅力的でない感じがする。(注:《天城俊彦像》は確かに顔が四角くて少し異様な感じがする絵ですが、2階に展示されていた写真と見比べると特徴をよく捉えていると思います。)

◎Ⅲ 1936-死 新宿・三河島:美はどん底から生じる(その3)
(注:最後の展示室、美術館1階南側の部屋におけるギャラリートークです)
 部屋の奥の壁に展示している《白い画面の人物》は2018年3月に発見された作品。一見、未完成のように見えるがサインがあるので完成作だと思われる。二科会に出品記録のある最後の作品ではないか。《白い画面の人物》は、とりあえず付けた無難なタイトル。二科会に出品した《道化師》ではないかという意見もある。これから調べるところであり、タイトルが変わる可能性がある。宗教画のような雰囲気を持っている。《男の顔(自画像)》は数少ない自画像の一つ。この部屋はお墓のような感じがする。
 長谷川は現在、注目されている作家。《白い画面の人物》のように、新しく発見される作品がこれからも出てくると思われる。

◎北川さんによる「締め」の挨拶
私のギャラリートークはこれで終わりです。引き続き長谷川利行展をご覧ください。
また、美術館の西には大谷大学の初代学長を務めた宗教哲学者を紹介する清澤満之記念館(きよさわまんしきねんかん)と今年7月にオープンしたレストラン・カフェがあります。よろしければ、美術館の帰りにお立ち寄りください。

◆自由観覧
ギャラリートークの終了は午後2時35分頃。その後は自由観覧となりました。
 北川さんのギャラリートークでは触れていませんが、最後の部屋に展示されていた数点のガラス絵は小さなサイズでヒビの入ったものもありますが、発色が鮮やかで魅力的な作品でした。
                            Ron.

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

解説してくださった北川智昭学芸員、ありがとうございました

豊田市美術館『ブリューゲル』展ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

 7月14日土曜日、前の週から続くうだるような暑さのなか、11名の会員が集まり豊田市美術館『ブリューゲル』展ミニツアーが開催されました。集まった人数は少なかったのですが、ブリューゲル展の担当学芸員の北谷正雄さんの「暑いですね、よくぞたどり着かれました」の一言から解説が始まりました。
 この展覧会は、まずはピーテル・ブリューゲルさんから家系が始まり、その子であるピーテル2世、ヤン1世に引き継がれ、そのまた子たち(ピーテル3世やヤン2世ら)につながっていくという画家一族及びその工房のブリューゲル一族の画業を紹介してくださっています。そしてその多くの作品をテーマごとに分けて展示し、その特色について分りやすく解説してくださっています。
 ブリューゲル一族の風景画は、一見フランドル地方の一風景を写生しているように見えますが、実は身の回りの自然をそのまま描いているだけでなく、現実にはそこにはありえない山や川、崖や森などを併せて描いたりして、世界中の風景をちりばめた、いわば世界風景の絵に仕上げているそうです。それは一種の理想的な風景とも言えるのですが、宗教的な要素から逸脱出来ない、宗教画としての役割もあるとのこと。宗教的に良く耕された心の持ち主(つまり、信仰心のある者)には、絵の表す教えが浸透していくといったような側面もあったようです。
 冬の風景画はフランドルでは人気が高かったようです。凍った川の上でスケートやゲームをして遊ぶ子どもたちや民衆を描いたりしたものなど、楽しげな様子が描かれていますが、じつはそんなポジティブな要素だけでなく、いったん氷が割れてしまえば冷たい川のなかに人々が落ちて沈んでしまうといった不安や暗い影が絵には含まれているということです。つまり幸せな営みのなかにも、いつ不幸な災難が訪れるかは分らず、その不幸の訪れを危惧するような要素が含まれているともとれるそうです。
 旅の風景は、当時世界的にも商業が盛んになり、交易などによって富がもたらされることにより描かれるようになったようです。
 寓意画は、16世紀17世紀に古典を復興させようという動きが強まり、愛とか勇気といった抽象的観念を表すものとして描かれるようになったようです。
 その他静物画や昆虫の絵も人気があったようです。そして、よく知られている農民の風景も多く描かれていて、現代を生きている私たちに当時の民衆の生活の様子を伝えてくれています。
 暑い中、私たちにお話してくださった担当の北谷正雄学芸員に感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。
名古屋市美術館協力会

