展覧会見てある記 名古屋市美術館「名品コレクション展 1(前期)」

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「グランマ・モーゼス展」を見た後、地下1階に降りて「名品コレクション展」を見てきました。その中で目を引いたのが「現代の美術」に出品されていた、三木富雄《耳》(1972)です。名古屋ボストン美術館・館長を務められた馬場駿吉氏所蔵の、アルミ合金で出来た手のひらサイズの「耳」の彫刻を展覧会で見た記憶はあるのですが、名古屋市美術館で大きなサイズの彫刻を見るのは初めてでした。美術館の人に聞くと「前にも展示したことがありますよ」との返事。ネットで調べると、2012年の「名品コレクション展Ⅰ(前期)」(4/7~5/20)に出品された記録があります。そうすると「田渕俊夫展」のときに見たはずなのですが、全く記憶にありません。当時は、三木富雄《耳》に対する関心が無かったということですね。

◆ 今回、《耳》に目が止まった理由は

2012年の展示を見たはずなのに記憶がなく、今回になって惹きつけられたのは何故か?それは、現代美術作家・杉本博司氏(NHK大河ドラマ「青天を衝け」の題字を書いています)の「私の履歴書」(2020年7月に日本経済新聞へ連載)を読んだからです。杉本博司氏は1970年代半ばにニューヨークに移り住み、篠原有司男、オノ・ヨーコ、荒川修作、河原温などの作家と交流しますが、一番親しくなったのが三木富雄でした。「私の履歴書」第12回は、次のように書いています。

〈三木富雄は「耳の三木」と呼ばれ、耳の彫刻をアルミで作っていた。「私が耳を選んだのではない、耳が私を選んだのだ」。これは当時語り草になった。(略)三木が帰国するまでの1年間、多くの時を共に過ごした。(略)三木は私に、「僕は粘土で耳を作りながら壊していく。その過程を写真に撮ってくれ」という。(略)私は意気投合して撮影したが、この作品が後に思わぬ展開を生むことになる。〉(引用終り)

「私の履歴書」第16回の概要は、以下のとおりです。

〈1977年1月、長男の慧が生まれた。(略)私は5年ぶりに、妻と初孫の顔を両親に見せるためもあって帰国した。(略)三木富雄は先に帰国していて、私との共同制作作品を、南画廊の志水楠男氏に見せて、展覧会の開催を迫っていた。(略)ところが志水さんは、記念写真だけで売り物のない展覧会はできないと突っぱねたのだ。失意の三木富雄は、それでも私の帰国に合わせて志水さんを訪ねるよう約束を取ってくれた。私は白熊のシリーズと映画館の新作を大きなポートフォリオケースに入れて、南画廊に持ち込んだ。中に入ると志水さんと美術家のリー・ウーファン氏が歓談していた。(略)1作品ずつゆっくりと、志水さんは魅入られるように見た。私の説明を聞きながら、志水さんの顔が上気してくるのがわかった。(略)19作品を見終わると、志水さんはおもむろに手帳を広げた。いつ展覧会を開こうかというのだ。ちょうど2週間後に2週間の空きがある。カタログも作ろう、というのだ。驚いたのはリーさんと私だった。(略)三木富雄が会場に顔を出すことはなかった。そして8カ月後、京都で急死した。その死はジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスのような、不摂生の極みによるものだった、享年41。私は大切な友人を失った。そしてその翌79年。今度は志水さんも他界してしまった。私は大切な画商を失った。〉(引用終り)

三木富雄氏の斡旋で杉本博司氏は現代美術家としてデビューするチャンスをつかんだ一方、三木氏富雄は展覧会が開催できず、京都で急死。二人の人生は、明暗が分かれてしまいました。

「私の履歴書」第16回を読み「グランマ・モーゼス展」の協力会向け解説会で聴いた話を思い出しました。グランマ・モーゼスも作品を置いていたドラッグ・ストアでアマチュアのコレクターに見出され、彼の仲介により画廊を経営するオットー・カリアーと出会うことで、画家のスタートを切りました。ベストセラーになった彼女の自伝『私の人生』もオットー・カリアーの勧めで出版したものです。画家が世に出るには、画商の存在が欠かせないということですね。蛇足ながら、ネットで調べたところ、馬場駿吉氏が三木富雄氏の耳の彫刻を買ったのも南画廊だったそうです。

Ron.

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