新聞を読む 日本経済新聞『私の履歴書』辻惟雄 – 上(ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』の深掘り – 上)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

2021年1月1日から日本経済新聞で辻惟雄氏の「私の履歴書」(以下履歴書」)の連載が始まりました。履歴書には同じ著者の「ちくまプリマ―新書349『伊藤若冲』」(以下「若冲」)に書かれた内容のうち、忘れられた画家であった若冲が戦後再評価されたことに重なる、「深掘り」とも言うべき話が幾つも書かれています。以下、掲載順に並べてみました。

◆履歴書21回(1/22)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、アメリカ人の若い金持ちの御曹司ジョー・プライスが買い付けて手付金を支払った二幅の若冲を、画商から一日だけ借り受け美術史研究室の後輩に見せたという話(若冲p.208~209)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①ジョー・プライス氏が「ヨットで太平洋を乗り回すアメリカの変わった資産家」であったこと、②後輩に見せたのは「1964年の春」で、二幅の若冲は《紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)》と《雪芦鴛鴦図(せつろえんおうず)》、③持ち込んだのは「西洋美術史の吉川逸治先生のセミナー室」で「まだ学生だった小林忠さん(現岡田美術館館長)もその場にいた」ことの3点です。

履歴書は更に、ジョー・プライス氏について「戦後若冲を初めて評価した人、つまり第一発見者である」と書き、著者については「私は2番手だが、今の絶大な若冲人気を博している、この画家のブームをプライスさんらとともにけん引したと思っている」と踏み込んでいます。

なお、「ジョー・プライス氏が戦後若冲を初めて評価した」というのは、2017年3月に連載された日本経済新聞「私の履歴書」(ジョー・プライス)の1回・18回に書かれた、1953年、浮世絵の収集家でもあった建築家フランク・ロイド・ライト氏と訪れたニューヨークの「セオ ストア(瀬尾商店)」で、若冲の《葡萄図》に出会い600ドルほどで購入した、という話を指すと思われます。

◆履歴書22回(1/23)

若冲の「あとがき」の「1970年3月、私は『奇想の系譜』という著書を出版」(若冲p.247)に重なる内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、①1968年の初めごろ「美術手帖」の編集者・森清凉子氏から依頼があり、著者が同年7月号から12月号に6回連載したこと、②連載が好評であったため、1969年に長沢芦雪(ろせつ)を書き加え、その後、単行本として出版したことの2点です。

◆履歴書23回(1/24)

若冲の第4章の「アメリカ人コレクター、プライスさん」に書かれた、「現在まで、私とプライス夫妻との交流は続いています」(若冲p.209)という文章の具体的な内容が書かれています。

「若冲の深掘り」は、1971年5月に著者が文学部東洋・日本美術史学科の助教授として東北大学に赴任し、その年の6~8月にプライス夫妻の招きで渡米。シアトルの空港ではプライス夫妻の出迎えを受け、シアトル美術館を見た後、プライス邸に招かれた、という話です。なお、この回は「ボストン美術館の日本美術の主任研究員のモネ・ヒックマンさんなど多くの知己を得て収穫の多い旅だった」という文章で締めくくられています。

◆履歴書24回(1/25)

この回では、東北大学における生活の様子と研究内容が書かれ、1977年9月から翌年1月まで米国・プリンストン大学の短期講義に赴いたことにも触れています。

◆履歴書25回(1/26)

この回では、1980年4月から東京大学の教授を併任し、1981年4月に東京大学へ戻ったこと、日本美術全体を見通す重要なキーワードとして「遊び」を見いだしたことなどが書かれています。

◆中間まとめ

連載は続きますが、一先ず「中間まとめ」とします。連載は、あと5回です。履歴書がどこまで21世紀の「若冲ブーム」に言及するのか見守り、連載終了後に「最終まとめ」をしたいと思います。

Ron.