ボストン美術館の至宝展 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

名古屋市美術館協力会主催のミニツアーで、名古屋ボストン美術館で開催中の「ボストン美術館の至宝展」(以下「本展」)に行ってきました。参加者は19名。午前9時45分に1階壁画前に集合。10時から5階・レクチャールームで山口由香学芸員の解説を聴いた後は自由観覧となりました。以下は、解説等の要約筆記です。(「注」は、私の補記)

◆山口学芸員の解説要旨
ボストン美術館として本展で伝えたいことは、英語の展覧会名 ”GREAT COLLECTORS : MASTERPIECES FROM THE MUSEUM OF FINE ARTS” が、はっきり示している。つまり、「Great collectors=偉大なる収集家のことを伝えたい」というのが、本展の狙い。

◎コレクション=collection とは
 コレクションとは「公的あるいは私的に収集する」こと。ただし、Amazonの倉庫にある商品は「コレクション」ではない。営利活動・経済活動によるものはコレクションから除かれる。コレクションとは単に「集めた」だけではなく人目にさらされることを前提としている。
「古代のコレクション」は、絶対的な権力者の愛玩品。権力を見せるためのもの。
「14世紀から19世紀以前までのコレクション」になると、美術品の収集が一般化され、君主や教会だけでなく一部の富豪もコレクションを持つようになる。
「19世紀以降のコレクション」になって、公共の美術館やギャラリーによる公共コレクションが始まる。

◎どうやってコレクションを増やすのか
コレクションンを充実させるには「購入」「寄贈」「寄付」という3つの方法がある。なお、「寄贈」「寄付」の違いであるが、「寄贈」は作品そのものを、まるっと美術館に渡すこと。「寄付」は、作品購入やコレクション拡大のための資金を美術館に渡すこと。
ボストン美術館は、公の機関から資金の援助を一切受けずに作品を収集してきた。そして、展示室内でスポンサーを招いたパーティを開催するなど、コレクターを大切にしている。
(注:つまり、ボストン美術館は、個人の寄贈や寄付によってコレクションを充実してきた。そして、ボストン美術館に「寄贈」「寄付」してくれた「偉大なコレクター」を称えるのが本展の趣旨、ということですね。なお、貴族制度のないアメリカでは、美術館に寄贈・寄付することは、市民から尊敬されるための重要な要素です。)

◎ボストン美術館には8つの部門がある
注:文字数が多すぎて、レクチャールームでは部門の名前をメモできませんでした。ネットで調べたところ、「古代」「ヨーロッパ」「アジア・オセアニア・アフリカ」「アメリカ」「現代」「版画・素描・写真」「「染織・衣装」「楽器」の8部門とのことです。

◎古代エジプト美術のコレクター・見どころ
ボストン美術館の古代エジプト美術は、カイロ美術館を除けば、世界最大のコレクション。「いつ・どこで・誰が」発掘したのかハッキリしており、コレクションの質が高い。
コレクターは、「ハーバード大学=ボストン美術館共同発掘隊」。盗掘から美術品を守るため、正規の発掘調査隊に対しては発掘品の半分を持ち帰ることが許可されていた。発掘は、1905年から40年間続き、現スーダン北部の「ヌビア」の発掘も実施。本展では、エジプトとヌビアの美術品を展示。
古代エジプト美術のイチオシは、《高官マアケルウの偽扉(ぎひ)》。実際に開けることが出来ない扉なので「偽扉(ぎひ)」と呼び、古代エジプト人の死生観を示す美術品。
古代エジプト人は、人間には5要素があると考えていた。それは、①イブ(肉体)、②シュート(影)、③レン(名前)、④バー(魂)、⑤カー(精神・生命力)の5つ。バーは夜ごと肉体から出入りする。カーは死後も不滅だが、カーを維持するためにはお供え物が必要。
偽扉は死後に出入りするための扉。偽扉にはカーの糧として、お供え物が描かれた。

