日曜美術館「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」(要約)

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

先日、名古屋市美術館に行ったら二つ折りの「没後90年 岸田劉生展」(以下「本展」)のチラシが置かれていました。本展の開催日程は2020年1月8日(水)~3月1日(日)、「みどころ」は①劉生の軌跡を辿る、②ベスト・オブ・ザ・ベストの劉生展、③麗子がいっぱい、と書いてありました。開催が、そこまで迫っているということですね。テレビでも、先日のNHK・Eテレ「日曜美術館」(2019.9.29、再放送10.6)で本展の特集が組まれていました。以下は放送内容の要約で、見出しと(注)は私の補足です。

◆番組の冒頭

番組冒頭に出てきたのは《麗子五歳之像》(1918)、次に《麗子微笑》(1920)。「底知れない表情、下手なのか、分からない」と、ナレーションがあります。続いて《壺の上に林檎が載って在る》(1916)が出て「ただならぬ雰囲気」という説明の後「どんなテーマで描いても、どこか気になる、少し変。その秘密は」と続きます。画面が本展・東京会場の東京ステーションギャラリーの展示室に切り替わると、ゲストの現代画家・会田誠さん(以下「会田さん」)と東京ステーションギャラリー学芸室長の田中晴子さん(以下「田中さん」)が紹介されました。

◆初期の作品

  岸田劉生(1891-1929、以下「劉生」)の初期の作品として、16歳で描いた《雨の街路》(1908)が出て「銀座で生まれ、裕福な少年時代を過ごした」と紹介されます。18歳で描いた《橋》(1909)については「黒田清輝の画塾に通い、外光派の画風を学んだ」と解説がありました。

◆肖像画

「雑誌『白樺』に掲載されていたゴッホの作品に目を奪われる」というナレーションに続いてゴッホの影響を受けた《自画像》(1912)の画像が出ます。「友人、自分の肖像を描く。毎日のように自画像を描く中で見えてきた自分のスタイル。強い意志、筆先に力がこもっている。決意がこもっているような自画像」という解説とともに、次々に肖像画が出てきて、最後は妻・蓁(しげる)を描いた《画家の妻》(1915)を紹介し、「細密描写、アーチ、宗教画のような作品。400年前のデューラーに傾倒。至る所にデューラーの影響」と、ナレーションが続きます。

ゲストの会田さんは「当時の新しい西洋画はフランス的な外光派。デューラーのフォロワーは多分、居なかった。劉生は意識が高いので『皆はそうしているが、俺は違う』と自分の考えに従っている。印象派は基本でなく応用。日本は基本をすっ飛ばしているから『俺がやらなきゃ』と思ったのではないか」と解説していました。外光派全盛の日本にあって、400年前のデューラーという「基本」に立ち返った劉生は「異端児」だったということですね。

◆風景画

 「22歳の劉生が移り住んだのが代々木。代々木で何の変哲もない坂道を描く。こちらに迫ってくる坂道。むき出しの大地。ひび割れから伸びる雑草。電柱の影。不思議な圧力。不自然に歪み、こちらに迫ってくる」というナレーションと共に《切通之写生》(1915)の画像が出て、VTRが挿入されます。

VTRには、現在の代々木を描くアーティスト・山内崇嗣さん(以下「山内さん」)が登場。山内さんは「代々木を描いて、あることに気付いた。道路の左側の歪み、カーブのボリュームが強調されているのは創作ではなく、道そのものが歪んでいるのを写実表現した。少しだけ嘘があるのは坂の頂上。劉生は隣の塀を超えるほど大地を盛り上げたかった。そうまでして大地の迫力を描きたかった」と証言します。

VTRを受けて、田中さんが「当時の渋谷・代々木はニュータウンで荒れ地や畑が多く、都会人の劉生は自然のあり方、草木や土に感銘。むき出しの土に生い茂る草木、新緑を描いた」と解説していました。

◆静物画

「25歳で鵠沼に移ったのは静養のため。劉生は結核の診断を受け、長時間の外出を禁止された。麗子は幼く、モデルができない。劉生は静物画に挑戦。静物画すら不思議」とナレーションが入り《林檎三個》(1917)の画像が出て、VTRが挿入されます。VTRには画家の塩谷亮さん(以下「塩谷さん」)が登場。《林檎三個》について「これで絵になるのかなと不安になる。レタスでやってみたが怖くなり、バランスを崩してしまった」と証言しました。(注:《林檎三個》について、2019年9月21日付日本経済新聞「文化」欄の展覧会評に「病と闘う劉生が、自分と妻の蓁、娘の麗子の『一家三人の姿を林檎に託して描いたときいている』という麗子の回想があり、劉生の祈りをも込められた静物画だろう」と書いてありました)

