読書ノート 「魯山人の器」など

カテゴリ:Ron.,アート見てある記 投稿者:editor

〇「魯山人の器」(2006年10月30日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版
 近所の図書館で借りた本です。書名のとおり、北大路魯山人(1883~1959。以下「魯山人」)が制作した食器の魅力を語っています。魯山人といえば「美食家」。漫画「美味しんぼ」の登場人物・海原雄山のモデルというイメージが強かったので、「食器」という切り口は新鮮でした。また、本が薄くて「サクッと読めそうだ」と感じたのも手に取った理由です。
まず、「美食家」魯山人が「陶芸家」になった経緯ですが、以下のように書いています。

はじめ書家として世に出た魯山人に、大きな転機が訪れたのは、36歳の折。友人の中村竹四郎と共同で古美術骨董を扱う「大雅堂芸術店」(のちに大雅堂美術店と改称)を開き、いつからか店内で友人知己を集めて手料理をふるまうようになった。ここから会員制の「美食倶楽部」が生まれ、本格的な会員制料亭「星岡茶寮」の開業へとつながった。そして、茶寮で使う食器をそろえるため、魯山人は作陶に手を染めていった。(抜き書き終わり)

 「美食家」になる以前は「書家」「古美術店経営者」であった魯山人。作陶に向かった動機は、「茶寮で使う食器をそろえるため」でした。まさに、目まぐるしい変化です。
本の主題である「魯山人の器」の魅力については、以下のように書いています。

使ってこそわかる器の魅力(略)第一のツボは、ここにある。料理を盛って、器と料理の響きあいを楽しむ心。魯山人の器は、料理を生かし、料理に生かされる器なのです。(略)
自由に線を引く筆さばき(略)魯山人は、陶芸家としてでも美食家としてでもなく、まず書家として名を成した。(略)魯山人の器を鑑賞する第二のツボは、この独特の筆さばきを味わうことにある。「器に書の至芸をみる」のだ。(略)
鍛え上げた目だけを頼りに、己の作品を生み出していった魯山人。こんな言葉も残している。「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。なにかしらコピーでないものはないのだ。但し、そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」(『愛陶語録』)(略)魯山人のコレクションルームには「坐辺師友(ざへんしゆう)」の扁額が掲げられていたという。(略)魯山人は名品に学びながら、独自の器をつくり出した。魯山人鑑賞の第三のツボは、そこにこそ見出せる。「自在な作陶ぶりを味わう」ということである。たとえば、織部について見てみる。(略)魯山人の手になる俎皿(まないたざら)は伝統的な織部には、まったくないものだった。魯山人が、調理場にあるまな板をヒントに案出したものなのだ。しかも、緑釉の部分にも、従来の織部にはない微妙な濃淡がつけられている。(略)魯山人は、それまでなめらかに仕上げるのが絶対とされていた土の表面を、あえて石で叩き、細かい凹凸をつけた。この凹凸が、緑釉に微妙な濃淡と輝きをもたらしたのだ。(略)魯山人は備前焼でも、革新的な作陶を行っている。土の風合いが持ち味とされる備前に、銀の粉をにかわで溶いた「銀泥」を施したのである。(抜き書き終わり)

魯山人の器を鑑賞する第一のツボは「美食家」の、第二のツボは「書家」の、第三のツボは「古美術店経営」の経験に基づいています。「魯山人の器」の魅力は彼の多彩な経験に裏打ちされたものだったのですね。
 抜き書きの中では「やきものを作るんだって、みんなコピーさ。(略)そのどこを狙うかという狙い所、真似所が肝要なのだ」という魯山人の言葉が特に印象的でした。そして「名品に学びながら、独自の器をつくり出した」例として、織部焼の俎皿と備前焼の銀彩を上げています。
この「独自の器をつくり出した」という点については「美の壺」シリーズの「織部焼」「備前焼」でも、以下のとおり魯山人の業績に触れています。

〇「織部焼」(2007年10月25日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
古田織部と織部焼の謎
 古田織部の存命中、単に「瀬戸茶碗」や「瀬戸皿」と呼ばれていた織部好みの器が、「織部焼」の名で呼ばれるようになるのは、織部の死から80年近く過ぎた江戸も中期頃からだという。そしてそれが瀬戸ではなく美濃で焼かれたことがわかったのは、つい80年ほど前のことだ。昭和5年、後に人間国宝となる美濃の陶芸家、荒川豊蔵(1894~1985)は、現在の岐阜県可児市にある牟田洞の古窯跡で、筍の絵が描かれた志野の陶片を発見する。これが端緒となって、桃山茶陶の粋、志野と織部がともに美濃で焼かれていたことが明らかになったのだ。(略)長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは、何といっても昭和初期の古窯跡の発掘をきっかけに、陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎(1898~1985)だ。桃山陶を換骨奪胎し、ともに大きな成果を遺した二人だが、稀代のプロデューサーだった魯山人が、織部焼はそれ以前から美濃で焼かれていたやきものを古田織部が「発見」したと考えているのに対し、自ら轆轤を挽き、窯を焚いた唐九郎が、織部を優れたデザイナーにして近世の幕を開けた芸術家ととらえているのは面白い。(抜き書き終わり)

