「至上の印象派展」特別講演会について

カテゴリ:記念講演会 投稿者:editor

演題「エミール・ビュールレと大原孫三郎 東西の大コレクター」
講師 高階秀爾(大原美術館館長)
2018.8.5(月)14:00~15:45 名古屋市美術館 2階講堂

名古屋市の最高気温が39.9度を記録した8月5日に、大原美術館館長 高階秀爾さんの特別講演を聴くため「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(以下、「本展」)開催中の名古屋市美術館2階講堂まで足を運びました。
特別講演の開会に当たり名古屋市美術館の深谷副館長から「本日の講師・大原美術館館長 高階秀爾さんは皆さんご存知の通り、西洋美術研究の第一人者で東大教授、国立西洋美術館館長を歴任され、文化勲章も受賞されています。」という紹介があり、高階秀爾さんが挨拶されました。
以下は講演内容を要約筆記したものです。なお、(注)は私が補足したものです。

◆講演の趣旨
大原美術館もビュールレ美術館も同じ頃の印象派のコレクションを所蔵しています。今日はビュールレ・コレクションと大原コレクションを対比しながら話したいと思います。

◆優れたコレクションのための3条件
優れたコレクションが成立するためには3つの条件が必要です。第1は「チャンス」。収蔵庫にしまい込まれて世の中に出てこない作品を収集することはできません。作品収集には、いいものが出る、出物があるという「チャンス」をつかむ必要があります。第2は「鑑識眼」。優れたものを見る眼です。第3が「資金」。
ビュールレは、あちらこちらに情報網を張り巡らせてチャンスをつかみました。大原コレクションの創設者・大原孫三郎(以下、「大原」)は倉敷絹織(注:現在の「クラレ」)を始め、いくつもの事業を手掛けていましたが、鑑識眼は自身ではなく児島虎次郎に任せました。もちろん、収集は大原と相談のうえです。

◆大原コレクションについて
大原美術館は昭和5年に開館しましたが、大原コレクションは美術館開館よりも前、第一次世界大戦(1914-1918)直後から始めています。1920年代にコレクションを始めたという点では、松方コレクションと同じ頃ということになりなります。
児島虎次郎は大原の援助でヨーロッパに渡り、1912年(大正元)に帰国する時に大原に手紙を出しています。手紙の主旨は「美術作品は本物を見ないと良さが分からない。一つでもよいから本物を買って、日本の若者、若い画家、愛好家に見せたい」というものでした。大原はすぐO.K.を出します。大原コレクションは最初から「美術館」=みんなに見せたいという目的を持っていたのです。
ヨーロッパのコレクターの目的は、先ず「自分が眺めるため」で、次に「人に見せて自慢するため」です。したがって、コレクションには個人の好みは強く反映されます。個人コレクションの例としてはロシアの資産家、モロゾフやシチューキンのコレクションがあります。
大原は茶人の嗜みとして日本の美術・工芸に関する素養はありましたが、西洋の絵を買ってきて何の役に立つのかという点に疑問があり、作品の収集になかなか「うん」とは言いませんでした。
ところが、最初に買い付けた何点かの作品を倉敷市内の小学校に飾ったところ、これが大評判となり東京から倉敷に来た人で倉敷駅から会場の小学校まで行列が出来ました。大原は、これを見てびっくり。美術にこれほどの力があるならば本気になって収集しようということになり、児島虎次郎は3回ほどヨーロッパへ収集に行きます。(注:大原美術館のHPによれば児島虎次郎が収集した最初の西洋絵画は、当時のフランスを代表する画家・エドモン=フランソワ・アマン=ジャンの《髪》です。倉敷市内の小学校にも飾られました。)
第一次世界大戦後のヨーロッパには画商の「良いお得意様」が三人いました。大原孫三郎、松方幸次郎(注:松方コレクション→戦後、国立西洋美術館が所蔵)と新薬の開発・販売で財を成した米国人のバーンズ(注:アルバート・C・バーンズ=バーンズ・コレクションの創設者)です。1994年に国立西洋美術館で開催した「バーンズ・コレクション展」には107万人以上の来館者がありました。(注:当時の国立西洋美術館館長は高階秀爾氏)三人は同じ頃にパリで美術品を収集していました。
印象派の発足は1870年。ナポレオン3世が普仏戦争で捕虜となってフランス第二帝政が崩壊し、第三共和政が始まった年です。印象派の作品は最初の頃、売れませんでした。印象派の画家達は第一次世界大戦のころまではまだ生きており、やっと世の中に認められるようになってきた時期でした。印象派の収集にはタイミングが良かったのです。