◎中国美術のコレクター・見どころ
本展では、「宋」(注:北宋と南宋)を中心に、960~1300年の美術品を展示。
ボストン美術館では、日本美術に比べると中国美術の目覚めは遅く、周季常《施材貧者図(五百羅漢図のうち)》がコレクションの始め。
1894年にボストン美術館で展覧会が開催され、京都・大徳寺所蔵の五百羅漢図百幅のうち、44幅が展示された。当時、大徳寺は再建のために資金を必要としており、展示品の一部を売却。ボストン美術館が5幅、デルマン・ウォルト・ロスが5幅、その他の収集家が2幅購入。その後、デルマン・ウォルト・ロスが5幅をボストン美術館に寄贈したため、ボストン美術館の所蔵は10幅となり、うち2幅を本展で展示している。

◎日本美術のコレクター・見どころ
日本美術のコレクターといえば、フェノロサが有名。彼は「お雇い外国人」として来日。現在の東京大学で政治経済学を教える傍ら、日本各地を旅行して1000点以上の絵画からなるコレクションを集めた。外に、ビギローは工芸品を5500点、モースは陶器のコレクションを集めた。フェノロサは1896年にボストン美術館の日本美術部・初代部長に就任している。
本展の見どころは、英一蝶《涅槃図》。高さ286.8㎝、横168.5㎝の大作だが、これは絵の部分だけのサイズ。お軸・ケースを入れるともっと大きくなる。この作品は、170年ぶりに本格的な解体修理を受けて展示された。修理期間は1年以上かかった。1911年から現在に至るまで、展示は1回だけ。展示回数が少ない理由は「大きすぎて展示ケースが無い」こと。本展終了後にボストン美術館に戻るが、大きすぎて展示スペースがないのが悩み。なお、ボストン美術館のホームページで修理の様子を見ることが出来る。

◎フランス絵画のコレクター・見どころ
フランス絵画の有力コレクターは、ジョン・テイラー・スポルディング。彼の浮世絵コレクションは有名だが、収蔵された作品を見ることはできない。
スポルディングは、ドガ《腕を組んだバレエの踊り子》からヨーロッパ美術の収集を始めた。セザンヌの熱心なファンで、《卓上の果物と水差し》は彼のお気に入りだった。
晩年のスポルディングは、資産を売り払ってリッツ・カールトン・ホテルに5年間住んでいた。典型的な「お金持ち」で、ボストン市民のあこがれだった。
ロバート・トリート・ペイン2世は、量より質を重視したコレクター。《郵便配達人ジョセフ・ルーラン》(1888)は、ボストン美術館が収蔵した最初のゴッホ作品。ゴッホは同じモチーフの作品を何枚も描いているが、ボストン美術館が収蔵しているのは最初に描いたもの。本展では、郵便配達人の夫人を描いた《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》(1889)も展示。ゴッホは何枚も夫人の絵を描いているが、ボストン美術館が収蔵しているのは最後に描いたもの。
ルーラン夫妻は、南フランスのアルルに移住後のつらい時期のゴッホを支えた人物。ゴッホは、夫妻の家族の肖像も20種類以上残している。なお、本展展示の夫の肖像を描いた時期と妻の肖像を描いた時期の間に、有名な「耳切り事件」が起きている。

