「藤田嗣治展」-東と西を結ぶ絵画- ギャラリートーク

カテゴリ:協力会ギャラリートーク 投稿者:editor

名古屋市美術館で開催中の「藤田嗣治展」-東と西を結ぶ絵画-(以下「本展」といいます。)のギャラリートークに参加しました。当日は、参加者が70名と多いため、講堂で深谷副館長によるレクチャーを聴いた後、展示室に移動して質問に答えながら鑑賞するという方式になりました。

Ⅰ 深谷副館長のレクチャー
◆藤田嗣治の親族
藤田の父、嗣章は軍医で森林太郎(森鴎外)の後に軍医総監を務めた人物。親族は陸軍関係者が多く、お兄さんは児玉源太郎の娘と結婚。小山内薫、岡田三郎助、蘆原英了、芦原義信も縁続きという家系。
◆渡仏した藤田
藤田は、森鴎外の助言で東京美術学校に進学。卒業後、1913年に渡仏。当初はキュビズムの洗礼を受けたが、「流行を追っているだけでは芽が出ない。他とは違うことをやらなければ」との思いから、中世、ルネサンス、バロックなど古い時代のものを取り入れた、単純化されたプリミティブな作風を模索。その後、日本文化を取り入れて1920年~1921年にかけて、乳白色の裸婦を描き始める。当時の絵は、モノクロームに近いもので、細い輪郭線が特徴。
また、藤田は多くの自画像を描いている。レンブラント、ゴッホも自画像を描いているが、藤田の場合は、自分をアピールするための道具であった。おかっぱ頭、ロイド眼鏡、ちょび髭、ピアスという藤田自身がスターのような存在となっていった。
藤田のように自己プロデュースする画家は、当時、非常に珍しい存在で、世間の注目を集めた。その反面で「絵が評価されているわけではない。奇抜なことをやって有名になっただけ。」と、同じ絵描き仲間が面白おかしく話したことが、日本での悪評の発端になった。
◆世界を巡り歩く藤田
 1931年から1933年にかけて藤田は中南米を旅するが、その背景には1929年の世界大恐慌を発端として、世界が不況の時代に入ったことがある。また、藤田はヨーロッパでは評価されたものの、日本では「日本の様式を洋画に持ち込んだだけ」と、正当に評価されなかった。この時代は、試行錯誤を繰り返し、日本で評価されないという状況を打破しようと模索した時期でもある。
 《ちんどんや 職人と女中》のように日本情緒の絵を描いたり、銀座コロンバンの壁画としてロココ風の《貴婦人と召使い》や《田園での奏楽》を描いたのもこの頃。
◆戦争画について
 1930年代の終わりには、多くの画家が従軍した。この時、大家であった横山大観は、高齢のため戦地に赴いていない。宮本三郎、小磯良平といった従軍画家は20代から30代で、当時50代の藤田が画家たちのリーダーとなっていった。
豊田市美術館所蔵の《自画像》は、紀元2603年1月1日に描かれたもので、1920年代の自画像と違って、暗く、決意を込めた表情の絵である。
 これはあくまでも個人的な見方だが、《アッツ島玉砕》は有名であるものの、藤田の戦争画の大作は失敗作だと思う。藤田は、大画面を描くのは不得意。秋田県立美術館の《秋田の行事》も失敗作ではないか。50号くらいのサイズに一人から二人くらいの人物を描くのが、藤田にとって一番個性を生かせる絵ではないかと思う。
《アッツ島玉砕》について、最初、軍部は発表をためらったという話がある。「全滅」を「玉砕」つまり「玉と砕ける」と美しく言い換えたものの、「玉砕」の絵は戦意高揚に支障があると思っていた。ところが発表すると、国民の反応は正反対で戦意高揚となった。藤田は「あっという間に描いた」と書いており、国民の反応まで計算していたのではなく、乗りに乗って画家としての本能の赴くまま描いたのではないかと思う。
◆子どもの絵
 戦後になって、藤田は絵描き仲間から戦争責任を追及され、1949年に日本を去ることになる。
 再度、フランスに渡ってから描いた絵は《校庭》や《小さな主婦》(いづみ画廊所蔵)のような子どもの絵を多く描いている。これらはベルエポックの頃のフランスを思い起こさせる絵。人々も、戦火で荒廃する前の昔を懐かしむことができる絵を求めていた。
◆宗教画
 藤田は1955年にフランス国籍を取得、1959年にカトリックの洗礼。最晩年は、ランスに礼拝堂を作ることに力を注ぎ、多くの宗教画を描いた。《二人の祈り》は、フランス国籍を取得する前の1952年に描いたものであるが、死ぬまで手許に置いていた。《礼拝》には藤田と君代夫人の外、最晩年を過ごしたヴィリエ=ル=バクルの家も描いている。

Ⅱ 展示室で深谷副館長が語ったこと
◆乳白色の下地の秘密、《五人の裸婦》の前で
土門拳が撮影した写真にシッカロールの缶が写っていたことから「乳白色の下地にシッカロールを使っていた」と言われている。土門拳が写真を撮影したときはそうだったかもしれないが、1920年代にどうしていたのかは、「わからない」としか言えない。それこそ、ひとつひとつ違う。
藤田の絵を修復したときに、絵の具の成分を調べたところ、墨で描いたと思われていた線から炭素が検出されなかった。これは、墨ではなく油絵の絵の具で線を描いたということ。しかし、これは「たまたま、絵の具の成分を調べた絵では墨を使っていなかった」ということであって、他の絵については調べてみないと分からない。
◆東京国立近代美術館所蔵《自画像》の前で
 この絵は、長い間、藤田の遺族の手許に置かれ、その後、東京国立近代美術館に寄贈されたもので描いた時のまま、修復されたことがない。そのため、藤田の作品を見るときの「標準」になる可能性がある。
 また、この絵と藤田の写真を比較すると、絵は写真よりも顎が少し細くなっており、「演出」を加えていることが分かる。絵には墨、硯と面相筆が描かれているが演出かもしれない。
◆作品出品リスト及び図録では「展示」だが、実際には展示されていない作品
 先ごろの熊本地震の影響で、搬入出来なかった作品が二つある。一つは、鹿児島市立美術館所蔵の《座る女性と猫》、もう一つは熊本県立美術館所蔵の《裁縫道具のある静物》。どちらの美術館も地震による被害はなかったが、道路事情が悪くて美術館に近づくことができず、搬入を断念した。ただし、7月16日からの兵庫展(兵庫県立美術館)以降は展示される予定。

<お詫び>
 先にブログに載せた「読書ノート 林洋子著 「藤田嗣治 手しごとの家」に『藤田展第3章に《裁縫道具のある静物》が展示されています。』と書きましたが、これは間違いです。申し訳ありませんでした。
うろ覚えだったので、作品出品リスト及び図録を見て書いてしまいました。手抜きは、いけませんね。反省しています。
         Ron.

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