次に「家にこもり2年間集中的に描いた」というナレーションと共に《壺の上に林檎が載って在る》の画像が出て「2018年の修復で劉生の思いがはっきりする」とナレーションがあり、VTRが挿入されます。VTRには修復家の土師広さんが登場。「厚いワニスが塗られ、作品本来の色を隠している。後に別の人間がワニスを塗った。洗浄してワニスを除去」と証言します。「劉生の意図した色彩が蘇った」というナレーションに続き、東京国立近代美術館主任研究員の都築千重子さんが登場。「ハイライトに明るい色を敢えて足した。他の部分とはタッチが違う。ハイライトだけ絵具の色をしっかり残している。写実と言いながらも『本物らしく』を求めない。目の前の対象が『在る』、その基本は何か。哲学しているような作品。驚くべき『実在の力』。自分はそれを探りながら、それが『在る』ことについて受けた感動をキャンバスにぶつけ続けた」と解説していました。

◆麗子像

最初は《麗子五歳之像》。ナレーションは「初めて描いた麗子の肖像画。宗教画を思わせるアーチの下に描いた麗子」。次は《麗子座像》(1919)。ナレーションは「床に置かれた右手。赤・黄の着物。リアルな表情。足の痛みに耐え、必死にこらえたと、後に麗子が語っています」。最後は、毛糸で編んだ肩掛けを羽織った《麗子微笑》。「数え年八歳。成長とともに変わる劉生の画風。本当に幼い娘の表情なのか。なぜ、こんな風に描いたのか」とナレーションがあり、VTRが挿入されます。VTRには再び塩谷さんが登場。麗子と同じ年頃の少女に、衣装も同じようなものを用意して実際に肖像画を描きます。スケッチして全体像を比べると、《麗子微笑》は上下に圧縮。肩がずんぐりし、手も小さい、見れば見るほど奇妙です。麗子が9歳の時の写真と比べると、劉生が写実を超えた何かを目指していたのだと分かります。「劉生は麗子が帰ると支度させ、2週間足らずで完成した」というナレーションに続いて、塩田さんが完成させた肖像画が出てきます。塩田さんの作品と比べると《麗子微笑》の鼻には陰影があり、口が微笑んでいます。塩谷さんは「丸い顔に鼻筋が通っているのは、仏像を思わせる。仏像のような微笑みは際どい。俗っぽくなるかどうかの瀬戸際」と証言。田中さんは「西洋の油絵に東洋の美を盛り込んだもの。異端児がたどり着いた極み」と解説していました。

◆東洋の美/劉生の死

麗子像の次は、日本画の《七童図》(1922)。ナレーションは「東洋と西洋の統合」。会田さんは「油絵具だと、実在感が出るまで描く。やりすぎて、危険な要素を感じる。気の抜けた、ヘタウマというか、これも正しいのではないかと思う。今までの作風と全く違うことをするのは怖いが、マンネリの恐怖も深いものがある。新しい物への挑戦はキャリアを捨てることになるが、劉生にとっては必然だった」と解説していました。

《冬瓜図》(1926)に続いて「非難を受けても、唯一人自分の信じた道を突き進む。しかし、38歳で死去」とナレーションが入り、《満鉄総裁邸の庭》(1929)の画像と「最晩年の作品。青い空、大地の輝き。ただ輝くのみ。『道半ば』か、『終着点』なのか」というナレーションで番組は終了しました。

◆出演者

【ゲスト】現代美術家…会田誠、東京ステーションギャラリー学芸室長…田中晴子 【出 演】アーティスト…山内崇嗣、修復家…土師広、東京国立近代美術館主任研究員…都築千重子、 画家…塩谷亮 【司 会】小野正嗣…作家・早稲田大学教授、柴田 祐規子…NHKアナウンサー

◆講演会のチラシ

名古屋市美術館には、イーブルなごやの「【名古屋市美術館共催】特別展にみる女性たち 2019 岸田劉生の世界~麗子像を中心に~」のチラシもありました。日時:2020年1月20日(月)14:00~15:30 会場:イーブルなごやホール 講師:名古屋市美術館 学芸課長 井口智子さん、事前申込不要・入場無料です。

Ron

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