◎アメリカ絵画のコレクター・見どころ
 アメリカ絵画の有力コレクターは、マーサ・コッドマン・カロリック(1858-1948)&マキシム・カロリック(1893-1964)夫妻。マーサはボストンの大富豪の娘。夫のマキシムはモルドバ共和国に生まれ、ロシア・アメリカで活動したテノール歌手。妻70歳・夫34歳の時に結婚。夫は、妻の死後も30年間にわたってアメリカ絵画をコレクション。
 ボストン美術館への寄贈は3期に分かれ、第1期は1935年で18世紀アメリカ美術、第2期は1945年で19世紀アメリカ美術、第3期が1962年で19世紀アメリカの水彩画・素描。いずれも、ボストン美術館の学芸員と相談して、計画的に収集したもの。
 本展に展示の肖像画、コプリ《ジョン・エイモリ―夫人》(1763)と《ジョン・エイモリ―》(1768)は、マーサの先祖を描いた作品。コプリは、アメリカ独立前のアメリカ出身画家として、初めて世界的な評価を得た。

◎版画・写真のコレクターと見どころ
版画・写真の有力コレクターは、ウィリアム・レーン(1914-1995)&ソンドラ・ベイカー・レーン(1938-  )夫妻。1990年に、ウィリアム・H・レーン財団を設立し、夫・ウィリアムが亡くなった後に2回、ボストン美術館にコレクションを寄贈している。
見どころは、画家・写真家のチャールズ・シーラーの作品。レーン夫人が2500点以上の写真を購入してボストン美術館に寄贈。本展では絵画《ニューイングランドに不釣り合いなもの》(1953)と写真《白い納屋、壁、ペンシルベニア州バックス郡》(1915頃)を展示。

◎現代美術は1971年にできた新しい部門
現代美術部門は1995年以降の作品なら何でも収集。スライドは「村上隆展」の光景。スライドの人物は上司の吉田俊英・名古屋ボストン美術館特別顧問(注:前豊田市美術館長)。
見どころは、ケヒンデ・ワイリー《ジョン・初代バイロン男爵》(2013)。ウィリアム・ドブソン《ジョン・初代バイロン男爵》をもとに描いた作品。ドブソンの絵には従僕の黒人少年が描かれているが、ワイリーは黒人を主人公に置き換えて描いた。
ワイリーは「オバマ大統領を描いた肖像画が2018年2月12日にスミソニアン博物館・国立肖像画美術館でお披露目された。」ことで、アメリカで話題に。ボストン美術館では、話題提供のために、ワイリーの《ジョン・初代バイロン男爵》を現代美術部門で展示しようとしたが、現物は名古屋ボストン美術館で展示されていたため本家・ボストン美術館では展示できず、現地ではとても残念がっていた。

◆自由観覧
山口学芸員から「本展では自分の好みを探り、好きな作品をひとつ、好きな分野をひとつ見つけてください。また、7月24日(火)から10月8日(祝)までのハピネス展もよろしく。」という言葉を受け、各自、自由に観覧しました。

◎「モネ それからの100年」に関連する作品も
 フランス絵画では、モネの作品を4点展示しています。この4点を市美の「モネ それからの100年」(以下、「モネ展」)と強引に関連付けるとすれば、どうなるでしょうか。
先ず、エドワース家から寄贈された2点ですが、名古屋初お目見えでヒナゲシの赤が鮮やかな《くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊》(1885)は、モネ展の《ジヴェルニーの草原》(1890)と似たモチーフではないでしょうか。また、海とヨット、城、遠くの山脈と広い空を描いた《アンティーブ、午後の効果》(1888)は、「海岸の風景」という点でエトルタ海岸を描いた《アヴァルの門》(1886)と無理やり関連付けてみましょう。
 次に、サミュエル・デッカー・ブッシュ寄贈の《ルーアン大聖堂、正面》(1894)は、「積みわらの連作」と「ロンドンの連作」とに挟まれた連作のうちの1点と、位置付けることが出来ます。
 最後に、エドワード・ジャクソン・ホームズ寄贈の《睡蓮》(1905)は、1909年にパリで開催された睡蓮の展覧会後に購入された作品です。モネ展の《睡蓮》(1906)と制作年が近く、ギャラリートークで保崎学芸係長が解説してくれた名古屋市美術館2階、第4章の「睡蓮の部屋」に展示されていてもおかしくない作品です。
 以上のように、ほぼ同時期開催の2つの展覧会でモネの作品を見比べることが出来るという機会は、なかなかありません。今回は、またとないチャンスです。
 また、モネ展と直接の関係はありませんが、《グレーの上のカラー・リリー》と《赤い木、黄色い空》を本展で展示している画家のジョージア・オキーフ(1887-1986)は、モネ展で写真を展示している画商・写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)と1924年に結婚しています。
                            Ron.

