平成28年度総会およびギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

講堂にて、総会風景

講堂にて、総会風景


去る6月12日日曜日、名古屋市美術館協力会の平成28年度総会が行われました。参加した会員は35名と盛況となり、総会後の話合いも充実したものとなりました。会員みなさまには後日議事録をお送りいたします。
発言する役員

発言する役員


名古屋市美術館協力会 総会後、協力会会員向けに「藤田嗣治展」の後期出品作品22点を中心にしたギャラリートークが開催されました。総会終了後に講堂内の椅子の並び替えやプロジェクターの設置を行い、16時20分から17時まで深谷副館長のレクチャー。その後、展示室に移動して17時10分から、同じく深谷副館長のギャラリートークを聴きました。レクチャー参加は総会出席者34名プラスアルファ、ギャラリートーク参加は28名でした。

Ⅰ 深谷副館長のレクチャー
◆若い人は、藤田嗣治を知らない?
レクチャーは「会場を見ると年配者が多く、若い人が少ない。そのため、平日と土曜・日曜の入場者数が変わらないという予想外の現象が起きている。」という「泣き言」(本人談)で始まりました。「若い人は、藤田嗣治を知らないのではないか。」というのです。
「藤田には著作権の問題というネックがあった。君代未亡人には日本に対する強い思いがあり、特に藤田の死後は画集、本、展覧会のどれにも、ほとんど許可が下りないという状況が続いた。1986年に、東京の庭園美術館で回顧展が開催されたが、戦争画の出展は許可が下りず“タブー”とされた。2005年に出版された戦争画集も、未亡人の許可が下りず、藤田の作品ははいっていない。小栗康平監督によると、映画“FOUJITA”以前にも藤田嗣治を映画化する話はあったが、戦争当時の話に触れると未亡人の許可が下りないため見送られてきたという歴史がある。」と続き、締めくくりは、「ただ、2009年に未亡人が亡くなったことで、状況が変わってきた。今年、2016年には、名古屋市美の藤田嗣治展以外にも、9月17日から来年1月15日までDIC川村記念美術館で“レオナール・フジタとモデルたち”が開催(その後、巡回)され、9月10日から来年3月3日までは箱根のポーラ美術館で“ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線”が開催される。」という話でした。
藤田関係の展覧会が続くことで、再評価が進むと良いですね。
◆第5章は意図的に作品を減らした
次に、展覧会の構成の説明がありました。そのなかで「国内の美術館の保有作品数が一番多いのは“第5章フランスとの再会”(1949-63)の時代の作品ですが、意図的に展示する作品数を減らしました。理由は、作風のマンネリ化です。第5章の作品は、第2章の頃の繰り返しでは、と思うのです。」という言葉に、少し衝撃を受けました。
「晩年は、マンネリ化していたのか。」と、考え込んだ次第です。
◆《婦人像》のモデル
第1章で展示している《婦人像》のモデルについて、「先日、林洋子さんが講演で話されたように、従来は最初の夫人の登美さんがモデルと言われてきたが、それより前に付き合っていた彼女がモデルではという説が出てきた。その根拠は、作品の右上にある“may 1909”というサイン。登美と出会ったのは1909年の夏休みといわれているので、5月に描いた絵のモデルは彼女ではないというわけです。しかし、サインをよく見ると自分の名前を”Foujita”と書いています。このサインは渡仏してからの表記で、日本でのサインは“Fujita”でした。そのため、このサインは渡仏後に書いたもので、may1909という日付は記憶間違いではないかという説もあります。つまり、モデルが誰かは、はっきりしないということです。」とのことでした。
◆藤田とルソー、写真家アジェ
第1章の《パリ風景》1918の解説では「藤田は、渡仏当初にキュビズムなどの流行の絵画を描いたが、流行の絵では頭角を現すことができないと考え、エジプトやギリシア、中世の宗教美術などのプリミティブな表現を取り入れた時期がある。この《パリ風景》には、アンリ・ルソーや写真家ウジェーヌ・アジェの影響がある。」という話でした。
今年の協力会秋のツアーは9月24日~25日の日程で、箱根方面を目指す予定です。ポーラ美術館で開催の“ルソー、フジタ、写真家アジェのパリ ― 境界線への視線”も鑑賞予定。ルソー、フジタ、アジェの視線をとらえたパリを見ることが、今から楽しみです。
◆藤田の「戦争責任」
藤田の戦争責任については「記録が残っていないので、よくわからない。東京芸術大学に藤田の手紙、日記、写真などの資料が寄贈され、藤田展の準備のために見せてもらった。藤田は筆まめな人で、資料の量が膨大。読みやすい字で書かれており、今後、研究が進むと思う。しかし、残念ながら戦時中のものは残っていない。処分されたと思う。藤田は、友人にも送った手紙を処分するよう依頼している。処分依頼の手紙には“この手紙も処分してほしい”と書かれていたが、処分されずに残っている。“被害妄想”だったという話もある。」というところで閉館時刻を迎えたため、レクチャーは終了。展示室に移動することとなりました。
Ⅱ 展示室にて
◆日本画も勉強
第1章の《鶴》1918頃については、「藤田が、流行のものを追うのではなく独自のものを目指すようになったとき、日本の伝統である日本画についても学ぶようになった。《鶴》は、その頃に描かれたもの。」との解説。
◆裸婦を描くのは、モディリアーニの影響
《風景》1918の前では「藤田は1918年に、第一次世界大戦の戦火を逃れるためスーチン、モディリアーニとともに南仏のカーニュに疎開。そこでは、ルノアールに会って裸婦の素晴らしさに目覚め、モディリアーニの描く裸婦からも影響を受け、以降、裸婦を描くようになった。」との解説。
1連の裸婦像を前に

1連の裸婦像を前に


◆掛け軸を額装に
 初公開となる《77歳の父の肖像》1930ですが「よく見てください、これは絹に描いたものでもともとは掛け軸だったものを額装に直しています。《マドレーヌ・ルクーの肖像》1933も掛け軸を額装になおしたものです。」という解説を聞き、参加者からは「なんてもったいないことをしたの。」と、驚きの声が出ていました。
 どちらも、ランス美術館所蔵。掛け軸をやめたのは、技術的な理由からでしょうか。
◆子どもの絵
 第5章の時代、藤田は「少し不機嫌な口を尖らせたキューピーさん」のような子どもの絵を数多く描いていますが、今回の藤田嗣治展、子どもの絵は《校庭》1956、《小さな主婦》1956など僅かです。
参加者からは「子どもの絵が一番好きなのに、少なくて残念。」という声もあれば、「あの顔は嫌いだから、ちょうどいい。」など、賛否入り混じった声が飛び交いました。
◆ドローイングに見る、藤田の技量
 第5章のドローイングは、前期、後期で大幅な入れ替えがあります。深谷副館長によれば「紙は光にデリケートな素材なので、3館を巡回する作品は半期しか展示できない。ドローイングが多いのは、藤田の技量を見てほしいから。藤田は、いわば職人で、その描く技量は素晴らしい。」とのことでした。まさに「お言葉どおり」ですね。
◆最後に
 閉館後、しかも少人数による鑑賞なので周囲に気兼ねすることなくおしゃべりできて、とても楽しい時間が過ごせました。深谷副館長始め名古屋市美の皆さまに感謝します。     Ron.

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