 抜き書きの中では「長い間忘れ去られていた織部焼が今の人気を得たのは(略)陶芸家たちが美濃陶再興に取り組んだことが大きい。その両雄が北大路魯山人と加藤唐九郎だ」という箇所が特に印象的でした。
「魯山人でもてなす。」(2009年5月20日発行 コロナ・ブックス編集部 平凡社)の巻末年表には「1927年(昭和2)京都の宮永東山窯から荒川豊蔵を招く。1930年(昭和5)荒川豊蔵とともに、大萱牟田洞窯、窯下窯、大平窯などの窯跡発掘。1936年(昭和8)荒川豊蔵、美濃大萱へ」とあり、昭和2年から昭和8年まで、荒川豊蔵は魯山人と一緒に仕事をしていたことが分かります。Wikipediaは荒川豊蔵について「1955年(昭和30年)-志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定される」と記載していました。
 前述の「魯山人でもてなす。」には志野・織部に関する記述もあります。志野に関しては「魯山人は志野に純日本的美意識を見た。そして言う。『志野は稀にみる純日本的陶器であり、珍重すべき陶器である。簡単にこれだけで充分だ』と。いくら口を極めて説明しても、わかる者にしかわからないのが志野の魅力だ、とも」というもので、織部に関しては「魯山人の食器中もっとも数が多いのが織部。手描きの素朴な絵と鮮やかな緑色の釉を日本独特の美として好んだ。1955年に魯山人は小山富士夫を通じて重要無形文化財の指定を打診されるが、このとき対象となったのが織部であった。ちなみに、魯山人はこの指定を固辞した」というものです。
 
〇「備前焼」(2008年9月20日発行) NHK「美の壺」制作班編 NHK出版(抜き書き)
 当時、美濃では荒川豊蔵(1894~1985)が志野の陶片を発掘し、桃山志野の再現に意欲を燃やしていた。刺激を受けた金重陶陽は、後に豊蔵と親交を結ぶ。30代にして本格的に轆轤に立ち向かった陶陽は、つてをたどって備前焼の茶陶を見せてもらい、茶道を学んだ。窯に改良を重ね、良質の田土を探して精製法を工夫し、桃山備前をみごとに再現した陶陽は、1956年、備前焼最初の人間国宝に認定される。息子たちを筆頭に多くの後継を育て、その功績は計り知れない。(略)
[達人のことば  備前 ― その土味 窯変の妙]   黒田草臣(渋谷「黒田陶苑」代表取締役)
(略)はじめ魯山人の指導で信楽土の焼締や伊賀、志野、織部釉でオブジェを制作していたイサム・ノグチは、魯山人作品の中で備前焼に興味をもち、備前土で制作したいという強い希望をもった。(略)魯山人は、「無釉の陶器のなかで群を抜いて備前は美しい。備前は何といっても土そのものに変化があり、味わいがある。土と火との微妙な関連によって渋い奥行きのある色が出るなど世界に類をみない。無釉の備前土こそ芸術的才能がそのまま表れる」といい、昭和27年の5月、ノグチを伴い備前を訪れた。(略)昭和24年にも陶陽窯で制作している魯山人は、「備前で作陶している人は伝統の中に居眠りをしているのではないかな。こんなに良い土があるのに、もったいないことだ」といいながら、備前土の感触をみながら、針金で四角くスライスする。これを大きな手の平でとんとんと叩き、縁を処理してうねりをつける。みるみるうちにできた四方皿や俎皿に陶陽は舌を巻いた。それは備前の陶工たちが忘れていた土味の良さを引き出す方法だった。(抜き書き終わり)

荒川豊蔵の活躍は備前焼にも刺激を与えていたのですね。また、前述の「魯山人でもてなす。」は備前焼について「備前は魯山人がもっとも愛したやきもの。絵や釉薬の施されることのなかった備前に釘で絵を彫り、銀彩などの釉薬をかけることによって備前に新しい世界を拓いたのも魯山人である」と書いています。
Ron.

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