名古屋市博物館 レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展 ミニツアー

カテゴリ:ミニツアー 投稿者:editor

名古屋市博物館で開催中のレオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展(以下、「本展」)鑑賞の名古屋市美術館協力会・ミニツアーに参加しました。参加者は19名。当日は横尾学芸員(以下「横尾さん」)の解説を聴いた後、自由観覧となりました。

◆横尾さんの解説(あらまし)
本展の主題
 本展は、未完成の大壁画「アンギアーリの戦い」を主題とした展覧会。主題の一つは《ターヴォラ・ドーリア》を手掛かりに、ダ・ヴィンチがどんな壁画を描こうとしたのかを探ること。もう一つは、ダ・ヴィンチが「アンギアーリの戦い」で成し遂げた絵画の革命。「ダ・ヴィンチ以前」と「以後」を比較して、その後の絵画に与えた影響を明らかにすることです。

第1章 歴史的背景「アンギアーリの戦い」とフィレンツェ共和国
 1500年頃、メディチ家がフィレンツェ共和国(以下、「フィレンツェ」)から追放され修道士のサヴォナローラが実権を握るが、サヴォナローラもローマ教皇から破門され、ピエロ・ソディリーニが国家主席となる。この時期、イタリアはローマ教皇領、ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国など幾つもの国に分かれており、フィレンツェは対外的な危機状況にあった。
 フィレンツェの書記官マキャヴェッリは外交に奔走するとともに、徴兵制を採用するなど「強いフィレンツェ」への立て直しを進めていた。そして「強い国をつくる」という思いを鼓舞するため、過去にフィレンツェが輝かしい勝利をあげた「アンギアーリの戦い」と「カッシーナの戦い」の壁画をシニョーリア宮殿大評議会広間(現在のヴェッキオ宮殿五百人大広間)に掲げようとした。

第2章 失われた傑作、二大巨匠の幻の競演
 「アンギアーリの戦い」の制作は当時50歳代のダ・ヴィンチに、「カッシーナの戦い」の制作は当時20歳代のミケランジェロに依頼された。しかし、ダ・ヴィンチは「アンギアーリの戦い」の彩色の途中で制作を中断し、ミラノに向かった。壁画はしばらくの間未完のまま放置され、多くの画家が模写をした。ミケランジェロは原寸大の下絵を描いた段階でローマ教皇に招聘されたため、壁画を描いていない。
 第2章で展示の《ターヴォラ・ドーリア》は「ドーリア家の板絵」という意味、16世紀前半の作品。ダ・ヴィンチの構想を伝える最良の模写で、軍旗争奪の場面を描いたもの。当時の戦争は「相手の軍旗をとったほうが勝ち」というもので、軍旗争奪は壁画の中心となる場面。
 絵を見ると人馬が渦のような動きをしており、馬のしっぽなどの細部にも渦がある。本展では立体復元模型も展示している。ダ・ヴィンチも粘土の模型を造って、構図を研究したようだ。
 一方、「カッシーナの戦い」の下絵には、フィレンツェ軍の兵士が水浴びをしているところを敵軍に襲われた場面が描かれている。いわば「変化球」だが、ミケランジェロは男性の裸体像を描きたかったようだ。裸体像は、システィーナ礼拝堂の祭壇画《最後の審判》にもつながる。