読書ノート  辻 惟雄(つじ のぶお)著  よみがえる天才1『伊藤若冲』ちくまプリマ―新書349  発行所 株式会社筑摩書房  2020年4月10日発行

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1月2日、NHK総合テレビで正月時代劇「ライジング若冲」が放送され、とても面白くて引き込まれました。番組の最後に出た「時代考証に基づいたフィクション」という文字を見て「どこまでが本当なのか」知りたくなり、本屋で出会ったのがこの本です。

◆正月時代劇「ライジング若冲」について

若冲(中村七之助)と相国寺の学僧・大典顕常(永山瑛太)の二人の出会い・交流によって傑作《動植綵絵》が完成されるまでの話を軸に、謎の仙人・売茶翁(石橋蓮司)や若き日の円山応挙(中川大志)など、同時代の人物が絡み合うドラマです。本編の終了後、《動植綵絵》完成後のエピソードとして、①若冲と大典が淀川下りをして、若冲の描く風景と大典の漢詩を組み合わせた拓版画《乗興舟》を制作したこと、②天明の大火で、若冲が財産を失ったものの、その後も《伏見人形図》などの作品を制作したこと、③明治維新で窮乏に陥った相国寺が《動植綵絵》30幅を宮内庁に献上し、下賜金一万円で敷地と建物を維持したことの3つが紹介されました。

◆ちくまプリマ―新書『伊藤若冲』について

 本書で気に入ったのは、①内容が充実していること、②新書版なのにカラー図版が豊富なこと、③文章が読みやすいことの3点です。本書の第1章は若冲の生い立ちと、時代背景、第2章は《動植綵絵》の制作、第3章は若冲画の世界、第4章は画業の空白時期と新しい若冲像、第5章は天明の大火で激変した晩年の生活を書いています。いずれの章も、読み応えのある内容でした。

本書の「あとがき」によると、著者の『若冲』(1974)の本文をもとにして、編集者によるインタビューや最近の研究成果なども取り入れて「若い世代の人たちにも親しみやすい文体と内容にしようと努力しました」とのことです。確かに、難しい漢字にはふりがなが振られ、ひらがなが多く、とても読みやすい文章でした。

以下は、本書のなかで特に面白いと思った内容のご紹介です。

・若冲はたんなる絵画オタクではなかった!(本書p.165~170)

これは、最近の研究による発見で、50歳代半ばを過ぎた若冲が、「年寄役(町役人)」として、京都の東町奉行所に差し止められた錦小路青物市場の再開を実現するまでのお話です。最後に近い部分には「この間、錦高倉四町の間の微妙に異なる利害関係を調整し、百姓に熱を込めて窮状を訴えかけ、五条問屋町の駆け引きに応ぜず、役所と粘り強い交渉を続け、最後の段階では陰に回って、ついに市場の再開を勝ち取るに至ったドラマの主役は、まさに若冲その人でした。資料はそれを如実に物語っています。若冲は『絵を描くことしかできない男』ではなかったのです。(本書p.170)」と書かれています。

・アメリカ人コレクター、プライスさん(本書p.208~210)

著者が「アメリカ人の若い金持ちの御曹司(本書p.208)」ジョー・プライスが買い付けて手付金を支払った二幅の若冲を、画商から一日だけ借り受け美術史研究室の後輩に見せたという話から始まります。続いて、その翌年にジョープライスが著者が勤める文化財研究所に訪ねて来てから現在までの交流が書かれ、最後の方では2019年に出光美術館がプライス・コレクションの一部を購入して、190点もの作品が日本に里帰りしたこと、その中には「モザイク屏風」として知られる《鳥獣花木図屏風》が含まれていることを紹介(本書p.210)しています。

なお、1月1日から日本経済新聞に著者の「私の履歴書」が連載されています。1月20日の回で、著者が東京国立文化財研究所に就職しましたから、もうすぐ、このエピソードが書かれると思います。楽しみですね。

・工房制作への切り替え(本書p.213~215)

 「ライジング若冲」で本編終了後に紹介された《伏見人形図》について、本書は以下のように書いています。

「このころから若冲は、意図的に弟子をつくり、工房で制作していく方式に切り替えていったと考えられます。弟子の数は四、五人いたようですが、彼らに水墨などを描かせては、出来のよいものに自分のハンコを押して、多くの「若冲作」の絵として世に出していきました。そのようにして描かれたものに《伏見人形図》があります。伏見人形は伏見土産として知られる素朴な土人形で、若冲が以前から好んでいた画題のひとつです。モチーフの性格にふさわしく、《動植綵絵》の執拗さやシャープさとは対照的に、丸みのある形につつまれた、童画のような表現となっています。(本書p.213)」

◆最後に

「あとがき」によると本書は、『若冲』(1974)に続く、若冲の伝記と作品全体に関する、著者の二冊目の本になります。図版が多いので定価は1,000円+税と高めですが、お買い得だと思いますよ。

    Ron.