◆ビュールレ・コレクションの中身について
◎フランス・ハルス《男の肖像》
タッチが素早い。印象派風の描写。堂々としている。
◎フランチェスコ・グァルディ《サン・マルコ沖、ヴェネツィア》
画面右手はサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会。ヴェネツィアはターナーが好んだ都市。これは旅行者の記念、お土産の絵です。グァルディの作品は、その中でも優れた油絵です。
◎カナレット《サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア》
17世紀から18世紀の代表的な作品。
◎ウジェーヌ・ドラクロア《モロッコのスルタン》
ドラクロアは19世紀ロマン派を代表する画家です。アングルを代表とする新古典派と競いました。一方のアングルは、本展で《イポリット=フランソワ・ドゥヴィレの肖像》と《アングル夫人の肖像》が出品されています。
フランスは1855年にパリ万国博覧会を開催しました。第1回万国博覧会は1851年にロンドンで開催。最初は産業博覧会で、水晶宮が有名です。パリ万博では「イギリスの真似だけではつまらない」ということから、万博に併せて「フランス美術の百年展」を開催しました。万博と美術が結びついた最初の万国博覧会でした。また、毎年開催している美術展の拡大版も開催しています。「フランス美術の百年展」では、ドラクロアとアングルそれぞれに特別室が与えられ、二人が競いました。
なお、アングルの持ち味は明確なデッサンと、はっきりした色彩です。

◆大原コレクション:エル・グレコ《受胎告知》について
大原コレクションの中で古いものはエル・グレコ《受胎告知》(1530頃-1603)。エル・グレコは、ご存知のようにマニエリスムの画家です。
児島虎次郎が収集したのは同時代の作品でした。印象派の外に、クールベ、ミレー、コローなどの作品を収集しました。エル・グレコ《受胎告知》の収集は特別なものです。
ご存知のようにエル・グレコは17世紀の優れた画家で、スペイン・プラド美術館の収蔵品が有名です。エル・グレコは一時期「忘れられた画家」でしたが、表現主義の画家に持ち上げられて20世紀初頭に再評価されました。1920年代はエル・グレコ再評価の時代でした。画商から売りに出された《受胎告知》を見て、児島虎次郎は「特別な絵だ。ぜひ買いたい。今は、まさにチャンスだ」と見て、高価な絵でしたが購入したのです。
「受胎告知」の構図は通常、マリアと天使が同じ高さで対面しています。しかし、エル・グレコの《受胎告知》では天使が上から降りてきて、鳩は天使の下、マリアは下から天使を見上げるという構図です。画面のダイナミックな動き、明暗の対比は表現主義の画家の心をとらえるものでした。

◆ビュールレ・コレクションと大原コレクションの対比
◎ギュスターヴ・クールベ《彫刻家ルブッフの肖像》
クールベは理想化、美化をしない、そのままの姿を描く「レアリスム」「写実主義」の画家で、同時代の生きた社会を描きました。この作品は、友人の彫刻家を描いたものです。
一方、新古典派のアングルは、親しい人、王侯貴族、歴史画を描きました。
・大原コレクションのクールベは《秋の海》
「波のシリーズ」の一つです。波立つ海、空、ヨットを描いています。
◎カミーユ・コロー《読書する少女》
コローは風景画家として有名で、人物画は少ないものの優れた作品を残しています。
・大原コレクションのコローは《ラ・フォンテ=ミロンの風景》
小品だが見事です。
・大原美術館自慢のジャン=フランソワ・ミレー《グレヴィルの断崖》
ミレーはノルマンディーの生まれ。この作品は育った海岸を描いたものです。崖の上で休む人物はミレー自身でしょう。大原コレクションではミレー、コロー等のバルビゾン派の作品を収集しています。(注:本展にはミレーの作品は出品されていません)
◎ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《コンコルディア習作》
シャヴァンヌはアカデミーの古典的様式を引き継ぎながら、象徴的な意味を持たせた象徴主義の画家です。
19世紀後半のフランスでは、リヨン、マルセイユなどいくつもの地方美術館ができました。壁画家として評判が高かったシャヴァンヌには建物の装飾の依頼が来て、よく手がけました。《コンコルディア習作》も壁画の下絵です。
・大原コレクションのシャヴァンヌは《幻想》
 大きな作品で、ブルジョアの食堂を飾っていた4点のうちの1点です。少年と女性、羽の生えた馬を描いています。自然そのままではなく、そこに様々な理念、象徴をまとわせた作品です。
・大原コレクションの象徴派 ギュスターヴ・モロー《雅歌》
人気のある女性像です。(注:本展にはモローの作品は出品されていません)                                    <後編につづく>

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