第3章 視覚革命「アンギアーリの戦い」によるバロック時代への遺産
 ダ・ヴィンチ以前の戦争画は、装飾的で華麗だが激しい戦闘の場面は描いていない。
 15世紀に戦われた「アンギアーリの戦い」の実態は、死者1名。当時は、傭兵同士の「力の見せ合い」が中心で、「のどかな戦争」であった。しかし、16世紀になると各国は殺し合いで領土を広げるようになる。ダ・ヴィンチが見たのも血なまぐさい戦争。ダ・ヴィンチは「アンギアーリの戦い」で、自分の見たリアルな戦争を描いた。ダ・ヴィンチ以降、バロック時代の戦争画ではこれがスタンダードとなる。「時代を変えた」というのが、ダ・ヴィンチの凄さ。

幕間 優美なるレオナルド
 戦争の絵ばかりだと暗くなるので、ダ・ヴィンチの美人画(模写)も展示しています。

質疑応答
 解説終了後、「2015年から2016年にかけて、東京富士美術館、京都文化博物館、宮城県美術館と巡回した展覧会と本展は同じ名前ですが、どういう関係ですか。」という質問がありました。
横尾学芸員の答えは、「同じものです。前回の巡回から1年ほど期間を空けて、再度、巡回を始めたのが本展。ただ、展示作品は大分ちがっています。なお、関係者は前回の図録を第1シーズン、今回の図録を完全版と呼んでいます。本展は「アンギアーリの戦い」に関する研究成果の発表という側面もあるので、是非、完全版の図録を買ってください。」と、いうものでした。

◆自由観覧
第1章
 会場の入口には、ミケランジェロ《ダヴィデの頭部(石膏模造)》が展示されています。間近で見るダヴィデの頭部には迫力があります。《シニョーリア広場におけるサヴォナローラの処刑》は火炙りの様子を描いたもの。失脚した権力者の末路は哀れなものです。《シニョーリア広場での「敬意の祝祭」》には、ミケランジェロ《ダヴィデ像》が描かれています。《ビュドナの戦い》は、横尾さんの解説どおり、装飾的ですが迫力には欠けていました。

第2章
 本展の目玉《ターヴォラ・ドーリア》(《アンギアーリの戦い》の軍旗争奪場面)では、白馬が2頭、茶色の馬が2頭、馬に乗っている人間が4人、地面で戦っている人間が3人いることまでは分かります。しかし、未完成の壁画をそのまま模写しているので彩色してない部分があり、細部は、よくわかりません。しかし、「未完成部分を想像力で補った」模写や東京富士美術館所蔵《ターヴォラ・ドーリア》の立体復元彫刻の展示もあるので、大丈夫。特に立体復元彫刻は、水平方向360度だけでなく真上からも見ることが出来るので、横尾さんの解説にあった「渦巻いている」様子がよくわかります。
 第2展示室に向かう途中の通路にはパネルによる「アンギアーリの戦い」の解説があり、ダ・ヴィンチの全体構想では右から順に、①フィレンツェの援軍がテヴェレ川に架かる橋に到着した場面、②軍旗争奪戦、③敗走するミラノ軍を描く予定だったようです。

第3章、幕間および同時開催の「天才 レオナルド」
 ピーテル・パウル・ルーベンスに帰属《アンギアーリの戦い》は、ダ・ヴィンチの作品をもとにした作品ですが、バロック時代らしく《ターヴォラ・ドーリア》よりもハイライトと暗部との明暗の差が大きく、ドラマチックな構図になっています。《キモンの戦い》のタピスリーも展示されていました。第3章に続いて、《レダと白鳥》等の美人画の外、はばたき飛行機などの展示もあります。

◆最後に
 横尾さんが「研究成果の発表という側面もある。」と話していたように文書資料の展示もあり、絵画を鑑賞するだけでなく「勉強もできる展覧会」でした。
 Ron.