展覧会見てある記 わが青春の上杜会+コレクション展 豊田市美術館

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令和3年の展覧会巡りは、豊田市美術館(以下「豊田市美」)から始まりました。豊田市美の受付では「『わが青春の上杜会』は美術館でチケットを販売していますが、『デザインあ展』のチケットは販売していません。『デザインあ展』は、コンビニ等で日時指定チケットをお求めのうえ、お越し下さい」との案内がありました。

「デザインあ展」の日時指定チケットは持っていないため、1階インフォメーションカウンターで「わが青春の上杜会」のチケットを購入。会場入口で手指消毒を済ませ、検温を受けて会場に入りました。

◎わが青春の上杜会 昭和を生きた洋画家たち:1F展示室8

「わが青春の上杜会 昭和に生きた洋画家たち」(以下「本展」)は、東京美術学校(現:東京藝術大学)洋画科の1927(昭和2)年卒業生の作品を展示した展覧会です。「上杜会(じょうとかい)」は卒業生で結成した団体で、「上杜」は「上野の森(=杜)」に因んだ名称です。なお、豊田市美・常設展で作品を展示している洋画家・小堀四郎は上杜会の会員。この外、文化勲章を受章した三人の洋画家・牛島憲之、小磯良平、荻須高徳に加え、猪熊弦一郎、岡田謙三、中西利雄、山口長男など著名な洋画家が会員だった、とのことです。

・序章(1 結成前夜-東京美術学校と関東大震災、2 いざ、上杜会結成)

本展は「序 1922-1927」から始まり、年代順に「Ⅰ 1927-1936」「Ⅱ 1937-1945」「Ⅲ 1946-1994」と続きます。なお、1994年は上杜会展の最終回展が開催された年です。

「序-1」は教授たちの作品を展示。和田英作《カーネーション》(1939)の色彩が鮮やかでした。次の「序-2」は学生の作品を展示。第7回帝展で特選となった小磯良平《T嬢の肖像》(1926)を見て、「首席で卒業した」ということが納得できました。

・Ⅰ章(1 画家としての始まり、パリ留学、2 それぞれの選択、3 帝展騒動と「新制作派協会」結成)

「Ⅰ-1」では、小磯良平《ブルターニュ・ソーゾン港》(1928)や中西利雄《トリエール・シュル・セーヌ》(1930)、橋口康雄《シドナム・ウエスト・ヒル》(制作年不詳)など、フォービスムの影響を受けたと思われる作品が目立ちます。「Ⅰ-2」では永田一脩《『プラウダ』を持つ蔵原惟人》(1928)や山本宣二の葬儀を描いた大月源二《告別》(1929)などのプロレタリア美術の作品のほか、山口長男《池》(1936)のような抽象画もあります。「Ⅰ-3」の猪熊弦一郎《馬と裸婦》(1936)、中西利雄《人物》(1936)は、マティス風の作品でした。

・Ⅱ章(1 戦時中の制作活動、2 戦争と疎開)

「Ⅱ-1」には、小磯良平の作戦記録画《日緬(にちめん)条約調印図》(1944)など、戦争に関連した作品が何点も出品されています。外には、同じ風景を描いた岡田謙三《ラマ寺》(1941)と荻須高徳《熱河喇嘛廟(くねっからまびょう)》(1941)を並べて展示していたのが印象的です。作風の違いなどがよく分かりました。「Ⅱ-2」では、枯れた植物や鳥の巣を描いた《冬の花束》(1946)の枯れた色彩は、「序-1」に出品されていた《カーネーション》の鮮やかな色彩と頭の中で対比させながら鑑賞しました。

・Ⅲ章(1 新たな時流の中で 葛藤と開花、2 上杜会再開-年々去来の花)

「Ⅲ-1」の高野三三男《デコちゃん(高峰秀子)》(1953)は、人物は丹念に描かれているのですが背景がほぼ真っ白な作品。ソファも単純な線で描かれているだけなので、デコちゃんが宙に浮いているように見えました。牛島憲之《まるいタンク》(1957)は、ガスタンクを描いた写実画ですが、単純化した描写なので抽象画のような雰囲気があります。「Ⅲ-2」の牛島憲之《青田》(1992)は「人が空に浮かんでいる不思議な絵」だと思ったのですが、よく見ると空は描かれておらず「空だ」と思ったのは水田でした。

・感想など

協力会から郵送されたチラシだけでは本展のイメージがつかめなかったのですが、時代の移り変わりや画家の個性などを知ることができる面白い展覧会でした。小堀四郎は豊田市美術館、荻須高徳は稲沢市荻須記念美術館、小磯良平は神戸市立小磯記念美術館、猪熊弦一郎は丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に、まとまったコレクションがあるとはいうものの、これだけの規模で上杜会会員の展覧会を開催するための準備作業は大変だったろうと思われます。来てよかったですね。2月9日からは後期の展示になるので、それも楽しみです。

なお、当日中であれば、本展チケットの提示で再入場可。また、本展チケットで常設展と「開館25周年記念コレクション展VISION」、高橋節郎記念館の観覧もできます。

◎常設展:1F展示室6、展示室7

 展示室6は「わが青春の上杜会」の関連で、小堀四郎だけでなく和田英作、藤島武二、荻須高徳の作品も展示。また、2階の展示室を「デザインあ展」に使っているので、クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》と、その習作の外、エゴン・シーレ《カール・グリュンヴァルトの肖像》の展示もありました。一方、展示室7では通常通り、宮脇晴・綾子夫妻の作品を展示しています。

◎開館25周年記念コレクション展VISION:作っているのは誰?―「一つの私」の(非)在について:1Fギャラリー

 「開館25周年記念コレクション展VISION」の3回目となる「作っているのは誰?-『一つの私』の(非)在について」は、1階のギャラリーで開催していました。コロナ禍に伴う日程調整の結果、「わが青春の上杜会」と「デザインあ展」も同時に開催されるので、これまでの2回に比べると小規模です。

会場に入ると、ムンクの版画、イケムラレイコの彫刻に並んで古池大介のヴィデオ《ディソリューション》(1998)が上映されています。キリスト像が溶解して、次々と別のイメージに変わっていくという作品でした。

外には、女性の写真家ナン・ゴールディンの作品が4点あります。キリストが磔になるまでの14の場面を描いた、村上友晴《十字架の道》(1994)は、どれも全面を黒く塗っているので同じように見えましたが、解説に書かれていたことを一口でいえば、「一つ一つに祈りを込めて描いた作品」ということのようです。イヴ・クライン《Monochrome IKB 65》(1960)は、199×152.2㎝の大画面を全て、あの独特の青色で塗った作品で、迫力がありました。

また、徳富満《My Attribute》(1966)は台形のカンヴァスに本人の名前(MITSURU TOKUTOMI)を描いた作品のほか、(MY BLACK)を始め、白、赤などの色の名前を描いた8点、計9点の作品で河原温の ”Today” シリーズを想起させるものでした。今回のコレクション展では外にも、青いボールペンで塗りこめられた11点組の、アリギエロ・ボエッティ《ONONIMO》や、黒い地に白い絵の具で数字を描き続けるローマン・オパルカの作品3点に加え、2人の作家の「河原温の ”Today” シリーズを想起させる」作品が展示されています。

◎コロナ禍でミュージアムショップは入店制限、年間パスポートも……

帰りがけにミュージアムショップの前を通ると行列が出来ていました。ショップ内の三密を避けるため、お客の人数が一定数を超えると「入店ストップ」になるのです。先客が買い物を済ませショップを出るまで、じっと我慢して行列に並ばなければなりません。

豊田市美の年間パスポートも「新型コロナウイルスの感染拡大が収束するまで、販売の予定はありません」とのこと。今はただ、ひたすら感染予防を心がけ、コロナ禍が終息する日を祈るばかりです。

Ron.